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多重人格の原因がよくわかる7つのたとえ話と治療法―解離性同一性障害(DID)とは何か

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重人格、というとあなたはどんなイメージを持っていますか?

ドラマに出てくるような犯罪者や、オカルトチックな霊的現象を想像するでしょうか。

実際には多重人格はオカルトではなく、解離性同一性障害(DID)と呼ばれている、れっきとした医学的な現象です。

もちろん原因は悪霊ではなく、脳の特定の機能の過剰な働きにあります。そしてDIDで悩んでいるのは、犯罪者や変質者ではなく、むしろもっと純粋な感性を持つ普通の人たちです。

DIDの人には平均8-9人とも言われる複数の人格が宿っている、人格が交代して別人になり、その時のことは記憶にも残らない、ということを考えると、身近な家族や友人が、DIDに対して戸惑いを覚える気持ちもよくわかります。

どうして多重人格が生じるのでしょうか。一人の人に複数の人格が宿る仕組みを、どのように理解すればよいのでしょうか。具体的な治療法には、どんなものがありますか。

この記事では、 続解離性障害という本や、その他の解離性障害の専門書から、多重人格の原因やメカニズムを理解するのに役立つわかりやすい7つのたとえ話、そして治療法についてまとめてみました。

これはどんな本?

今回おもに紹介するのは、解離性障害の専門家、岡野憲一郎先生による続解離性障害という本です。解離のメカニズムについて詳しく考察されている、たいへん興味深い本です。

この記事で特に出典を明記せず、ページ数だけ書いているものは、この本からの引用です。

この本は解離の仕組みや歴史を知る上では、とても参考になるのですが、さすがに解離性障害について一から知りたいと思うときには難しすぎるので、当事者やその家族に役立つ本は、この記事の最後で別途 紹介してあります。

まず最初に―DIDは演技・詐病ではない

まずはじめに、はっきりさせておくべきことがあります。それは、解離性障害、特に解離性同一性障害(DID)と呼ばれる多重人格は、どれほど不思議に見えようと、決して演技や詐病ではない、ということです。

DIDの人格交代は、知らない人から見ると、演技をしているようにしか見えません。いつも普通にしゃべっている大人が、突然赤ちゃん口調になって泣き出したり、異性の言葉遣いになって荒っぽくなったりします。

それは一見、わざと物まねをしたり、別の人を演じて気を引こうとしているかのように思えますが、本人は、そのような意図はなく、完全の別の人格になり変わっているのです。

しかし実際には患者は演技をしているわけではない。交代人格はあくまでも別人として現れる。(p164)

と岡野先生は述べています。

それでも、精神科医などの専門家の中には、やはりこれは患者の演技であり、人格交代など認めない、と主張する人もいます。その理由についてこう書かれています。

解離性障害のもう一つの特徴は、その症状のあらわれ方が、時には本人によりかなり意図的にコントロールされているように見受けられることである。そのために詐病扱いされたり、虚偽性障害(ミュンヒハウゼン症候群)を疑われたりする可能性が高い。(p151)

たとえば、診察室に入ったら別人格が現れて、診察室を出た途端に元に戻る、といったいかにも都合のよい現れ方をする人格交代もあるそうです。そうすると、何も知らない人は間違いなく演技でしかないと思うでしょう。

しかし解離性障害の本質を考えてみると、それはいたって自然ともいえる人格の交代です。というのは、後で説明しますが、解離性障害は、「無意識のうちに」空気を読みすぎてしまう病だからです。

この無意識のうちに空気を読むとというのは、解離性障害の人たちが幼いころから培ってきた非常に根深い傾向であり、そのせいで人格交代もまた、周りの人の期待に沿うようにして生じることがあります。

岡野先生は、解離性同一性障害が演技や詐病であるか、という問題について、ご自身の長い診療経験や知見に基づいて、はっきりとこう断言しています。

解離性障害を持つ人々は、おそらく私たちが人生で出会う中でもっとも純粋で、しかも人の痛みに対する感受性の強い人たちでもあるのだ。

だからそれらが意図的に、演技として現れている可能性は、一部の例外を除いては、まず絶対にないといっていいだろう。(p36)

DIDが生じる原因は何か

では、多重人格、人格交代といった、にわかに信じがたい現象はなぜ生じるのでしょうか。いったいどうして、一人の人の体に、何人もの人格が宿ったりするのでしょうか。

その仕組みやメカニズムを説明する前に、まず解離性同一性障害(DID)が起こるきっかけ・誘因について考えておきましょう。

複数の原因が絡み合っている

解離性障害は、さまざまな原因が絡み合って発症するとされています。一般に、以下の様な点と関連があると言われています。

■遺伝的なリスク
■性的・身体的虐待を含めた幼少時のストレス体験
■生まれつきの解離傾向の強さ
■家庭環境(親子関係・両親の不仲・死別・離婚など)
■病気
■事故や災害
■学校でのいじめ

どれか単一の原因による、というよりは、複数の要因が絡み合っていることがしばしばです。そのため、一人ひとりの患者に対して「何が原因なのか」と特定するのは非常に難しい、と書かれています。(p157)

たとえば、同じようなストレスフルな環境で育ち、子供のころに虐待を受けたとしても、解離性障害になる人もいれば、そうでない人もいます。

また欧米と日本では原因に違いがあるとも言われ、欧米では性的外傷体験が多いものの、日本では家庭での親子関係からくるストレスが多いとも言われています。

解離性障害になりやすい人の特徴として、このブログでは過去に、過剰同調性や、対人過敏傾向を取り上げてきました。

過剰同調性とは、すでに述べたように、無意識のうちに「空気を読み過ぎる」傾向のことです。常に他人や親の顔色をうかがいながら「いい子」として育った子どもによく見られます。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か | いつも空が見えるから

また対人過敏症状とは、他の人に対して過度の恐れや警戒心を感じる状態のことです。子どものころに愛着の傷を負い、家庭などで安心できる居場所が得られなかったことによるのかもしれません。

他人が怖い,信頼できない,人といると疲れるなどの理由―解離と対人過敏 | いつも空が見えるから

注意すべき点として、これは必ずしも親の育て方に問題があったという意味ではありません。確かに育て方が影響している場合もありますが、たまたま親と子どもの性格が大きく違っていたために、子どもがストレスを強く感じることもあるからです。

このような、他の人を恐れ、顔色をうかがいながら、周囲に同調・同化しつつ成長してきた人たちは、自分の感情を心の内に溜め込み、解離性障害を発症するリスクが高くなります。

女性のほうが9倍なりやすいのはなぜか

解離性障害は女性に多い病です。特に解離性同一性障害(DID)は、ロスRossによると、欧米での男女比は女性9:男性1だそうです。 (p85)

この理由については、さまざまな説がありますが、一つの理由として、次のような推測が書かれています。

以上の研究が間接的に示しているのは、女性の場合はオキシトシンの過剰な影響により、相手の心を読みそれと同一化する傾向が男性のアスペルガー症候群とは反対の域にまで至る可能性があり、それがこれまで見てきたDIDに見られる対人関係における敏感さを説明している可能性があるということである。(p88)

現時点では推測に過ぎませんが、「空気が読めない」ことが特徴のアスペルガー症候群は、男性ホルモンの影響が強い状態なので男性に多いのに対し、「空気を読みすぎる」解離性障害は、女性ほるの影響が強い状態なので女性がなりやすいのかもしれません。

解離性同一性障害(DID)がよくわかる7つの説明

ここからは、なかなか理解しがたい多重人格という不思議な現象のメカニズムや仕組みをわかりやすくするために、さまざまな研究者による、身近なたとえを用いた説明を7つ紹介したいと思います。

これらのたとえ話を通して多重人格について考えると、なぜ複数の人格にわかれたり、人格が切り替わって交代してしまったりするのかが、幾分理解しやすくなるでしょう。

1.水密区画化

まず最初は、子どもの発達障害やPTSD、解離性障害に詳しい、児童精神科医の杉山登志郎先生による、 水密区画化(compartmentalization)モデルの説明です。

子ども虐待という第四の発達障害 (学研のヒューマンケアブックス)にはこうあります。

水密区画とは、船の船底を閉鎖が可能ないくつもの小さな部屋に区切ることである。

つまり外から船底を破って水が侵入してきたときに、水が船底の全てに広がり、船が沈没してしまわないように作られた構造である。

圧倒的なトラウマ体験に対して、その部分だけ記憶を切り離して全体を保護する。

このような防衛機制が働くことによって、個々の離散的意識と行動のモデルが状況依存的に独立し、発達的に病理的解離がつくられていくと考えられるのである。(p46)

水密区画については、実際に見た経験がある人は少ないでしょうが、映画などで、火災や浸水の被害を食い止めるため、防壁を閉じていくようなシーンをご覧になったことのある方は多いと思います。

いずれにしても、すでに水や火に侵入された区画を閉鎖することで、中枢の機能を守り、時間を稼ごうとするシステムであることはお分かりいただけるでしょう。

解離性障害の場合も、そのようにして、脳の中を区切っていると考えられています。

解離性障害の大きな症状の一つは、辛い経験を思い出せなくなる健忘です。特に圧倒されるような辛い記憶は、別の人格が引き受けて、記憶の底に眠っていることもあります。

圧倒されるようなトラウマに直面したとき、脳の記憶領域の一部を閉鎖してそれを封じ込め、その記憶を担当する人格を割り当てることによって、多重人格が生じることがあるのです。

2.守護天使と身代わり天使

次に紹介するのは、大人の解離性障害を長年見てこられた専門家である、柴山雅俊先生による、守護天使と身代わり天使、という説明です。

いきなり「天使」などと言うと面食らうかもしれませんが、解離性障害の当事者は、自分の別人格を天使のような不思議な存在と感じていることもあるようです。

DIDの人の別人格は、ときに本人が手に負えなくなった時に人格交代して、苦手な役回りを担っていることもあります。ある意味で守護天使のような存在ともいえるでしょう。

また、しばしば天使が助けてくれた経験談として古今東西語り継がれている物語の中には、解離性同一性障害と一部のメカニズムが共通していると思われる、サードマン現象が関係していることもあると言われています。

それを踏まえた上で、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論の中の柴山先生の説明に耳を傾けてみたいと思います。

このように交代人格としての天使は二種類に分けられる。「犠牲者としての私」は身代わり天使になる。この天使に対しては感謝し、供養する必要がある。

もう一つの天使は「生存者としての私」に由来する守護天使である。守護天使は身代わりになるのではなく、背後から患者を支持し、助言すべきである。

守護天使は現実の目の前の人によって、いずれはとって変わられねばならないだろう。(p233)

まず、交代人格には二種類いると言われています。

ひとつ目は身代わり天使。辛い記憶を引き受けて封印されている存在です。これはすでに述べた水密区画化によって、トラウマ記憶を切り離したときに、その部分を担当するために割り当てられた人格のことです。

ふたつ目は守護天使。危機に直面している本来の人格を守り助けるために、ときに盾となったり、現実の問題に対処したりして助けてくれる人格です。場合によっては、攻撃的な人格として存在し、外敵から主人格を守ろうと警戒していることもあります。

このように、多重人格は、なんの目的もなく、無意味に現れて複雑化しているのではなく、それぞれが、もともとの主人格を守るため、明確な目的をもって存在するようになるのです。

もっとも、それらが主人格を助けるために形成された、ということは、DIDの当人もなかなか気づけなかったり、受け入れにくく感じたりすることもあり、意図的に作り出すものではありません。

3.部屋やドア

次に、やはり解離性障害に詳しい岡野憲一郎先生が紹介しておられる、ある患者のことばに注目したいと思います。

ある患者は親からの虐待を受けた際に、その苦痛と恐怖のために「内側に急いで入り、ふたを閉めてしまった」と表現した。

そしてその際に「ほかの誰か」が外の状況を処理する必要が生じ、新たな人格が形成されたという。(p80)

このエピソードでは、部屋やドアが登場します。

この点については、岡野先生、柴山先生双方が、「空間的なふたやドア、部屋がよく出てくる」「多重人格の人はよく部屋があると言いますが、このことの意味は大きい」と口をそろえて述べています。( p209)

ドアや部屋、という表現は、最初に取り上げた水密区画化を思い出させます。外の世界のストレスフルな状況から逃れるために、部屋の中に入ってドアを閉めることで、苦痛をシャットアウトしているのです。

そしてこのエピソードの場合、外を確認するために生まれた「ほかの誰か」は、守護天使に相当するのでしょう。その人格は、疲れ果てて内にこもった主人格に変わって、日常生活を担当するために生まれたのです。

もちろん人格形成にはさまざまなパターンがあり、必ずしもこのような経緯で作られるとは限りません。

支配的な親との関係など、もっと持続的・慢性的ストレスの場合は、自分の心に生まれた新たな人格との対話によって苦しみを軽減するうちに、人格が解離するというパターンもあるそうです。(p80)

その場合は、イマジナリーコンパニオン(想像上の友だち)と似ている形成過程だといえます。

4.バイリンガルと似ているスイッチング

それにしても、人格が交代する、という考えはあまりに突飛ではないでしょうか。

確かにさまざまな人格がそれぞれの役割を担っていることはわかります。しかしそれぞれの人格に交代し、まったく別の人物としてふるまう、ということを理解しがたく感じる人は少なくありません。

実を言えば、人格が交代すると、記憶も、考え方も、性格も、食べ物の好みも、性別も、年齢も、字の筆跡さえも変わるのです。同じなのは、見た目だけです。

そうした人格交代はスイッチングと呼ばれます。これは、なにも超常現象ではなく、わたしたちの脳にもともと備わっている機能の延長線上にあるものだということは、次の説明からわかります。

解離以外で生じるスイッチングのもう一段階複雑なものとして、バイリンガリズムを考えることができよう。

たとえば英語とフランス語の両国語に習熟している場合、英語で話している時に何らかのきっかけでフランス語に「切り替わる」ことはあっても、両者を混同することは普通は起きない(p144)

解離性同一性障害は、人格によって、言葉の話し方や一人称などが変わることから、バイリンガルの脳内における言語切り替えスイッチと同様の部分(現在の研究では尾状核とされる)が関係しているのかもしれないと言われています。(p146)

わたしたちの脳に備わっている切り替え機能は、通常の範囲内であれば、さまざまなことに役立ちます。お父さんが、職場では厳しい上司として働いていても、家庭では優しい父親として子どもと遊べるのは、そうしたモードの切り替えができるからです。

しかしこのような切り替え機能が、無意識のうちに、しかもより過剰に働いてしまったとしたら、多重人格として表面化するとしても不思議ではありません。

5.復元ポイント

多重人格の中には、子どもの人格もあります。中には、一人の大人が、幼稚園児の人格、中学生の人格、高校生の人格などを抱え持っていることもあります。

岡野憲一郎先生は、このような人格は、パソコンのWindowsのオペレーションシステム(OS)に備わっている復元ポイント機能のようだと述べています。

「復元」の機能においては、コンピューターが自動的に「復元ポイント」を一定時間ごとに作ってくれていて、たとえば1ヶ月前、3ヶ月前のコンピューターの状況がそのまま保存されているわけだが、これはまさに多重人格的な機能と言える。

まるで人格のスイッチングにより、1ヶ月前、3ヶ月前の自分の状態が再現されるようではないか。(p15)

復元ポイントとは、パソコンの設定をすべて保存しておいて、バグなどでおかしくなってしまったときに、過去の安全な状態を復元できる機能です。

解離性同一性障害の人の人格は、あたかも、この復元ポイント機能によって保存された過去のその人の人格であるように思えることがあるそうです。

この人格の「復元ポイント」は、パソコンの場合のようなバックアップではなく、外傷を受けたときのショックで形成されるようです。

たとえば小学生で性的虐待を受けた人の場合、そのときの子どもの人格がそのまま、辛い記憶とともに解離して、身代わり天使となって存在していることがあります。

もちろんそのときの年齢の人格が必ず身代わり天使となってトラウマ記憶を一手に引き受けているかというとそうではなく、トラウマ記憶をできごとの記憶や感情の記憶に分割して、複数の人格に別々に担当させるという、もっと複雑な封じ込めをしている場合もあるようです。

また人格の中には、その人の過去の人格だけでなく、加害者の人格や異性の人格が存在していることもあります。これらは「取り入れ」というまた違うメカニズムで生じたものと考えられます。

6.マイクロバス

このように、一人の人の中に、複数の人格が、かなり複雑な関係性を保って存在している状態をわかりやすく説明するために、岡野憲一郎先生は、マイクロバスのたとえを用いています。

DIDの状態にあることとは、患者のいくつもの人格が一つの乗り物に乗っているようなものである。

…さて運転席には現在出ている人格が座っている。彼(女)はバスをどこに向けて運転するかについて全面的に主導権を持っている。

DIDとは、マイクロバス(体)の中に、複数の乗客(人格)が乗っている状態と似ています。

マイクロバスには運転席は一つしかありませんが、DIDの人の表面に現れる人格も、一度にひとつだけです。さまざまな人格がハンドルを握ることはできますが、同時に複数の人格が表に出ることはできません。

マイクロバスのほかの乗客は、後ろの席に控えている。

そのうち何人かは、現在の運転手の様子を見ていて、後ろから意見を言ったり、助け舟を出したりするかもしれない。

場合によっては危険を感じて、いきなり今運転している人格をどかして運転席を占拠するかもしれないのである。

バスには複数の人が乗っていますが、DIDの場合も、表面に出ている人格のほかに、常にスタンバイ状態にあり、事態を観察している別人格が複数あります。

そのような人格はいわゆる「守護天使」です。今ハンドルを握って表に出ている人格が窮地に陥ったら即座に交代することができます。

そのように事態を見守っているので、最初に触れた詐病と誤解されるような現象、つまり状況に合わせて柔軟に人格を使い分ける、といったことも可能です。しかしこれは表面に出ている人格がそうしているのではなく、あくまで無意識のうちに生じます。

さらに後ろの席の様子は複雑である。…奥の方は暗くてよく見えない。そこに誰が寝ているか、何人寝ているのかは不明である。(p169-171)

もっと後ろのほうの座席にも、目立たない人格が眠っています。それらの人格は、運転席の主人格の状況をまったく見ていないこともありますし、そもそも前のほうにいる人格たちと面識がないこともあります。

そのような後ろのほうにいてよく見えない人格は、身代わり天使です。辛いトラウマ記憶を封じ込めている番人であり、繰り返しカウンセリングを受けてはじめて存在が見つかるということもあるのです。

7.蜃気楼

最後に、このような複雑な幾重にも重なった人格が出現するメカニズムについて、慶應大学の前野隆司先生の「受動意識仮説」というものが参考になるとして紹介されています。(p133)

わたしたちは、自分は自分の意識でコントロールしていると考えがちです。つまり、まず最初に自分の意識があり、それが司令官のように決定して、体の各部が動いていると。

しかし実際には、体の末端の各細胞や無数の脳の神経細胞がせっせと活動した結果、最後に意識のようなものが生じているだけではないか、というのが受動意識仮説です。

自然界でも、たとえばイワシの群れは、司令官がいるような動きをしますが、たくさんの自律的な小さなイワシが共同して動いた結果、一見リーダーがいるように見えるだけです。これは群知能と呼ばれています。

そのように、わたしたちの意識、つまり人格が、無数の神経細胞の活動の結果として作られている蜃気楼のようなものだとしたら?

当然、解離によって記憶や脳のネットワークが分断されたとき、それぞれのネットワークごとに含まれる神経細胞が異なってくるので、それらが生み出す意識、人格も別のものになる、という結果になるでしょう。

つまり、解離という脳の水密区画機能によって、記憶や脳のネットワークを区切れば区切るほど、その副産物として、区切った数だけ新たな人格が誕生しているのかもしれないといえるのです。

DIDの治療

このような経緯を経て存在するようになった多重人格、つまり解離性同一性障害(DID)は単なる病気とは言いがたいものです。

統合失調症のように脳の障害が起こっているといよりは、当人を守るために幾重にも防備が施された砦のようなものだからです。

もちろんDIDによって、生活にさまざまな支障をきたすことがあり、記憶が飛ぶ、暴力的な人格が手がつけられない、人格交代して仕事にならない、さまざまな身体症状が出る、といった場合には治療が不可欠です。

しかし治療するにあたっても、やはり統合失調症のような薬物治療というよりは、複雑に絡みあったDIDの関係を解きほぐしていくという手順が求められます。

ここではいくつかの参考資料に基づいて、治療のポイントを列挙します。しかし、これらは参考程度にとどめて、必ず専門家の指導を仰ぐようにしてください。

交代人格を無視しない 

まず、DIDの治療に大切なのは、交代人格の存在を無視しないことだといいます。(p24)

DIDを認めない医師は、交代人格が出現しても、それを無視して、あくまで本人として扱おうとするそうです。

そうすると無視された交代人格は失望するので、医師の前では姿を見せなくなり、表面的には問題が解決したかに思えます。しかし、実際には患者の苦痛は何も解決されておらず、むしろ余計にトラウマを刻むだけだといいます。

ですから、どの人格に対しても敬意をこめて接してくれる、解離性障害に造詣の深い医師を探すことが不可欠です。

解離性同一性障害(DID)の各人格それぞれを、尊厳を持つ一人の人間として扱うべき理由については、以下のエントリで詳しく書いています。

多重人格の尊厳と人権―別人格はそれぞれ一個の人間として扱われるべきか | いつも空が見えるから

緊張期には少量の薬物治療も

精神疾患というと薬物治療といった考え方が日本にはありますが、解離性障害の場合、統合失調症に処方されるような大量の薬物を投与されるとかえって悪化することもあるようです。

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)によると、過度の緊張が見られる時期には、少量かつ短期間の薬物療法によって症状を抑えることも可能ですが、あくまで薬物療法は副次的なものと考えられています。(p88)

精神科の薬の大量処方・薬漬けで悪化しないために知っておきたい誤診例&少量処方の大切さ | いつも空が見えるから

ストレスフルな環境を変えることが大切

解離性障害は周囲に対する防衛として生じていることが多いので、ストレスフルな環境を変えることは、治療のために急務です。

たとえば理不尽な職場やストレスの多い親子関係などの実生活が続いていると、解離性障害の症状もより悪化しがちです。

そうすると、いくらに治療をしようと改善は見込めないので、可能な範囲で、ストレッサーを遠ざけることが必要です(p166)

話し表現する場が必要

解離性障害の人は、水密区画化の点からわかるとおり、辛い体験を自分の内側に封じ込め、溜め込むことで対処していることがよくあります。感情を抑圧し、押し殺していることがしばしばです。

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)によると、良い理解者となる医師、カウンセラーなどの助けによって、そうした抑圧してきた感情を話して外に出したり、何らかの手段で表現して発散したりする場を持つことが、気持ちを落ちつかせるのに大きな役割を果たします。(p86)

熟練したカウンセラーの手助けによって、各人格同士のもつれた関係を解きほぐし、人格同士による一種のグループセラピー(自我状態療法)を行うことも、記憶や感情を整理するのに役立ちます。ときには心理療法やトラウマ処理(EMDRなど)も必要かもしれません。

詳しくはこちらも参考にしてください。

トラウマを治療する自我状態療法「会議室テクニック」 | いつも空が見えるから
【NHK ETV特集まとめ】慢性的な難病の裏にある「トラウマからの解放」 | いつも空が見えるから

安心できる居場所をつくる

解離性障害の人たちは、子どものころから安心できる居場所を見いだせず、家庭でも学校でも怯えながら生きてきたという背景があります。

信頼できる治療者との関係や、思いやりのあるパートナーと信頼関係を育むことで、包まれる経験をするなら、少しずつ傷が癒えて安心感を抱けるようになるでしょう。

きっと克服できる「回避性愛着障害 絆が希薄な人たち」 | いつも空が見えるから

オカルトには注意

解離性障害、特に解離性同一性障害(DID)は、その性質上、昔からオカルトとの関係が取り沙汰されてきた概念です。別人格がいるというのは、悪霊が憑いているとみなされてきた地域もあります。

しかし柴山雅俊先生は、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)の中で、はっきりと、宗教・オカルトとの関わりは、症状を悪化させかねない要素の一つであると禁止しています。(p190)

特に霊的療法、スピリチュアルヒーリングといわれるものの中には、実際は何の効果もないのに、高額な費用を求めるものも多くあります。

たとえ効果があるように思えても、プラセボ効果でしかないことも少なくありません。冷静な目で見れば、怪しくいかがわしい治療法は見分けられるはずです。

また、解離性障害の治療には催眠に似た方法が用いられることもありますが、解離性障害の人格呼び出しは、その人を操っているのではなく、実際に存在するものを表面に出す手助けをしているだけです。(p173)

そのほか、交代人格を詳細に記録するマッピングや、多重人格を題材にした作品(小説・ドラマ・映画など)を見ることなども禁止されています。

交代人格を受け入れる

DIDの人は、自分の別人格に対して恐怖感や嫌悪感を抱いていることがあります。

しかしすでに述べた通り、たとえ手に負えない、理解できないように見える人格であっても、おおもとは、身代わり天使・守護天使として、当人を守り支えるために生まれてきたものです。

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)によると、カウンセリングなどを通して、そうした点を理解し、交代人格の存在と役割を受け入れ、感謝を伝えることが、交代人格同士のつながりを回復し、最終的には結び合わせることにつながるとされています。(p96)

統合よりも安定を目指す

一般に、多重人格の治療というと、別人格がなくなって、ひとつに統一されることが治療の終着点であるように思われがちですが、岡野憲一郎先生によるとそうとは限りません。

もし何人かの間に役割が決まっており、必要な情報を伝達しあい、互いを侵害せずに平和共存し「棲み分け」ることができているのであれば、ちょうど歯車がうまくかみ合っている機械のように機能することができ、特に社会適応上問題はないことになる。

実際治療が進み安定期に入ったDIDの交代人格たちは、しばしばそのような共存のしかたを見せる。(p166)

むしろ、人格を統一することで、別の精神疾患に弱くなる可能性があるということは、以前の記事でもまとめたとおりです。

多重人格やイマジナリーフレンドは必ず人格を統合し、治療する必要があるのか | いつも空が見えるから

さきほどのマイクロバスのたとえでいえば、行き先を誤らず、だれかが主導権をもって運転し、乗客同士が適切にコミュニケーションできるなら、複数の人が乗っているマイクロバスのままでもいいということになります。(p171)

あくまで、治療の目的は、多重人格を統合することよりも、円滑な社会生活が送れるようにすることだといえるでしょう。

どのような経過をたどるか

解離性同一性障害の治療は、どのような経過をたどるのでしょうか。

注意すべき点として、治療をはじめると、一時的に悪化することがあるようです。これは、治療を始めたことで自己表現が許され、今まで抑えられてきたものが一気に表面に出るからです。 (p156)

しかしその後は、一部の患者では1-2年で人格の交代がほぼ消失し、かなりの割合の患者で人格交代の頻度が顕著に低下するとされています。(p158)

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)によると、解離性障害の症状は、20代半ばがピークで、年齢が進んで、30代、40代になると、落ち着いてくる人が多いとも書かれています。(p98)

解離性同一性障害(DID)とうまく付き合う

このように、解離性同一性障害は、複雑な症状をともなうとはいえ、適切な治療を受ければ、さまざまな問題にうまく対処できるようになります。

残念ながら、解離性障害は、今のところまだ詳しい医師が少なく、中には否定的な専門家も多くいます。

そのため、岡野憲一郎先生は、「患者やその家族の側も正しい知識を身につけた上で医療を受けることがぜひとも必要」であり、「患者自身が自分の身を守らなくてはならない」と書いています。(p149-150)

今回主にとりあげた岡野先生の本は少し専門的ですが、同著者のわかりやすい「解離性障害」入門や柴山先生の解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)はたいへん読みやすく一般向けに書かれているので、DIDに悩む当事者の方やその家族・友人の方にもおすすめです。

それぞれが正しい知識を得て協力して対処するなら、DIDに振り回されることなく、安定した生活を取り戻すことができるに違いありません。


自分とイマジナリーフレンドの性格をグラフで比較して分析できるサイト

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マジナリーフレンド(IF)、すなわち空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)はとても不思議な現象です。

このブログでも何度か取り上げてきたように、イマジナリーフレンドは単なる創作上のキャラクターでもなければ、意識して組み立てるものとも限りません。いわば、その人の内なるところから、自然に姿を現す存在です。

それなのにイマジナリーフレンドを持つ多くの人にとって、自分とIFとでは、性格が大きく異なる、と感じられることがしばしばです。もちろん似ているところもあるけれど、まったく違う部分も多い、というのがよくある意見ではないでしょうか。

今回は、自分とイマジナリーフレンドの性格をグラフで比較して分析できるサイトを紹介したいと思います。もともとはイマジナリーフレンドとはなんの関係もないテストですが、自分について、そして自分のIFについて知る助けになると思います。

自分とIFはそれぞれどんなタイプ? 

今回紹介するサイトはこちら。

職業適性テスト

簡単にいえば、単なる心理テストのたぐいなのですが、かなり緻密で結果がグラフで出力されるところが優れています。

ユングなどの心理学理論にもとづいており、

内向(I)⇔外向(E)
感覚重視(S)⇔直感重視(N)
思考重視(T)⇔感情重視(F)
判断重視(J)⇔知覚重視(P)

といった指標をグラフ化して出力してくれるので、性格の偏りの傾向がひと目で分かる、とてもわかりやすいものとなっています。

わたしがやってみたところ、かなり質問数も多いので、単なる心理テストよりしっかり自分の性格が反映されていると思いました。

グラフの見方―似ているところと補いあうところ

最終結果は一例として、次のように出力されます。

1 2

対角線上に並んでいる性質は、互いに相反するものなので、片方が高ければ、もう片方が低くなります。

IF保持者の方々は、きっと、自分でこのテストをやってみるだけでなく、自分のIFを誘ってテストを受けてもらうことができるでしょう。

そうすると、自分のグラフと、IFのグラフとで、似ている部分と、まったく正反対な部分がはっきりとわかることと思います。

■補い合っているところ

たとえば、自分は「感情重視」(F)が高く、IFは「思考重視」(T)が高い、といった結果だとしたら、あなたの強い感情をIFが受け止めてくれていて、しかもIFはあなたには欠けている論理的思考を通してサポートしてくれている、ということが分かります。

■共感し合えるところ

逆に自分とIFのグラフがほぼ一致している性質もあるでしょう。たとえば二人とも「知覚重視」(P)が高いとしたら、お互いに色んな新しい興味や知識について話すひとときが楽しくて、共感し合えるのかもしれません。

■話題作りにも

一応「職業適性テスト」なので、グラフの下に、適した職業についての寸評が書かれています。これはこれでけっこう面白いので、IFと会話するネタにでもどうぞ。

お互いをより深く知る助けとして

こうした客観的なグラフによる分析を用いることで、自分自身について、また自分のIFについて理解が深まり、より親密になるきっかけを作れるかもしれません。

補い合っているところがわかれば、互いに感謝の気持ちが湧いてくることもあるでしょう。そうしたコミュニケーションは、互いの絆を強める助けになります。

IF保持者と、IFの性格が大きく異なるのはなぜか、なぜIFは似た者同士、双子のようなそっくりさんというよりは、支えてくれるパートナーや補う者として現れることが多いのか、という点は、以下の記事で考察していますので、よろしければご覧ください。

「助け手」「理解者」「パートナー」としてのイマジナリーフレンド―なぜ同じ脳から支え合う別人格が生まれるのか | いつも空が見えるから

無条件の愛を注ぐ親友・恋人としてのイマジナリーフレンド―内的自己救済者(ISH)という起源

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想の友だち、つまり、学術的な言葉によるとイマジナリーコンパニオン、またより一般的にはイマジナリーフレンドと呼ばれる存在は、多くの子どもに見られる、ありふれた現象です。

しかし時には、青年期や大人になってからも存在し、単なる空想の「友だち」以上の役割を持っている場合があります。

このブログで、過去に、「親友」「恋人」としてのイマジナリーフレンドを取り上げたところ、そのようなキーワードで訪問してくださった方や、感想を書いてくださった方がいました。

ある人たちにとって、イマジナリーコンパニオンは、コンパニオン(仲間)というより、その語句の持つ別の意味、すなわちコンパニオン(伴侶)に近い存在とみなされています。

そんなことを口にすると、しばしば「エア彼氏」「エア友」「脳内彼氏」といった単なる空想と誤解され、揶揄されるかもしれません。

しかし実際には、医学・心理学的な意味でのイマジナリーコンパニオンは、単なる空想の域を超えた、もっと奥深い存在です。

どうして、心の中にしか存在しないはずの「空想の友だち」が、親友や恋人となったりするのでしょうか。

この記事では、解離についての専門家の本などにもとづき、ラルフ・アリソンが提唱する救済者人格、「内的自己救済者」(ISH)をヒントにして、その存在の謎を解き明かしていきたいと思います。

 

 

救済者人格とは何か?

イマジナリーコンパニオン、イマジナリーフレンドが、親友・恋人となる背景には、その存在が、自分にとって、必要不可欠な助けや支えを与えてくれる、という点が関係します。

困難に陥ったときに手を差し伸べてくれ、一度ならず励ましや、アドバイス、慰めをもたらしてくれるからこそ、強い絆が形成されるのです。

このような、助け、支えになる別人格としてのイマジナリーフレンドについては、以前の記事で詳細に扱いました。

「助け手」「理解者」「パートナー」としてのイマジナリーフレンド―なぜ同じ脳から支え合う別人格が生まれるのか | いつも空が見えるから

要点を簡単にまとめると、イマジナリーフレンドは、自分に足りないものを補う「補償」という防衛機制が働いて形成される場合があり、当人とはまったく違う性質によって苦手なところをカバーする傾向がある、ということでした。

これは、解離性同一性障害(DID)の別人格や、サードマン現象にもしばしば見られる特徴であり、そのようなも別人格の最たるものとして、「内的自己救済者」(ISH)という現象があることも紹介しました。

「内的自己救済者」(ISH)とは何でしょうか。

内的自己救済者(ISH)とは?

内的自己救済者(ISH;Inner Self Helper)とは、1974年に精神科医ラルフ・アリソンが提唱した概念で、当人が危機に陥ったときに出現する救済者人格であるとされています。

ISHの定義や論争について詳しくはWikipediaの「内的自己救済者」にまとめられています。

アリソンはかなり詳細な点までISHを定義し、空想の友だちとの関連などについても、さまざまに主張していますが、ここでは、あくまで、危機を助ける救済者人格という意味合いのみを用いて、ISHという語を用います。

そのため、アリソンの本来の主張とは異なる部分も多くあるということをご了承ください。

ISHについて、解離性障害に詳しい柴山雅俊先生は、臨床の場で出会う救済者人格について、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論の中でこう述べています。

生存者人格は犠牲者人格から身を離し、状況を俯瞰する視点から眺める。

アリソン Alloson,R.B.のいう内的自己救済者(ISH;Inner Self Helper)は癒やす神の力と愛を伝える媒介者であり、患者の過去と将来を知り、冷静沈着で理性的である。

主人格がお手上げ状態に陥った時、物事をテキパキと処理する有能な人格として出現する。(p143)

解離性同一性障害(DID)に現われる交代人格は、大きく分けて2つに分類されます。一つは、「生存者人格」、もうひとつは「犠牲者人格」です。

たいていの場合、ひどいトラウマとなる出来事を経験すると、その人のメインの主人格は大きな傷を負い、「犠牲者人格」として、トラウマ記憶を一手に引き受けます。

その代わりに、自分一部を無傷のまま切り離して、別人格として生き延びさせます。これが「生存者人格」です。

「生存者人格」は、トラウマ記憶から守られているので、冷静で理性的、客観的かつ有能な場合が多いようです。

トラウマ記憶が重い場合、「犠牲者人格」は内側に引きこもってしまい、「生存者人格」が日常の物事に対応していることもあります。

この「生存者人格」は必ず救済者となるわけではなく、色々な別の問題を抱えていたり、逆に「犠牲者人格」を見下したりすることもあるようです

しかし、一部の特殊な場合においては、ISHとして「癒やす神の力と愛を伝える媒介者」になると言われています。

フィレンツィの守護天使オルファ

そのようなISHの代表的な例として知られているのは、 フィレンツィ(Ferenczi.S)が報告した守護天使オルファです。

フィレンツィのいう守護天使オルファもまた同様の存在である。

このような存在が出現することは臨床ではそれほど多いとは言えないが、いざというときには治療者に対して的確な助言や指示を与えてくれる。

このような救済者的役割には身代わりとしての要素はなく、守護者(guardian)としての機能が見られる。(p143)

もちろんこれは文字通りの守護天使というわけではなく、あたかも守護天使のような働きをする別人格のことです。

フィレンツィによると、幼少時に性的外傷を受けたエリザベス・サヴァーンという女性に現れたオルファという別人格は、守護天使(guardian angel)のような役割を果たしていたそうです。彼は次のように書いています。

自己分裂self-splittingの過程における驚くべき、しかし一般的に妥当するように思える事実は、耐えられない対象関係の自己愛的なものへの突然の変異である。

すべての神に見捨てられた人間は、現実をすっかりすり抜け、地上の重力に妨げられずしたいことは何でも達成できる別世界を自ら創造する。

愛されてこず、傷めつけられさえしてきたため、彼は自身から一片を切り離し、その部分が、頼りになり情愛のあるたいていは母のような世話人の形で、人格の苦しめられた残部を憐れみ、それを世話し、それのために決断してくれる。(p230)

この女性の場合、トラウマ記憶を受けた主人格から切り離されて誕生した別人格は、「頼りになり情愛のある母」のような、慈愛に富む人格でした。

それは、愛されてこず、傷めつけられた主人格に対して、文字通りの母親のような無条件の愛を注ぎ、優しく包み込み、感情面での世話をし、ときには決断さえしてくれる、まさに救済者ともいえる人格だったのです。

それで、救済者人格、内的自己救済者(ISH)とは、単に理性的で有能なだけでなく、天使や母親のような無限の愛を注いでくれる存在であるといえます。

見守り世話をする母親

この守護天使オルファのようなISHの具体的として、岡野憲一郎先生も、続解離性障害という本の中で、臨床で出会った一症例を引き合いに出しています。

患者の中にある人格たちは、お互いにさまざまな関わり合いを持っている。それぞれが独自の感受性をもち、異なった思考パターンを有するようである。

…ある30過ぎの女性の患者Aさんがいる。キャリアウーマンでもあるAさんは同時に素直すぎて世間知らずのところがあった。

…Aさんにはいくつかの交代人格があったが、特に子どもの女性の人格Bちゃんは、そんなAさんにいつもハラハラさせられていた。

…AさんとBちゃんはまるで、未経験でうぶな若い女性と、事情がよほどわかっている小さい賢者の妹なのである。

ちなみにこのBちゃんは、米国の解離研究の大家ラルフ・アリソン Ralph Allison(1980)がいうところの「ISH(内部の自己救済者)」という概念を思い起こさせる。アリソンによれば、ISHは理性的で、患者の生活しの全体を知り、治療や回復について、適切な意見を述べる存在であるという。(p4-5)

主人格であるAさんは、うぶで頼りなく世間知らずな女性です。

しかし彼女にはいつしか、Bちゅんという子ども人格が存在していて、Bちゃんは頭脳明晰な賢い妹なのです。いつもおろおろしておぼつかないAさんを背後から助け、適切なアドバイスを送り、なんとか毎日を乗りきれるよう甲斐甲斐しく世話し、見守っているのでした。

Bちゃんは聡明なだけでなく、Aさんにハラハラしながらも、絶対に見捨てることなく支え続けています。年齢的には子どもの人格とはいえ、これはもはや「母親」そのものであるといえるのではないでしょうか。

足元がおぼつかない子どもを見守り導くかのようにして、ISHは導きと保護を与え、その心の拠り所となるのです。

サードマン現象

こうした守り導く助言者は、サードマン現象とも共通しています。

サードマン現象は、遭難事故など、生命の危機に陥ったときに、見えない第三者人格が現れ、冷静に励まし、導き、諦めないよう助けてくれるものとして知られています。

以前の記事で取り上げたように、神経学者マクドナルド・クリッチレーは、サードマン現象はイマジナリーフレンドと近縁の現象であると考えました。

非日常の危機的状況で出現する一時的な救済者人格がサードマン現象であるとすれば、日常生活における危機的状況で出現する継続的な救済者人格がイマジナリーフレンドなのではないか、ということです。

どちらの存在も、当人を守り、導くという役割が共通していて、危機が去ると消えていく傾向があります。これもまた、古今東西で「守護天使」の伝承の元となっている可能性があります。

サードマン・イマジナリーフレンドが現れる5つの条件―「いつもきみのそばを歩くもう一人がいる」 | いつも空が見えるから

それで、これらの情報を総合すると、トラウマ体験や危機的状況に陥った人には、あたかも母親のような無条件の愛や導き、保護を特徴とする救済者人格が現われる場合があり、それがISHや守護天使オルファ、サードマン現象として知られているようです。

そして、そのような別人格がイマジナリーフレンドとして存在している場合、親友や恋人のような強い絆を結ぶようになると考えられます。

それはどこから現れるのか

それにしても、こうした内的自己救済者(ISH)のような愛情深い別人格は果たしてどこから現われるのでしょうか。

これはたいへん不思議な問いです。

さきほどの守護天使オルファの例を考えると、その不思議さがよくわかります。ISHが現われる場合、当人は、親から愛情を注がれなかった不幸な環境で育っている場合も少なくありません。いわば本当の親の愛とはどんなものかを知らないのです。

それなのに、その人から分割された別人格としてのISHは、母親のような無条件の愛を注ぐ慈愛に満ちた人格なのです。

これはまるで、建てるための木材が存在しないのに、保護となる温かな家が作られるようなものです。いったい何が起こっているのでしょうか。

どうやって無条件の愛を学ぶのか

ある人は、人間にはもともと無条件の愛を示す能力が備わっているという性善説を唱えるでしょう。

もともと無条件の愛とは何かが心の奥底にプログラムされているから、たとえそのような愛を親から示されなかったとしても、自分で自分を愛せるようになるのだと。

この考えは魅力的です。しかしたとえ、わたしたちに無条件の愛を示す「能力」がもともと備わっているのだとしても、その「方法」は学ばなければならないのではないでしょうか。

わたしたちの多くが、別の言語を話すのに必要な能力を持ってはいても、実際に話せるようになるには、話し方を学ばなければならないのと同様です。

愛着の研究によると、 言語も愛着も、子どものころに適切な方法を学ばないと正しいルールを理解するのが難しくなると言われています。いずれにしても、学んだことのない親の愛を、独り手に発揮できるようになるという考えは無理があるように感じます。

はじめは相談者から?

では、ISHのような救済者人格は、どこかの段階で、主人格さえ知らない親の愛を学ぶのでしょうか。

続解離性障害には、解離性同一性障害(DID)の人格の形成過程について、2通りの例が書かれています。

ひとつは、トラウマ体験にショックを受け、主人格が傷ついて内に引きこもらざるを得なくなったため、別人格が急いで表面に作られるという衝撃的な経緯です。

もうひとつは、もっと外傷が不明瞭な場合です。

そしてもうひとつは外傷がより不明確な場合である。

こちらは親との関係で常に自分が理解されず、あるいは無視されていると感じ続けるといった状況をひとつの典型とする。

その場合患者はその深刻な孤独感を体験した際に、自分の心に生まれた新たな人格との対話によりその苦しみを軽減するという経路が考えられる。(p80)

こちらは、おそらくイマジナリーフレンドのような存在から始まり、次第に交代人格として固定していくケースと考えられます。

もちろん、イマジナリーフレンドのうち、交代人格にまで発展するのはわずかだと考えられますが、以前の記事で取り上げたとおり、助け手・補い手・相談者のように役割をもって存在しているイマジナリーフレンドは多いのです。

そうであれば、そうした対話や主人格の悩みを聞く経験を通して、別人格が、徐々に親友や恋人のような良き助言者、支え手として成長していく可能性はあるかもしれません。

親として友として成長していく

たとえ親から適切な愛情の示し方を学ばなかったとしても、だれかを支えたり世話したりする経験を通して、安定した愛情を示す方法を学んでいくという例は、確かに存在するようです。

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書) という本では、愛着の傷を克服する方法として、「役割と責任を持つ」ことが挙げられています。

役割をもつこと、仕事をもつこと、親となって子どもを持つことは、その意味で、どれも愛着障害を乗り越えていくきっかけとなり得るのである。(p295)

愛着障害を克服していく過程でしばしば観察される現象の一つに、自分が親代わりとなって後輩や若い人たちを育てる役割を担うということがある。(p300)

子どものころ愛されなかった人が、自分も悪い親となって子どもを虐待してしまう例もありますが、逆に親になって子どもを育てることで円熟し、愛し方愛され方を学んでいく場合もあるのです。

救済者人格もまた、そのような親に似た仕方で、徐々に円熟して、やがて無条件の愛を示す母親のような人格として完成されるのかもしれません。

それは、この本の中で、「自分で自分の親になる」と表現されているケースに含まれるかもしれません。

親の保護や導きも期待できず、親代わりの存在も身近にいないという場合、愛着障害を克服するための究極の方法は、「自分が自分の親になる」ということである。

…あの人たちを親と思うのはやめよう。その代わりに、自分が自分の親となるのだ。自分が親として自分にどうアドバイスするかを考え、「自分の中の親」と相談しながら生きていこうー。

…「自分が自分の親になる」という考えは、愛着の苦しみを知らない人には突飛なものに思えるだろう。

しかし、親に認められないことで苦しんできた人、安全基地を持たないことには心に訴えるものがあるはずだ。(p299)

ここで論じられているのは、ある程度意識的に、自分で自分の親となることですが、それが無意識のうちに生じることもありえるのではないでしょうか。

別人格だからこそ学べるバランスの取れた愛

「役割と責任を持つ」という点でいえば、救済者人格は、生まれながらに、手のかかる子どものような犠牲者人格を支え、慰め、世話する使命を負っています。

はじめは相談できる友人のような存在かもしれませんが、犠牲者人格を見守り、支え、どんなときも見捨てないで励ます経験を繰り返すうち、まるで本物の母親のような無条件の愛を学ぶのかもしれません。

あくまでメインの人格ではなく、別人格として支えるという立場もまた、当人の意志を尊重し、主体性を奪わない、という意味で、バランスの取れた親として成長しやすい土壌となっている可能性があります。

別人格として後ろからできることには限りがあるため、溺愛したり過保護になったりすることはありえませんし、かといって運命共同体のような立ち位置にいるので、見捨てたり見放したりすることもありえません。

さきほどのAさんとBちゃんで言うと、はじめは、Bちゃんは本当に子どもの別人格でしかなかったのかもしれません。しかし、Aさんを背後から支え見守る経験を繰り返すうちに、ISHのような救済者人格として円熟していった可能性があります。

もちろんこうした考えは推論に過ぎません。しかし、ひとつ確かなのは、メイン人格だけでなく、別人格もまた一人の人間だということです。そうであれば別人格もまた、さまざまな経験を通して、成長していくことができます。

そして、イマジナリーフレンドのように、当人を助け支える使命を生まれつき負っている別人格は、その使命にしたがって成長し、 使命をまっとうする存在として円熟することも十分考えられるのではないでしょうか。

寒色の光には暖色の影ができる

最後に 、ひとつ興味深い話を紹介しましょう。

色の理論で、暖色寒色という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

暖色とは、温かい色みを持つ色のことで、黄色、オレンジ色、赤色などの系統です。寒色とは、冷たい色みを持つ色のことで、水色、青色、紫色などの系統です。

画家のクロード・モネは、色々な物に当たる光と影の表現を観察していて、あるときとても興味深い現象に気づきました。

それは、暖色の光には寒色の影が、寒色の光には暖色の影ができるということです。

たとえば、クロード・モネの積みわらの絵を見ると、暖かい光の影が冷たい色になっていることがわかると思います。

これは色彩や光を理解する上で、とても興味深い現象ですが、人間の場合でも、そのようなところがあるのかもしれません。

冷たい光のもとで凍えながら育った人の影の中に、その人を補い支える、温かい暖色の存在が佇んでいるとしたら?

それがこの記事で取り上げた内的自己救済者(ISH)や守護天使オルファのようなものなのかもしれません。

苦労することもなく幸せな人生を送ってきた人が、人への思いやりや感情移入という点では、嘆かわしいほど冷たい影を落としている場合があります。

しかしそれとは反対に、苦痛に満ちた子ども時代を送ってきた人の中には、温かな思いやりを成長させる人もいます。

もちろん、それは影の中に存在する色みなので、当人でさえ、気づいていない場合もあります。

幸せに育ってきた人たちは、自分には何か欠けているとは考えもしないかもしれませんし、不幸な生い立ちの人もまた、自分の内に温かな可能性があるということにまったく気づいていないかもしれません。

しかしもしその影の中の温かな色みが言葉をもって語りだしたとしたら…?

それこそが、親友・恋人としてのイマジナリーフレンドなのではないでしょうか。

親友・恋人としてのイマジナリーフレンド

柴山雅俊先生は、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)の中で内的自己救済者(ISH)についてこう述べています。

患者の全体と経過をどこかでじっと眼差している存在、それは内的な自己救済者(inner self helper)と呼ばれるが、そのような眼差す者を媒介にして回復していくことはたしかに多い。

…その「私を眼差すしっかりとした存在」というイメージを膨らませていくことが治療的に意義のあることであると感じている。(p215)

内的自己救済者のような温かい影の存在に気づき、その支えを受け入れ、勇気を持って現実に対処できるとしたら、それは大いに望ましいことなのではないか、と思います。

この本によれば、当人が主体性を持って行動し、ISHが背後から見守る助言者としてとどまることができれば、それは理想的な状態だとされています。(p233)

この記事で扱った、内的自己救済者(ISH)のような性質を反映するイマジナリーフレンドが、「イマジナリーフレンドは親友・恋人」と述べる人たちすべてに当てはまるかどうか、わたしにはわかりません。

しかし、その存在の由来について考え、それが単なる空想ではなく、れっきとした成長するひとつの人格であり、救済者なのだと知るなら、新たな見方ができるかもしれません。

解離性同一性障害の治療論によると、交代人格の役割をよく知り、感謝の言葉を伝えるのはとても大切だと言われています。

親友・恋人としてのイマジナリーフレンドに対しても、こうした考察をきっかけに、改めて感謝を伝えるなら、その深い絆がよりいっそう強固なものとなるのではないでしょうか。

▼イマジナリーフレンドについて

このブログでのイマジナリーフレンドに関する記事は以下のカテゴリにまとめられています。

空想の友だち研究 | いつも空が見えるから

解離性障害と芸術的創造性ー空想世界の絵・幻想的な詩・感性豊かな小説を生み出すもの

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解離のある人は、現実との境がわからなくなるほど、空想の世界に深く浸る傾向があります。

たとえば、解離性障害の患者さんは豊かな想像力ゆえに文章や絵画、演劇などの芸術分野が得意で、活躍している人もいます。小さいときから作文が得意だったりします。(p61)

れは、 解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)に書かれている、柴山雅俊先生による、解離性障害の患者たちの印象です。

芸術、特に絵画、小説、詩、演劇などの分野では、豊かな想像力や感受性が求められます。ときにはファンタジーや幻想世界を作り上げたり、そこに没入したりする能力も求められるかもしれません。

そうした豊かな空想力は、解離という脳の機能と密接に関連していると考えられています。解離と聞くと、とかく病的なものと考えがちですが、実は芸術を創造する才能に、大きな役割を果たしています。

解離が芸術的創造性を生み出すのはなぜでしょうか。解離はどのようにして、絵画や作文、詩作、演劇といった芸術の表現に寄与するのでしょうか。一般に創造性と結びつけられることの多い統合失調症や発達障害と、どのように関係しているのでしょうか。

 

解離性障害と芸術的創造性

冒頭に引用した文章と同様、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)には、解離性障害の人たちについてこう書かれています。

彼女たちの空想能力は概して活発である。

学校では国語や美術の成績が優秀であることが多く、とりわけ作文や詩、絵画において秀逸な作品を仕上げる。

それらの作品を仕上げるのにあまり苦労はなく、頭に浮かぶ空想・表象をそのまま文字や画にうつしかえるだけである。(p127)

この観察からは、解離性障害を抱える人たちが、さまざまな芸術の分野に秀でていることが読み取れます。

それはおもに国語における作文や、美術における絵画、さらには演劇といった、言葉や感情を扱うタイプの芸術です。

世の中の人の多くは、作文を書くときに、文章が出てこなくて苦労したり、絵を描くときに何を描いていいのか思いつかなかったり、という経験をしているかと思います。

しかし解離に関わる人たちは、そのような悩みをあまり経験しません。作品を創造するのにたいして苦労することがなく、ただ自分自身の内にある言葉やイメージをそのまま外に表現するだけでいいのです。

なぜ解離性障害の人たちは、このような豊かな表現力や創造性を持っているのでしょうか。その理由を知るには、解離性障害という独特な疾患について少し理解する必要があります。

創造性の源は何か

解離性障害は、精神病性うつ病や統合失調症のような、脳の意図せぬ故障、トラブルが原因の病気ではないと考えられています。むしろ解離性障害は、環境に適応した自然な結果である場合が少なくありません。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)では、解離性障害の原因がこう説明されています。

解離性障害の外傷として特徴的なことは、それらが共通して「安心していられる場所の喪失」に結びついていることである。

本来、そこにしかいられないような場所で、逃避することもできないような状況に立たされ、きわめて不快な圧力や刺激が反復して加えられること。このような場の状況が解離を発生させ、増悪させるのである。

このような状況をもたらす加害者の多くが、親や同級生など、同時に愛着対象として患者が親密さを求める対象でもある。愛着関係における外傷を愛着外傷(attachment trauma)という。(p119)

解離性障害の原因の多くは、「安心していられる場所の喪失」、愛着外傷(attachment trauma)というものであるとされています。

多くの場合、解離性障害を発症する人たちは、子ども時代の辛い経験を持っています。家庭や学校での孤独、緊張した家族関係、両親の不仲・離婚、学校でのいじめ、虐待なとです。

しかし同時に、解離傾向の強さは、生まれつきの性質とも関係していて、解離性障害になるような人たちは、心的外傷を受ける前から、すでに強い解離の特徴を有していることも多いようです。

ですから、解離は一概に孤独で厳しい環境の結果だとはいえず、むしろ、もともとの脳の傾向と環境の両方が関係して生じ、強められるものといえるでしょう。

生まれつきの傾向と環境が絡み合い、徐々に解離の傾向が形づくられていくとき、結果としてどんな特性が生じるのでしょうか。

空想世界の構築

今ある環境が耐え難く、しかもどこにも逃げ場がないとき、人がどのように対処するのか、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にはこう説明されています。

本来そこにしかいられないような場所で、逃避することもできない状況に立たされ、不快な圧力を反復して加えられること、安心できる居場所が与えられないこと、私はこれが解離を引き起こしやすい外傷の一つと先に述べた。

そのような状況では、人はときに現実に立っている場所から離脱し逃避する傾向を育む。

その一つのあり方がウィルソンらの空想傾向であろう。(p121)

つらい状況において、身体的にどこにも逃げ場がないとき、人は空想の世界へと心を逃がそうとします。現実では逃げ場がなくても、空想の世界には居場所があることを発見します。

複雑な家庭環境など、現実に居場所がないと思える状況では、空想をたくましく膨らませ、白昼夢を展開させることにより、孤独や苦痛を紛らわす傾向が育つのです。

こうした構築された空想のファンタジー世界は、パラコズムと呼ばれることがあります。

映像が見える

そのような空想傾向の強い子どもの中には、ありありと映像が見える現象を経験する人もいます。解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にはこう書かれています。

過去の記憶や映像などが自主的に、まるで見えるかのように目の前数十センチのところや頭のなかに浮かんだり、それが次々と展開したりする。

…解離の患者は、幼少時からこの表象幻視を経験していることが多いが、ただその程度が軽く、日常生活にはほとんど支障がない。(p77)

これはもともとの脳の傾向が関係しているのかもしれません。解離傾向のある人たちは、トラウマ経験などに関係なく、生まれつき視覚心象が強い場合があるようです。

加えて、孤独や退屈な環境では、ありありとした映像や幻覚が生じやすいことも確かです。

たとえば見てしまう人びと:幻覚の脳科学によると、独房に長時間入れられた人は幻視を見るようになり、「囚人の映画」と呼ばれています。また変化のない風景を延々と見続けるパイロットやドライバーも、やはり幻を見る危険があります。(p51)

思考がわきでる

さらに、解離が進むと、空想や映像が意識せずに自動的に湧き出るようになる場合があります。解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にはある患者の言葉が書かれています。

すごく空想が出てくる。頭の中にビデオのようにいろんな映像が出てきて収拾がつかない。脈絡なく出てくる。浮かんでくる記憶が本当にあったことなのかわからない。想像が想像を生んでいく。キーワードから映像が膨らんでいく。(p87)

これは「思考促迫」など呼ばれる現象であり、言葉、映像、音などがあふれ、勝手に膨らんでいく状態です。重いものは非常に苦痛を伴いますが、人によって程度はさまざまです。

頭がさわがしい,次々と考えや映像が浮かぶ「思考促迫」とは何かー夏目漱石も経験した創造性の暴走 | いつも空が見えるから

一人でも寂しくない

このような内的世界の広がりは、芸術において大きな才能となる場合があります。

芸術、特に絵画や詩、小説の創作は、たった一人で黙々と自分の内的世界を表現する行為です。孤独に耐えられない人や、内面に表現する材料がない人は長続きしません。

しかし、解離の人たちは、そのような制約がほとんどありません。内側に大きな空想世界を構築しているので、いくら表現を重ねても枯渇することがありません。

さらに、空想世界には、心地よい場所や空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)などが存在することもあり、孤独をほとんど感じません。続解離性障害では解離の人たちの精神世界についてこう書かれています。

典型的な解離の人は、ひとりでいることは寂しくなく、なぜならもう自分たちは複数だからと言います。「何々ちゃんがいるから全然寂しくないもの」(p207)

病気と健康の境目

もちろん、解離性障害は、苦痛を伴う深刻な病気です。重い解離性障害、解離性人格障害は、創造力豊かといった言葉で片付けられるようなものではなく、日常生活さえままならない状態です。

しかしすでに述べたように「解離」とは本来、脳のトラブルや障害ではありません。「解離」は、心を守る働きの一つであり、それが過剰に働き過ぎたときに病気となるのであって、コントロールできる範囲であれば、才能とみなせることさえあるのです。

すでに解離性障害と診断され、病的な症状と闘っている人の場合でも、暴走する創造性を芸術などで表現する方向へ向けることで、病気が才能へと変化していくこともあります。解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論にはこうあります。

また患者は言語化を含め、自らの心を表現することに困難があるため、絵画や詩などさまざまな手段で自己を表現できるようにすることも効果的である。

解離の患者は文学や美術など芸術的センスに恵まれていることが多い。(p198)

逆に、芸術として表現することで心の安定を得ていた人が、創作を制限されたことをきっかけに、病的な解離に陥ってしまうこともあるようです。

このように、解離傾向の強い人たちは、子どものころから、大きな空想世界を抱え持っているだけでなく、その世界は日に日に深みを増していきます。

普通の人が、いざ何かを創作しようとして空想を思い巡らしても、解離傾向の強い人たちが幼少時から組み立ててきた世界の深さには到底及びもつきません。

そのような累々と内面に降り積もった地層こそが、解離の人たちが芸術に創造性を発揮できるゆえんであり、絵画や小説といった作品の源となっているのです。

解離傾向が役立つ4つの分野

続く部分では、解離傾向の強い人が芸術的創造性を発揮しやすい分野を一つずつ見てみましょう。それは、「絵画」「小説」「詩作」「演劇」です。

解離と絵画的才能

解離傾向の強いの人は、すでに述べたように、美術や絵画に才能を持ち合わせていることが多いと言われています。

内的な空想世界(パラコズム)や、視覚イメージの浮かびやすさ、一人でいても寂しくない充足感などは、絵画の制作にうってつけの才能です。

解離と絵画的才能の関係を知るのに良い例が、 生きていく絵という本に乗せられています。

この本では、精神病院の絵画教室に通う一人の女性について『「異なる世界」を、一枚の紙と一本の鉛筆を使って、どんな哲学者の言葉よりも鮮やかに描きだす人』と紹介されています。(p135)

その女性、20代の実月さん(仮名)は、統合失調症や摂食障害と診断されているそうです。しかし、少なくともこの本の記述の範囲からは、解離性障害であると考える余地がありそうです。

実月さんは、「距離のない親子関係」「大人の悩みを聞かされる子」「常に誰かと比較されてきた」といった背景を持ち合わせていますが、これは解離性障害の人によくあるものです。(p147-149)

芸術の創造性を考えるとき、統合失調症と解離性障害を区別したほうがいい理由については、この記事の後の部分で説明します。

この本によると、実月さんの創作スタイルは次のようなものだと紹介されています。

実月さんは、何か具体的な対象物を写生するというよりも、むしろ無心に近い状態で、手の動くままに鉛筆を走らせていきます。

人物、草花、木、鳥、家、道、電車などの図像が頻繁に登場するのですが、本人は「絵を描いている最中は何も考えていない」「特に具体的なテーマを持って描いているわけではない」と言っています。(p139)

これまでのところで、解離の人たちは、作文や絵画を創ることにあまり苦労せず、思い浮かんだものを描き写すだけで表現できるという点を取り上げましたが、実月さんの描き方もそれとよく似ています。

この本には実月さんの絵が幾つか載せられていますが、どれも情感のこもった深い表現が特徴で、筆者が「異なる世界」を鮮やかに描きだすと評していることにも納得がいきます。

さらに、実月さんの絵について、こう書かれています。

実月さんは、〈造形教室〉に通うようになってから、すでに数千枚に及ぶ絵を描いていますが、それらの絵を通時的に見直すと、彼女の心がどのような道のりをあゆんできたのかがとてもよくわかります。

衝動的に塗りつぶされるばかりだった絵が、一つひとつの図像の「輪郭」が立ち上がり、描かれる人物の表情も豊かになっていく。(p155)

たった6年ほどの間に、数千枚もの絵を描いたということから、いかに内面に表現するものが豊かに存在しているかがうかがえます。

そして、絵を描くことがいわゆるアートセラピーのように、心を癒やし、整える働きを果たしていることもわかります。

絵を描く解離の人たちの多くは、それが一種の癒やし行為として、自分に不可欠なものだと考えています。だれかに認めてもらうためではなく、自分の心の安定のために創作するからこそ、絵は深みを伴い、創作枚数も多くなるのです。

また、解離が生み出す空想的世界の例は、アニメーター宮﨑駿の創る世界観に見られます。

たとえば千と千尋の神隠しの「神隠し」は、日本に古くから存在していた現象ですが、解離性遁走や解離性健忘のことであるという説が有力です。子どものときにのみ見えるトトロはイマジナリーコンパニオンだと考えられます。

宮﨑駿は解離性障害ではないとはいえ、どこか解離的な創造性を持ち合わせたクリエイターなのかもしれません。

解離と文学的才能

解離の創造性を語るとき、決して欠かせないのが、文学的才能を発揮する人たちの存在です。

愛着障害 子ども時代を引きずる人々という本によると、文学作家の中には、幼年期の愛着の傷を抱え持ち、むしろそれを原動力として創作した人が非常に多いとされています。

文学や芸術を創造する「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」 | いつも空が見えるから

小説を書くときに解離傾向が創造性となるのは、一つには空想世界が膨らみやすい、ということが関係していますが、それ以上に関係するのが、他者の気持ちに非常に敏感、という傾向です。

解離傾向の強い人たちは、幼いときから緊張した家庭などで育ってきた場合が多く、場を和めるために、空気を読み、まわりの人の気持ちに配慮することが欠かせませんでした。

そのため、他人の気持ちを想像し、空気を読み過ぎる「過剰同調性」に陥ってしまう人もいます。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か | いつも空が見えるから

しかし、他の人の気持ちに配慮する繊細さは、少なくとも小説を書く場合には才能となりえます。登場人物の心情を巧みに生き生きと表現できるからです。

哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)には興味深い調査について書かれています。

マージョリー・テイラーは、子どもが空想の人物を生み出す能力と、大人が反事実からできている架空の世界を創作する能力、つまり小説家や劇作家、シナリオライター、役者、映画監督がもつような能力には関連性があることに気がつきました。

…テイラーは、文学賞を受けた作家から熱心なアマチュアまで、小説家を自認する50人について調査を行いました。

…興味深いのは、約半数は幼児期の空想の友だちを覚えていて、その特徴もいくらか答えられたことです。

対照的なのは一般の高校生で、幼い頃は多くが空想の友だちをもっていたのでしょうが、今もそれを覚えていると答えた生徒はごくわずかでした。(p92-93)

この調査によると、小説家たちは、空想の友だち(イマジナリーコンパニオン:IC)と呼ばれる存在に親しみがありました。ICとは、現実の人物と同じほどしっかりした人格を持った想像の他者のことをいいます。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)によれば、ICの存在は解離傾向と関係しています。

解離性同一性障害の患者では約60%の患者にICがみられたという報告があるが、これは一般の二倍の頻度である。(p128)

ICは子ども時代には普遍的な現象であり、ほとんどは精神的な問題と関係しません。しかし先ほどの調査における小説家たちのように、ICとの関わりが一般の人たちより深い場合は、解離傾向が強いとみなせるかもしれません。

哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)では、ICが生まれる理由についてこのように書かれています。

空想の友だちのいる子は周囲世界の人たちのことを人一倍気にするので、「いない人」のことまで考えてしまうのかもしれません。(p89)

「いない人」のことまで考える。これこそ、小説家の創作にとって、最も重要なポイントではないでしょうか。

わかりやすい「解離性障害」入門という本によると、近代文学に解離性障害らしき登場人物が出てくる例はいくつもあります。

近代文学では『田園の憂鬱』(佐藤春夫)、『二つの手紙』(芥川龍之介)、『Kの昇天―或はKの溺死』(梶井基次郎)などに解離性障害らしき人物が記述されています。(p273)

これらの場合、作家はちゃっかり、自分自身の経験を小説に織り交ぜて書いていたのかもしれません。このうち、芥川龍之介については、統合失調症との違いについての項でも取り上げます。

また稀有な女性作家であるヴァージニア・ウルフは、心的外傷の後遺症から解離性障害と似た症状を抱えていて、それが文学的独創性に関わっていた可能性があります。

天才とは10代の脳の可塑性を持ったまま大人になった人? 創造性ともろさが隣り合わせ | いつも空が見えるから

解離と詩作の才能

続く分野は詩作です。

詩はファンタジーや幻想といった分野と馴染みが深い芸術です。詩人の中には、違法薬物を常用して、わざと幻覚を生じさせていた人もいます。

しかし解離傾向の強い詩人の場合は、薬物などに頼らずとも、幻覚などの不思議な現象を経験することがよくあります。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)では、そのような詩人の一人として、宮沢賢治が紹介されています。

賢治の作品は難解であるといわれるが、心の舞台に浮かんだ現象をそのまま描写したものである。このことは賢治が何度も強調しているとおりである。(p161)

宮沢賢治というと夢の世界のような不思議で幻想的な表現で知られていますが、それは賢治が一から考えだしたものではなく、むしろ自分の体験をそのまま言葉として紡いだものだったといいます。

解離性障害の人たちの日常は、現実と夢との境目があやふやになっている状態だと表現されます。解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論にはこうあります。

解離の病態は覚醒を夢の方向へ引き寄せ、夢を覚醒の方向に引き寄せていると考えられる。入眠時体験において解離の病態はもっとも顕著に現われる。(p161)

わたしたちは、眠りにおちるときに幻覚を見たり、夢の中で不思議な経験をしたりします。そのような幻想が日常に入り込んでくる状態が解離であり、解離傾向の強い人たちは、起きながら夢のような幻覚を見たり、浮遊感を感じたりすることがあります。

宮沢賢治は、解離性障害と診断されるほど病的な解離は経験しなかったようです。しかし、妹の死などの影響で、解離傾向が強く育ち、その独特な感性を詩作に活かしていたと推察されています。

現代の解離傾向のある人たちは、賢治の世界観に惹かれると言われますが、どこか似ている部分を感じ取るのかもしれません。

解離の患者でもその多くが賢治の作品に惹かれ、愛読している。彼女たちはどこか賢治の体験と共鳴しているところがあるのだろう。(p164)

解離と演劇の才能

最後に、解離傾向の強い人は、演劇の才能も持ち合わせていることがあります。解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にはこうあります。

解離患者が演劇の経験があることは多いが、これは目立ちたがりや派手好みと関係するよりも、幻想的世界へ容易に入り込むことができるある種の能力の結果でもある。(p109)

解離傾向の強い人は、生き生きとして空想世界を構築し、そこに没入しがちです。それと同じように、演劇の登場人物になりきったり、世界観に浸ったりすることができるのだと思われます。

解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論にもこう書かれています。

解離患者は幼少時から頭の中にあたかも知覚的イメージが湧出する「表象幻視」や「持続的空想」を経験していることが多い。

彼らはこのようなありありとした表象の中へと容易に没入する傾向がある。

読書でも映画でもテレビでも、その物語の中へ容易に入り込んで、その中の自分に成りきってしまう。(p203)

こうした没入傾向を持つため、登場人物になりきった迫真の演技が生まれ、優れた役者として活躍している人も多いのかもしれません。

統合失調症の創造性との違い

ここまで、解離と関わるさまざまな創造性について考えてきましたが、このような創造性は、資料によっては統合失調症に基づくとされている場合があります。

確かに統合失調症と創造性には深いかかわりがあるようですが、文学や絵画などの創造性を発揮した人たちが統合失調症であったと考えるのは早計です。

天才の脳科学―創造性はいかに創られるか という本にはこう書かれています。

芸術的な創造性と気分障害の関連を支持する証拠はきわめて強いが、統合失調症との関連は見られない。

芸術的な創造性、ことに文芸に関する創造性はその性質上、統合失調症のように発病すると社会的に身を引いてしまい、認知に混乱を生ずる病気とは相容れないのだろう。

小説や劇を執筆する活動は長時間にわたる注意力の維持を求めるし、計画、執筆、書き直しをする一年とか二年といった長期間にわたって、一群の複雑な登場人物の性格や話の筋を頭の中に把握しつづける能力も必要だ。このような長期的な集中は、統合失調症の人にはきわめて困難である。(p144)

この本では、科学における創造性はともかく、芸術、とくに文芸においては統合失調症との関連は見られないという調査結果が出たことが紹介されています。

芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察でも、統合失調症では、芸術作品に対して注意を維持し、同じペースで熟慮しながら創作を続けることは難しいとされています(p87)

統合失調症の妄想には柔軟性がない

日本では、たとえば、前述の芥川龍之介夏目漱石が統合失調症だった可能性が指摘されます。しかし、実際に作家たちについてよく調べると、統合失調症らしからぬ特徴を備えていることが少なくありません。

統合失調症の特徴は、頑固な妄想や、(あまり望ましくない表現ですが)人格の荒廃と呼ばれる荒唐無稽な混乱状態です。上に引用した文中では、「認知に混乱を生ずる病気」とされています。

しかし夏目漱石や芥川龍之介といった作家たちは、その小説を見ればよくわかるとおり、正気を保っており、複雑な文学作品を構築する能力も持ち合わせていました。

解離性障害―多重人格の理解と治療によると、精神科医の岡野憲一郎先生は、解離性障害と統合失調症は一見似ているように思えるが、その性質は決定的に異なるとしています。

DIDにおける独特な思考や体験には、…「解離の創造性」が深く発揮され、その点がschizpohrenia等における病的な妄想と決定的に異なるのである。(p83)

この文中のDIDとは解離性障害の一種の解離性同一性障害のことで、schizpohreniaとは統合失調症のことです。

解離性障害の空想や、解離性同一性障害の別人格も、一種の妄想といえば妄想ですが、それらはとても現実的で、空想世界はどんどん深みを増していきますし、別人格も成長していきます。

ところが統合失調症の妄想はそうではないといいます。

…schizpohreniaにおける妄想について、ブラックウッド(Blackwood N.J.2001)は、その特徴を、あたかも患者にとって「結論が最初からあり、それに飛びつく」ことで生まれると説明する。

すなわちその思考の行き着く先は最初から定められ、…その内容はおおむね画一的であり、「解離性の妄想」に見られる溢れるばかりの創造性とは好対照を成すことになる。(p90-91)

統合失調症の妄想の内容は固定されていて、変化や発展性がないのだそうです。常に同じようなことを気にかけていて、だれがなんと言おうとそれを信じこみ、思い込みます。

こうした思考の柔軟性の有無は、解離性障害と統合失調症を見分ける大きなポイントだと言われています。

芥川龍之介は統合失調症?

芸術療法 (補完・代替医療)という本では、芥川龍之介は統合失調症の作家として紹介されています。

しかし35歳で自殺するまで、「健康な自我機能が残存して」いて、「人格の解体」も生じていなかったことから、統合失調症の「前駆期」だったと結論されています。

ところが、このような従来、統合失調症の前駆症状とされてきたものは、実は本来は解離性障害であることが多く、統合失調症へと進行したりはしないことが、最近の研究からわかっています。

芥川龍之介の場合、母親が幼少期に亡くなるなど、愛着外傷の存在が明らかなので、彼の病気は、統合失調症ではなく、解離性障害だった可能性が十分考えられます。

芥川龍之介の作品には、すでに述べた「二つの手紙」をはじめ、「影」における自己像幻視、「奇妙な再会」における幻聴や幻視など、解離性障害の体験をもとに書かれたと思われる表現が多く含まれています。

自殺する少し前に描いた「河童」は、妄想的な狂気が感じられますが、実際には現実に対する皮肉としての意味をこめてあり、妄想を妄想と承知した上で書かれています。

統合失調症の人が、自分の妄想について、それが妄想であると気づくことができず信じ込んでしまうのに対し、解離性障害の人は、それが自分の空想にすぎないことを理解できる、ということからして、やはり統合失調症らしくないといえます。

もちろん、統合失調症が創造性と関係している場合も、中には存在すると考えられます。この本では、さらに画家のムンクが被害妄想などの形跡から統合失調症であったと推測されています。

しかし一般に統合失調症の芸術家とされる人たちが本当にそうであるのかどうかは、その人について深く知らない限り、なかなか判断できるものではないと思います。

統合失調症と解離性障害の違いについて詳しくは以下の記事をご覧ください。

統合失調症と解離性障害の6つの違い―幻聴だけで誤診されがち | いつも空が見えるから

発達障害との関わり

統合失調症とみなされてきた芸術家の中には、ほかに、たとえば、画家のフィンセント・ファン・ゴッホがいます。

しかし、彼の創造性は統合失調症と誤認されやすい発達障害のアスペルガー症候群と関係していた可能性があります。解離は発達障害とも深く関係しているとされています。

アスペルガー症候群の人は、強い解離傾向を持ちやすいことが知られていて、解離性障害と診断される場合も少なくないようです。

アスペルガーの解離と一般的な解離性障害の7つの違い―定型発達とは治療も異なる | いつも空が見えるから

アスペルガー症候群の人はまた、独特のファンタジー世界を持っていたり、映像が浮かぶ視覚的思考を持ち合わせていたりすることも多く、解離の創造性との親和性がうかがえます。

ギフテッドー天才の育て方 (学研のヒューマンケアブックス)という本の中で、児童精神科医の杉山登志郎先生は、すでに述べた天才の脳科学―創造性はいかに創られるかの研究に触れて、創造性に関係する傾向は統合失調症ではなく発達障害ではないかと書かれています。

創造的な人は心の断崖のふちに立っている―「天才の脳科学」(追記あり) | いつも空が見えるから

解離性障害、統合失調症、アスペルガー症候群は類似している部分も多く、まったく別のものなのか、それともどこかで一続きになっている連続性のあるものなのか、ということは、今後の研究を待つ必要がありそうです。

病気にもなれば創造性にもなる不思議な解離

このように、芸術における創造性には、解離と呼ばれる脳の機能が深く関係しています。

解離しやすい傾向の原因にはいろいろあり、幼少期の愛着外傷という環境要因が影響している場合もあれば、発達障害という遺伝要因が根底にあることもあるでしょう。何が原因となっているかは人によってさまざまです。

重要なのは、いずれの才能を発揮してる芸術家にしても、「病気が絵を描いている」わけではないということです。

確かにそれらの芸術家の創造性には、不幸な生い立ちによる解離や、発達障害の傾向が関連しているのかもしれません。

しかしそれらの性質をうまくコントロールし、障害ではなく才能として活かすことができることには、その人たち自身の強い意志や知力、そして周囲の人たちの温かい支えが関係しているのです。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)には、宮沢賢治が強い解離傾向を示しながらも、優れた詩人として大成できた理由についてこう書かれています。

賢治が精神的に不安定になったり、社会生活上大きな破綻がみられたりすることがなかったことは、周囲の人に恵まれていたこと、知能や創造性に溢れていたこと、強い意志を持っていたことなどが関係していたであろう。(p186)

解離は、病気としての負の側面だけでなく、創造性としての正の側面をあわせもつ不思議な現象です。障害ともなれば才能ともなりえます。

何らかの事情により強い解離傾向を持ち合わせている人は、病としての解離だけでなく、創造性としての解離を理解するなら、きっと自身について新たな観点から考えられるようになるでしょう。

解離性同一性障害(DID)の尊厳と人権―別人格はそれぞれ一個の人間として扱われるべきか

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多重人格ないしはDIDの状態にある患者との日常的な臨床で、私は日々認識を新たにしていることがある。

それは彼女たちの持っている交代人格たちは別人どうしであり、それぞれが一人の人間として認めてほしいと切実に願っているということだ。

このことに関しては、私はあまり例外を経験していないし、それを彼女たちにとって正当な要求であると感じる。(p3)

史上、女性の人権や子どもの人権、難病患者の尊厳など、さまざまなケースにおいて、人が人として扱われる当たり前の権利が主張されてきました。

しかしその中でもとりわけ異質に思える、そして大半の人が考えたこともないような権利があります。

それは多重人格(解離性同一性障害:DID)の人が持つ別人格は、一人の人間として扱われるに値するのかどうか、という問題です。

解離性同一性障害は、一般に、「一人の人が複数の人格を持っている」と思われがちですが、当人たちの認識では「複数の別人が一つの体を共有している」というほうが近いでしょう。

本質的に「一人の人」なのか「複数の別人」なのか。もし後者であれば、一つ一つの人格それぞれが、ひとりの人間として尊厳を持って扱われるべきではないでしょうか。

この非常に難解な問題について、続解離性障害などの本から考えてみたいと思います。解離性同一性障害(DID)に加え、やはり複数の別人が一つの体を共有するイマジナリーフレンド(IF)保持者のことも少し扱います。

これはどんな本?

今回おもに参考にした本は、解離性障害の専門家、岡野憲一郎先生の続解離性障害です。解離性同一性障害(DID)を取り巻くプライバシーの権利など、微妙な問題にも踏み込んだ論議が展開されています。

そのほか柴山雅俊先生の解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論や、杉山登志郎先生の講座 子ども虐待への新たなケア (学研のヒューマンケアブックス)なども参考にしていますが、いずれも、解離の別人格に対して真摯に対応しておられる先生方です。

解離性同一性障害とは何か、という点については以前のエントリをご覧ください。

多重人格の原因がよくわかる7つのたとえ話と治療法―解離性同一性障害(DID)とは何か | いつも空が見えるから

ひとつの体にひとつの尊厳なのか

そもそも、多くの人にとって、一人の人間に複数の尊厳がある、ということ自体がナンセンスに思えるかもしれません。

多くの医師をはじめ、家族や友人などの中にも、解離性同一性障害の別人格には取り合わないことにしている人は少なくありません。たとえ別人格が出てきても、いつもの名前を呼び、いつものように接しようとします。

体が一つである以上、心も一つであり、たとえ解離性同一性障害などと診断されようが、単に時々「別人のように」なるだけだろうと考えます。見かけ上、複数の人間に見えても、おおもとは一人にすぎないという意見は至極まっとうに思えます。

しかし本当にそうでしょうか。

一つの体に複数の心

わたしたちは、体が一つでも、心は複数である、という実例をよく知っています。

続解離性障害の説明を見てみましょう。

両者の間に健忘障壁が明確な形では存在しないことも多い。

しかしそれでもA、Bは別人である。それはたとえばシャム双生児が持つ体験に類似している。

体を共有する2つの人格は、明らかに別々の体験を持ち、他人同士である。

しかしただひとつの身体を共有するという運命を逃れることができない。

だからこそ、意見の対立やさまざまな葛藤が生じることになる。(p165)

シャム双生児(結合双生児)は、二人の人が、一つの体を共有して生まれてしまった奇形です。 日本では、ベトナム生まれのベトちゃんドクちゃんで有名になりました。

どの部分が結合しているかはケース・バイ・ケースですが、共通しているのは一つの体を二人の人が共有しているという点です。

結合双生児が一つの体を共有しているからといって、本質的に一人の人間などという人はまずいないでしょう。二人は別個の人格であり、それぞれが尊厳をもって扱われるべきだと考えるはずです。

解離性同一性障害(DID)の複数の人格も、まさにこれと似たような状況にあります。

でも、ある人たちはこう言うでしょう。確かにシャム双生児の場合は、二人の人だ。心の源である脳が二つあるのだから。しかし多重人格の場合は脳は一つだけだ。脳が一つなのだから、本質的に一人だ。

本当にそうでしょうか。

一つの脳に複数の心

一つの脳でありながら、複数の人格が存在しうる、という点は、脳の右半球と左半球をつなぐ脳梁を切断した、両断脳患者において実証されています。このような手術は難治性てんかん患者に施されることがあります。

プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちにはこう書かれています。

脳梁のおかげで私たちは自分が単一の存在だと信じているが、じつはすべての私は複数である。

両断脳の患者は、私たちの内部にはさまざまな精神があることの生きた証拠である。脳梁が切断されると、たちまち複数の自己が解放される。

…別の患者は、左手で服を着たのに、右手がさっさと服を脱がせた。

さらに別の患者の左手は妻に対して粗暴だった。妻を愛していたのは彼の右手(および左脳)だけだったのだ。(p264)

脳の左脳と右脳をつなぐ脳梁を切断すると、それぞれの脳は同じ体を通してつながっているにもかかわらず、別々の人格を呈します。

両断脳患者の特異な経験が明らかにするのは、脳が一つであっても、人格は一つとは限らないということです。

わたしたちが一つの脳にひとつの人格が宿ると考えているのは、脳の全体の活動がひとつにまとめ上げられているからです。しかし、何らかの事情で脳内が区切られ、統合されなくなれば、複数の人格が同時に現われることもあるのです。

結合双生児や両断脳の人たちの経験は、ひとつの体、ひとつの脳だからといって人格はひとつであるとは限らず、それぞれに尊厳が認められるべきではないか、という問題提起を強く擁護しています。

「メインの人格」にだけ尊厳があるのか

けれども、ある人たちは、こう考えるかもしれません。

解離性同一性障害(DID)の多重人格者であっても、もともとは一つの人格だったはずだろう。

ふだん表にいるメインの人格(主人格)こそが本体であり、そのほかの人格は、メインの人格が作り出した妄想のようなものではないだろうか。

しかし、物事はやはり、そう単純ではないのです。

ふだん表にいる人格が本人とは限らない

わかりやすい「解離性障害」入門という本には、精神科を受診したサキさんという方のエピソードが書かれています。

サキさんは、ひどい抑うつ気分や慢性疲労に悩んでいる20代前半の女性で、家族の話によると、ときどき別人のようになるとのことで、解離性同一性障害が疑われました。

しかし心理面接では、ほとんど問いかけに答えず、体調不良を理由に予約をキャンセルすることも多く、治療は遅々として進まなかったそうです。

ところがあるとき、別人のような態度で面接に現れ、不思議に思った心理士が名前を尋ねてみると、その人は「ミキ」と名乗りました。道中でサキさんの具合があまりに悪くなったので交代したとのことでした。

そのミキさんは、ほかにも交代人格がいることを教えてくれて、中でもそれらを統率しているのは「ユキ」という女性だと告げたそうです。

その後のセッションでサキさんにユキさんのことを尋ねても、わからないような様子で謎が深まりましたが、しばらくして…

その次のセッションでは、全体を統率しているというユキさんが現れました。ユキさんはそれまでの主人格のサキさんより年上で、しっかりとした頭の回転の速い女性でした。(p260)

ずっと表に現れなかった別人格のユキさんがようやく姿を見せました。主人格のサキさんとはまったく違う雰囲気の女性でした。

そして治療を進めるうちに衝撃的なことが明らかになります。

ユキさんと話し合ううちに、ユキさんは、実は最初から基本人格として存在しており、つらい記憶を引き受けるために生まれた交代人格に新たに「サキ」という名前を譲り、自分は新しい「ユキ」という名前を持つようになったという経緯もわかってきました。(p263)

なんと、ユキさんこそが、最初に存在した基本人格だったのです。ふだん表にいたサキさんは、戸籍名を名乗っていましたが、実際には別人格だったということになります。

「奥の方でずっと眠っている」

この例のような、ふだん表にいるメインの主人格が、もともとの基本人格ではない、というケースは、重度の解離性同一性障害では決して珍しくないそうです。

解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論にはこう書かれています。

もっとも重度になると、複数の交代人格がほとんど途切れることなく現れて日常生活を送っており、本来の人格はほとんど現れなくなってしまう。

…あらためて本来の人格はどこにいるのかと訊くと、患者は「数年前から奥の方でずっと眠っている」と答える。(p137)

そのようになる理由は、交代人格が形成されるプロセスと密接に関係しています。

他者から虐待を受けた犠牲者(victim)人格は現実世界に安心できる居場所を持つことができず、断片化しつつ前面から背後へと移行する。これが交代人格の系譜の始まりである。(p141)

犠牲者人格はそもそも外傷を身に受けた人格である。普段は背後にいるが、前面の人格が危機に瀕した時に交代して現れることが多い。(p142)

解離性同一性障害の交代人格が生まれるとき、もともといた基本人格は内側に引きこもってしまい、別人格が表に出てくる場合が少なくないのです。

続解離性障害には、もっとわかりやすい表現で、こう書かれていました。

ある患者は親からの虐待を受けた際に、その苦痛と恐怖のために「内側に急いで入り、ふたを閉めて閉じこもった」と表現した。

そしてその際に「ほかの誰か」が外の状況を処理する必要が生じ、新たな人格が形成されたという。(p90)

こうした事例からすると、ふだん表に出ているメイン人格、すなわち主人格が、もともとの当人とは限りません。

そうすると、もし、医師や家族が、別人格は主人格の生み出した空想だと考えて、まともにとりあわないとしたらどうなるでしょうか。

皮肉なことに、空想だと思っている交代人格に対しては人間らしく扱っているのに、その人本来の基本人格、つまり生まれたときからの人格に対しては尊厳を認めず、まるで作りごとのように扱ってしまうことになります。

それはまさに、解離性同一性障害の患者が経験してきた、存在を否定されるという辛いトラウマ体験の再現となってしまいます。

家族であれ、治療者であれ、解離性同一性障害の患者の別人格の尊厳を認めないなら、彼ら/彼女らが過去に受けた仕打ち、すなわち存在を認められず、無視され、虐待され、ネグレクトされた記憶を、再び繰り返すも同然になってしまうのです。

「生まれたときからいる」

さらに、もう一つ考えなければならないのは、そもそも、生まれた時から存在する基本人格と、外傷体験をきっかけに作られた交代人格、という分類が正しくないことさえあるかもしれない、という点です。

解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論には、解離性同一性障害のKさんの症例についてこう書かれていました。

七月のある日の外来面接で「名前がわからない人格」が出現した。

「小さい頃はKも色々できたし、助ける必要もなかった。最近Kは力が出ない。私はたぶん生まれたときからいる。

…私には主人のことが好きとか嫌いとかの感情はない。主人のことが好きなのは私ではなくKなんです」(p77)

この場合 、主人格とおぼしきKさんとは別に、いつも「名前がわからない人格」が存在していました。この人格は「たぶん生まれたときからいる」と述べています。

さらに、二人の考えや好みは一致しているわけではなく、あくまで、体のコントロールを有しているKさんの人格が夫のことを好きなだけであって、もう一人のほうは特にそう思っていないことがわかります。

先ほど考えた結合双生児の二人は、どちらがメインの基本人格だとかいうことはありえません。二人は生まれたときから一緒にいました。そして好みや考えもそれぞれ異なりました。

あたかもそれと同じように、生まれたときから複数の人格が一緒に存在している場合があるとしても不思議ではありません。

解離性同一性障害をはじめ、解離性障害は、トラウマ経験などによってのみ発症するものありません。患者は、幼少時から強い解離傾向を持っていたことがしばしばです。

すると、外傷が先にあって人格の解離が起こったわけではなく、もともと複数の人格を抱え持つ強い解離傾向があって、それが外傷体験をきっかけに表面化しただけかもしれません。

そういえる一つの理由は、解離性障害の患者の多くが、幼少時から大人になるまで、ずっとイマジナリーコンパニオン(イマジナリーフレンド/空想の友だち)という形態の別人格を有していることです。

イマジナリーフレンド(IF) 実在する特別な存在をめぐる4つの考察 | いつも空が見えるから

物心ついたときから、つまり外傷体験に至る前から、日常的に幻聴を聞いている人もいます。それらは、統合失調症の幻聴とは異なり、別人格の声だと思われます。

生まれたときから、複数の人格が存在しているのだとしたら、だれがメインの人格で、だれが作り物で、といったことは議論する意味がありません。

たまたま、複数の人格が、一つの体に宿って生まれてきた、という可能性も考えなければなりません。

人格とは何か

ここまでくると、そもそも「人格」とは何なのか、という根本的な話とも向き合わざるを得ないでしょう。

わたしたちの多くは、人格とは一つであり、自己は一人である、と考えていますが、人格や自己を何が生み出しているのか、ということはわかっていません。

脳を調べても、ある神経細胞の塊が人格の源である、というような場所は見つかっていないのです。原子や分子からなる脳の電気的活動が、なぜ自分という意識を生むのか、というのは科学における難問です。

しかし、おそらくは意識とは夢や幻想のようなものではないか、と考えられていて、プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちにはこう書かれています。

精神は分断されており、私たちはその分断を本能的に言い逃れる、というスペリーとガザニガの発見は、神経科学に大きな衝撃を与えた。

意識は脳全体の雑音から生まれるのであって、脳の無数の部分の一つから生まれるのではないという考え方に、科学は初めて直面させられた。

スペリーによれば、私たちの統一感は「心がつくった作り話」である。(p265)

自己という統一感は「心がつくった作り話」とはどういうことでしょうか。

たとえば絵本「スイミー」では、小さな魚たちが集まって、ひとつの大きな魚のように見せかけます。

同様に、脳全体の無数の神経細胞の発火が一つの絵を描き出し、それが見かけ上、「自己」という大きな不変のものに見えます。

続解離性障害では、わたしたちの意識は、トップダウンではなく、ボトムアップのシステムではないか、とみなす考え方が紹介されています。(p134)

この考え方によれば、わたしたちの意識には、全体を統率する、トップダウンの司令官のようなものはありません。実際、そのような場所は脳に存在しません。

そうではなく、小さな無数の神経活動がより集まって、ボトムアップの仕方で、あたかも一つの人格、一つの自己のようなものを作り出しているのです。

これは、自然界にもしばしばみられる群知能システムと似ています。単純な個体が集まると、全体として高度な知能を持つかのように振る舞うのです。

人間の自己、人格といったものも、無数の神経細胞が寄り集まって見ている夢や蜃気楼のようなものなのかもしれません。

「一つの不変の自己」などない

それでも、わたしたちのうちの多くは、自分の自己は確固たるものだと考えています。それぞれが自分のアイデンティティを持っています。それはなぜでしょうか。

もし人格や自己が無数のニューロンによって生み出される夢であるなら、神経細胞は、日に日に入れ替わっていますから、「夢」である自己の内容もどんどん変わるはずです。

しかしわたしたちがそれに気づかず、自分の人格は一つだと考えているのは、大人になってからの脳の可塑性は緩やかであり、徐々に連続的に変化しているからです。

以前テレビ番組で、画像を見続けて途中でどこが変わったかを問われても分からない実験が流行りましたが、そうした「チェンジ・ブラインドネス」現象と同様です。

しかしもし10年前の自分の人格と、今の自分の人格を即座に比べることができれば、きっと別人みたいだと感じるはずです。

そうした10年前の自分のような人格が、突然時間を超えて出てくるのが解離性同一性障害と考えられます。

本来なら、何十年もかけてゆっくり変化するために気づかれない人格の変化が、わずか一種で切り替わるために、異様に思えるのです。

結局のところ、だれも一つの不変の自己を持っている人はいません。人間の脳には死ぬまで可塑性が備わっていて、流れる川のように、人格は絶えず変化しつづけています。

どんな人でも、もし10年前の自分に時間を超えて会うことができたら、一人の人間として、敬意を込めて接してあげたいと思うことでしょう。

そうであれば、一瞬のうちに時間を超えているかのように切り替わる解離性同一性障害の人格交代にも、同じように尊厳を認めて接するべきではないでしょうか。

すべての人格の尊厳を認める自我状態療法

解離性同一性障害の治療では、まさにそのような、すべての人格の尊厳を認め、一人の人間として扱う治療が功を奏するといいます。

その治療とは、このブログでも何度か取り上げてきた「自我状態療法」です。

トラウマを治療する自我状態療法「会議室テクニック」 | いつも空が見えるから

「自我状態療法」は、セラピストのもとで、すべての人格に集まってもらい、互いのわだかまりを解消していく、一種のグループセッションです。

普通のグループセッションと異なるのは、参加する複数の人たちが、数奇な運命のもと、一つの体を共有しているという点です。

どの個人も、目に見える外見という点では同じ一人の人間ですが、セラピストは、それぞれの人格に対し、別々の個人として尊厳を認めて接します。

自我状態療法について説明した、図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法という本にはあるケースについてこう書かれています。

マリアンヌの答えは「6歳の私がいます、とても悲しそう」というものだった。

そこで私は言った。「来てくれてありがとう、お嬢ちゃん。あなたがマリアンヌに知らせたいことはなに? いまならみんながあなたの話を聞きますよ」(p85)

セラピストは、6歳のマリアンヌに対して、初めて会うかのように丁寧に挨拶しています。

自我状態療法について説明した別の本、講座 子ども虐待への新たなケア (学研のヒューマンケアブックス)にも実際の症例が載せられていますが、その際にこう書かれています。

なお症例は、主人格を含む全パーツに公表の許可を得ているが、深刻な虐待の事例なので匿名性を守るために大幅な変更を行っている。(p119)

症例を載せるにあたって、主人格だけでなく、全パーツ、つまり他の別人格にも許可を得たとされています。これは、別人格が有するプライバシーの権利も しっかり尊重しているからこそでしょう。

また 続解離性障害には、解離性同一性障害の治療について医師が注意すべきことがこう書かれています。

しかし情報交換を治療者という第三者(?)が人為的に行うということには倫理上の問題が伴いかねない。

それぞれの人格には、プライバシーがあるからだ。

自分の不注意で秘密が他人に知られることには我慢ができても、それを打ち明けた治療者が別人格に伝えたとなると、治療者との信頼関係に大きな影響を与えてしまうだろう。(p165)

ある人格から打ち明けられた話を、別の人格にそのまま伝えるなら、プライバシーの権利を害してしまい、倫理上に問題に発展するとされています。

これもまた、各人格それぞれに、人間としての権利と尊厳があるという考えにほかなりません。

そうした扱い方が奇妙に思える場合は、こう視覚化して考えることができます。

ある若手の心理士は、初めてDIDの症例を任されると聞き、「でも急に子どもの人格が出てきたらどうするんですか?」と不安そうに尋ねてきた。

…そこで私はその心理士にあらためて聞いてみた。

「たとえば患者が子どもを一緒に連れてきていたとしますよ。そして面接中にいきなりトイレに立ってしまい、あなたはその子どもと残されてしまい、一対一で対面しなくてはならないとします。

それでも別に困らないでしょう? その子どもに自然に話しかけるだけです。それとどこが違うんでしょう?」(p164)

先ほどの6歳のマリアンヌに呼びかけたセラピストは、まさにこうした対応をしていました。別人格は、見た目は一人でも、あくまでも、複数の別人なのです。

このように各人格の尊厳を認める治療をしてはじめて、解離性同一性障害は回復に向かいます。

回復といっても、別人格を消滅させることが目的ではありません。講座 子ども虐待への新たなケア (学研のヒューマンケアブックス)にはこうあります。

そのうえで、個々のパーツに対応する個々のトラウマをそれぞれに処理することになる。

そうして、パーツ間に自然なコミュニケーションが可能になれば自我状態療法による治療は終了可能で、人格の統合は不要である。(p119)

問題となっているのは、人格(パーツ)が複数あることではなく、各人格の記憶を隔てている健忘障壁や、予測できない人格交代、転換性障害の身体症状などです。

不思議なことに、グループセッションのようにして、各人格ごとのトラウマや、人格同士のいざこざ、わだかまりなどを解決していくと、記憶の分断はなくなっていくそうです。

記憶の分断とは、それぞれの人格が、遠慮したり敵対したり、一人でトラウマを抱え込んで身代わりになったりして情報を共有していない、きわめて人間的な問題なのです。普通の人同士のコミュニケーションの行き違いから生じる緊張と同じです。

そして最終的に、すべての人格がお互いの存在を認め合い、協力し合えるようになれば、複数の人格が存在していても、混乱なく一つの体を運用していけるようになるのだそうです。

解離性同一性障害の尊厳と人権

こうして考えてみると、解離性同一性障害のそれぞれの人格すべてを一人の人間として、尊厳を持って扱う、という考えは、何も突拍子もないものではない、ということがわかります。

むしろ、尊厳とは、一つの体につき一つきりのものではなく、一つの人格につき一つずつ付与されるべきものだとみなすほうが自然です。

続解離性障害では、それぞれの人格を独立した別個の人間として認めることについて、当事者側の認識に基づいてこう書かれています。

くりかえすが、別人格が出現している時、その主観的な体験は、別人としてのそれである。

あたかも私たちが居間で眠りこんでしまい、目を覚ました時に、いつの間にか訪れて目の前に座っていた客と話し出さなければならない場合と体験的には同じなのである。

そして患者の体験がそうである以上、患者が自分を独立した別個の人格であると認めない治療者を信用することができないとしても無理はないであろう。(p165)

ある人を独立した別個の人間として認める、つまり尊厳を付す、ということは、だれもが受ける権利のある「無条件の愛」と同様です。

本当の「無条件の愛」は「無制限の愛」ではない―バランスのとれた愛着関係は包むことと区切ること | いつも空が見えるから

「無条件の愛」とは、「一人の人間として、この世界に存在しても構わないのだ」と保証することであり、人格あるいは自己が生じるところには、必ず「無条件の愛」に対する欲求があります。

わたしたちは、生まれる前の自己がまだ明瞭でない赤ちゃんや、何十年も意識不明の患者に対してでさえ、尊厳を付するべきだと考えます。それらの人が「無条件の愛」を感じ取れない状態にあるとしてもです。

そうであればなおさら、一人の人間としての意識があり、しかも切実に「無条件の愛」を求め、一人の人間として扱ってほしいと望んでいる解離性同一性障害の各人格に対しては、そのように接するべきではないでしょうか。

解離性同一性障害の尊厳は、多くの人にとって想像もできないような話かもしれませんが、当事者たちにとっては現実の問題です。

前に読んだ本、ここにいないと言わないで ―イマジナリーフレンドと生きるための存在証明―は、多重人格ではなくイマジナリーコンパニオンの場合でしたが、やはり、自分の体を共有する複数の人格それぞれに関して、一人の人として認識してほしいということが書かれていました。

本当にいる空想の友だち「イマジナリーフレンドと生きるための存在証明」 | いつも空が見えるから

この記事でここまで少し触れたように、解離性同一性障害の尊厳とイマジナリーコンパニオンの尊厳は、ある程度似通ったところがあります。

解離性同一性障害の人が幼少時あるいは生まれたときから持っている人格はイマジナリーコンパニオン的ですし、自我状態療法などによって健忘障壁が取り除かれ、協力関係を取り戻した場合も、イマジナリーコンパニオンのようなものになります。

もしかすると、一人の人間に複数の人格が平和的に宿っている状態がイマジナリーコンパニオンであり、トラウマ経験による緊急事態に対処するため、人格同士に緊張とコミュニケーションの行き違いが生じている状態が解離性同一性障害なのかもしれません。

解離性同一性障害にしても、イマジナリーコンパニオンにしても、根本となるのは、ひとつの体に複数の人格が宿っているということであり、その特殊な事例における尊厳と権利の問題は当事者たちにとっては非常に大事なものなのです。

心の中に創られる別人格の8つの特徴―解離性同一性障害とイマジナリーコンパニオン

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「あの人は二重人格だ」

身近な人の、意外な、あまり好ましくない一面を知ってしまうと、そうつぶやく人がいます。

普段は優しい人が家庭では横暴だったり、人前では謙虚な人が二人きりになると高圧的だったりすると、あたかも「二重人格」や「多重人格」のように思えるかもしれません。

しかし、専門的にいえば、裏表があったり、時と場合によって色々な建前を使い分けるような人は「多重人格」ではありません。一人の人間の性格に多面性が見られるのは、ごく普通のことです。

「多重人格」の別人格や人格交代は、もっと特殊なものです。各々の人格は、まったく独自のプロフィールや個性を持ち、自分の考えて行動し、別々の人間であるかのように振る舞います。

この記事では、多重人格者 あの人の二面性は病気か、ただの性格か (こころライブラリーイラスト版) などの本にもとづいて、一人の人間の心の中に、複数の別人が存在する場合、どんな特徴が見られるのかを考えたいと思います。

一般に「多重人格」として知られる解離性同一性障害(DID)の別人格に加えて、ある程度の関連性があると思われる空想の友だち(イマジナリーコンパニオン:IC)の別人格も考えましょう。

これはどんな本?

今回主に参考にした 多重人格者 あの人の二面性は病気か、ただの性格か (こころライブラリーイラスト版)は、解離の専門家である岡野憲一郎先生が、解離性同一性障害(DID)についてイラスト入りで解説しているわかりやすい本です。

普通の人に見られる多面性と、多重人格という特殊な状態との区別が、易しい言葉や表現で説明されています。

この記事の中で、出典を明記せずページ数のみを書いている引用はこの本からのものです。

解離による別人格の8つの特徴

まずは解離性同一性障害やイマジナリーコンパニオンに見られる別人格について、単なる二面性や裏表以上の独特な特徴を持っている、ということを8つの点から考えてみましょう。

1.だれもが持っている多面性との違い

人は誰しも、多面性をもっているもの。いつも優しい人が、別の場面で冷たい顔をみせるのは、そう珍しいことではありません。

その一般的な多面性と、多重人格者のみせる多面性・多重性し、性質が異なります。(p6)

冒頭で触れたように、わたしたちは、身近な人の二面性や裏表に気づいて、ショックを受けることがあります。

その一方で、会社では、とても厳格な上司が、家庭では優しいお父さんになることもあります。

多くの人が、こうした性格の多面性を、時と場合によって使い分けるのは、病的なことでも、異常なことでもなく、ごく普通の脳の働きによるものです。

近年の研究によると、人間の脳はカラクリ仕掛けの機械のようなものではなく、脳全体が状況に応じて柔軟に対応を変化させているというマルチネットワークモデルが注目されています。(p76,80)

その場の空気を読んだり、相手の状況を察したりして、どのような対応をするべきか、この場ではどんな発言や振る舞いがふさわしいか、その都度用いる脳のネットワークを切り替えて対処しているのです。

ですから、会社では規律正しく厳格に対応している人が、家庭では優しい一面を見せたり、お客さんの前ではひたすら奉仕に努めている人が、休みの日には自己中心的に振る舞ったりすることができます。

2.自分でスイッチのコントロールができない

多重人格を発症している人は、自己を場面や相手に応じて切りかえることができない。

スイッチが勝手に動いている状態で、なおかつ個々のスイッチにそれぞれ人格が生じてしまっている。(p80)

わたしたちは、普段、多面的な心をうまくコントロールし、仕事中には素を出さないようにしていたり、家族の前では自由に振る舞ったりしているものです。

しかし多重人格、つまり解離性同一性障害(DID)の人は、そのような切り替えがうまくいきません。

自分でスイッチをコントロールできないばかりか、意図しない場所で、まったく意識していなかった一面が表に現れたりします。

別の人格が突然、不適切なタイミングで現れ、それを制御できないために、生活に支障をきたすこともあります。

これから考えていきますが、健康な人と、DIDの人には連続性があり、健康か病気か単純に二分できる問題ではありません。スイッチのコントロール能力は、人によってさまざまな程度があるのです。

3.それぞれが独自のプロフィールを持つ

断絶したネットワークは、やがて主たる人格から離れて自律性をもち、別人格を形成していきます。

彼らは独自のアイデンティティ、趣味、性格をもっています。(p85)

身近な人が二面性や裏表を発揮する場合と、DIDの別人格の明確な違いの一つは、DIDの別人格は、それぞれが別個の個性とプロフィールを有するということです。

職場では厳しい上司が、家では子煩悩だとしても、その人は決して別人になるわけではありません。

どちらの状況においても「あなたは誰ですか?」と尋ねると、当然、同じ名前を名乗るでしょう。生育歴について聞くと、同じ内容を話すでしょう。

それはあたかも、一つのサイコロに幾つもの面があるのと似ています。それぞれの表面には、違う数字が書かれていますが、どの面が上になっているとしても、それは同じサイコロです。

それに対し、DIDの別人格は、根本的に別人になります。身体的な見た目は同じかもしれませんが、表情、性別、性格、年齢、名前、行動までが変わってしまいます。

人格が交代しているときに名前を尋ねると、たいていは別の名前を名乗りますし、話し言葉も変わっていて、趣味や経歴の記憶まで変わっているのです。

ここまで変化すると、周囲の人は、嘘をついて演技をしているのではないかと疑いますが、決してそうではありません。

人格同士が「解離」、つまり分裂してつながりをなくしてしまっているので、まったくの別人になってしまっています。これが解離性同一性障害(DID)なのです。

4.別人格は自分とは思えない

多重人格を発症している場合、別人格も自分の一部といえる。

別人格が正反対な自分や、理想の自分などの現れになっている場合も

(ただし本人はそれを自分と思えないという特徴がある)(p79)

もちろん、まったく異なるプロフィールや記憶を持つ複数の別人の人格が出てくるとしても、その人の脳は一つだけです。ですから、別人格も、その人の一部であることに変わりありません。

しかしそれでも、DIDの人たちは、自分の別人格について知ったとき、あまりに本来の自分とかけ離れているように感じられ、とても自分の一面だとは思えないことが少なくありません。

たとえば、人格交代しているときの様子について家族や友だちから聞かされたり、そのときの様子をビデオやレコーダーで記録したのを見せてもらったりすると、非常に驚きます。

かつて「多重人格」と呼ばれていたこの病気が、「解離性同一性障害」(DID)と呼ばれるようになったのはそのためです。これは、単なる裏表のようなものではなく、自分が分裂してしまう、自己同一性(アイデンティティ)の障害なのです。

分裂した人格が有するプロフィールは実に様々です。解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論という本には、DIDの別人格の類型についてこう書かれています。

パトナムPutnum,F.Wは多くの交代人格の類型をあげている。

主(ホスト)人格、子ども人格、迫害者人格、自殺者人格、保護者人格、内的自己救済者(internal self helpers,ISH)、記録人格、異性人格、性的放縦人格、管理者人格、 強迫的人格、薬物乱用者、自閉的人格、身体障害のある人格、特殊な才能や技術を持った人格、無感覚的人格、模倣者人格、詐欺師、悪霊、聖霊など多彩である。(p72)

DIDで現われる人格には、もともとの人格とは年齢がまったく違う子どもの人格や、性別が違う異性の人格、そもそもの頭の働き方が違う自閉的人格、振る舞いが極端になり性格も変わる放縦な人格なども含まれています。

また、以前の記事で取り上げたように、本人を慰めたり、支えたりする、「内的自己救済者」と呼ばれる、保護者や助け手のような人格が現われることもあります。

特殊な才能や技術を持った人格の例としては、<眠り>をめぐるミステリー―睡眠の不思議から脳を読み解く (NHK出版新書)には、普段の本人にはまったくない絵の才能を持った別人格を有する男性のことが書かれていました。

これほど多彩で異なるプロフィールを有するわけですから、DIDの人が、自分の別人格について、自分とは思えないと感じるのも無理のないことです。

4.別人格は変化し成長する

解離症状は、創造性をもつもの。個々の人格がそれぞれ好みや特技をもち、独自の生活史を有する。(p43)

別人格が形成され、独特の言動がとられるときには、孤立したネットワークに症状特有の創造性が発揮されている。人格も言動も、日々変化・成長をとげる。(p85)

DIDの人が別人格について自分とは異なる別の人間であるかのように感じてしまう別の理由は、おのおのの人格が、独自に変化し、成長していくからです。

DIDで形作られる別人格は、常に同じ考え、同じ役割に固定しているわけではありません。現実の人間と同じように、それぞれが日々変化し、経験や知識、他の人との関わりを通して、成長していきます。

このような、独特な創造性は、解離性同一性障害(DID)の別人格と、統合失調症の妄想とを区別する重要な手がかりになるそうです。

DIDと統合失調症は、どちらも幻聴などを伴うことがあり、突拍子もないことを言うので混同されがちです。

しかし統合失調症の妄想では、「ある程度、決まった内容が繰り返し生じる」のに対し、解離では「声が人格をもち、創造的に広がっていく。内容が変化する」という大きな違いがあります。(p27,30)

6.話しかける声が聞こえることも

誰もいないところで人の声や気配、物音などを感じるのは、統合失調症に典型的な症状です。

多重人格によって、別人格の声が聞こえる状態とは異なります。(p27)

医師に幻聴を訴えると、たいていの場合「統合失調症」という診断が下ります。

しかし幻聴は、統合失調症だけでなく、DIDなどの解離性障害でも生じますし、さらには健康な人でさえ幻聴を耳にすることがあります。

統合失調症の幻聴と異なり、DIDの幻聴は、別人格の声であることが多いと言われています。

統合失調症の場合は声の主が誰かはわかりませんが、DIDの場合は、だれが、つまりどの別人格が話しているのか本人がわかることもあります。

また統合失調症の幻聴と異なり、DIDの人は子どものころから、日常的に別人格の声を聞いていることもあります。

統合失調症と解離性障害の違いについては、以下の記事も参考にしてください。

統合失調症と解離性障害の6つの違い―幻聴だけで誤診されがち | いつも空が見えるから

7.記憶のつながりがあるかどうか

DIDの人格交代の大きな特徴の一つは、記憶のつながりが失われる場合があることです。

健康な人の場合、仕事中に厳格に振るまい、家族の前では優しい一面を見せるとしても、記憶の連続性は保たれていて、そのときのことを思い出せないということはありません。

しかしDIDの場合は、それぞれの場面で別の人格が活動しているため、記憶のつながりがなく、思い出せないことがあります。

たとえば、いつの間にか買った覚えのない物の請求書が届いたり、日記に別人の筆跡で書き込まれていたり、メールに記憶にない送信履歴があったりします。

いずれの場合も、別人格に交代している間に、自分の意思とは無関係に行われたことなので、記憶にないのです。

しかし、DIDだからといって、必ず各人格同士の記憶のつながりが途切れているかというとそうではありません。

人格同士で記憶のやりとりがある場合、心の中で人格同士が対話や相談をすることがある。

相談の結果をどちらかの人格が公言する場合も。(p45)

人格同士に記憶のやりとりがあり、まるで友人のようにコミュニケーションできる場合もあれば、ある人格が一方的に他の自分のことを知っていて、自分のほうではまったく存在にさえ気づいていない場合などもあり、記憶のつながりは様々です。

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)によると、人格の交代が軽度の段階では、記憶のつながりが保たれていますが、重度になると、記憶が途切れ、同一性が保てなくなるそうです。(p48)

8.空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)との関係

最後に、考えておく必要があるのは、空想の友だち(イマジナリーコンパニオン:ICまたはイマジナリーフレンド:IF)と呼ばれる現象との関係です。

一般に、イマジナリーコンパニオンは、幼児にみられる現象で、目に見えない空想の友だちをありありと想像し、一緒に遊んだり会話したりするという特徴があります。

一見、病的に思えるかもしれませんが、統計によると、少なくとも20-30%の子どもが経験する、ごくありふれた現象だと言われています。基本的にいって、子どものイマジナリーコンパニオンが精神疾患につながることはありません。

しかし、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)によると、解離性同一性障害(DID)では、一般人の倍の60%の割合で、イマジナリーコンパニオンがみられたとされていて、何かしらの関連性はあるようです。

解離性障害に関わるイマジナリーコンパニオンは、通常の1、2人より人数が多く、平均6人程度であり、幼児期だけでなく、思春期、青年期まで持続するという特徴があるとされています。(p128-129)

おさなごころを科学する: 進化する幼児観によると、イマジナリーコンパニオンを持つ定型発達の子どもと解離性障害の子どもを比較した結果、前者は空想の友だちが実在しているとは思っていないのに対し、後者は実在していると信じていた、という研究が紹介されています。(p241)

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)にも、解離性障害になりやすい人の素因の一つに、次のような傾向が挙げられています。

空想傾向が強い

想像上の友だちと遊ぶ。その友だちは実在するかのように、目で見て、声を聞くことができる。

空想上の物語があり、長期間にわたって物語が展開しつづけ、映像を映画のように見ている。人物設定やストーリーは具体的かつ詳細。(p60)

現実との区別がつかないほど、空想に深くのめり込む「空想傾向」や、空想の世界が物語のように発展していく「持続的空想」は、解離性障害の素因の一部です。

さきほど、DIDの別人格が、さまざまなプロフィールや役割を持つという点を取り上げましたが、イマジナリーコンパニオンの別人格もまた、さまざまな類型を持っています。

想像の遊び友達一その多様性と現実性ーの中で、麻生武先生は、幼児期から青年期のイマジナリーコンパニオンを、4つないしは8つのタイプに分類しています。

「秘密の友達」「もう一人の私」タイプ…相談相手、良き理解者、忠告者。一番多い。本人と瓜二つであったり、同一の名前を持っていたりすることも。

「白昼夢・ドラマ」「メルヘン・妖精」タイプ…人物を取り巻く物語が生み出され、本人がドラマの世界にいるかのような状態。空想と現実の区別がつかないほどのめりこむ。ファンタジーな内容のことも。

「神様・保護者」「妖精・怪人」タイプ…神、守護霊、天使などのスピリチュアルな存在。

「実在の人物」「亡き人」タイプ…あこがれの人や、亡くなった家族など。

これらのタイプのうち、特に白昼夢が関わるタイプは、すでに考えた「空想傾向」や「持続的空想」と重なり合っているように思えます。

解離性障害や解離性同一性障害(DID)は、健康か病気かで二分される明白な脳の異常ではありません。

健康な人と、DIDの人の間には連続性があり、その間には、さまざまな程度の解離症状を示す人が分布しています。

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)にはこう書かれています。

解離性障害は脳になんらかのトラブルが起こることによる病気ではありません。

また病気と健常との境目もはっきりしていません。過敏や離隔に似た症状は、解離のない人にもある、ごくありふれた症状です。ただ、それが強く出ているのが解離性障害なのです。(p56)

健康な人でも、時間を忘れて趣味に没頭したり、一時期の記憶が飛んでしまったりすることがよくあります。これは健康な範囲の一過性の解離症状です。

解離傾向が強くなってくると、普通の人にない不思議な体験が生じることがあります。だれかの気配を感じたり、イマジナリーコンパニオンが現れたり、体外離脱を経験したりします。それでも日常生活に支障がないかぎり、病気ではありません。

しかし、さらに解離症状が強くなると、「自分」がいくつかに分かれた状態になります。記憶が途切れたり、体の感覚がまひしたり、現実感がなくなったりして、生活に支障をきたします。すると「解離性障害」と診断されます。

そしてさらに解離症状が極端になり、分かれた「自分」が、それぞれ人格をもち、バラバラにふるまう状態になり、「解離性同一性障害」(DID)と診断されるのです。

別人格はどこから生まれるのか

ここまで、解離性同一性障害の別人格の特徴について8つの点を考えました。

DIDの別人格は特殊な性質を持っていますが、広い視野でみれば、健康な人が持つ性格の多面性と地続きになっている現象だといえます。

しかし、本来なら、自分の多面性の一部であり、時と場合に合わせてコントロールできるはずの性格の一面が、別の人格として独立し、自律性を獲得してしまうのはどうしてでしょうか。

幼少期に創られる

DIDの別人格の流れをたどると、行き着く源は幼少期の経験です。

心に別人格の芽となる部分が発生するのは多くの場合、幼児期や児童期と考えられています。

幼い頃にストレスを受けて人格が分裂し、のちに家庭外での人間関係のなかで表面化します。

成人後のストレスで本格的な分裂がはじまる例は、ほとんどみられません。(p39)

DIDは思春期以降に発症することが多いので、家族や周囲の人たちは戸惑いがちです。

しかし、別人格が誕生するのは、大人になってからではなく、そのずっと前、幼児期や児童期であると考えられています。どうして、子どものころに人格がわかれてしまうのでしょうか。

人格の分裂がはじまるのは、幼児期・児童期だと考えられています。

幼いうちから、本心の表現をおさえ続けていると、心の一部がじょじょに隔離され、解離して、別人格を形成するのです。(p50)

幼いころに別人格が造られる要因は、幼少期のさまざまなストレスです。ストレスの内容はさまざまですが、慢性的に抑圧され、本心をさらけ出せない環境のもとで育つと、心が解離して、複数の人格のネットワークが脳に形成されます。

DIDは、思春期以降の人間関係のストレスや、外傷体験によって表面化する場合が少なくありませんが、別人格はそれよりはるか前から存在しているのです。

多重人格は、思春期以降に突然、別人格という非現実的な姿で表面化することが多いため、周囲を驚かせます。

突然の出来事のようにみえるかもしれませんが、本人の心には幼児期・児童期から苦痛やストレスが蓄積しています。発端は、たえまなく苦痛を感じていた過去の生活にあります。(p35)

別人格が、DIDを発症するよりも前に形作られていた、という点を考えるなら、いくつかの疑問の説明がつきます。

たとえば、すでに考えた通り、解離性障害の人は、統合失調症とは異なり、子どものころから幻聴を日常的に聞いていることがありますが、それは、その当時から別人格が存在していて、その声が聞こえていたのかもしれません。

また、衝撃的な外傷体験に直面しても、解離性障害や解離性同一性障害にならず、PTSDや他の心の病になる人がいますが、そのような人は、素因としての解離傾向がなく、幼い頃に別人格が造られるということもなかったのでしょう。

幼いころに形作られる別人格というと、やはり、先ほど考えた空想の友だち、イマジナリーコンパニオンとの共通性も感じられます。

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)にもには、解離性障害の人が、子どものころからリアルな存在感を伴うイマジナリーコンパニオンを持っている場合があることが書かれていました。

昔からずっといっしょにいた

子どもの頃からずっといっしょにいる空想上の友だちの姿を見ることも多い。

本人のことをよく知っており、孤独や不安を癒やし、遊び相手や話し相手になってくれる。(p25)

子どものころは、脳の可塑性が強く、変化しやすい時期です。別人格の形成という脳の根底に関わるような変化は、その時期に特有のものなのかもしれません。

外傷体験・トラウマ・虐待があるとは限らない

多重人格というと、虐待や性被害と関連づけられることが少なくありませんが、そうした目立ったトラウマが別人格が創られる原因になっているとは限りません。

目立った外傷体験がなくても、いじめ、人間関係のストレス、家庭内の緊張、自己や災害、そのほかの様々な慢性的なストレスによって、解離性障害や解離性同一性障害を発症することがあります。

また、本人の性格傾向などの素因も、重要なリスクファクターです。解離性障害の人には、次のような性格の人が多いといわれています。

■引っ込み思案で緊張しやすい
■自己主張が苦手
■優しくて繊細。いつもまわりを気遣う
■素直で逆らわない
■周囲の期待や失望に敏感

こうした性格傾向を持つ人は、不満や怒りを感じても、それを表現するのをためらって、自分の感情を心のうちにしまい込み、抑圧しがちです。

他の人と関わるとき、傷つけたり、傷つけられたりすることを恐れるあまり、本心を押し殺して、相手の望むとおりにふるまってしまいます。

建前ばかりを強要される生活や、ストレスを外に発散することのできない環境が慢性的に続くと、人前で振る舞う人格と、本音を言う人格とが解離してしまい、別の人格として振る舞い始めることがあります。

緊張した家庭で育ったため、本心を押し殺して生活せざるを得ず、心が解離していく人も少なくありません。

親との間に距離やズレがある、手のかからない子だと親が思い込んでいる、病気のきょうだいの世話に忙しく手が回らない、親の性格と子どものニーズが大きく異なるなど、一概に親が悪いとはいえないケースもしばしばです。

解離性障害や解離性同一性障害には、外傷体験だけでなく、さまざまな素因も関係しているので、専門家でも原因を特定できないことが多いそうです。(p54)

素因としての性格特性についてはこちらの記事もご覧ください。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か | いつも空が見えるから

記憶や知識を元にして生み出される

さまざま素因やストレスが重なりあったとき、どのようにして別人格が造られるのでしょうか。

別人格は、無から生じるわけではありません。

脳の中に蓄積されていた記憶や知識、特定の人物のプロフィールなどをとり入れる形で生まれます。

しかしそのつくられ方は恣意的で、本人にも正確には由来がわからないことも多いものです。(p43)

別人格は何もないところから脈絡なく創造されるわけではありません。どんな別人格であっても、それはその人の一部であり、脳に蓄えられた知識や経験をもとにして生み出されます。

多くの場合、実在の人物やアニメのキャラクターなどのプロフィールの一部をもとにしていたり、自分の理想やコンプレックスが反映されていたりします。

またトラウマ経験が関わる場合は、隔離されたストレスや外傷体験の記憶、虐待者のプロフィールが取り込まれることがあります。(p43)

DIDの別人格だけでなく、空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)の場合も、アニメなどのキャラクターや、自分の理想像などが影響する場合があるようです。

しかし、いずれの場合も引用した文中にあるとおり、「そのつくられ方は恣意的で、本人にも正確には由来がわからない」ことが多いようです。

DIDが表面化する2つのパターン

続解離性障害によると、別人格が表に現れ、DIDが発症する状況には、2つの典型的なパターンが見られるといいます。

一つ目は、外傷体験が明らかな場合です。

まずは明白な外傷の存在が明らかな場合である。ある患者は親からの虐待を受けた際に、その苦痛と恐怖のために「内側に急いで入り、ふたを閉めてしまった」と表現した。

そしてその際に、「ほかの誰か」が外の状況を処理する必要が生じ、新たな人格が形成されたという。(p80)

虐待や外傷体験、犯罪被害など、衝撃的な体験に直面した場合、その危機的状況から逃れるために、突然激しい解離症状が生じるかもしれません。

ふたつ目は、もっと緩やかで、はっきりとしたトラウマ体験などが見られない場合です。

そしてもうひとつは外傷がより不明瞭な場合である。こちらは親との関係で常に自分が理解されず、あるいは無視されていると感じ続けるといった状況をひとつの典型とする。

その場合患者はその深刻な孤独感を体験した際に、自分の心に生まれた新たな人格との対話によりその苦しみを軽減するという経路が考えられる。(p80)

家庭内の緊張など、日常的に慢性的なストレスにさらされていると、どこにも安心できる居場所がなく、徐々に別人格が表面化していくかもしれません。

多重人格者 あの人の二面性は病気か、ただの性格か (こころライブラリーイラスト版)には、そのようなパターンの一例として、10代後半のCさんのことが書かれていました。

Cさんは、暴力や虐待を受けたことはないものの、教育に厳しい母親に叱責されながら育った女性です。

母親にも、父親にも意思が伝わらず、Cさんはストレスを一人で抱えこんでしまいました。さびしくて、つらくて、心がはりさけそうです。

そんなある日、Cさんが自室で泣いていると、心の中に男性の人格が現れ、Cさんをなぐさめてくれました。別人格が生じはじめました。(p33)

この例のように、寂しさや居場所の無さのため、相談相手として別人格が現れるケースは、やはりすでに考えた空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)との共通性がうかがえます。

いずれの場合にしても、幼少期に何らかの理由で別人格が形成されること、そして思春期以降に衝撃的あるいは慢性的なストレスによって、それらの別人格が表面化することがDIDの発症に関わっていると思われます。

幼少期のストレスで人格が分裂していても、その後の人生が平穏であればDIDにはならないでしょうし、逆に幼少期に人格が分裂しておらず、大人になってからトラウマ経験に直面した場合もDIDにはなりにくいといえそうです。

別人格は最終的にどうなるのか

こうして誕生し、表面化した別人格は、その後どうなるのでしょうか。

一般に、複数の人格が存在するような状態は異常で治療しなければならないと思われがちですが、近年の治療者の見解はそうではないようです。

過去にはいくつもの人格が統合され、ひとつになることが多重人格の治療だといわれました。

しかし現在は、人格が分裂していても、各人格や役割分担をおこない、生活に支障がなければ、ひとまずの回復とする考え方が一般的です。(p49)

すでに見てきたとおり、解離性障害は、脳の明らかな異常というよりは、だれにでもある脳の「解離」という機能が強く働きすぎている状態だと考えられます。

また、外傷やトラウマ体験の直接的な結果として、ちょうど骨が折れるかのように、人格が分かれてしまったわけではなく、別人格そのものは、子どものころから存在しているようです。

過去の記事で取り上げたように、解離という防衛機制をストレス対処に頻繁に用いてきた人の場合、人格の統合を目指すと、かえってストレスがうまく処理できなくなり、別の精神疾患を抱える可能性もあります。

多重人格やイマジナリーフレンドは必ず人格を統合し、治療する必要があるのか | いつも空が見えるから

別人格が、あまりに自律的で、独自のプロフィールと生活史を有するため、本人も、別人格自身も、消滅することを恐れ、統合を望まない場合もあります。

解離性同一性障害(DID)の尊厳と人権―別人格はそれぞれ一個の人間として扱われるべきか | いつも空が見えるから

それで、近年の治療では、人格の統合よりも生活の安定を目指し、不適切で唐突な人格交代や、記憶の断絶、攻撃的な幻聴や自傷行為がなくなれば、ひとまずのゴールだとみなされているようです。

解離性同一性障害(DID)を発症する前の状態、つまり幼少期に形成された別人格やイマジナリーコンパニオンが心の中に存在しているとしても、病的な解離症状は生じていない状態に戻ることができれば、もはや病気ではないと考えることができるでしょう。

解離性同一性障害(DID)のそのほかの情報や、治療に役立つポイントなどは、以下の記事も参考にしてください。

多重人格の原因がよくわかる7つのたとえ話と治療法―解離性同一性障害(DID)とは何か | いつも空が見えるから

別人格の存在のために生活に何らかの支障を来たしている場合や、家族など身近な人の解離症状を理解したいと思っている場合は、この記事だけではなく、ぜひここで紹介した専門家による幾つかの本に直接目を通してみてください。

こうした専門家の本は、独特な性質を持つ解離の別人格についての理解を深め、より良い対策やサポートの方針を見つける助けになるに違いありません。

 

解離性障害をもっとよく知る10のポイント―発達障害や愛着障害,空想の友だちとの関係など

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記憶が失われる、自分が自分でないように思える、現実感がなくなる、さまざまな幻聴が聞こえ、視界に黒い影が見える、だれかの気配を感じる、自分の中に他人がいる、 次々に別の人格が出てくる…。

うした症状は「解離性障害」として知られています。有名な記憶喪失(解離性健忘)や、多重人格(解離性同一性障害)も、この「解離性障害」と呼ばれる病気の一つです。

解離性障害はしばしば子ども虐待や性犯罪のようなおぞましい事件の被害者が発症する極めて異常な病気だと説明されることがあります。確かに悲惨なトラウマ経験の結果、解離性障害になる人もいます。

しかし、実際には、解離性障害の原因はもっとさまざまであり、目立ったトラウマ体験がない、ごく普通と思える家庭の子どもが発症することもあります。またADHDやアスペルガー症候群といった発達障害が関係していることもあります。

さらに、意外に思えるかもしれませんが、解離性障害は決して異常な病気ではなく、たとえさまざまな解離症状があっても、病気とはみなされず、ごく普通に暮らしている場合もあります。

頻繁な離人感や、空想の友だち現象、さらには複数の人格が自分のうちに存在するという強い解離症状があっても、それをうまくコントロールして社会に適応している「マイノリティ」な人たちもいるのです。

この記事ではこころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害という本やその他の資料から、解離性障害の原因や実態をもっとよく知るのに役立つ10のポイントをまとめてみました。

これはどんな本?

今回おもに参考にしたこころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害は、解離性障害の専門家たちが、解離をさまざまな観点から網羅的に説明した共著です。

第一部は、「解離性障害Q&A」と題して、総勢30人以上もの専門家が、解離性障害をめぐるよくある50の疑問に、1問につき1ページずつ割いて詳しく答えています。

第二部は、有名な医師たちによる座談会からはじまり、専門的な論文が幾つか掲載されています。

基本的には一般向けではなく専門家の本ですが、特に「解離性障害Q&A」の部分は少し知識のある人なら、役立つ情報が多いのではないかと思います。

解離性障害について知っておきたい10の特徴

これから解離性障害の原因や実態を理解するのに役立つ10の話題を考えますが、もちろん、解離性障害の原因は人それぞれです。

複数の要因が複雑に絡み合っていることもしばしばですし、途中でも触れますが、素人判断による診断や治療はたいへん危険です。

このブログを含め、ネット上の情報は、あくまで参考程度にとどめて、治療においては専門家の指導を仰ぐようになさってください。

1.虐待ばかりが原因とは限らない

解離性障害や解離性同一性障害(DID)というと、とかく身体的・性的虐待を受けた子どもが発症するなどの凄惨なイメージがつきまといます。

確かにそうした残酷な子ども時代を過ごしたために解離性障害を発症する人は少なくありません。

しかし、柴山雅俊先生は、虐待より目立たない慢性的なストレスが解離性障害につながるケースがあることを語っています。

私自身は、家族の内や外における居場所のなさがもう少し焦点を当てられてもいいようにに思う。

両親の不和、家族成員間の対立、葛藤のため、つねに自分がその緩衝役を強いられ、いわば身代り、犠牲者としての役割を強いられてきた症例。

転校を繰り返し、そのためイジメの対象となった症例。

多くの症例が「安心していられる居場所」をこの世に得ることができずに、過度の緊張を強いられていたと訴える。(p112)

柴山先生が重視するのは、虐待などの壮絶な体験よりも、むしろ「安心していられる居場所」の欠如です。

虐待などの深刻な外傷を受けた場合でも、解離性障害の引き金となるのは、虐待そのものではなく、その苦痛を一人で抱え込まなくてはならない状況です。

深刻な虐待を受けても、愛情深い家族や友人が支え、安心できる居場所となって保護し包み込んでくれるなら、徐々にであれ傷を癒やすことができ、解離性障害のような深刻な問題を発症せずにすむかもしれません。

一方で、外からは、それほど悪くは見えない家庭で育ったとしても、両親の不和や家庭内の緊張などのせいで「安心していられる居場所」がどこにもなく、常に板挟みになって自分を犠牲にしてきたような子どもは、深刻な解離性障害を発症するかもしれません。

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 解離性障害とは、子どものころに、ひとりではとても抱えきれないようなストレスを抱え、まわりのだれも、家族や友人も助けになってくれないような状況で、たったひとりで生き延びなければならなかったときに生じる防衛反応なのです。

2.本当に女性に多いのか

一般に、解離性障害は、女性のほうが男性より何倍も発症しやすいと言われています。たとえば、アメリカやヨーロッパでは患者の8割以上が女性で、アラブやインドでも6割が女性だったという報告があるそうです。(p26)

日本の柴山先生の統計でも、53人中44人、つまり83%が女性でした。(p139)

解離性障害の患者の圧倒的多数が女性であるのはなぜでしょうか。以下のようなさまざまな説があります。

■社会文化的要因
性的虐待などの被害のターゲットになりやすいのは女性です。また女性は社会的に抑圧され、感情を表現する機会が与えられないことが多いと考えられます。(p26)

■脳の構造の違い
男女の脳の構造の違いやホルモンバランスの違いが関係している可能性もあります。

■養育者と同性である
近年、解離性障害の原因として、幼少期の養育からくる愛着障害が注目されています。もしかすると、乳幼児の養育が一般に母親によって行われているため、同性である女児が影響を受けやすいのかもしれません(p104)

■症状の性差
解離性障害は男性と女性で症状の出方が異なり、男性患者が見過ごされている可能性があります。

このうち、ここで注目したいのは最後の症状の性差です。

パトナムやクラフトといった解離性障害の専門家たちは、女性のDIDと男性のDIDを比較したところ、女性は攻撃性を自分に向けるのに対し、男性は外に向けるのではないかと述べているそうです。(p89)

この本でもちらっと触れられていますが、日本でも2007年、相撲取りの横綱朝青龍が暴行事件を起こしたときに、当初、解離性障害との診断名が発表されたのを覚えている人もいるかもしれません。(p17)

朝青龍が本当に解離性障害だったのかどうかは定かではありませんが、実際に男性の解離性障害や解離性同一性障害(DID)の患者の一部は、暴力犯罪などに関わってしまい、病院ではなく、少年院や刑務所にいるのかもしれないと言われています。

男性多重人格者の73%、女性患者の27%に殺人を含む暴力犯罪を認めたという報告もある。(p89)

概して解離性障害は若年女性に多いとする報告が多いが、一方で、Putnamは、男性の解離性障害の患者の多くは、精神保健サービスにかかることなく、非行や触法行為のため警察や刑務所などで扱われているのではないかという指摘をしている。(p139)

近年、脳のさまざまな疾患において、症状の現れ方に性差(ジェンダー・ディファレンス)があることが注目されています。

もちろん、解離性障害の男性が、すべて攻撃的だったり犯罪に関わったりするわけではありませんが、全体の傾向としての症状の違いはあるのかもしれません。

3.大人になってから発症すると症状が違う

解離性障害の患者は、一般に子どものころから、強い解離傾向を持っていると言われています。

外傷体験やストレスによって解離性障害を発症する前から、強い空想傾向を持っていたり、交代人格や空想の友人による幻聴など、独特な体験を有していたりすることがあります。

そのため、解離性障害は、子どものころからの素地がある場合と、大人になってから初めて外傷体験に遭遇した場合とでは、症状の現れ方が異なるそうです。

岡野憲一郎先生はこう述べていました。

成人になってから初めて深刻な外傷体験を負った際にみられる解離症状は、やや異なった現れ方をします。

それらは一過性に現れ、また限定された内容が繰り返される傾向にあります。

…明確な人格の形成にまで至るような多彩で創造性に富んだ内容は備えていません。(p40)

もともと解離傾向があったわけではなく、成人になってから初めて深刻なトラウマを経験した場合は、PTSDなどの激しいフラッシュバックや身体症状として現れ、はっきりした人格交代などの解離症状は少ないそうです。

それで、DIDのような解離性障害は、あくまで子どものころから強い解離傾向という素因を持っていて、しかも幼少期に強いストレスを経験した人にみられるものだとされています。

DIDはあくまでも本来高い解離傾向をその素地として持っている人が、幼少時の外傷やストレスをきっかけとして発展させるものと考えられます。

ちょうど言語の獲得には臨界期があるように、解離の能力や病理の発現にも一定の年齢の制限が存在するようです。(p40)

以前に読んだ本では、別人格が誕生するのは、幼少期のころに限られている、という説明もありました。

心の中に創られる別人格の8つの特徴―解離性同一性障害とイマジナリーコンパニオン | いつも空が見えるから

 

 思春期以降にはじめて交代人格の存在が明らかになる場合でも、交代人格は実際には幼いころに生まれて深く潜行していて、成長したあとに初めて自覚されたにすぎないとも言われています。

なぜ大人になってからトラウマ体験に遭遇した場合には、解離性障害というよりもPTSDのような症状に発展しやすいのでしょうか。

この本の中で、国立精神・神経センターの金吉晴先生は、外傷体験を受けたとき、完全に解離することで対処した場合は解離性障害になるのに対し、不完全な解離が起きた場合にPTSDになるのではないか、という考察を述べています。

トラウマ体験の最中、不完全な解離が生じると、部分的に意識があり、逃げたい、抵抗したいのに身体が動かなくなり、大きな恐怖や恥辱感が残ります。

そうすると、その恐怖体験がPTSDになり、激しいフラッシュバックなどにつながるのではないかとされています。(p119)

生来の強い解離傾向がない人でも、恐ろしい状況に直面すると生物的メカニズムとして解離が生じますが、その効果が不十分なためにPTSDのような別の症状へ発展してしまうのかもしれません。

4.ADHDと解離性障害の複雑な関係

解離性障害は、子どものころからの解離しやすさや、幼少期のストレス体験のみならず、注意欠如・多動症(ADHD)自閉スペクトラム症(ASD)といった脳の発達障害とも深い関連があるようです。

犯罪者や非行少年の原因を説明した有名な説にDBD(破壊行動障害)マーチというものがあります。

ADHDの子どもは手がかかるために、そして親もまたADHDの衝動性を持っていることが多いために、不適切な養育や不適応を生じやすく、結果として慢性的な解離が生じ、非行や反社会的行動へと発展していく場合があると言われています。(p92)

話をややこしくしているのは、ADHDによる不注意などの症状と、虐待などの結果生じる解離による症状(後で説明する愛着障害)はとてもよく似ていて見分けにくいことです。

解離により適切な注意集中ができなかったり、一度得た情報が状態の切り替えによって健忘されたりすれば注意欠陥と判断され、まさにADHDの症状と見分けがつかない。(p102)

つまりADHDのせいで虐待されて解離症状が生じる場合もあれば、虐待されて解離症状が生じた結果ADHDのようになる場合もあるということです。

子どものPTSD 診断と治療にはこのように書かれていました。

ADHDとトラウマ障害の近似点は、脳科学的な研究からもうかがえる。

HartやTomodaの研究では、被虐待児における脳容量や活動異常の部位が、ADHDで報告されている部位とほぼ同領域であることを報告している。

…心ここにあらずで注意が散漫な不注意優勢のADDと思われていた症状は、トラウマ障害の解離であるかもしれない。(p117)

このように、ADHDと解離症状は非常によく似ていますが、ADHDの場合はもともとの脳の傾向であるのに対し、トラウマによる解離症状は後天的に身につけた防衛反応であり、治療の方法も異なるとされています。

とはいえ、すでに述べたDBDマーチのように、もともとADHDの素因を持っている子どもが不適切な養育を受けて解離性障害になる場合も少なくなく、場合によっては、ADHDと解離は区別できないほど複雑に絡み合っているといえます。

よく似ているADHDと愛着障害の違い―スティーブ・ジョブズはどちらだったのか | いつも空が見えるから

 

 5.アスペルガー症候群は原因がなくても解離しやすい

解離性障害は、虐待などのトラウマ体験によって発症することが多いとされていますが、特に目立った原因がない場合、高機能広汎性発達障害やアスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)が関係している可能性もあります。

一般的に、解離性障害は虐待の既往との深い関連があるものと理解されていますが、高機能広汎性発達障害における解離性障害の場合、必ずしもそうではなく、ここに独自の特徴が反映されているものと考えられます。(p21)

自閉スペクトラム症(ASD)では、虐待などのトラウマ経験がなくても解離性障害を発症するという独自の特徴があり、それにはASD特有の解離しやすさが関係しているようです。

ASDと解離の関係性の一つは、ファンタジーへの没頭しやすさです。

高度なファンタジー世界への没頭は解離状態との識別が困難な自己意識の不連続を引き起こすため、もともとファンタジーに没頭しやすい高機能広汎性発達障害の場合は、解離へと滑りやすい基盤を持っているというものです。(p21)

ASDの人は、自分の世界に深く没頭しやすいという、解離性障害になりやすい子どもの空想傾向と似た特徴を持っています。

またそもそもASDの人は自ら進んで解離を用いることで、日常生活で生じる苦痛に対処している可能性もあります。

更に、高機能広汎性発達障害においては、むしろこのような意識状態の変容自体が、脅威的な外界の中で適応をするための発達の過程とみる必要性があるのではないかと杉山らは指摘しています。(p21)

ASDの人は、もともと解離しやすい脳の傾向を持つだけでなく、 強い孤独感や疎外感、感覚過敏などによる苦痛を経験しやすいので、目立ったトラウマ体験がなくても、知らず知らずのうちに解離によって感覚を麻痺させて対処しているのかもしれません。

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6.混乱型の愛着パターンは解離性障害になりやすい

ADHDや自閉スペクトラム症は、生まれつきの脳の傾向からくる発達障害ですが、近年、幼少期の養育環境が関係する愛着障害(アタッチメント障害)もまた解離性障害のリスクになるとして注目されています。

パトナムも最近では、従来思われていたよりも、愛着の障害によりDIDが引き起こされると指摘しています。(p48)

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 子どもの愛着パターンは、幼少時の親との関係から、一般に4つに分類されます。

A型(回避型)…親の関心が不足している家庭の子どもに多い
B型(安定型)…安定した家庭の子どもに多い
C型(抵抗・両価型)…親が過干渉する家庭の子どもに多い
D型(混乱型)…虐待や精神的に不安定な家庭の子どもに多い

このうち、特に解離性障害になりすいのはD型(混乱型)だと言われています。

1991年にはBarach,P.M.M.がはじめて解離性同一性障害とD-アタッチメントの関連を示唆し、2003年にLyons-Ruth,K.によって、D-アタッチメント・タイプの幼児はのちに解離性障害になるリスクが高いと指摘された。(p78)

D型の子どもは、本来安心させてくれるはずの親の行動が予測不能な環境で育ったため、他人に対する強い恐れがあり、他人を信頼することも拒絶することもできない混乱した振る舞いを見せます。

D型のアタッチメントパターンとは近接と回避という本来ならば両立しない行動が同時的に、また継時的にみられたり、また、フリーズしたり、初めて出会う人にむしろ親しげな態度をとることなどが特徴である。(p98)

愛着崩壊 子どもを愛せない大人たち (角川選書)によると、ADHDのリスク遺伝子を持つ子どもはD型アタッチメントにもなりやすいと言われていて、環境要因だけでなく、遺伝的要因も関係しているようです。

ADHDの子どもを持つ親は、自分自身もADHDのことが多く、無秩序な子育てをする場合があり、ADHDの子どもは脳の過覚醒のためそれに過敏に反応するので、D型アタッチメントが生じやすいのかもしれません。

こうした事情もあって、ADHDと解離性障害は密接に関連しているのかもしれません。

発達障害と似て非なる「愛着崩壊 子どもを愛せない大人たち」 | いつも空が見えるから

 

ただし、近年の研究では、病的な解離の背景に明確な遺伝的な要因は見つからなかったとされています。(p27,83)

つまり、発達障害などとの関連性は考えられるものの、やはり病的な解離性障害の最も大きな原因は、「安心できる居場所」の欠如といった環境のほうにあるといえます。

発達障害の子どもは、その一般的でない特性ゆえに、そのような望ましくない環境に遭遇しやすいので、結果的に解離につながる場合があるということでしょう。

7.強い解離現象があっても「障害」とは限らない

ここまでのところで、虐待以外のさまざまな要因が解離性障害の発症と関係していることを考えました。

それは裏を返せば、深刻なトラウマを経験していなくても、日常生活でさまざまな解離現象を経験し、それとうまく付き合っている人もいるということです。

解離症状が強いからといって、必ずしも、解離性障害という「障害」として、治療の対象になるわけではありません。

空想や白昼夢は内容によっては、解離性障害や解離と関連がある一方で、内容によっては、適応促進的に働く機能とみなされている、というのが現状といえます。

要するに、空想にふけることや白昼夢をみることは、解離という現象の一種ということはできますが、それのみで解離性障害とはなりません。(p16)

解離性障害になりやすい子どもにみられる強い空想傾向や、自閉スペクトラム症の子どものファンタジーへの没頭などは、解離症状の一種ではあるものの、日常に支障をきたしていない限りは治療を必要とするものではありません。

たとえ交代人格のような極度の解離症状がみられる場合でも、「障害」とみなすか否かは、生活に大きな支障が及んでいるかどうかに左右されます。

極端な例をあげれば、たとえば交代人格をもっていたとしても、その人の社会的、内的な生活の調和がとれていて、ある程度安定した生活が営めるのであれば、通常ではない(そのような体験化の様式がマイノリティである)という理由だけでそれを障害と見なすことはできないでしょう。(p9)

解離という現象自体は病的なものではなく、多かれ少なかれ、すべての人の脳に備わっている防衛機制の一つです。

たまたま解離が強く働く脳を持っていて、独特な現象が生じるとしても、それらとうまく付き合って日常生活を送れるのであれば、治療の対象にはなりません。

解離性障害や解離性同一性障害(DID)を病気として治療する場合でも、目標とするのは解離症状のコントロールであって、治療が成功した場合でも解離しやすさそのものは残るといわれています。

8.正常な解離としての空想の友だち現象

解離性同一性障害(DID)の交代人格と類似しているために、解離性障害に関係する書籍の多くで取り上げられている現象の一つに、空想の友だち現象(イマジナリーコンパニオン:IC)というものがあります。

イマジナリーコンパニオンは、目に見えない空想の友だちがありありとした存在感をもって感じられ、一緒に遊んだり会話したりすることもできる不思議な現象です。

この本でも、幾つかの箇所で、解離症状とイマジナリーコンパニオンの関連性について説明されています。子どもの解離性障害に詳しい白川美也子先生はこう書いていました。

想像上の友人現象(imaginary companionship)は、正常児の20%から60%にみられるが、解離性障害の子どもには42-84%と多い。

正常児のもつ想像上の友人は、2歳から4歳までに現れ、通常8歳くらいまでに消失する。

養護施設の子どもたちの想像上の友人は(1)支援者、(2)パワフルな保護者、(3)家族成因などの役割をもっていることがあり、さらに被虐待の子どものそれは、「神」、「悪魔」などの名前をもっていることがある。

このように、子どもの示す解離現象には、想像機能が非常に大きな役割を果たしている。(p97)

この説明からわかるように、イマジナリーコンパニオンは、幼少期の子どもの一部にみられる、ごく正常な解離現象です。

しかし解離傾向が強い解離性障害の子どもには、より頻繁にイマジナリーコンパニオンがみられます。

普通の子どものイマジナリーコンパニオンは単なる遊び相手にすぎないことが多いようですが、複雑な環境で育った子どもの場合は支援者や保護者、家族といった役割を持ち、さらに虐待児の場合は超越的存在のイメージを持っていることがあるとされています。

イマジナリーコンパニオンは、DIDの交代人格と似ているように思えますが、交代人格とは違い、一般的に、明らかな引き金がなくても現れ、記憶の分断がなく、人格交代して意識を乗っ取ることはないと言われています。(p240)

そしてたいていの場合、成長とともに消えてしまいます。

イマジナリーコンパニオンのうち、特に青年期以降も残るようなものは、病的ではないかと疑われることもありますが、先ほども考えた通り、強い解離症状があるとしても、それ自体は必ずしも障害ではありません。

空想上の友達との内的対話、ある場面で極端に「人が変わる」こと、頻繁な離人感や既視感(デジャヴュ)、都合が悪いことは急に「聞こえなくなる」ことなどは、上述の例ほど適応性は明確でないかもしれませんが必ずしも不適応的、病的とも言えません。

極端に苦痛に満ちた境遇にある人たちにとっては、空想にのめり込むことがむしろ適応的かもしれませんし、環境に適応するために著しい健忘や麻痺を伴う体験化の傾向を発達させたのかもしれないという視点は重要です。(p9)

解離症状の背景には、確かに解離しやすい素地や、ストレス環境があるのかもしれません。しかし、環境に適応するために役立っている場合は、病気ではありません。

確かに一般的とはいえず、社会的にみると「マイノリティ」ではあるでしょう。しかし少数派であることは、決して「障害」ではありません。

ちなみに、解離性障害の研究の大家であるラルフ・アリソンの本「私」が、私でない人たち―「多重人格」専門医の診察室からによると、多重人格者にみられる人格のうち、空想の友だちが発展したものは「想像人格」(イマジナリープレイメイト)と呼ばれ、交代人格とは区別されています。

交代人格が自己の分離による「断片」なのに対し、想像人格は、想像力によって作り出される「膨張」であり、たいていは善良で友好的だと説明されています。(p71,137,254,付録の解説p10)

9.治療には専門家の見極めが必要

解離性障害は、さまざまな原因が複雑に絡みあい、多彩な症状をみせる複雑な病気です。

そのため、このブログの情報も含め、ネット上の知識などで素人診断を下したり、見よう見まねで治療を試みたりするのは危険です。

まず、一見解離性障害のように思えても実は他の病気であったり、その逆に別の病気と診断されていても実は解離性障害としての治療が必要だったりする場合があります。

この本にはたとえば、統合失調症との違い(p18,24,48)や、境界性パーソナリティ障害との違い(p20,23,48)が書かれていました。これらの病気との違いはこのブログでも過去に扱いました。

統合失調症と解離性障害の6つの違い―幻聴だけで誤診されがち | いつも空が見えるから

 

境界性パーソナリティ障害と解離性障害の7つの違い―リストカットだけでは診断できない | いつも空が見えるから

 

また他の病気と同様に、自助グループや家族会、ネット上のコミュニティなどが助けになる場合もありますが、解離性障害の特有の不安定さのため、よりストレスを抱え込んだり、再外傷体験につながったりするなど、安全性の危うさが指摘されています。(p49)

さらに、医師選びにおいても慎重さが求められます。たとえば一般にトラウマ処理に用いられる治療法であるEMDRでは、解離の専門家が慎重に行わないと、健忘障壁が一気に低くなることで封印されていた記憶が拡散するなどの危険もあるそうです。(p42,43)

治療を進めることで、隠れていた人格が目覚め、一時的に悪化したように見えることもしばしばで、治療には専門家による安全のサポートが必要です。(p45,47)

解離性障害は、自分の手には負えず、触れることさえ危険な記憶を隔離している防衛反応ともいえるので、いわば危険物の取り扱いに熟達した信頼できる専門家を探して受診し、信頼関係を深めた万全の体制で治療を始めることが大切です。

子ども時代の慢性的なトラウマ経験がもたらす5つの後遺症と4つの治療法 | いつも空が見えるから

 

10.治療の目標は解離症状のコントロール

解離性障害の専門家のもとで、万全の体制で治療を始めたなら、すでに書いた通り、目ざすべきゴールは、解離傾向そのものを治療することではなく、解離傾向をコントロールして安定化させることです。

人格が複数に分かれているような解離性同一性障害(DID)の場合でも、必ずしも人格を統合し、ひとつにする必要があるわけではありません。

解離性同一性障害は、1人の心の中に2つ以上の異なる人格が存在している状態です。かつてはそのこと自体が病的とされ、1つの人格に統合するということが最終的な治療の目標になると、当然のように考えられてきました。

そのため、好ましくない人格を消したり、似たような人格を融合させていくような方法がとられたこともありましたが、そういった治療は必ずしもいい結果を生みませんでした。(p33)

交代人格は、それぞれ必要があって生まれたものなので、無理に統合すると、かえってストレスにもろくなる危険が生じるかもしれません。

多重人格やイマジナリーフレンドは必ず人格を統合し、治療する必要があるのか | いつも空が見えるから

 

あるDIDの患者は、症状が回復するとともに、状況に応じてどの人格を表に出すかコントロールできるようになり、困ったときに別の人格がアドバイスしてくれるようになったといいます。

自分の意志に反して解離しそうになったときは、地に素足をつけるグラウンディングなどの技法によって解離を抑制するスキルも身につけました(p28)

何度も考えてきたとおり、解離性障害になる人の解離傾向は幼いころからのものですし、解離症状があっても、日常生活に大きな支障がないなら「障害」ではありません。

解離性障害の人が持つ強い解離傾向は、こまやかな感受性や芸術的な才能として役立つことも多いそうです。

治療の目標は、強い解離傾向を消し去ることではなく、それをコントロールして、「障害」ではなく「個性」や「強み」に変えることだといえるでしょう。

解離性障害と芸術的創造性ー空想世界の絵・幻想的な詩・感性豊かな小説を生み出すもの | いつも空が見えるから

 

解離性障害の理解を深めるために

今回紹介したこころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害は、専門的な本ではあるものの、比較的わかりやすく、気づきも多い一冊でした。

今までこれほど大勢の専門家が解離について語っている本を読んだことがなかったので、さまざまな専門家に意見に触れることができて、とても新鮮でした。

これから解離性障害について知りたい人には、とてもわかりやすく書かれた解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)わかりやすい「解離性障害」入門のほうをお勧めしますが、解離についての本をすでに何冊か読んでいて、さらに詳しい点が気になる人はこの本を読んでみるといいかもしれません。

ひとつ個人的な意見をいうと、Q&Aの部分のイマジナリーコンパニオンについての説明(Q30,Q31)は疑問に感じる内容も多く、その点だけは他の専門家によるこれまで紹介してきた本のほうが参考になるように思いました。

解離性障害は、いまだ研究途上の病気であり、患者や家族も、いったい何が起こっているのか、どう対処すればよいのか、どの病院に行けばよいのか、といった悩みを抱えがちです。

そんなとき、多くの患者を診て回復へと導いてきた解離性障害の専門家による本を読んでみるなら、あたかも地図を参照するかのように、自分の居場所がわかり、向かうべき方向もおぼろげながら見えてくるものと思います。

イマジナリーフレンド(IF)「私の中の他人」をめぐる更なる4つの考察

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たしの中にいる他人。心の中に別の人がいる。存在を感じるだけでなく、完全に第三者的な思考を持っていて、友人のように会話することもできる。

そのような感覚を感じることがありますか?

ある人たちは、そのような話を聞くと、何か病的な印象を受けるかもしれません。おそらく、頭の中に声が聞こえるという統合失調症や、心が多くの別人に分かれる多重人格、すなわち解離性同一性障害(DID)を思い浮かべるのでしょう。

しかし、「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からという本で、そうした病気を専門とする大饗(おおあえ)広之先生ははっきりと、次のように述べています。

たとえば「頭のなかにもう一人の自分がいる」と訴える人がいても、もはやわれわれは彼をすぐさま病的と決めつけるわけにはいかない。

彼らに統合失調症や多重人格などという診断は当てはまらないし、それどころか、その訴えをすぐに「症状」とみなすことさえできない。

信じられないかもしれないが、そういった軽微な人格の複数化が潜在的にはかなりの勢いで拡がっているのである。(p3)

ここでは、そうした現象は、必ずしも「病的」ではなく統合失調症や多重人格の診断は当てはまらず、むしろ意外なほど多くの人が経験しているかもしれない、と書かれています。

この現象は医学的にはイマジナリーコンパニオン(IC:想像上の仲間)、より日常的にはイマジナリーフレンド(IF:空想の友だち)と呼ばれる現象で、いまだ多くの謎に包まれています。

このブログでは、1年半前に、IFについての詳しい考察を書きました。当時は、わたしの知識の及ぶ範囲としては、書けることはすべて網羅したと考えていました。

しかしそれ以降読んだ多くの本、たとえば先ほど挙げた大饗広之先生の「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からや、岡野憲一郎先生の解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合、アリソン・ゴプニック先生の哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)などを通して、より理解が深まったので、改めて考察をまとめることにしました。

こうした軽微な人格の多重化の原因は何なのでしょぅか。本当に病的でないとみなしても大丈夫なのでしょうか。解離性障害や発達障害との関わりはあるのでしょうか。4つの観点から考えてみたいと思います。

さまざまな「わたしの中の他人」を結び合わせる

「心の中に別の人間がいる」。

そんなことを言おうものなら、冗談とみなされたり、心の健康を疑われたりするかもしれません。見えない友達がいる、というのは、世の中の大半の人にとって、お世辞にも良い印象を与えるものではありません。

しかし、これまでこのブログで何度も扱ってきたとおり、「心の中に別の人間がいる」というのは、意外にも、さほど珍しい現象ではありません。

たとえば以下のような例を考えてみてください。

■子どもの空想の友だち イマジナリーコンパニオン(IC)
幼い子どもの半数近くが空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)を持つことが知られています。子どもの空想の友だちは、健全な成長の過程で、見えない遊び友だちとして一時的に現れ、いつの間にか消えてしまいます。

子どもにしか見えない空想の友達? イマジナリーフレンドの7つの特徴に関する日本の研究 | いつも空が見えるから

 

 ■サードマン現象
特殊な条件下でみられる「サードマン現象」は、雪山などで遭難したとき、そばに「もう一人のだれか」がいる気配を感じ、励ます声を聞きながら、生還した人たちのエピソードによって一躍有名になりました。

サードマン・イマジナリーフレンドが現れる5つの条件―「いつもきみのそばを歩くもう一人がいる」 | いつも空が見えるから

 

 ■解離性同一性障害(DID)
重い病気とみなされている、解離性同一性障害(DID)、いわゆる多重人格もまた、心の中に大勢の他人が現れます。子どもの空想の友だちと違って、人格交代して意識をのっとり、ときに攻撃的だったり、トラウマチックだったりすることが特徴です。

多重人格の原因がよくわかる7つのたとえ話と治療法―解離性同一性障害(DID)とは何か | いつも空が見えるから

 

そのほか、トランス性の憑依現象や、睡眠中に別人のように行動するノンレムパラソムニアなども周辺の現象と思われますが、ここでは複雑になるので割愛します。

これらの現象は、見ての通り、まったくの健康とみなされているものから、病的とされているものまで様々であり、それぞれ別々の分野の専門家によって研究されてきた歴史があります。

子どものICは発達心理学者たちにより、DIDは精神科医たちによって、そして、サードマン現象は、ときに宗教家や神学者たち、そして近年では神経科学者たちによってメカニズムが究明されています。

ところが、不思議なことに、これら複数の「わたしの中の他人」現象につながりがあるのか、ということに関しては、それぞれの専門分野を超える具体的な研究は、ほとんどなされてきませんでした。

青年期のイマジナリーフレンドの不可思議さ

さらに、「わたしの中の他人」には、もう一つ、忘れてはならない、規模の大きな集団があります。

それはすなわち、この記事でおもに扱う、青年期のイマジナリーフレンドのことです。

ファンタジーと現実 (認識と文化)によると、1991年の日本の調査では、約2.8%の人が大学生になってもイマジナリーフレンドを持っていることがわかりました。(p125)

代表的な精神疾患である統合失調症でも、有病率は人口の約1%ほどと言われていますから、その3倍近くを数える青年期のイマジナリーフレンドが、その規模の大きさに反して、いかに見過ごされてきたかがわかります。

「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からの中で、解離性障害に詳しい精神科医の大饗広之先生は、そのことを率直にこう認めています。

精神科臨床の現場でICが認識されるようになったのは、まだここ最近のことである。

しかし、注意を向ければ向けるほど、こうした現象が青年のあいだに(病的か健全かを問わず)広く蔓延していることに気づかざるを得ない。(p183)

青年期のIC、つまりイマジナリーフレンドは、子どもの空想の友だち研究や、病的なDIDの研究から長く取り残されてきました。

時折、それぞれの分野の専門家が、関連性に言及していますが、その意見はまとまりを欠いているように思えます。たとえば次のような意見が聞かれるかもしれません。

■子どものイマジナリーコンパニオンはまったく健康なもので、解離性障害や発達障害と無関係

■青年期のイマジナリーコンパニオンは解離性障害やアスペルガー症候群との関連が示唆され、病的なものとなる場合もある。

■イマジナリーコンパニオンが記憶の消失を伴わないのに対し、解離性同一性障害(多重人格)の交代人格は、人格同士の間で記憶のやりとりができないので、両者は別物

こうした意見からすると、あたかも、青年期のイマジナリーフレンドは、子どもの健康なイマジナリーフレンドとも、病気としての解離性同一性障害(DID)の交代人格とも性質をたがえる謎めいた現象であるかのように思えます。

これらは互いにつながりのない、別のメカニズムによって生じる、異なる現象なのでしょうか。

青年期のイマジナリーフレンドは、「わたしの中に他人がいる」という明確な共通点があるにもかかわらず、健康な子どもの空想の友だちとも、病的な多重人格とも成り立ちを異にする独特な現象なのでしょうか。

すべては根底でつながっている

わたしは、このブログで、1年半ほど前、イマジナリーフレンドとは何か、という4つの考察をまとめた以下の記事を書きました。

イマジナリーフレンド(IF) 実在する特別な存在をめぐる4つの考察 | いつも空が見えるから

 

そのころ様々な分野に点在する「私の中の他人」の現象すべては、おそらくつながりがあるのだろうとは思っていたものの、うまく関係を整理しきれなかったため、あくまで4つの観点から掘り下げるにとどめました。

しかし、それから1年半が経ち、様々な書籍を読んできた結果、4つの観点から掘り下げた先は、確かに奥の方で一つに つながっていることに気づきました。

それぞれの現象の根底にあるメカニズムは、ちょうど虹色のグラデーションのように連続性を持つものであり、その場その場によって、さまざまな形をとって表に現れているにすぎないのです。

これは、多くの子どもが持つ空想の友だちが、解離性同一性障害につながりかねない病的なものだとか、危険な要素を持っている、という意味ではありません。 おいおい説明しますが、どちらかというとその逆です。

1年半前の考察の4つの観点とは、以下のようなものでした。

1.発達心理学
2.解離
3.愛着理論
4.アスペルガー症候群

これらの方向性は、幸いにもすべて正しかったようです。

それで、今回のさらなる4つの考察では、前回の4つの観点をさらに掘り下げ、根底のところでそれらが一つにつながっていることを説明したいと思います。

この解説は、前回の記事を土台としているので、イマジナリーフレンドについての基本的な説明をお知りになりたい場合は、イマジナリーフレンド(IF) 実在する特別な存在をめぐる4つの考察 も合わせてご覧になるようお勧めします。

このたびも、様々な書籍から引用した長文で、おそらくこれまでのわたしの記事の中で最長なので、気楽に読んでいただくのは難しいと思います。しかし、この分野に関心のある方は、辛抱強く最後までお付き合いいただければ幸いです。

もちろん、前回同様、専門家ではない一個人の考察にすぎないこともお含み置きいただければ嬉しく思います。 

第一章 「心の理論」が生み出すIF

まず、最初のセクションでは、発達心理学の研究に軸足を置きつつ、多くの子どもたちに見られるIFと、青年期のIFとの関連性を考えます。

幼年期の子どもに見られる無邪気なIFと、青年期に見られるIFとの間につながりはあるのでしょうか。 

子どものIFは、各統計で割合に差がありますが、かなりの数の子どもが、2-3歳から7-8歳ごろまでの期間に、想像上友だちを一時的に創りだすと言われています。

たとえば解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にはこうあります。

一般人の20-30%にみられ、一人っ子か第一子の女性に多いとされる。8-12歳の間にはかなり少なくなってしまう。(p128)

一方で、哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)には、もっと割合の高い統計が紹介されています。

テイラーは、三、四歳児とその親を無作為に選び、空想の友だちについて具体的に質問していきました。

すると、子どもたちの大多数、実に63パーセントもが、生き生きとした、ときに不気味な空想の友だちをもっていることがわかりました。(p74) 

こうした調査からすると、おそらくは半数近い子ども、つまり3人に1人から、2人に1人ほどの割合の人が、子ども時代には空想の友だちとの交流を楽しんでいるのでしょう。

多くの人はそのことを覚えていませんが、統計は、IFが子どもたちの間にごく普通に生じる普遍的な現象であることを物語っています。

当然ながら、それほどありふれた現象が、心の病気と関係しているとは思えません。現に、上記のテイラー博士の別の研究結果について、おさなごころを科学する: 進化する幼児観にはこう書かれています。

この研究領域の第一人者であるテイラー博士の研究からも、児童期における空想の友達の有無は、青年期における精神疾患とは関連がないことが示されています。(p241)

それで、まずはっきりと断言しておきますが、これまで何度も書いてきたとおり、子どものIFは基本的に言って精神疾患との関係は何らありません。

ですから、親は我が子がIFを持っていることに気づいた場合、心配したりするのではなく、むしろ子どもと一緒に空想の世界の冒険を楽しむことができます。

キーワードは「心の理論」

しかし、子どものIFが精神疾患とは関係がないからといって、子どものIFと大人のIF、はたまたDIDとの間にまったくつながりがない、というわけではありません。

わかりやすくするために別の例で考えてみましょう。

たとえば、真面目であることは、それそのものが、将来の病気と関係することはないでしょう。むしろ真面目であることは良い結果をもたらします。

しかしあまりに真面目さの度が過ぎて、完璧主義的になってしまうなら、それは様々なストレスを抱え、心身の病気を呼びこむ可能性をはらんでいるかもしれません。

同様に、IFを持つ子どもは、研究によるとある性格特性を持っていることがわかっています。それそのものは決して悪いものではなく、むしろ優れた能力といえます。

しかし、その性格特性が強すぎる場合、子どもは単にIFを持ちやすいだけでなく、あたかも真面目さが行き過ぎた完璧主義の場合のように、心身に大きなストレスを抱え込むことになってしまいます。

その行き過ぎたある性格特性の結果が、青年期のIFであり、さらにはDIDであると考えられます。

ではその性格特性とはなんでしょうか。おさなごころを科学する: 進化する幼児観には、IFを持つ子どもが次のような特徴を示すと書かれています。

空想の友達を持つ幼児は、他者の視点を考慮する能力に長けていること、より複雑な構造を持った発話ができること、知識状態の理解に優れていること、などが示されています。(p253)

ここでは、IFを持つ子どもは、「他者の視点を考慮する能力」や複雑な会話の能力に秀でていると書かれています。

これを、哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)によると、次のような一つの言葉で言い換えることができます。

空想の友だちのいる子はそうでない子より心の理論が発達している傾向はあります。空想の友だちのいる子はいない子よりも他人の思考、感情、行動の予測が上手です。(p88)

そうです、IFを持つ子どもは、他の子どもよりも、他人の思考や感情、行動を汲み取る力、すなわち「心の理論」が優れているのです。

「いない人」のことまで考える

「心の理論」が優れている、というのは、一見して、とても良いことのように思えます。実際にところ、それはすばらしい才能です。

現代社会では、しばしば、空気の読めない人がKYと揶揄されます。空気を読む力は、有能な社会人になる上で、とても大切だと考えられています。

「心の理論」が優れている人は、他の人の気持ちがよくわかるので、適切なときに空気を読むことができますし、優しい気遣いや気配りが得意です。

他の人の心に深い興味と関心を持っているので、周りの人に深く感情移入することができ、とても温かみのある人に成長することもあります。

それで、哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)には、「心の理論」が優れ、IFを持つ子どもについてこう書かれています。

また、これは通説とあべこべなのですが、人なつっこい子のほうが、内気で孤独な子より空想の友だちをもちやすいそうです。

…空想の友だちのいる子は周囲の人たちのことを人一倍気にするので、「いない人」のことまで考えてしまうのかもしれません。(p88)

内気な子どもではなく、他の人に積極的な関心を向ける気配りのできる子どもだからこそ、「いない人」のことまで考えてしまい、イマジナリーフレンドを創造することができます。

単に他の人に興味があるだけでなく、「心の理論」が優れているため、自分以外の人の気持ちに敏感で、相手の立場に立って、どんな気持ちなのか具体的に想像することができます。

その結果、現実に存在する他人だけでなく、現実に「いない人」の気持ちまで手に取るよう想像できてしまいます。そうして創られるのが、架空の目に見えない友だち、イマジナリーフレンドなのです。

子どものイマジナリーフレンドは、このような社交的で、他の人の気持ちを考える能力の高い子どもが、親が下の子の世話などで忙しくなったりしたとき、寂しい気持ちを補うために創りだすことが多いと言われています。

おさなごころを科学する: 進化する幼児観によると、ほかの研究でも、IFを持つ子どもは、無生物やランダムな図形の動きに生き物らしさを感じることができたり、他の子どものIFにも感情移入できたりすることがわかっています。

いずれの研究結果も、IFを持つ子どもが、まわりの人の気持ちをよく汲み取り、時には物や「いない人」にまで感情移入してしまうことを示しています。

小説家としての才能

このような幼いころの優れた「心の理論」は、何も子どものころだけの才能ではありません。

学生のころも、また大人になってからも、優れた才能として開花する可能性があります。

哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)によると、先ほどのテイラー博士は、IFを持つ子どもたちの中には、後に創造的な才能を開花させる人が含まれている、ということに気づきました。

マージョリー・テイラーは、子どもが空想の人物を生み出す能力と、大人が反事実からできている架空の世界を創作する能力、つまり小説家や劇作家、シナリオライター、役者、映画監督がもつような能力には関連性があることに気づきました。(p92)

テイラーが注目したのは、作家や役者の能力と、子どもの創りだすIFの類似性です。

IFを持つ子どもは、「いない人」の気持ちまで想像してしまいますが、それは小説家や俳優には必須の能力です。

小説家やシナリオライターは、現実には存在しない登場人物の心の動きを理解して、リアルな文章を書かなければなりませんし、俳優は存在しない人物の気持ちを理解して役になりきらなれければなりません。

このような想像力は、普通の人にはなかなか備わっていないものですが、子どものときにIFを創造していた人の場合は、そのときの能力が、そのまま活かされる場合があります。

続く部分では、テイラー博士の具体的な調査が紹介されています。

テイラーは文学賞を受けた作家から熱心なアマチュアまで、小説家を自認する50人について調査を行いました。するとほぼ全員が、作品の登場人物の自律性を認めていました。

…興味深いのは、約半数は幼児期の空想の友だちを覚えていて、その特徴もいくらか答えられたことです。

対照的なのは一般の高校生で、幼い頃は多くが空想の友だちをもっていたのでしょうが、今もそれを覚えていると答えた生徒はわずかでした。(p93) 

テイラー博士は、小説家たちを集めて、空想の友だちと、小説のキャラクターについて、アンケートをとりました。

すると、IFと小説のキャラクターには、どちらも自分の意志をもって動くという類似点があり、しかも小説家の半数が子どものころのIFを覚えていたのです。

これは、子ども時代のIFと、小説の創作の両方に、「いない人」の気持ちまでありありと想像する類まれな「心の理論」が関わっていることを示しています。

もちろん、IFを持つ子どもが人口の1/3から1/2ほどいるとはいえ、そのすべてが後に作家や俳優になるわけではありません。

IFを持つ子どもたちは、全体として平均すれば、IFを持たない子どもたちより「心の理論」が優れているのは確かです。

しかしIFを持つ子どもたちの中だけを比べてみると、ほんの少し「心の理論」が優れているだけの子どももいれば、「心の理論」が飛び抜けて優れている子どもも、わずかながらいることでしょう。

そうした飛び抜けて優れた「心の理論」と、そのほかの様々な環境要素や才能とが運良くマッチした場合に、将来、小説家や俳優になる子どもが現れるかもしれません。

このように書くと、「心の理論」は優れていれば優れているほど良いかのように思えます。しかし、必ずしもそうではありません。

行き過ぎた真面目さが身を蝕むように、行き過ぎた「心の理論」もまた、両刃の剣となりかねません

小説家や詩人はなぜ気分障害を抱えやすいのか

天才の脳科学―創造性はいかに創られるかという本では、優れた芸術的才能を持つ作家たちについて、統計的な調査が行われています。

すると、彼らは優れた才能だけでなく、精神的な脆弱性も持ち合わせていることが明らかになりました。

これらの英国の優れた文系の人々は、非常に高い頻度で気分障害に陥っている。

全例の38パーセント以上が感情障害で治療を受けたことがあり、なかでも劇作家がもっとも頻度が高く、その次が詩人だった。(p143)

この研究では、英国の優れた詩人、劇作家、小説家などが調査されましたが、彼らはかなりの割合で気分障害を抱えていました。

有名なところでは、ハリー・ポッターの作家J・K・ローリングが、有名になる前、うつ病で生活保護を受けながら小説を書いていたエピソードが知られています。

興味深いことに、これら小説家や詩人に多かった病気は、一般に天才的な才能との関係が取り沙汰される統合失調症ではありませんでした

作家の面接を始めて一連の精神測定検査を行っていくと、私の仮説の誤りがすぐに明らかになってきた。

意外なことに作家の多くが、双極性障害か単極性鬱病に合った気分障害の個人歴があり、治療を受けたことがあった。(p139)

これに対し、芸術的な分野ではなく、科学的な分野の天才たちに目を向けると、統合失調症の不全型や、家族に統合失調症の患者がいる例がしばしば見られるそうです。(p144)

ではなぜ、科学の分野には統合失調症の天才が多い一方で、芸術の分野には気分障害の天才が多いのでしょうか。

日本の有名作家を見ても、夏目漱石、太宰治、三島由紀夫、川端康成など、気分障害に悩まされた有名作家には事欠きませんが、そこには何が関係しているのでしょうか。

端的に言えば、科学の分野で成功するのと、芸術の分野で成功するのとでは、求められる能力が異なっているのです。

科学の分野では、鋭いひらめきと洞察、論理的で精密な思考が求められます。

これはアスペルガー症候群の人などが得意とする分野であり、近年の研究によると、アスペルガー症候群と統合失調症の脳の活動は類似していて、何らかの共通要因があるとみなされています。

脳MRI画像で自閉スペクトラム症を85%判別―ADHDやうつ病ではなく統合失調症と脳活動が類似 | いつも空が見えるから

 

それに対して、小説家や詩人に必要なのは、データを読み取るロジカルな思考でも、統合失調症の妄想じみた独創的なひらめきでもありません。

芸術に必要なのは感性、特に人の心を読み解く力「心の理論」なのです。

先ほど、行き過ぎた「心の理論」は両刃の剣になると書きました。容易に想像がつくことですが、他の人の気持ちがわかるだけでなく、わかりすぎてしまうことは、大きなストレスになるでしょう。

優れた「心の理論」はこまやかな作品を生み出しますが、同時に人の表情の裏にある感情が読みすぎてしまったり、周囲の人たちの評価に敏感になりすぎてしまったりして、疲れてしまう原因にもなるでしょう。

しかしながら、根底にある問題は、そう単純ではありません。「心の理論」が優れているから、気分障害になりやすい、というのは、問題の本質を見落としている因果関係の錯誤です。

「心の理論」が優れていること自体は何も問題はないのです。「心の理論」が優れ、IFを生み出した子どもたちの多くが心の問題を抱えなかったことがそれを示しています。

要点はここです。 

もし、その優れた「心の理論」が、人への純粋な興味から育まれたものなのであれば、そこには何の問題もありません。

しかしもし、その優れた「心の理論」が、生きるために強いられて発達させた適応だとしたら?

セクション2では、いよいよ発達心理学が描き出す子どものイマジナリーフレンドと、青年期のイマジナリーフレンドとがリンクすることになります。

第二章 「愛着トラウマ」を癒やすIF

セクション1で考えたのは、子どものイマジナリーフレンドを生み出す要因の一つが、優れた「心の理論」、つまり他の人の気持ちを汲み取る能力である、ということでした。

そして、そのような優れた「心の理論」は、小説家や詩人などの芸術的才能とも関係していますが、不穏なことに彼らは気分障害を高い確率でもちあわせている、ということを考えました。

しかしながら、それら小説家や詩人が持つ気分障害を、うつ病や双極性障害などと結びつけるのは、いささか的外れかもしれません。

なぜなら、それらの芸術的な作家たちが持つ気分障害の原因は、一般的な意味でのうつ病や双極性障害ではなかったと考えられるからです。

彼らが優れた「心の理論」を育て、芸術的才能に秀で、しかも気分障害を抱えていた。そのすべてを説明できるのは、うつ病でも双極性障害でもなく、「愛着トラウマ」です。

「愛着トラウマ」とは何か

「愛着トラウマ」とは何でしょうか。

ここは誤解を招きやすい点なので、しっかりと理解していただきたい部分ですが、「愛着トラウマ」は、その語感から連想されるような、激しい児童虐待ではありません

ややこしく感じるかもしれませんが、「愛着トラウマ」とは、「トラウマ」という名前がついていながら、衝撃的な体験どころか、本人も家族もまったく気づいていないような経験を指しています。

以前の記事で説明したとおり、ここでいう「愛着」とは、英国の精神科医、ジョン・ボウルビィが提唱した愛着理論に関するものです。

長引く病気の陰にある「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」 | いつも空が見えるから

 

愛着理論は、ごく幼いころ、生後半年から1歳半くらいまでの養育者の関わり方が、その後の人生における対人関係や思考パターンの型となる、という考え方です。

後ほど説明しますが、現在では、これは単なる理論ではなく、生物学的な現象であることが、脳科学の研究などで裏づけられています。

「愛着トラウマ」というと、さぞかしひどい親のもとで悲惨な育てられ方をした子どもに当てはまるのだろうと思いがちですが、それは全くの誤解です。

むしろ非常に優しい親の元で育ったとしても「愛着トラウマ」を抱える場合があります。

そのことをわかりやすく説明している、母という病 (ポプラ新書)の説明を見てみましょう。

基本的安心感は、ゼロ歳から、1,2歳までの間の、まったく記憶にも残らない体験によって形づくられる。

…この時期に、母親からの全面的な関心と愛情を受けて育った人は幸運だと言える。

しかし、不幸にもそうでなかった場合、子どもは、基本的安心感を育むことができず、いつも居心地の悪さを感じ、自分に対しても違和感を覚えることになる。

自分が自分であって自分でないような不全感をもって育つことになりやすい。(p74-75)

ここにある「基本的安心感」とは、自分以外の他人は、基本的にいって信頼に価するものなのだ、という無意識の感覚のことです。「基本的信頼感」が、つまり「愛着」というものの一面なのだ、と言い換えることができます。

「基本的信頼感」がちゃんと備わっている人は、他の人を道理にかなった仕方で信頼することができますが、もしこれが欠けていたら、その後の人生で、心の底から他人を信頼して自分を委ねることを、たとえ頭では安全だとわかっている相手に対してでさえ難しく感じます。

さらにいえば、人を信じるというのがどういうことなのか、本当の意味で理解することができません。

これはちょうど、子どものときに言語を学ぶかどうか、というシチュエーションに置き換えてみればわかりやすいでしょう。

言語も愛着も学習の臨界期、また感受性と呼ばれる期間があります。子どものときに慣れ親しんでいれば、ネイテイブとして自由に言語を操れますが、その時期を逃すと、後から学んでも、本当の意味で母語のように自由に扱うことはできないのです。

「基本的信頼感」つまり、愛着もそれと同じです。

母親との絆は、いつでも育まれるわけではない。生まれてから一歳半までの限られた時間しか、安定した絆は形成されないのだ。それは、子どもの脳でオキシトシンなどの受容体が、もっとも増える時期でもある。

その限られた時間は、母子双方にとって、かけがえのない特別な時間だ。そのときを過ぎてしまってから、いくら可愛がったところで、もう間に合わない。不可能ではないが、その時間を取り戻すことは容易ではない。(p76)

ここに書かれている、母親との絆を限られた期間に育めなかった状態、それこそが「基本的信頼感」の欠如であり、「愛着トラウマ」です。

「愛着トラウマ」を抱える子どもの中には、虐待やネグレクトに遭った子どもも当然含まれますが、それ以外にも、やむを得ない事情で、この時期の絆の形成に失敗してしまうケースはいくらでも考えられます。

たとえば、親との死別、たまたま親が産後うつなどで子どもをじっくり育てられなかった、仕事が忙しくて母親以外が交代で面倒を見ていたなど、親が悪いとは到底言えないケースも多々あるでしょう。

しかし先ほど書かれていたとおり、いかなる事情があるとしても、その時期を逃せば、後でいくら愛情を注いでも手遅れで、子どもは「愛着トラウマ」を抱えたまま成長することになります。

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち | いつも空が見えるから

 

幼いころに学ぶ感情のパターン

それにしても、「愛着トラウマ」を抱えると、いったい子どもの身に何が生じるのでしょうか。

少し難しいですが、その時期に、幼い赤ちゃんの頭のなかで、何が起こっているのかをかいま見ることにしましょう。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合には、「愛着トラウマ」の形成がどのように起こるのかが、次のように書かれています。

幼児は幼いころに母親を通して、その情緒反応を自分の中に取り込んでいく。

それはより具体的には、母親の特に右脳の皮質辺縁系のニューロンの発火パターンが取り入れられる、ということである。

…そしてこれは、ストレスへの反応が世代間伝達を受けるということなのだ。そこに解離様の反応の世代間伝達も含まれる、(p17-18)

少しわかりにくいかもしれませんが、簡単に言えば、生後まもないその時期に、赤ちゃんは養育者の情緒反応のパターンを、自分の脳に取り込む、ということです。

もっとわかりやすくいうと、感情のパターンが親に似る、と言い換えることができるでしょう。

赤ちゃんは、生後半年から1年半ほどのその時期に、生涯にわたる、感情反応の土台となるパターンを、親から読みとることで脳に刻み込みます。以降の人生の感情や思考は、そのパターンに基づいて積み上げていくことになります。

では、たまたまその時期、母親が精神的に不安定で混乱していたならどうなるでしょうか? 母親にとってはその混乱は一時的なものかもしれませんが、子どもはその混乱を土台として取り込んで脳を成長させていきます。

もし虐待されたり、養育者がコロコロ変わったりすればどうでしょうか。やはり普通とは違った異常なパターンが組み込まれることでしょう。

もちろん、ちょっとした育て方のミスが命取りになるというほど、赤ちゃんの脳は柔軟性に欠けるわけではありません。幼いころに言語を学習する機会を逃しても、まだ10代のころまでに学習し始めるなら、ある程度は取り戻せるかもしれません。愛着も、ある程度はフォローアップできます。

しかしそれでも、幼いころに混乱した養育環境にさらされると、その影響は、脳の発火パターンとして、その後の人生に根深い影響を与えます。

空気を読み過ぎる「過剰同調性」

そのような幼いころに学んだ混乱した感情のパターンが現れる結果の一つが、「過剰同調性」と知られている性格特性です。

ようやくここで、1つ目のセクションで考えた話と結びつきます。

「過剰同調性」とは、言い換えると、空気を読みすぎ、相手に合わせすぎる傾向、すなわち、異常発達した「心の理論」なのです。

「過剰同調性」は以前の記事で取り上げたとおり、解離性障害の患者の素因として知られています。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か | いつも空が見えるから

 

解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論で解離性障害の専門家の柴山雅俊先生は、「過剰同調性」についてこう述べていました。

嫌われないように相手に合わせる。相手が喋っている内容から、その人の考え方を読み取って、それをもとにしてその人が好むようなことをいう。嫌われるのも、怒らせるのも、議論になるのも怖い。(p139)

つまり家族の雰囲気や学校という場での緊張感、雰囲気、空気などを読んで、トラブルにならないように自己犠牲的に周囲に合わせようとする。

以上のような特徴を「過剰同調性」と名づける。(p83)

相手の考え方を過剰に読み取って、それに合わせていく、空気が読めないKYとはまさに対極にある特性であることがわかります。

しかしながら、どうして「愛着トラウマ」は「過剰同調性」につながるのでしょうか。

先ほど、行き過ぎた「心の理論」の危険性をめぐる要点として、その「心の理論」が、純粋な他人への興味から育まれたのか、それとも強いられて発達させざるを得なかったのかが問題だ、と書きました。

「愛着トラウマ」の結果、異常発達する「心の理論」は、まさしく後者の強いられて発達させざるを得なかったものです。

「愛着トラウマ」の原因は何だったか、思い出してみてください。幼いころに、養育環境が混乱していて、他の人を信頼することを学べなかったことが、事の発端でした。

だれも心から信頼できず、養育者にさえ警戒してしまうとき、子どもはどんな戦略をとるでしょうか。敵か味方かもわからない見知らぬ人たちに囲まれているとき、あなたはどうやって生き延びますか。

きっと、顔色をうかがい、はたして相手が敵か味方かを知るために、過剰に空気を読んで先を予測しようとするでしょう。

「愛着トラウマ」を抱え持つ人は、本人は自分では気づいていないかもしれませんが、無意識のうちにそのような生き方をするようになります。

基本的信頼感が欠如しているために、常に周りの顔色や感情の変化にアンテナを張り巡らす生き方を、幼児のころからずっと続けてきたので、それが当たり前だと思っているのです。

「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からの中でも、大饗広之先生が、そのような強いられた空気を読みすぎる生き方について説明しています。

「小さな集団」にはそれぞれ、それなりの準拠枠というのがあって、いつも彼らはアンテナを立てて空気を読んでいなければならない。

みせかけの優しさを維持するにも緊張を緩めることができない。(p159)

常に相手の顔色をうかがっていて、その場その場で最善の身の処し方を無意識のうちに決定します。

そのため、普通の人以上に、場面ごとに空気を読んで別の自分を演じることが多くなります。

さきほど、心の理論の優れた人たちが活躍する職業の中に、小説家やシナリオライターのほかに、俳優が含まれていたのを覚えているでしょうか。

そのことが書かれていた哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)の文脈には、次のような記述がありました。

キラキラのマントを羽織り、髪を振り乱した妖精の正体は、空想の世界に浸っている三歳の女の子であってもいいし、『真夏の夜の夢』のタイターニアを演じる俳優であってもいいわけです。(p92)

「心の理論」の優れた、空想の友だちを持つ子どもが、IFの妖精になりきるように、「心の理論」の優れた俳優は、タイターニアになりきります。

そして、生存戦略として「心の理論」を異常発達させてきた愛着トラウマを抱える人たちは、ファンタジーの中でも、劇場の舞台の上でもなく、この日常世界のただなかで、空気を読んで、様々な自分を演じ分けることで、身を守るようになるのです。

それはまた、解離性障害の患者の特徴でもあります。

解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論にはこう書かれています。

彼らはこのようなありありとした表象の中へと容易に没入する傾向がある。

読書でも映画でもテレビでも、その物語の中へ容易に入り込んで、その中の自分に成りきってしまう。(p203)

以前の記事で取り上げたとおり、解離性障害の人が、小説や詩、絵画、そして演劇などの芸術的な才能に秀でていることはよく知られています。それらは人並み優れた「心の理論」と感受性によって成り立っています。

解離性障害と芸術的創造性ー空想世界の絵・幻想的な詩・感性豊かな小説を生み出すもの | いつも空が見えるから

 

さらに、この「心の理論」、つまり空気を読む、という能力は、あたかも鎖輪のようにして、子どものイマジナリーフレンドと、青年期のイマジナリーフレンド、そしてさらには解離性同一性障害(DID)を結び合わせています。

イマジナリーフレンドを持つ子どもは、空気を読む感受性が強いので、「いない人」のことまで考えてしまいます。

「心の理論」がもっと強くなると、それは過剰同調性へと発展します。その人たちは、空気を読み過ぎるあまり、場面ごとに違う自分、学校や家庭、友だちの前など、それぞれの場に最適な自分を無意識のうちに演じ分けるようになります。それこそが記憶はつながっていても、性格は異なるイマジナリーフレンドの源です。

さらに過剰同調性が強くなると、場面ごとに出ていた自分が独立し、自律性を持つ他人として分裂します。その場その場で最適な交代人格が日常をこなすようになり、記憶のつながりが失われます。

解離性同一性障害の人格交代とは、すなわち、究極の空気を読み過ぎる傾向なのです。

その証拠に、解離性同一性障害の専門家たちは、DIDの交代人格が無秩序に現れるのではなく、空気を読んで現れることを述べています。

たとえば続解離性障害の中で岡野憲一郎先生はこう述べています。

私がかつて担当したある患者は、診察室を一歩出た際に、それまでの幼児人格から主人格に戻ったことがあった。

…一般に解離性障害の患者は、自分の障害を理解して受容してもらえる人にはさまざまな人格を見せる一方で、それ以外の場面では瞬時にそれらの人格を消してしまうという様子はしばしば観察され、それが上記のような誤解を生むものと考えられる。(p151)

これはもちろん、DIDの人が演技をしているというわけではありません。むしろその逆で、無意識のうちに場の空気を読む傾向があまりに強くなってしまったために、自分で自分をコントロールできなくなってしまっているのです。

健康な人が、意識的に空気を読んで場に自分をあわせるよう苦労するのに対し、青年期のイマジナリーフレンドを持つ人は、過剰同調性のせいで無意識のうちに空気を読んで態度が変わってしまいます。それでもギリギリコントロールは保ってはいますが、もし、そのコントロールが失われたなら、そのときにはDIDに発展すると考えられます。

このように、愛着トラウマによって生じる過剰同調性は、イマジナリーフレンドと解離性同一性障害をつなぐミッシングリンク的な役割を果たしているので、岡野憲一郎先生が解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で、解離性障害の人の診察で次のような点を重視していると述べているのも不思議ではありません。

成育歴の聴取の際には、その他のトラウマやストレスに関係した事柄、たとえば家庭内の葛藤や別離、厳しいしつけ、転居、学校でのいじめ、疾病や外傷の体験等も重要となる。

またその当時からICが存在した可能性についても聞いておきたい。また患者が幼少時より他人の感情を読み取り、ないしは顔色をうかがう傾向が強かったか、柴山(2010)の言う「過剰同調性」の有無がなかったかには注意を払う。(p100)

記憶にあるかどうかにかかわらず、幼いころのストレスフルな経験によって、「愛着トラウマ」を抱え持っているかどうか、そして、イマジナリーフレンドや、顔色を読み取る過剰同調性があったかどうかが、解離性障害の可能性を疑うリスク因子となる、ということなのです。

普通のIFと愛着障害のIFの違い

こうして、子どものイマジナリーフレンドと、青年期のイマジナリーフレンド、そして解離性同一性障害との関連性が見えてきたところで、それぞれの性質の違いがなぜ生じるか、という点をもう少し考えてみましょう。

まず、おさなごころを科学する: 進化する幼児観によると、健康な子どものイマジナリーフレンドと、解離性障害の子どものイマジナリーフレンドを比較したテイラー博士の研究では、次のようなことがわかったといいます。

空想の友達を持つことはこれらの精神疾患と関係しているのでしょうか。この点については、答えは否と言えそうです。

定型発達の子どもと解離性障害を持った子どもの空想の友達を比較した研究によると、前者は、空想の友達が実在しているとは思っていないのに対し、後者は空想の友達が実在していると信じているということです。(p241)

この場合、健康な子どもも、解離性障害の子どもも、イマジナリーフレンドを持っていましたが、その性質が少し異なっていました。

健康な子どもはイマジナリーフレンドが実在しないことを知っていたのに対し、解離性障害の子どもは実在を信じていたといいます。

これは、解離性障害の子どもが、現実と空想を混同してしまうことを示しているのでしょうか。

そうではないと思います。

基本的に解離性障害の人は統合失調症と違って、現実と空想の区別はついています

空想の友だちが実在していると信じていた、というのは、統合失調症のように、妄想的な意味で信じている、という意味ではない可能性があります。

それを示唆しているのが、解離性障害の子どもが持つイマジナリーフレンドについて書かれた別の文献、こころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害の子ども虐待の研究者、白川美也子先生の説明です。

想像上の友人現象(imaginary companionship)は、正常児の20%から60%にみられるが、解離性障害の子どもには42-84%と多い。

正常児のもつ想像上の友人は、2歳から4歳までに現れ、通常8歳くらいまでに消失する。

養護施設の子どもたちの想像上の友人は(1)支援者、(2)パワフルな保護者、(3)家族成因などの役割をもっていることがあり、さらに被虐待の子どものそれは、「神」、「悪魔」などの名前をもっていることがある。(p97) 

ここでは、まずイマジナリーフレンドは、健康な子どもよりも解離性障害の子どものほうに頻繁に見られることがわかります。やはり、「心の理論」が強まるにつれて、IFの頻度も上がるのでしょう。

そして、重要な点として、施設の子ども、つまり、強い愛着トラウマを抱えているような子どもたちのIFは、健康な子どものIFとは異なる特徴を持っているということがわかります。

健康な子どものIFは、「想像上の遊び友達」の名のとおり、気軽な遊び相手にすぎませんが、施設の子どものIFは、支援者、保護者、家族などの役割をもっていて、さらにトラウマが強いと、神や悪魔という名前さえ持っていると言われています。

イマジナリーフレンドの役割が異なると、当然、子どもにとっての重要性も変わるでしょう。単なる遊び相手であれば空想の産物で構いませんが、保護者や家族、神にまでなると、強い心の拠り所となっているはずです。

実のところ、健康な人でさえ、信仰心のある人は、神や仏の実在を信じているのではないでしょうか。しかしだからといってその人が妄想的なわけではありません。

つまり、解離性障害の子どもたちが、イマジナリーフレンドの実在性を信じていたという研究結果は、その子たちにとって、IFが、保護者や家族のような大切な存在だった、という意味ではないでしょうか。

なぜ「安全基地」としてのIFが必要なのか

このような、単なる遊び相手の域を越えた、保護者や家族のような役割を持つイマジナリーフレンドについては、前回の4つの考察の際にも詳しく扱ったのを覚えておられる方もいるかもしれません。

そこでは、愛着障害と関わる青年期のイマジナリーフレンドは、助け手や伴侶、さらには友人や恋人のような存在になる場合があることを説明しました。

そして、それら特別なIFは、愛着理論における、「安全基地」という役割を果たしているのではないか、という考察を含めました。

「安全基地」は、本来ならば母親などの養育者がその役割を果たします。「安全基地」という名のとおり、いつも無条件の愛で包み込んでくれる温かな存在がいるおかげで、さまざまな困難に立ち向かう勇気を持つことができ、疲れたときには帰ってきて身を休めることもできるのです。

しかし、さきほど取り上げた「基本的信頼感」が育っていない場合、すなわち「愛着トラウマ」を抱えてしまっている場合は、養育者は安全基地になりそこねてしまったので、だれかがその役割を肩代わりする必要があります。

「基本的信頼感」がないため、現実の人間にその役割を託すことができない場合、イマジナリーフレンドが保護者や、家族、神としてその役目を果たすのでしょう。

しかし、IFが安全基地としての役割を果たさなければならないのは、単に心理的な問題ではなく、実はもっと生物学的な意味があると思われます。

そのことを知るために、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合から、愛着が果たす、生物学的な役割について調べてみましょう。

この愛着トラウマは、具体的な生理学的機序を有している。

母親に感情の調節をしてもらえないことで交感神経系が興奮した状態が引き起こされる。

…しかしそれに対する二次的な反応として、今度は副交感神経の興奮が起きる。(p16)

まずここでは、愛着トラウマは、母親による感情の調節や、交感神経・副交感神経の働きと関係する、とされています。

そもそも愛着とは、生物学的に言えば、安心できる居場所を見分けるためのシステムです。

赤ちゃんは無力で無防備ですから、何よりもまず、どこにいれば、安心して眠っても構わないのか、ということを、 生まれてすぐに学習する必要があります。

生後半年から1年半ごろの早い期間に、自分のために特別な配慮を払ってくれた人、多くの場合、それは母親ですが、その母親の腕の中であれば、交感神経の警戒を解いて、副交感神経を働かせ、安心して眠ってよいのだ、ということを学びます。

そのように、交感神経を働かせ目覚めているべき場所と、副交感神経を働かせ、眠っても構わない安全な場所を見分けるシステムが、愛着と呼ばれる絆の正体なのです。

しかし、その絆が育まれず、愛着トラウマが生じると、何が起こるのでしょうか。

まず安心できる居場所がないため、警戒反応が強くなり、交感神経が過剰に興奮します。そして助けを求めて泣き叫ぶこともあります。

それでも保護が得られないと、何とか体を休めるために、母親に抱かれているわけでもないのに、副交感神経も強く働き始めます。

すると、本来はっきりとメリハリがついて、活動時と休息時に別々に働くはずの交感神経と副交感神経が、同時に興奮するという奇妙な状態になります。続く説明を見ると、その状態の異常さがわかります。

ちょうど「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」と考えると分かりやすいかもしれない。

そしてそれは、エネルギーを消費する交感神経系と、それを節約しようとする副交感神経系の両方がパラドキシカルに賦活されている状態であるとする。これが解離状態であるというのだ。(p17)

それは、「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」なのです。

この異常な状態は、混乱した無秩序な愛着パターン、通称「D型アタッチメント」と呼ばれて、以前の記事で詳しく取り上げました。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち | いつも空が見えるから

 

基本的信頼感が育まれていないため、親や他の人と接する際、頼って心を休めたいと感じる反応と、傷つけられることを警戒して身構える反応とが同時に起こります。

もう少し成長すると、それは、他の人に一見親しげに振るまって接近しつつも、同時に警戒を緩めることができないという苦痛に満ちた人間関係に発展しがちです。

それこそが、かの「過剰同調性」です。他の人の顔色を読む強い「心の理論」を発達させ、優しく気配りしますが、心の底では、相手を信頼することができず、常に緊張しています。

本来なら同居するはずのない、人に対して親しげに振る舞う自分と、人に対して警戒する自分が同時に現れることが日常的に続くなら、行き着く先は一つ、自分が分裂した状態、すなわち「解離」なのです。

もちろん、解離の程度は人それぞれですが、解離は愛着トラウマによる「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」の結果と解釈すると、さらにわかることがあります。

たとえば、愛着トラウマを抱える人や、解離性障害の人は、感情の不安定さを抱えることが多いと言われています。

子を愛せない母 母を拒否する子によると、子どもの愛着障害は、ADHDや双極性障害とよく似ていて、区別するのが難しいようです。子どもの愛着障害は、一般的に午前中うつっぽく、夜にハイテンションになりやすいそうです。

愛着障害に詳しい杉山登志郎先生は、子どものPTSD 診断と治療の中でこう書いています。

この親の側に認められる気分障害を診断カテゴリーに当てはめれば、双極II型がほとんどである。

ところが、うつ状態と診断され、抗うつ薬のみが処方されていて逆に悪化したという例が多い。(p200)

その背後には愛着形成の障害があり、それゆえに情緒調整の障害が生じるのである。

…愛着障害を基盤にした気分調整不全が、成人に至ったときに双極II型類似の気分変動を生じるのである。(p201)

ここでは、子どものころに愛着トラウマを抱えた成人(親)は、双極性障害II型に似た気分変動を示しやすく、うつ病と誤診されていることも多いと言われています。

ここから思い出されるのは、先ほど引用した天才の脳科学―創造性はいかに創られるかの、作家たちの健康状態について調査したデータです。作家たちが抱えていた病の多くは、うつ病または双極性障害でした。

優れた「心の理論」の感受性を活かして、小説家として活躍する人たちと、愛着トラウマのために気分変動を生じた人たちが、同じ症状を示すのは決して偶然ではありません。

以下の記事で取り上げたとおり、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)という本によると、小説家として成功する人の中には、愛着トラウマを基盤とした空気を読み過ぎる能力を、創作という形で昇華している人が多いのです。

文学や芸術を創造する「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」 | いつも空が見えるから

 

解離性障害の専門家の柴山雅俊先生も、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)の中で、解離性障害はうつ状態や強い疲労感を伴い、双極性障害II型によく似ていると述べています。(p147)

さらに、もう少し掘り下げてみると、先ほどの杉山登志郎先生は愛着トラウマが気分障害を生じさせる理由を次のように説明しています。

愛着行動とは幼児が不安に駆られたときに養育者の存在によってその不安をなだめる行動である。

やかて養育者の存在は幼児の中に内在化され、養育者が目の前にいなくとも、不安をなだめることが可能になる。

これこそが愛着形成の過程であり、その未形成とは、自ら不安をなだめることを不可能にする。(p201)

愛着トラウマとはすなわち、心の中に存在するはずの安全で包み込んでくれる親のイメージが存在していない状態、言い換えると、正常な安全基地の不在です。

安全基地が心の中に存在しなければ、不安が生じたとき、それを抑えこむことが難しいので、慢性的なうつ状態になりやすくなり、感情のコントロールも難しくなります。

そうした状況に置かれたとき、一部の子どもたちは、だれに頼るでもなく、自分自身でその問題を解決する適応反応を見せます。

自分の気分を調節してくれる養育者を現実に見いだせなかったのであれば、どうやって感情を調節すればよいのか。

答えは簡単です。現実にいないのであれば、自分で創り出せばよいのです。

それこそが、解離性障害の子どもや、施設で過ごす愛着障害の子どもに高率に認められる、保護者、家族などの役割を持ったイマジナリーフレンドの正体なのです。

IFはトラウマ記憶を再固定化する

こうして、自分で自分を守るための適応反応として生み出された「安全基地」としてのイマジナリーフレンドは、愛着トラウマを癒やす働きさえ持っています。

そもそも、トラウマが癒されるというのはどういうことなのでしょうか。

近年では、トラウマが癒される過程は「記憶の再固定化」、専門的には、治療的再固定化のプロセス(TRP)と呼ばれています。

TRPとは、簡単に言えば、エラーを起こしているファイルを開いて、中身を書き換えて、再保存するようなものです。

苦しいトラウマ記憶を思い出し、その記憶に別の解釈が加えることで、トラウマ記憶の修正を図ります。多くのトラウマ治療法は、たいていこのプロセスを含んでいます。

しかし、記憶の再固定化は、医師やカウンセラーでないとできない特殊なものではなく、日常的に生じています。

岡野憲一郎先生は、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中でこう説明しています。

まず記憶の再固定化ということについて強調しておきたいことがある。それは記憶が改編されるプロセスは、前章で紹介したTRPのようなある特殊な治療状況以外でも、常に起きている可能性があるということだ。

記憶の改編自体は日常生活でも起きていて、私たちはその原理を知らないうちに応用しながら、辛い体験を乗り切っている可能性があるのである。(p50)

記憶の再固定化によるトラウマ治療は、わたしたちの日常生活の中でも常に起きているとされています。たとえばどんな場合でしょうか。

ある苦痛な体験を持った後、私たちの多くはそれを誰かに話したくなるものだ。

胸の内を誰かに聞いてもらい、すっきりしたいと思うのは、おそにく過去にも似た体験があり、人に話すことで苦しみがある程度は楽になるということが学習されているからであろう。

もちろんだからといってその体験の後すぐに適切な話し相手が見つかるわけではない。

時にはその話し相手は、唯一の信頼できる友人でなくてはならないであろうし、別の場合には、客観的な立場にあり秘密を守ってくれるようなカウンセラーでなくてはならない。(p50-51)

岡野憲一郎先生が注目したのは、「会話」による記憶の再固定化です。

そもそもカウンセラーとの心理療法自体が会話ですが、ときに家族や親友が、有能なカウンセラー以上に助けになることは、多くの人が身を持って体験しています。

なぜそうした信頼できる人との会話が、記憶の再固定化を促し、トラウマを癒やすのか、ということについては、さらにこう説明されています。

トラウマ的な体験を持った後、私たちはしばしば奇妙な心の状態を体験する。それはそれを恐怖とともに体験した自分の方が異常であり、自分がされたことは必然であったという心境である。

あるいはこれを恐ろしいと感じているのは自分ひとりであり、その意味で自分は孤独である、という心境になることもある。

そんなときに一人で壁に向かってその体験を語ったところで、そこに記憶の改編が起きるはずがない。

ところが目の前に、自分を理解してくれる人が存在し、自分の感情に保証を与えてくれたり、それに共感してくれたりするという体験が生じると、たとえその人が気休めの言葉しかかけてくれないとしても、それもまた記憶の改編を生むのだ。(p52)

トラウマ的な経験をすると、さまざまな困惑や葛藤が沸き起こります。

そんなときに、一人で壁に向かってしゃべるのではなく、信頼できる人が話し相手になってくれるなら、新鮮な体験が生まれます。

自分が思い悩んでいることについて、まったく別の解釈を示してもらってハッとするかもしれません。あるいは、ただ聞いて共感してくれるだけでも、 自分は一人ではなく、ここにいても構わないのだ、という気づきにつながるかもしれません。

そうすると、トラウマ記憶は改編され、徐々にトラウマでない記憶へと修正されていくのです。

そして、もうお気づきと思いますが、このような信頼できる友人との対話は、愛着トラウマを持つ人がイマジナリーフレンドとの対話において経験していることそのものです。

傍から見ると、それは壁に向かってひとりごとを言っているように思えるかもしれません。もしイマジナリーフレンドが自分自身の空想の延長にすぎないとしたら、確かにそのとおりでしょう。

しかしイマジナリーフレンドは、ほとんどの場合、本人とは区別できる別人格として存在していて、会話によって違う観点から意見をやりとりしたり、本物の他人のように気遣いあったりすることができます。

逆説的に言えば、愛着トラウマを抱える人は、自分の空想の中だけで問題を解決することはできないのです。だからこそ、自分の一部を解離させ、自分とは別の人格としてのイマジナリーフレンドを生み出すのです。

愛着トラウマを抱える人は、「基本的信頼感」の弱さのため、周囲の人を心から信頼することに難しさを感じがちです。しかし自分の一部を解離させた相談相手であれば、安心して、飾らぬ感情を吐露することができます。

前回の4つの考察で取り上げたとおり、 稀で特異な精神症候群ないし状態像の中でこう書かれていたのは、何の不思議もありません。

I.C.はその扱い方によってはこれを治療の協力者となすことも可能だと考えられるのである。(p49)

愛着トラウマにおけるIFは、治療の協力者となすことができるどころか、ある意味で治療者そのもの、専属のカウンセラーなのです。

もちろんそれは、自分自身で意図的に創りだしたものではなく、人の心にはるか昔から組み込まれている無意識の防衛規制という救済システムが、そうさせるのです。

人間にこのような防衛システムが組み込まれていることは、冒頭で触れた別の例「サードマン現象」にも如実に示されています。

以前の記事で取り上げたとおり、イマジナリーフレンドもサードマンも、人が危機に直面したときに、空想の他者を創りだすことで、脳を保護する働きであると考えられています。

脳は絶望的状況で空想の他者を創り出す―サードマン,イマジナリーフレンド,愛する故人との対話 | いつも空が見えるから

 

この点については、日本における子どものイマジナリーフレンドの研究者である森口先生も、おさなごころを科学する: 進化する幼児観の中でこう同意しています。

各発達時期で支配的な行動が見られるものの、空想の友達がたとえば大人でサードマン現象として見られるように、時として他の発達時期で顔を出すことがあるのです。

つまり、加齢によってこれらの行動は消えるわけではなく、出てくる確率が相対的に低減するだけなのです。(p170)

社交的な幼い子どもが孤独を感じたときに子どもを支え守るために現れるのがイマジナリーフレンドであれば、大人が遭難などの極限状況で孤独に押しつぶされそうになったときに現れるのがサードマンです。

そして、青年期に、愛着トラウマによる「基本的信頼感」の欠如によって、この大勢の人がひしめきあう社会で遭難し、だれをも心から信頼できず、だれをも頼ることができないときに現れるのが、「安全基地」としてのイマジナリーフレンドだといえるでしょう。

脳の左半球と右半球の二つの自己のせめぎあい

IFがいかにして、愛着トラウマを抑えこむのか、という点をさらに調べてみると、興味深い事実が浮かび上がります。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によると、愛着トラウマで生じる心身の問題をさらに生物学的に読み解くと、それは右脳の機能不全であると考えられています。

逆に愛着の失敗やトラウマ等で同調不全が生じた場合は、それが解離の病理にもつながっていく。

つまりトラウマや解離反応において生じているのは、一種の右脳の機能不全というわけである。

ショアがこれを強調するのには、それなりの根拠がある。

というのも人間の発達段階において、特に生後の最初の1年でまず機能を発揮し始めるのは右脳だからだ。(p19)

この点は別の記事でも詳しく取り上げましたが、愛着トラウマを抱える人は、左右の脳の連携が弱く、右半球の優位性が見られると言われています。

本来ならば論理的な思考をつかさどる左半球が、感情的な反応をつかさどる右半球を制御するはずですが、連携が弱いため、それがうまくいきません。

左半球によって右半球の感情的な反応が抑え込めないと、感情や記憶が、PTSDのフラッシュバックの形をとって暴走します。

しかし、ある人たちの場合は、左半球と右半球の連携が弱いとしても、別の方法で右半球の興奮を鎮める術を身につけます。

先ほどの説明の続きを見ると、次のような興味深いことが解説されています。

最後にショアが呈示する自己selfの理論が興味深いので、付け加えておきたい。

彼の説は、脳の発達とは自己の発達であり、それはもうひとつの自己(典型的な場合は母親のそれ)との交流により成立する、というものである。

そしてそこでも最初に発達を開始する右脳の機能が大きく関与している。

ショアは、自己の表象は左脳と右脳の両方に別々に存在するという考えが、専門家の間でコンセンサスを得つつあるという。

前者には言語的な自己表象が、後者には情緒的な自己表象が関係しているというわけだ。(p23)

人間の脳の左半球と右半球には、それぞれ別の自己が存在していると言われています。 

これは荒唐無稽な話ではなく、以前の記事で紹介したとおり、てんかんの手術などでやむをえず脳の左右をつなぐ脳梁を切断した、分離脳(両断脳)の患者の研究によって確証されています。

脳の左右のつながりを失った患者は、あたかも二人の別々の自己が存在するかのように、右手と左手が、別々の意志をもって行動しました。

通常は、この二つの自己は統合されていて、多くの人は二人の自分がいるなどと思いません。しかし、愛着トラウマによって、左右の脳の連携が弱く発達してしまった人の場合、それぞれがある程度独立した人格を帯びています。

もちろん、愛着トラウマを抱える人の場合、脳の左右をつなぐ脳梁が切断されたわけではありませんから、完全に二つの自己にわかたれるわけではありません。

しかし脳梁の機能が弱く、普通の人よりも結びつきが弱いので、左半球を中心とした神経ネットワークの理性的な自己と、右半球を中心とした神経ネットワークの感情的な自己とを別々のものと感じやすいのかもしれません。

連携の弱い左半球は、その連携の弱さのために、あたかも別の人格であるかのように振る舞うことができ、「安全基地」としてのIFや内的自己救済者(ISH)として、母親の代わりに支えを与える場合があるのです。 このISHについてはもう少し先で改めて考えます。

内省的で柔軟な思考

おそらく、「安全基地」としてのIFを持つ人は、DIDの人よりも、比較的左右の脳の連携がまだ保たれているのでしょう。

自分とIFを別人格として認識しつつも、同時に両方を認識し、会話などのやりとりをすることができます。

その結果、おそらくは、暴走する右半球の感情を抑えこむために、左半球の理知的な働きがIFによって強化され、普通以上に内省的で柔軟な思考が形成されるのではないかと思います。

私見ではありますが、青年期を過ぎてもIFを持つ人は、実際の年齢以上に思考力が成長していることが多いように思えます。

その点は、「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からの中で、大饗広之先生も書いていました。

たとえば、社会的に成功していた43歳の男性S氏は、大饗先生に、若いころからイマジナリーフレンドを持っていたことを告白しました。

それは若い頃から少しはあったんですけど、最近になってそれが以前よりはっきりしてきた。「おいおい」と自分に誰かが呼びかけてくる感じです。

…頭の中でものを考えるとき、討論会やっている感じになるんです。それで自分は二重人格じゃないかと疑ったこともあった。

…論理的で慎重なことを言ってくるのは今の私に近い人……そいつはいたって平和主義で少し道を外れそうな自分を抑えてくれる。声も私と同じで「他の人」という感じはしないけど、思考は完全に第三者ですね。(p76)

S氏は、完全に第三者的な思考を持つイマジナリーフレンドと頭の中で会話を交わすことができました。イマジナリーフレンドの中には、論理的で慎重な、いわゆる脳の左半球の機能に特化した人格も含まれていました。

大饗先生は、そのようなS氏や、別のイマジナリーフレンドを持つ他の大人たちについて、こう評しています。

彼は内省力豊かでしかも柔軟な思考の持ち主であり、かなり苦痛と思われる体験も含めて冷静に回想することができた。(p77)

彼らはふつう以上に思考の柔軟性や内省能力を持っている人たちであった。(p86)

青年期以降もIFを持っていた人たちは、内省力豊で、ふつう以上に思考の柔軟性を持っていことが多かったのです。

おそらくは、一種の反転現象が生じているのでしょう。つまり、「愛着トラウマ」のせいで右半球の感情が暴走しやすく、それを抑えこむために左半球による理知的なIFを生み出し、常にせめぎあいを続けてきた結果、普通の人以上に思考力が発達していくのだと思われます。

優れた心の理論によって別人格を創造できるので、自分の気持ちだけでなく人の気持ちもわかるようになり、多角的・多面的な考え方ができるという事情も関係しているのでしょう。

こうした代償的な反転現象は、様々なケースで見られます。

たとえば、先日亡くなった横綱千代の富士は、肩に慢性的な脱臼癖を抱えていましたが、それを克服するために人並み外れた筋力トレーニングをするようになり、横綱にまで上り詰めました。

明らかな弱点があると、それを克服するために正反対の域にまで成長していく、ということが、一部の人の場合に生じるようです。

解離性障害の人の場合もある程度同じことが言えそうです。解離性障害の人は、人が怖いという気持ちを抱えながら、繊細で優しい気配りが得意です。内省的で柔軟な思考の持ち主も少なくありません。

このような気配りは、すでに考えた過剰同調性の一面ですが、過剰同調性を示すには並外れた感情のコントロール脳力が必要なのも確かです。人前では、自分の感情や意欲を抑え、相手に合わせることになるからです。

そのようなコントロール能力は、ある程度、慢性的な感情の不安定さを抑えこむために発達したものなのでしょう。

そのようなせめぎあいが、限界を超えると、交代人格の解離にまで至ってしまいますが、ギリギリのところでバランスが取れていれば、IFとして認識されるのではないかと思います。

なんとかバランスがとれていれば、IFは絶望をわかちあう「安全基地」として、あたかも見守る親のように機能します。

しかし、耐えられないほどのストレスがかかると、主人格が意識を失い、別人格が身代わりになって表に出てきて、あたかも子どもの代わりにやってあげる親のように、人格交代を伴うDIDに発展してくとみなせるかもしれません。

もちろん、青年期以降もIFを持っている人が、すべて内省力豊かで柔軟な思考を持っているとは限りません。

大饗先生も、反証となる一例を挙げていてイマジナリーフレンドを持ちながら、「内省的とはいえない」K氏の例を紹介しています。(p125)

しかし、K氏は、さきほどのS氏とは異なり、物心ついたときから周囲との疎外感を自覚していて、周囲に過剰に気を使うどころか、友人もおらず、ゲームに没頭して妻のことさえ気にかけない男性だったといいます。

大饗先生は、こうした点から、「彼が自閉的な傾向をもっていたという可能性が排除できない」と述べていて、別の要素の関与を指摘しています。この点については、後ほどセクション4で扱います。

過去の自分がIFになることもある

さて、ここまでのところ、脳の左半球を源として生じると思われる「安全基地」としてのIFについて考えてきました。

しかし、IFを持つ人たちは、右半球と左半球それぞれの1つずつのたった2つの人格しか認識していないとは限りません。DIDにしても、ISHのような理性的自己のほかに、たくさんの人格が出現するのです。

これらの多くの断片的な人格は、いったいどこからやってくるのでしょうか。

大饗先生は、過去の別モードの自分がIFとなるケースがあるという、興味深い説明を展開しています。

ある時期に急激なモード変換(物語の屈曲)が生じると、屈曲前のモードは単に忘却(抑圧)されるのではなく、まったく別の系列(アイデンティティー)として併存することになる。(p104)

人生の屈曲、すなわちクサビが打ち込まれる五歳までの天真爛漫だったナオミの記憶体系は、無意識へ垂直に抑え込まれずに、主体に並列する形で浮かび上がってきたのである。

五歳のときに断裂した部分が、彼女の歴史の全体性を外れて、別の人格体系(アキナ)として蘇ってきたのはなぜだろうか。(p104)

ここでは、IFの別人格アキナを持っていた、主人格のナオミという人について書かれています。

このケースでは5歳ごろに家庭内でショックとなる出来事があり、そのとき以降、周りの空気を読んで、性格や振る舞いを変えて生きていかなければならなくなりました。

すると、5歳まで育ってきた本来の天真爛漫な人格は封印され、5歳以降、必要に迫られて作った人格が、ナオミのアイデンティティになりました。

しかし5歳ごろまでの本来の人格は、消えてなくなったわけではなく、IF的な別人格、アキナとして、心の中に残り続けていたのです。

これは本来の人格がIFとなり、創られた人格が主人格となって生活してきた例といえるでしょう。

このような例は、珍しいものではないようで、大饗先生はこう説明しています。

解離された過去は「私」以外にだれか(多くはイマジナリーコンパニオンの形態をとる)に託されるようになる。「中心」そのものが多重化していくわけである(物語の多重化)。(p209)

IFを生み出すような人たちは、「過剰同調性」によって、その場その場に合わせてモード切り換えを続けながら生きてきているわけですが、過去のモードの名残が消えずに、IFとして独立することがあるのです。

これは、IFというよりは、幼いころにトラウマ経験を持つ解離性同一性障害(DID)の戦略として知られていて、「私」が、私でない人たち―「多重人格」専門医の診察室からの著者ラルフ・アリソンはこうしたタイプをDIDではなく多重人格障害(MPD)として分けて考えています。

MPDの人は、新しい状況に対応するとき、その状況に即した新しい人格を創ることで対処していて、無制限に人格が増殖していきます。このMPDの軽いものが、モード切替ごとに生じて残っていくIFなのかもしれません。

このようにして、幼いころのモード切替の名残としてみられる別人格は、愛着障害とも関係しているのではないか、と岡野憲一郎先生は解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で述べています。

ただし子どもの人格部分には、とても無邪気で創造的な振る舞いを示すものもある。一見明白なトラウマを抱えているわけではなく、ただ遊ぶことを目的に出てくるように見える子どもたちであるが、臨床上はこちらに出会うことのほうがむしろ多い。彼らの目的は何であろうか?

おそらくこちらはトラウマを背負った子どもの人格部分とは、多少なりとも異なる来歴を持つ可能性がある。

どちらかというと愛着障害に由来するのではないか。のびのびと甘え、遊ぶ体験を実際には持てず、ファンタジーの中でのみそれが実現していた場合、それもまた子どもの人格部分として隔離されている可能性があるのだ。

ただし最近用いられる「愛着トラウマ」の表現を用いるならば、こちらもまたある意味でトラウマ由来ということができるかもしれない。(p146)

ここで説明されているケースによると、愛着トラウマを抱える人の場合、ここまで考えてきた「安全基地」のような支え手となる別人格だけでなく、ただ無邪気に遊ぶことを目的とする子ども人格が存在する場合があるようです。

その子ども人格は、幼いころの天真爛漫で無邪気な自分、周りの空気を読んで、欲求や感情を抑制する前の本来の自分が、解離されて残っているものであるようです。

衝撃的なトラウマではなく、愛着トラウマから生じた過剰同調性のために空気を読んで、本来の子どもらしい自分を抑えた結果、そのときの満たされなかった自分が別人格となったりIFとなったりして、存在し続けることがあるのでしょう。

内的自己救済者(ISH)とは何か

このような考え方は、MPDを提唱しているラルフ・アリソンのもう一つの概念である内的自己救済者(ISH)とは何者か、ということに関して、いくらか洞察を与えてくれます。

アリソンは、多重人格の患者に見られる人格のうち、個々の役割に特化した交代人格が多くいる一方で、当人の過去すべてを知り、生まれたときから存在し、冷静で理知的かつ愛に満ち、他の人格を超越した特殊な人格がいることに気づき、内的自己救済者(ISH)と名づけました。

多重人格治療のパイオニア ラルフ・アリソンの素顔―患者のために涙を流した医師 | いつも空が見えるから

 

アリソンは、だれでも理性的自己と感情的自己を持っており、DIDの場合は、理性的自己が独立しているように振る舞いはじめ、ISHとして認識されると述べています。

この理性的自己、またISHの特徴は、脳の左半球の特徴と非常に似通っています。感情的自己は右半球とみなせます。ISHがすべての人に最初から存在しているということからしても、おそらくは、脳の左半球にもともと存在する自己のことを指しているのでしょう。

おそらくは、DIDでは愛着トラウマのせいで脳の左右の結びつきが弱くなるために、左半球の自己が独立してISHとなるのでしょう。

そして、そのほかの多彩な人格は、その後の空気を読みすぎる生き方のモード切替の名残りとして創られていくものだと考えることができます。

アリソンの慧眼どおり、確かにISHと他の人格は別物であり、役割も異なるのだと思われます。

青年期のイマジナリーフレンドの場合も、やはりISHに近い「安全基地」としてのIFと、モード切替の名残としての多様なIFという二種類のタイプが存在している可能性があります。

しかしIFを持つ人は、DIDの人ほど左右の脳の結びつきが弱いわけではないでしょうから、「安全基地」としてのIFは、完全に左脳的で冷静沈着かつ論理的なISHと比べると、もう少し右脳的な感情要素も伴う、人間味のある人格として意識されるかもしれません。

子どものころの脳の名残

愛着トラウマから生じる一連のIFの考察の最後に、どうして愛着トラウマを抱える人は、本来子ども時代だけに生じるはずのIFを、青年期以降も持ち続けるのか、という点を考えておきたいと思います。

ここまで考えてきたことから明らかなとおり、幼い子どもの半数近くが経験するIFと、青年期以降に存在するIFは、別のものではありません。

どちらも、同様の脳の防衛機制によって創りだされる別人格であり、子どもの場合は孤独や退屈、青年期以降は愛着トラウマによる苦しさなどを和らげるために無意識的に生み出されます。

しかし、普通の人は、たとえ子ども時代にIFを持つとしても、その後の人生でトラウマなどの強いストレス経験をしたときに、IFが現れるということはまずありません。

ごくまれにサードマン現象のようにして、極限状況でIFが現れますが、一時的なものに過ぎませんし、何よりすべての遭難者がサードマン現象を経験するわけでもありません。

そもそも、IFを持つ子どもが20%-60%ほどの高率であるのに対し、IFを持つ大人は、冒頭で挙げた調査でも2.8%と、だいたい10分の1以下になります。

なぜ、たいていの人は大人になるとIFを持たなくなるのに、愛着トラウマを抱える人はIFを持ち続けることができるのでしょうか。

これはおそらく、愛着トラウマが脳の発達に影響を及ぼし、子ども時代の名残を残した脳のまま、大人になるという仕組みが絡んでいるようです。

たとえば、おさなごころを科学する: 進化する幼児観の中にはこんな説明があります。 

子どもの頃、世界はもっと私たちに身近で、鮮明だったように思えます。太陽はまぶしく、草木の緑は濃く、水は本当に青い空をしていました。虫と会話をし、小人の足跡を見つけ、神様の存在を感じることができました。

…詩人などの一部の人間だけが、その感覚を大人になっても保持し、表現できるのかもしれません。(ii)

この場合、詩人になるような人は、おそらく子ども時代の感覚、つまり脳の性質を保ったまま成長していったのでしょう。

子どものころは脳がまだ十分発達しておらず、抑制機能の基盤である前頭葉も未熟なので、感覚の統合が十分ではなく、空想の友だちや、共感覚、絶対音感などの不思議な現象が当たり前のように存在します。

しかし、赤ちゃんはすべて共感覚や絶対音感を持ち、幼児の半数近くがIFを持つのに、大人になると、それらはいずれもまれになります。脳が発達すると、各部分の結びつきが安定し、解離しにくくなるからです。

ところが、ADHDやアスペルガー症候群などの発達障害の人は、大人になっても共感覚を持っている場合があります。これは脳の発達の未熟さから、子ども時代の名残が残っているためです。

同様のことが、愛着トラウマの場合も生じます。近年の研究によると、愛着トラウマは、脳の発達を妨げ、生来の発達障害と似たような成長の遅れをもたらすことがわかっています。

それどころか、生来の発達障害よりも、子ども時代の過酷な環境のほうが脳の発達を妨げる度合が強いとも言われていて、「発達性トラウマ障害」(DTD)という概念が提唱されています。

発達性トラウマ障害(DTD)の10の特徴―難治性で多重診断される発達障害,睡眠障害,慢性疲労,双極II型などの正体 | いつも空が見えるから

 

 それで、愛着トラウマを抱えた人や、後ほど取り上げるアスペルガー症候群などの発達障害の人がIFを持ちやすいのは、脳の発達が定型的でなく、大人になっても解離しやすさが残っているからなのかもしれません。

子ども時代の脳の名残を抱えたまま大人になってしまうので、イマジナリーフレンドのような、本来は子ども限定の不思議な現象を感じ続けることができるのでしょう。

ここまで、愛着トラウマや心の理論というキーワードを通して、子どものイマジナリーフレンドと、青年期のイマジナリーフレンドの関わりについて考察してきました。

続くセクション3では、解離に焦点を当てて、青年期のイマジナリーフレンドと、解離性同一性障害(DID)の交代人格のつながりについて考えてみたいと思います。

第三章 解離的な「夢」として考えるIF

ここまで考えてきた子どものイマジナリーフレンドも、愛着トラウマに由来する青年期のイマジナリーフレンドも、 いずれも根底にあるのは防衛機制の解離というメカニズムの働きです。

解離には、わたしたちが日常的に経験している没頭体験や白昼夢などの程度の弱い解離から、空想の友だちを創り上げ、人格が別れてしまう程度の強い解離まで、様々なものが含まれます。

このセクション3では、そもそも「解離」とはいったい何なのか、という点を睡眠中の夢との関係で掘り下げ、イマジナリーフレンドとDIDの交代人格のつながりについて考察します。

IFとDIDは連続するもの

これまで、IFとDIDは関連性のある現象なのかどうか、という点について、多くの専門家が議論してきました。

おもな争点となっているのは、記憶の断絶があるかどうかです。

DIDでは、一般に、人格交代している間の記憶は失われることが多く、それぞれの人格の間で記憶が隔てられる健忘障壁が見られるとされています。

それに対して、IFはそれぞれの人格間の記憶は筒抜けであり、健忘障壁はありません。

では、IFとDIDはまったく別物なのかというと、そうではないようです。

問題なのは、専門家たちが理論先行で議論を戦わせてきた結果、現実に即していない机上の空論が組み立てられてしまったことです。

これまで、人格交代がありながら健忘障壁はほとんどない解離性障害は、DIDとみなすことはできず、DDNOS(特定不能の解離性障害)と診断されてきました。

ところが、岡野憲一郎先生が、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で述べているところによると、典型的なDIDなどというのは非常にまれで、ほとんどの症例がDDNOSになってしまう「ゴミ箱満杯問題」が生じていたそうです。(p116)

そこで近年、新しい診断基準であるDSM-5が作られた際、次のような変更が加えられたそうです。

ここではDDNOSに列挙されていたものを思い出そう。そこには「例」として、1.DIDの不全型(明確に区別されるパーソナリティ状態が存在しない。重要な個人的情報に関する健忘が生じていない)…などが挙げられていた。

このうち1.DIDの不全型については、上記のように診断基準が緩められたことで、以前はここに入り込んでいたケースの多くがDIDとして診断を下される可能性があろう。(p116-117)

つまり、DIDには健忘障壁が必須、という考え方は緩められ、これまでイマジナリーコンパニオンとみなされていたケースがDIDとみなされる可能性が出てきたということです。

この変更によって、診断名が変わるかもしれない有名な、ただし架空の人物に、ジキル博士とハイド氏がいます。

意外に思えるかもしれませんが、しばしば多重人格の代名詞とされているジキル博士とハイド氏と、これまでの診断基準だと、厳密にはDIDではなく、イマジナリーコンパニオンとみなされていました。

「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からの中で、大饗広之先生はこう述べています。

主人格が別人格を認識している場合には、それは主人格による空想の産物として扱われ、DIDの交代人格とは似て非なるものとみなされ、イマジナリーコンパニオンという名称があてられる(ジキル博士にとってのハイド氏もそれにあたる)。

また解離した人格ーが人格としての深みを欠き、要素的感情(たとえば怒り、喜びなど)しか持たない場合などには人格断片という呼称があてられる。

しかし交代人格がICから発展する可能性も以前から指摘されており、両者の関係には依然として曖昧な点が多い。(p178)

なぜジキル博士とハイド氏が多重人格でないのか、というと、ジキル博士とハイド氏の間に。健忘障壁はなく、二つの人格はそれぞれの存在をよく知っていたからです。

しかし大饗先生が述べているとおり、たとえその時点では健忘障壁が存在しないとしても、やがてICからDIDに発展する可能性が、かねてより指摘されていました。

大饗広之先生は、臨床で出会うICの場合も、ハイド氏のように人格としての一貫性が認められ、単なる空想の産物とは言いがたいという点を述べてています。

実際に人格の多重化を訴えるケースを覗いてみると、主人格と交代人格をそれほど簡単には区別できないケースが圧倒的に多い。

そして交代人格(IC)にも人格としての一貫性が備わっていることが少なくないのである。(p179)

そして実際の臨床では、DIDとICの境界線を引くのが難しいケースも少なくないことを述べています。

ヨウコのような症例においてはICとDIDを質的にわけることができないのである。

両者には断片的な性格のものから人格として高度に統合されたものまでさまざまな段階のものがあり、少なくとも健忘の程度によって質的に区別することは難しい。(p181)

結局のところ、健忘障壁があれば病的なDID、互いに会話できればイマジナリーコンパニオンという分け方は、学者が作り出した机上の空論に過ぎず、臨床の場では、両者は複雑に絡み合っているのです。

もちろん、これは、IFを持つ人がみな、DIDのような状態に発展していくという意味では決してありません。

次のセクションでも改めて取り上げる点ですが、これは自閉スペクトラム症の連続性と似ています。

自閉スペクトラム症では、明確な境界線は存在しておらず、少し自閉的なもののほとんど気づかれない自閉症表現型(BAP)と呼ばれる人たち、ある程度自閉的なもののコミュニケーション能力を備えたアスペルガー症候群(AS)の人たち、そして、重いコミュニケーション障害を抱えるカナー型自閉症の人たちなどが連続的に分布しています。

しかし、だからといって自閉症表現型の人がアスペルガー症候群に発展したりするわけではありません。

同様に、人格の多重化も、一瞬だけ人格交代が生じる人、会話できるイマジナリーフレンドを持つ愛着トラウマを抱えた人、人格交代して健忘障壁を伴うDIDの人などが、連続性をもって分布しているようです。

しかしこの場合も、連続性があるとはいえ、イマジナリーフレンドがDIDに発展するかというと、必ずしもそうなるわけではありません。

そのようなわけで、人格の多重化スペクトラムという観点から見ると、DIDのような典型例は少なく、むしろ中間的な位置にあるイマジナリーフレンドが思いのほか広く存在している可能性があります。

また、これまで、DIDのような人格の多重化は、性的虐待などの衝撃的なトラウマをきっかけに発症するものと考えられていましたが、近年は見方が変わってきています。

岡野憲一郎先生は、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で、次のように述べています。

すなわち解離性障害とは、それが基本的にはいわゆる「愛着トラウマ」による障害のひとつと理解されることを常に念頭に置くべきなのである。(p15)

解離性障害、または解離性同一性障害(DID)は、ここまで考えてきたような愛着トラウマを発端とする症状のうち、極端なケースであると考えることができます。

実際に、解離性障害の臨床では、PTSDのような明確なトラウマ因が見つからないことも多いと言われています。

それに解離性障害には、PTSDなどについて考えるようなトラウマやストレスが必要条件として存在するべきなのかについての識者の見解は統一されているとは言えない。

私の臨床場面でも、過去の明確なトラウマ因を見いだせないケースは実際に体験されるのである。(p106)
 

もし原因がショッキングなトラウマではなく、乳幼児期の愛着形成の失敗にあるのだとしたら、トラウマ因が見当たらないケースがあるのも当然ですし、普通の家庭の子どもがたまたまやむを得ない事情で愛着形成に失敗したせいで、のちのち解離性障害になりやすくなるケースもあるでしょう。

人格の多重化の根底にあるのは、結局のところ、セクション2で見たような、乳幼児期の愛着トラウマによる左右脳半球のつながりの弱さなのです。その中でも特殊で程度の重い事例が、DIDと呼ばれる多重人格だと理解することができます。

解離は感覚遮断から始まる

それにしても、このような人格の多重化を引き起こす要因である、解離とは何なのでしょうか。なぜ多重化してしまうのでしょうか。

解離にはさまざまなメカニズムが関与していると思われますが、解離を引き起こす大きなきっかけは感覚遮断だと思われます。

感覚遮断とは、防衛反応として、外部からの刺激をシャットアウトする脳の働きのことです。

感覚遮断は、ごく普通の人にも生じることがあり、そのような場面ではだれもが解離性障害のような症状を一時的に経験します。

たとえば、臨死体験はその一つで、死の危機に瀕した際に、脳が危機を感じて感覚遮断することで、解離性障害に見られるような幻覚や体外離脱が生じます。

幻覚とはすなわち、外からの視覚や聴覚の入力がなくなったときに、脳が記憶の中から感覚を再生するものであり、体外離脱とは解離性障害の離人症のような体の感覚統合が失われている状態です。

そのあたりの詳しい内容については、以下の記事で詳しく説明しています。

なぜ人は死の間際に「走馬灯」を見るのか―解離として考える臨死体験のメカニズム | いつも空が見えるから

 

さらに、感覚遮断は、危機的な状況に直面しなくても、実はわたしたちが毎日のように経験している日常的な現象です。

「夢」の認知心理学という本には、レム睡眠の際に起こる生理的な現象について、次のように書かれています。

内的に活性化した脳波、睡眠を維持し、夢を持続させるために外界からの刺激を遮断する。(p14)

レム睡眠とは、わたしたちが毎晩経験している浅い眠りのことですが、そのとき、脳は外部からの感覚を遮断しているのです。

覚醒とレム睡眠は電気的には似た状態であるが、前者が外部からの感覚と同期しているが、レム睡眠時には同期しない点で決定的に異なるのである。(p37)

この説明が示す通り、レム睡眠の最中には、覚醒時と同じように脳が活発に働いています。

覚醒時と異なっているのは、感覚が遮断されていることだけです。そうすると何が起こるのでしょうか。

実はレム睡眠とは、わたしたちが様々な夢を見ている状態です。夢はノンレム睡眠のときにも見ますが、一般によく言われる不思議な内容の夢は、レム睡眠の最中に見ているとされています。

そして、感覚遮断されているときに見る夢の内容は、解離性障害で生じるような幻覚や意識の変容と非常に類似しています。

また、感覚遮断されているレム睡眠の最中にたまたま目が覚めると、意識は目覚めているのに、体からの信号はプロックされているため、体が動かせない金縛りや幽体離脱を経験する場合があります。これらも解離性障害ではよく見られるものです。

それで、「解離」とは「感覚遮断」であり、解離性障害の人は、目が覚めているときに感覚遮断のメカニズムが部分的に働いているせいで、離人感や幻覚、浮遊感など、あたかも夢のなかのような現象が生じるのだ、と解釈することができます。

HSPー敏感すぎる人たち

しかし、いったいなぜ、解離性障害の人たちは、目覚めていながら、レム睡眠のときのような感覚遮断のメカニズムが働いてしまうのでしょうか。

その理由は、これまで考えてきた「愛着トラウマ」や強すぎる「心の理論」と結びついています。

愛着トラウマとはすなわち、「基本的信頼感」が欠如していて、安心できる居場所がなく、他の人を心の底から信頼できない状態でした。常に人の顔色をうかがって警戒している過敏状態にあるということです。

また、心の理論が強すぎるというのは、他の人に気持ちに敏感すぎて、感情移入しすぎる傾向のことでした。同時にちょっとした感情の行き違いや批判に過敏になっているともいえます。

このような心の敏感さを抱えていると、当然ながら、身の回りのものからくる感覚刺激は強すぎて、圧倒され、パニックになってしまうでしょう。

人混みに行くだけでも疲れ果てたり、ニュースを見るだけでもいちいち無意識のうちに感情移入してしまってくたくたになるかもしれません。

そうすると、自己防衛のために、解離、つまり感覚遮断のメカニズムが働き出すのは、ごく自然なことです。

また、感覚遮断が働くのは、愛着トラウマのような後天的な経験のせいだけではないかもしれません。

たとえばセクション4で取り上げる自閉スペクトラム症のアスペルガー症候群では、生まれつき五感のさまざまな感覚過敏を抱えていることが多く、トラウマ経験のあるなしに関わらず、外部からの刺激が強すぎて解離しやすいと言われています。

さらに、ひといちばい敏感な子によると、近年では、遺伝的な傾向として、高度に過敏で感受性が強い人が5人に1人程度の割合で存在するとされていて、HSP( Highly Sensitive Person)と呼ばれています。

また、母という病 (ポプラ新書)によると、愛着の安定性は完全に後天的なものではなく、遺伝要因が25%程度関係しているようです。

これは、おそらくADHDの関わるドーパミン関連の特定の遺伝子タイプなどを持っていることによる感受性の強さのため、他の子どもでは問題とはならない程度の養育環境でも不安定な愛着を生じやすいのではないかだと言われています。(p94)

このような生まれつきの遺伝的な過敏性が、HSPのような感受性の強さを生み、人よりも傷つきやすかったり、、愛着トラウマや感覚遮断を引き起こしやすい体質として関与している可能性があります。

ちなみに、感覚過敏への対処法が感覚遮断による解離である、というのは医療現場でも難病の治療に応用されています。

たとえば、全身に激痛が走る痛覚過敏の病気である線維筋痛症の治療として、アイソレーションタンク(感覚遮断タンク)を用いて痛みを軽減する治療法が試されています。

また「病は気から」を科学するによると、過敏性腸症候群(その名の通り腸の感覚過敏)の治療法として、催眠療法によって人為的に解離状態を作り出し、感覚遮断する方法が成果を挙げているそうです。

これらの例からわかるとおり、感覚遮断による解離というのは、病的なメカニズムどころか、健全な体の反応であり、世の中には解離がうまく働かないせいで痛みなどの過敏に悩んでいる人も少なくないのです。

統合失調症のような「疾患」ではない

ここで、少し話を戻しましょう。

先ほど、解離性障害とは、目覚めていながらにして、感覚遮断が生じ、あたかも夢の中のような不思議な感覚が生じている状態だと説明しました。

しかし、このような説明は、これまでしばしば統合失調症に適用されてきました。

統合失調症は奇妙な幻覚を伴い、判断能力も失われているので、あたかも起きながらにして夢を見ているような状態だと言うわけです。

しかしこれもまた、現場のデータを無視した研究者による机上の空論である可能性があります。

「夢」の認知心理学では、レム睡眠の間に見る夢の内容を分析したところ、次のような意外な結果が得られたそうです。

大人と子どもの両者からレム期からの報告についての実験室研究の結果は、夢見は一般に考えられているほど奇怪なものとは程遠いことを示すものであった。(p73)

全体としてみると、実験室での研究と自宅での研究は、夢の内容の特徴が高度に感情的で奇怪で妄想あるいは統合失調症のような内容を持つという証拠はない事を示している。(p83-84)

なんと、レム睡眠の間に見ている夢は、多くの場合、統合失調症の世界のような奇怪なものではなかったのです。

夢はもっと日常的な内容が多いのに、わずかな奇怪な例が印象に残ることが多いために、誤った印象を抱かれていたのでした。

さらに、夢は奇怪なものであるという誤解だけでなく、統合失調症の性質のほうにも、とても大きな誤解が生じています。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはこう書かれていました。

他方の幻視はどうか。統合失調症においては少ないとされる幻視は解離性障害では比較的多く聞かれる。

また統合失調症の幻視が奇怪な内容であるのに対し、解離性障害の幻視の内容はおおむね現実的で、過去のトラウマのフラッシュバックという色彩を持つ。(Bremner,2009)。(p125)

統合失調症では、幻視は少ないのです。

そして統合失調症では幻視が奇怪な内容であるのに対し、解離性障害では幻視が頻繁にみられ、内容はもっと日常的だとされています。

この説明から明らかなとおり、夢の内容とよく似ているのは、統合失調症ではなく、解離性障害です。

夢の主な要素は視覚イメージですが、統合失調症では視覚的な幻覚は少ないこともそれを裏づけています。

「夢」の認知心理学には、夢の視覚的要素について、こう書かれていました。

夢の内容を作り出す能力は覚醒時のイメージ能力を反映している、すなわち夢≒覚醒時のイメージと言えそうです。

夢は覚醒時のイメージと似たようなことが感覚遮断状態で起こる現象であるということです。(p86)

解離性障害の人は、絵などの芸術的才能に優れた人が多いですが、視覚的イメージ力が通常よりも高いようです。

おさなごころを科学する: 進化する幼児観によると、イマジナリーフレンドを持つ大学院生を対象とした研究では、視覚イメージ力が高い傾向が得られたとも言われています。

麻生博士らの大学生を対象にした研究では、大学生でも、空想の友達の強い視覚的イメージを持つことが報告されていますし、筆者らの研究でも、空想の友達を持つ大学院生は、空想の友達を持たない大学院生よりも、視覚イメージを生成する能力が高いことが示されました。(p251)

感覚遮断による解離傾向が生じている人たちは、幻視を見るほどではなくても、空想癖や白昼夢の傾向があるために視覚イメージが発達しやすいのでしょう。

さらに感覚遮断と解離傾向が強くなると、起きながらにして少し夢を見ているような感じになり、本来は夢の中で生じるはずの視覚イメージが現実に重なって見える場合があるようです。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはこうあります。

また幻視は統合失調症ではあまり見られないものであるが、解離性の幻覚としてはしばしば報告される。

それがIC(空想上の友達)のものである場合、その姿は視覚像として体験される場合もそうでない場合もある。

またそれが実在するぬいぐるみや人形などの姿を借りるということもしばしば報告される。(p100)

おそらく本物の夢を見ているときほどに感覚入力が遮断されているわけではないものの、感覚入力がいくらか減っていて、そのぶんを幻視で補っているのかもしれません。

これと同様の状況には、視力が衰えた老人に生じるシャルル・ボネ症候群があります。こちらも、視覚からの入力が少なくなることで、現実に重なる幻が見えるようになります。

ただし、解離性障害では目の機能そのものが衰えたわけではなく、脳が外部からの入力を抑制するために、内部から幻が再生されるのです。

このように考えてくると、解離性障害とは何なのか、ということについて、極めて重要な洞察が得られます。

解離性障害で生じる状態は、夢のメカニズムと非常によく似ていますが、夢は、健康な人がだれでも毎晩のように見ているありふれた現象です。

解離性障害では昼間に感覚遮断が生じるために、起きながらにして夢を見ているような状態に近づきますが、そもそも感覚遮断は異常なことではなく、毎晩普通に生じるものです。

そうすると、解離性障害の人の脳では、何か異常な事態が生じているわけではなく、だれにでも備わっている防衛反応が、普通より強く働いているだけだ、ということになります。

解離性障害は、脳の「障害」あるいは「病気」ではなく、強いストレス環境に対して、脳が自分を守ろうと働いている状態ではないか、という見方ができます。

それはちょうどインフルエンザになったときと同じです。インフルエンザでは、ひどい不調が生じますが、それは体が壊れたせいではなく、ウイルスという外敵に対して免疫系が闘っているためです。機能は正常なので、危機が去れば元に戻ります。

解離性障害の場合も、どうやらそれと同じようなことが、脳の中で起こっているようです。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で、岡野先生は、統合失調症と解離性障害の最も大きな違いについて、こう説明しています。

端的に言えば、精神病の代表格ともいえる統合失調症は、一般的に時と共に人格の崩壊に向かい、予後も決してよくない。

他方、解離性障害は社会適応の余地を十分に残し、また年を重ねるにつれて症状が軽減する傾向にある。

両者が全く別物であるというのは、この予後の観点から特に言えることなのだ。(p123)

統合失調症は予後が悪く、どんどん悪化していくのに対し、解離性障害は年と共に回復していくのです。

このことからすると、統合失調症が明らかな脳のトラブルであるのに対し、解離性障害はウイルスに対して免疫系が戦うように、愛着トラウマに対して脳の正常な防衛機制が戦っている状態だとみなせます。

冒頭で、多くの子どもが持つ空想の友だちが、解離性同一性障害と地続きだと言っても、病的なものだとか、危険な要素を持っている、という意味ではなく、どちらかというとその逆だ、と書いたのを覚えておられるでしょうか。

それはつまり、イマジナリーフレンドやDIDのような人格の多重化現象は、本質的に言って害を及ぼす病気なのではなく、危機に面した心を守るために脳が働かせる正常な防衛反応なのだ、という意味なのです。

適応的な「夢」としてのIF

解離による人格の多重化が正常な防衛反応であることを示すさらなる根拠は、解離によって生じる別人格と、夜に見る夢とが、どちらも同じような役割を持っているようだ、ということです。

夢は何のために見るのか、という点は未だ多くの論争がありますが、「夢」の認知心理学によると、以下のような適応的な役割があるという研究結果があります。

両方とも夢は適応的な機能に役立つということを主張できるものであった。

一つは、我々はストレスフルな出来事を統御できるようになるために夢見るということ。

もう一つは、心理学的にそれを補償するために現実のストレスとは反対方向の性質をもつ出来事を夢見るということである。(p102)

かねてから夢は記憶の定着の役割を持っているとされることがありましたが、近年ではレム睡眠を削っても記憶の定着が妨げられることはなく、エピソード記憶の定着はノンレム睡眠中に行われているのではないか、と言われているそうです。

その代わりにレム睡眠は手続き記憶の定着や感情の整理を担っており、その現れが夢なのかもしれないという意見があるそうです。

実際に夢の内容を調べると、ストレスに関わる感情の整理に役立っているらしきことがわかりました。

ただし、一般に考えられているような、ホラー映画を見れば怖い夢を見るといって関連の仕方ではなく、その反対、つまりストレスとなった出来事と正反対の性質の夢を見やすいことがわかったのです。

眠る前に受けた刺激に関しては夢に現れるのではないかと一般的に思われているかもしれないが実験の結果はむしろ逆になる傾向が多く確認されている。

フロイトは夢の内容は昼間の経験で抑圧した「日常の残渣」が現れるとしたが、どうやらこの説はあまり説得力を持たないようである。

しかし、強いストレスの場合には当てはまるケースもあるようであるが、あまりに強すぎると「抑圧」されてしまうらしい。(p109)

この説明が示す通り、基本的に、夢は受けたストレスと正反対の内容になることで、感情を調節する「補償」の役割を果たします。

しかし、ストレスが強すぎると、内容もストレスフルなものになる場合があります。

そして、ストレスがあまりに強すぎると、今度はそれが抑圧されて、そもそもその夢を見ないようです。

これはイマジナリーフレンドなどの人格の多重化における反応と極めてよく似ています。

人格の多重化は、ある程度の慢性的なストレスのもとでは、イマジナリーフレンドという形で現れ、ストレスとは正反対の励まし手として、愛着トラウマに対する安全基地として、補償的な役割を果たします。

しかしよりストレスが強くなると、バランスが崩壊して、悪意を持つ人格が現れる場合があります。

ストレスがあまりに強すぎると、DIDとなって記憶が分断され、トラウマ記憶を隔離する健忘障壁が生じます。

どうやら、夢と人格の多重化は、感覚遮断による解離という同じメカニズムによって支えられているため、果たす機能もよく似ているようです。

言ってみれば、イマジナリーフレンドとは、起きながらにして不思議な夢の世界の住人と出会っているようなものであり、DIDとは、起きながらにして悪夢に悩まされているようなものなのです。

IFを持たない「心が空っぽ」な人たちとの違い

イマジナリーフレンドや解離性障害は、心を守る適応的な働きだとすると、次のような疑問が生じます。

本当に問題なのは、防衛機制である解離が生じない場合ではないでしょうか。

セクション2では愛着トラウマについて考えましたが、愛着トラウマを抱える子どもすべてが保護者のようなIFに出会うわけではありません。

ある意味で、愛着トラウマを癒やすためにIFが現れるのは幸運なケースであり、「安全基地」をどこにも得られないまま、ひたすらさまよう、心が空っぽな人は決して少なくないのです。

「安全基地」としてのIFが創られるのは、解離という防衛機制の働きですが、解離が弱い人たちは、心を守るためにIFが作られることはありません。

重い愛着トラウマがあるのに、心を守る解離が十分に働かない場合に生じるもの、それは何でしょうか。

それは、トラウマ経験と最もよく結び付けられる病気、すなわち心的外傷後ストレス障害(PTSD)です。

PTSDは、脳科学的には解離と正反対の現象だと言われています。解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合ではこう説明されていました。

ところで解離において右脳で起きていることを知るためには、心的外傷後ストレス障害(以下PTSDと記載する)の右脳で起きていることを理解する必要がある。

解離とPTSDは、ともに心的なトラウマに対する心ないしは脳の反応といえるが、そこではおおむね逆のことが起きているものとして説明し、理解するのが最近の傾向である。(p19)

PTSDと解離は、正反対の現象ではあるものの、連続性を持つ、人間の危機対処システムの一部です。

人間の危機対処システムは二段構えで構成されています。

獰猛なライオンに出くわしたときのことを考えてみてください。

まず、頭がパニックになって何も考えられなくなり、なんとかして闘うか、あるいはその場から逃れようとします。

これはストレス反応として有名な「闘争か逃走か」の反応です。

しかしそれがうまく行かず、ついにライオンに組み伏せられてしまったら、第二段階のシステムに移行します。

それは「固まり・麻痺」反応で、仮死状態になったり、気絶したりする状態です。

この二段構え危機対処システムは、突然の危機のときだけでなく、日常のストレスに対しても生じます。

一段階目の「闘争・逃走」反応がPTSD、ニ段階目の「固まり・麻痺」が解離に相当します。固まり・麻痺は、もはや逃げられない状況で、感覚遮断をして苦痛をやり過ごそうとする反応です。

すると、危機の際の反応は、

 積極的なもの……闘争、逃避
 消去的なもの……固まり、麻痺

の2種類に分かれることになる。そして後者の消極的なものは解離に関係づけられるというわけである。(p22)

セクション2で、愛着トラウマから解離に至る人たちは、まず交感神経(アクセル)が過剰興奮し、次いで副交感神経(ブレーキ)も過剰反応するという説明を引用しましたが、それらがすなわちPTSDと解離なのです。

問題は、解離という防衛機制が弱いせいで、第一段階の「闘争・逃走」のままで、第二段階の「固まり・麻痺」が起動しない人たちです。

交感神経が過剰反応してパニックになるだけで、それを抑えこもうとして副交感神経が働くことがありません。

すると、愛着トラウマのときに説明したような、脳の右半球の感情的混乱を抑えこむために、左半球から理性的なIFが生み出されるということもありません

ただ、ひたすらパニックになり、PTSDのフラッシュバックを起こしながら、「安全基地」のない世界をひたすらさまよい歩くことになります。

このような状態に陥っているのが、境界性パーソナリティ障害(BPD)の人たちです。

境界性パーソナリティ障害(BPD)は、突然激しく怒りだしたり、見捨てられ不安がフラッシュバックしたりする一種のPTSDです。

BPDの人のキレる現象やフラッシュバックは、軽度の人格交代ですが、解離傾向が弱いため、別人格を形成するほどには至りません。

解離性障害の人が気配りに富み、心の中に大きな内的世界を抱え、多くの仲間を有しているのに対し、境界性パーソナリティ障害の人はカッとなりやすく、心の中は空虚で、一人ぼっちです。

解離傾向の強い人たちは、「逃走・闘争」反応に次いで、「固まり・麻痺」反応に至るので、感覚遮断することで、危機的状況から逃れて、冷静さを取り戻すことができます。

ところが、解離の弱い人たちは、ずっと「逃走・闘争」反応のままなので、常に危機的状況のまっただ中にいて、絶え間ない不安に苛まれて、冷静に考えることも、心が満たされることもありません。

解離による感覚遮断がうまくできず、敏感な心が常にむき出しの状態なので、傷つけ傷つけられながら、一人ぼっちで生きていくという苦しみに直面します。

解離が弱いBPDと、解離が強いIFやDIDの違いについては、詳しくは以下の記事をご覧ください。

境界性パーソナリティ障害と解離性障害の7つの違い―リストカットだけでは診断できない | いつも空が見えるから

 

青年期のイマジナリーフレンドや、解離性同一性障害としての交代人格を持つ人たちも、それぞれストレスや苦悩を抱えているのは確かです。

しかし、助け手としてのイマジナリーフレンドにしても、身代わりとしての交代人格にしても、それらは耐え切れないストレスから身を守るための防衛反応、愛着トラウマというウイルスと戦う心の免疫系です。

もしも、心の免疫系が働かず、愛着トラウマに面しても、それらの別人格が生まれなかったなら、自分はどうなっていただろう、と考えたことがありますか。

世の中には、同じほどのストレスに直面しても、解離という防衛機制がうまく働かないせいで、苦しみを分け合う別人格を生み出せず、たった一人で立ち向かっていかなければならない人たちがいるのです。

IFがDIDになるとき

このセクションで考えてきたように、人格の多重化は、一種のスペクトラムのように連続した現象です。

単一人格 → PTSDやBPD(弱い解離) → IF(中程度の解離) → DID(強い解離)

解離の観点からIFを考察したこのセクション3の最後に、次の点を考えておくのは適切なことでしょう。

IFはいつかDIDに発展するのでしょうか。

一般的に言って、大半のIFはDIDに発展しないでしょう。

IFを持っている人は、むしろIFが存在することによって、解離性障害が発症するのを阻止し、心のバランスを保っているはずです。

しかし、かろうじてIFの存在によって心のバランスをとっている人が、より強いストレスに直面したとき、バランスが崩壊してDIDに発展する例は存在しているようです。

「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からによると、このセクションの最初で紹介したジキル博士とハイド氏は、当初はIFのような関係だったハイド氏が次第にコントロールできなくなり、DIDのような状態に発展していく物語でした。

ハイドは次第に彼のコントロールを離れて行動するようになってしまうのである。そしてジキルはハイドを「彼」と呼ぶようになり、もはや彼を「私」の一部とは感じなくなった。

ハイドはジキルとはまったくの別人格としてふるまうようになったのである。ハイドの出現によって保たれていた彼の心のバランスは、再び破壊に向かって突き進むことになってしまった。(p92)

ジキル博士とハイド氏は、単なる物語でありながら、もしかすると、作者のロバート・ルイス・スティーブンソンが経験していたことなのではないかと思わせるほど、 真に迫った描写がなされています。

スティーブンソンも多くの作家たちの例に漏れず、愛着トラウマによる心の理論の強さを創作に活かしていたのかもしれません。

大饗先生は、ジキル博士とハイド氏の崩壊の原因をこう指摘します。

つまり「解離」はある時期まではジキルにとって適応的に働いていたのである。

問題が生じたのは、そのような「解離」に頼っていた微妙なバランスが破綻した後であった。(p94)

そしてそれと同様の現象が、現実の臨床でも時おり見られると述べています。

アキナという人格は快活で奔放な性格であり、当初抑うつ的になりがちなナオミを「姉のように」励まし、ときには無気力に陥った彼女に成り代って(人格変換)、仕事を行ってくれることもあったという。

しかし、そのうちにアキナは夫に隠れて同僚のK氏との交際を始めるようになってしまった。(p97)

基本的にIFは、主人格を支える副次的な位置に存在しています。

IFがDIDに発展するような事態がそう簡単に起こるとは思えませんが、何かしらのストレスが異常に大きくなりすぎて、IFが自律性を持ち始めると、問題が複雑になってきます。

別人格が、主人格と苦しみをわかちあう仲間であるうちはいいのですが、主人格が危機に瀕して、別人格が身代わりや犠牲、盾となってかばうようになると、DIDへと発展していく可能性は否定できないでしょう。

先ほどの防衛反応でいうと、最初は「闘争・逃走」というPTSD的なシステムが働きますが、より大きな問題のもとでは、解離傾向の強い人の場合は「固まり・麻痺」に移行します。

これを日常生活に当てはめると、「固まり」、つまり感覚遮断して危機から逃れている段階では、IFは助け手として主人格を励ますことができます。

しかしさらにストレスが大きくなり、「麻痺」、つまり気絶して意識を失うという究極の手段を用いなければならなくなったら、日常生活においては、だれかが代わりに体をコントロールしなければならなくなります。

そのときこそ、耐え切れず意識の奥へと退いた主人格に代わって、IFが身代わりの交代人格となり、DIDへと発展してしまう瞬間なのかもしれません。

このセクションでは、夢や感覚遮断という解離の機能を通して、人格の多重化は防衛機制の強さによるスペクトラムであり、統合失調症のような病的なものではない、ということを見てきました。

最後の4つ目のセクションでは、ここまで取り上げたIFとは少し異なる特殊な例として、アスペルガー症候群のIFについて考えます。

第四章 「アスペルガー症候群」のもう一つのIF

これまで、IFが生まれる原因として、強い心の理論や、愛着トラウマ、解離という要因を考えてきました。

しかし、 ここまでの説明は、主に定型発達の人に当てはまるものです。

わたしたちの身近な別の民族とも称される、アスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)の人たちの場合、考え方そのものを見直さなくてはなりません。

IFに限らず、あらゆる物事において、違う尺度をもって考えなければ、彼らの独特な文化を理解することはできません。

興味深いことに、以前に記事で取り上げたとおり、アスペルガー症候群の人には、しばしばIFが見られることが報告されています。

アスペルガーは想像上の友だちイマジナリーフレンド(IF)を持ちやすい? | いつも空が見えるから

 

ASDは解離症状を伴いやすい

アスペルガー症候群の人がIFを持ちやすい理由を簡潔に一言で言い表わせば、それはアスペルガー症候群の人は解離しやすいからだと思います。

「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からには、アスペルガー症候群の人がIFを持っているケースも紹介されていますが、アスペルガーは解離しやすいということがはっきりと書かれています。

アスペルガーには解離様の現象が伴われることがまれではなく、それがチグハグな印象によりいっそう拍車をかけることがしばしばである。(p28)

セクション2で少し触れましたが、ある自閉圏の男性は、友だちとほとんど遊んだことがなく、周囲の家族の気持ちを読み取るどころかゲームに没頭して、青年期のIFを持つ人特有の内省的で柔軟な性格でもありませんでしたが、それでもIFを有していたと書かれています。

彼のIFはいったいどこから出てきたのでしょうか。IFは「心の理論」すなわち他の人への優れた感受性の結果、生み出されるものであるなら、共感性に乏しいと言われるアスペルガー症候群に見られるのはどうしてでしょうか。

哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)では、そのような論理に基づいて、アスペルガー症候群を含め、自閉圏の子どもはIFを持たないと書かれています。

自閉症の子には空想の友だちがいないし、そもそもごっこ遊びをしません。ごっこ遊びとは何かということからして、わからないようです。

…自閉症の子どもは、他人の心の因果関係についての理論を組み立てるのに大変な苦労をしますし、いろいろな空想をして遊ぶこともありません。(p91)

しかし本当にそうでしょうか。

このような疑問について考えるに際し、導きとしたい言葉があります。

柴山雅俊先生は、解離の病理―自己・世界・時代の中でこう述べています。

ASD者が解離症状を呈する割合は定型発達者に比べて若干多いという印象はある。

もちろん自己のあり方が異なるため、ASD者の示す解離が発症要因、症候、治療などさまざまな点で通常の定型発達者の解離とは違ってくるのは当然であろう。

定型発達者の解離のみが解離ではない。ASDにはASDの解離がある。(p181-182)

定型発達者の解離のみが解離ではなく、ASDにはASDの解離がある。言い換えれば、定型発達者のIFのみがIFではなく、アスペルガーにはアスペルガーのIFがあるのです。

アスペルガーの解離と一般的な解離性障害の7つの違い―定型発達とは治療も異なる | いつも空が見えるから

 

ASDは「心の理論」が弱い?

まず最初のステップは、自閉症についてのさまざまな誤解を解くことです。

先ほどの説明において、アスペルガー症候群をはじめ、自閉症の人がイマジナリーフレンドを持たない根拠とされていたのは、心の理論が弱く、空想的な遊びもしない、ということでした。

これは、ローナ・ウィングが提唱した自閉症の三つ組の障害、すなわち、社会性の障害、コミュニケーションの障害、想像力の障害に基づいているのでしょう。

しかし、近年、自閉症の当事者研究や、注意深い調査において、三つ組の障害は必ずしも正しくないことがわかってきました。最新の診断基準のDSM-5でも、想像力の障害のような項目はなくなっています。

自閉症というと、他人に共感できず、気持ちがわからず、心の理論が弱い、空気の読めない人々だという未だ根強い偏見がありますが、成長し衰退する脳 (社会脳シリーズ)では次のような研究が報告されています。

過去の研究において、ASD児は他者の心情が理解できない、というように、二値論的に可-不可で考えられてきた。しかしながら、近年では、そのような二値論的な見方では理解できない実験結果もある。

…定型発達児では、最初から人物の感情に言及できていたものの、ASD圏内の子どもでは、当初人物の感情に言及せずに、情景や描かれている他の物などについて言及してしまった。

ASD圏内の子どもに対して、人物に注目するように追加の教示を行っていくと、彼らでも描かれた人物の感情を正答することができた。(p129)

この研究では、 ASDの子どもたちが、他人の心を理解できない、とされてきたのは誤りであり、単に注意が向かないだけなのだ、という見方が示されています。

すなわち、ASD児は自発的に他者そのものや、他者の顔、声といったものに注意が向きにくいということである。

…何よりも特筆すべきことは、他者に注意を向けられれば、感情や言外の意味といった従来難しいと言われてきた部分への理解も問題なく、かつ脳機能というレベルでも障害が認められなかったのである。(p130)

ASDの子どもたちは、他の人の感情を読めないのではなく、注意が向かないだけであって、適切な注意の喚起がなされると、感情や比喩も理解できたのです。

そのため、空気が読めなくなってしまうのは、ASDの生来の症状ではなく、自分から他人に関心を持ちにくく、コミュニケーションの機会が少なくなるので、結果的にコミュニケーションスキルが育ちにくいだけなのではないか、とされています。

そして、根本となっている他者に注意が向きにくいという特徴は、自他の区別があいまいなことによると推察されています。

また、発達障害の素顔 脳の発達と視覚形成からのアプローチ (ブルーバックス)という本では、ASDの子どもは心の理論が弱い、と言われていることに関して、別の意見が提唱されています。

誤信念課題に関するもうひとつの批判は、そもそも一定の割合で自閉症児が「心の理論」の課題をパスしてしまうという事実にある。バロン=コーエンらの研究にしても、約2割の自閉症は課題をクリアしていた。

…誤信念課題の成績がよい(他者の心がよめる)自閉症児はほど理解できた物語の数は多く、社会性に問題のない、知的障害児や健常児とほとんど差がなかった。(p26-27)

この誤信念課題というのは、サリーとアンのテストのような、他人の立場に立って考える能力を測る、心の理論の発達を調べるものです。

一般にASDの子どもたちは、サリーアン課題がうまくできないので、心の理論が発達しておらず、他者の気持ちも読めない、と言われがちなのですが、そもそもASDの子どもの2割はこのテストを通過し、他の人の気持ちを適切に理解することができます。

さらに、誤答してしまう残りの8割のASDの子どもたちの場合も、性急に心の理論が育っていないと結論するのは間違っている可能性が示唆されています。

誤った解答をした場合でも、その理由を問われると、きちんと心にかかわる用語を駆使して説明をする。

…つまり「誤信念課題」にパスできなかったとしても、自閉症児は相手の心を推測することはできるのである。

パスできない問題の原因は、その推測が普通とは異なる独自の視点に基づくということだ。(p27)

ポイントは、心の理論がないことではなく、心の理論が定型発達者とは異なる、という部分にあります。

定型発達の心の理論のみが心の理論ではなく、ASDにはASDの心の理論があるのです。

そのことをまざまざと示しているのが、ASDの人はASDの人同士であれば、強く共感し、互いの気持ちを深く理解し合えるということです。

アスペルガーは「共感性がない」わけではない―実は定型発達者も同じだった | いつも空が見えるから

 

 わかってみれば簡単な話で、定型発達の人たちには定型発達の心の理論があり、ASDの人にはASDなりの心の理論があるので、どちらも自分と同じ集団の人の気持ちはわかるのに、自分とは違う集団の人の気持ちは理解できないのです。

もしASDの人が多数派で、ASDの人の心の理論が一般的だったとしたら、今ごろ定型発達の人たちは、心の理論が欠如していると言われているかもしれません。

そうすると、ASDの人たちは他者の気持ちを考えることができないから、イマジナリーフレンドも持たない、とする論理は成り立たなくなります。

確かに、定型発達者のIFとは性質は異なるはずですが、ASDの人はASDなりのIFを持っているとしても何ら不思議ではありません。

また、ASDの子どもは空想的な遊びをしない、とも言われていましたが、それはあくまでも定型発達の子どもがするようなごっこ遊びなどをしないというだけで、実際にはASDの子どもも様々に想像力を働かせている、ということは、当事者のニキ・リンコさんの自閉っ子におけるモンダイな想像力を読めばわかります。

アスペルガー症候群だったとされる、ルイス・キャロルやハンス・クリスチャン・アンデルセンの作品を読むと、ASDの人でも豊かな空想世界や、登場人物を思い描ける場合があることは明らかです。

自閉症・アスペルガー症候群の作家・小説家・詩人の9つの特徴 | いつも空が見えるから

 

 定型発達者の人が読むと、キャロルやアンデルセンの童話の登場人物は、どことなく異質で奇妙な人たちに思えるでしょう。

それは、彼らが創りだした登場人物たちが、定型発達者の心の理論ではなく、ASDの心の理論に沿って行動する人たちだからです。

心の理論が強くなると、小説家としての才能や過剰同調性につながると述べましたが、アスペルガーの場合も、キャロルやアンデルセンのように小説家になる人がいますし、さらには過剰同調性になる場合もあることがわかっています。

それで、アスペルガー症候群などASDの人たちが、IFを持ちやすいかというと、特に定型発達に比べて多いわけではないかもしれませんが、IFを持たないというわけでもないのでしょう。

アスペルガーは中心不在

ASDにはASDの心の理論があるのであれば、ASDが持つIFの特徴は、定型発達の人たちのIFと異なるのでしょうか。

その可能性は十分にあります。

ASDの人たちは、先ほど少し触れたように、自他の区別に困難を抱えやすいようで、まとまったアイデンティティを持たないことが少なくありません。

大饗先生は、「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からの中でその理由をこう説明しています。

イマジナリーコンパニオンとは中心を失った人格モードの乱立を意味していた。

あるいはアスペルガー症候群においては、そもそも主体の一貫性、すなわち過去-現在-未来という階層が成立せず、エピソードがランダムに乱立してしまうことが問題になっていた。(p210)

ASDの人たちは、時間の連続性の感覚があいまいであり、過去から未来へと脈々と続く一つの自分というのをイメージしにくいようです。

これは、ASDの人が感覚統合の問題を抱えていて、運動時に手足などを協調して動かすことが苦手だったり、複数の五感からの入力を統合するのが難しかったり、時には空気に溶け込むような拡散体験を訴えたりすることと共通しています。

一つのまとまった自己を持ちにくいASDの人たちは、しばしば、生きるためにIFやDIDのようなしくみを活用することがあります。

解離の病理―自己・世界・時代の中で、広沢正孝先生はこう述べています。 

彼らは一般者のように、固有の自己像を持ち、「自生的に人格の中心から出発し、種々の外的な状況にふさわしい反応を」取ることは困難である。

これに対処するために彼らは、しばしば内界にモデルとなる人物像を取り入れて、それにピッタリ合わせる形で生きようとすることもある。(p71)

この説明によると、ASDの人たちは、新しいことに対処する際、柔軟に適応する代わりに、それにふさわしい人格を取り入れて、あたかも服を着替えるように、それぞれの人格になりきることで対応する場合があります。

さらに彼らの中にはこのような、外部の人物像ではなく、自らのうちに具体的な人物像を創造し、それにピッタリ合わせる形で生きようとする者もある。それはとりわけ年少者の女性に多いように思われる。(p71)

そのような衣服を着替えるかのような人格の多重化は、外部の人物像を取り込むだけでなく、自分で創造することによって生まれる場合もあります。

自分で人格を創れるということは、当然IFを創ることもできる、ということにほかなりません。

ここでは特に年少者の女性のASDにそのようなケースが多いとされています。女性のASDは男性のASDに比べて空気が読めない傾向は弱いので、IFを生み出しやすいのかもしれません。

女性のアスペルガー症候群の意外な10の特徴―慢性疲労や感覚過敏,解離,男性的な考え方など | いつも空が見えるから

 

この後の文脈では、その一例として、自閉症だったわたしへ (新潮文庫)の著者ドナ・ウィリアムズが挙げられています。

ドナは、ウィリーとキャロルという別人格を創造することで、学校や人間関係の問題に対処していました。

ドナはウィリーとキャロルという別人格の存在を認識していましたし、記憶もつながっていましたから、古い診断基準に当てはめると、ドナはジキル博士と同じく、DIDではなくIC、つまりイマジナリーフレンドを持っていたとみなされるはずです。

広沢先生は、ASDの人たちにとって、このような多重人格的な生き方はごく自然なものだとさえ述べています。

PDD型自己の場合、そもそもの構造が区画化されており、「個」の感覚が希薄である。

したがって高機能PDD者においては、むしろいくつかの人物像が併存することは自然なことといえよう。 (p72)

PDDというのは広汎性発達障害のことで、現在はASDの一部としてまとめらたものです。そのようなPDD、つまりASDの人たちは中心となる自己のアイデンティティが希薄なために、その場その場で様々な人格になりきることは、トラウマへの反応ではなく、むしろ日常の一部なのです。

作家たちの秘密: 自閉症スペクトラムが創作に与えた影響にもこんな説明がありました。

自己の流動性は、自閉症スペクトラムの人に多く見られる現象です。本書に登場する自伝作家の全員、それに小説の作家の多くも、流動的で可塑性のある自己という感覚をもっています。

私が教えているASの学生のひとりは、約10種類のアイデンティティをランダムに使い分け、そのことを“世間に向ける鎧の交換”と呼んでいます。

こうした交換は、短編小説、詩、劇作など、ある種の創作に恩恵をもたらすこともあります。(p231)

やはり、自閉症スペクトラム(ASD)、およびアスペルガー(AS)の人の場合、中心となる自己が不在のため、必要性に駆られて、独自の心の理論に基づく、衣服のような脱ぎ着できるアイデンティティ、あるいはイマジナリーフレンドを創りだし、それが創作にも役立つようです。

とはいえ、ASDの人たちは、愛着形成に遅れが生じやすいと言われていますし、孤立しがちでトラウマ経験にさらされることもあります。

ですから、単にASDだから人格の多重化が生じるというわけではなく、愛着トラウマなどの様々な要因が重なり合っているケースも少なくないでしょう。 

定型発達のIFとASDのIFの違い

では、定型発達の人たちが持つIFと、ASDの人たちが持つIFに、質的な違いはあるのでしょうか。

まず、脱ぎ着する衣服のようなIFは、どちらかというとASDに特有のものであり、定型発達の人のIFは人格交代のために創られることは少ないのではないかと思います。

しかしダニエル・タメットのIFのアンのように、ASDの人がただ会話するためのIFを生み出すことももちろんありますし、定型発達のIFがときに人格交代して主人格を手助けすることもあるでしょう。

また、IFを持つ年齢でいえば、ASDの子どもは発達が遅れるため、幼児期ではなく、学童期などの遅い時期にIFを持ちやすい可能性があります。

しかし、ドナ・ウィリアムズのウィリーは2歳のころ、キャロルはその1年半後に現れたので、定型発達の子どもと変わらない可能性もあります。

興味深いことに、広沢先生は、先ほどの引用文の続きで、次のように述べています。

また彼らの場合、このような複数の人物像の存在を、ごく自然に認識しており、むしろうまくそれらを使いわけることが、社会適応の手段となっている。

一方一般型自己をもつ解離性同一性障害の患者にとっては、…最終的には「個」の統一が課題となってくる。複数の人格の存在自体が苦痛となり得る。(p72)

ASDの人は中心不在のため人格の多重化を自然なものと感じるのに対し、定型発達のDIDの人は、なまじ中心となる自己が存在するせいで、人格の多重化を苦痛に感じる、と書かれています。

この違いは興味深いものですが、必ずしもASDと定型発達の感じ方の違いとはいえないようです。

というのは、以前も登場した、アリソンの提唱する多重人格障害(MPD)、つまり7歳以前に発症した多重人格の人の感じ方は、ASDの人の感じ方とよく似ているからです。

アリソンは「私」が、私でない人たち―「多重人格」専門医の診察室からの中で、7歳以前に多重人格となった人は、自己が確立する前に人格が多重化し、本来の自己は内側に隠れてしまったために、自己同一性の葛藤を感じないので「解離性同一性障害」ではなく「多重人格障害」の名称のほうが適切だと述べています。(p259)

アリソンの主張するMPDの人たちは、自己同一性の違和感を感じないだけでなく、場面ごとにふさわしい人格を創りだして対処することが当たり前になっていて、ASDの人が複数の人格を脱ぎ着して現実に対処する姿とよく似ています。

MPDの人たちの大半は、もともと自閉的なわけではないでしょうが、自己が確立する前に人格の多重化が生じてしまい、中心となる自己の不在という点でASDに似るため、同じような生き方に至りやすいのかもしれません。

しかし、ASDか定型発達かを問わず、IFやDIDなどの人格の多重化を抱える人の中には、自己同一性の葛藤を抱える人たちと、まったく自然なこととみなして違和感を感じない人たちとがいる、という点は注目に値します。

IFにも当事者研究が必要

このセクションを締めくくるにあたり、自閉スペクトラム症(ASD)の人たちと、青年期のIFを抱え持つ人たちとが、文化的な意味において、同じような局面に立たされているという共通性を考えたいと思います。

自閉スペクトラム症は、その名の通り、程度の軽いものから重いものまで、スペクトラムとしての連続性をもっている、ということを先に述べました。

単純に白か黒かで二分できれば楽なのですが、定型発達とカナー型の自閉症という両極端の人たちが比較される一方で、その中間に位置するアスペルガー症候群の人たちは、社会からも医学者からも長年誤解されてきました。

近年、ようやくアスペルガー症候群の当事者自身が、自伝や当事者研究を通して、自分たちは何者なのかを自ら語るようになり、心の理論がないとか共感性に乏しいといった偏見が正されてきたように思います。その中には、先ほどから名前が出ている、ドナ・ウィリアムズやダニエル・タメットも含まれています。

イマジナリーフレンドのような人格の多重化も自閉症と類似したスペクトラム性を持っている、ということを説明してきましたが、こちらもやはり、極端な例のDIDは研究されてきたものの、DIDと単一人格者の中間に位置する、青年期のイマジナリーフレンドの事例は、ほとんど手がつけられてきませんでした。

そのせいで、イマジナリーフレンドを持つ青年は、精神的に病んでいるとか、妄想の世界に引きこもっているといった誤ったイメージが流布しているように思えます。

こうした誤解が解かれるためにはアスペルガー症候群の人たちが、自分たちの口でそのユニークな文化を語り始めたように、青年期のIFを持つ人たち自身が、当事者研究を通して、その独特な文化や世界観を発信しなければならないのではないでしょうか。

子どものイマジナリーフレンドを研究してきた麻生武先生は、想像の遊び友達一その多様性と現実性の最後にこんな付記を添えていました。

日本では,「想像の遊び友達」について語られることがほとんどなく,研究されることもほとんどなかった。

よって,日本において「想像の遊び友達」を持っていた人々・子どもたちは,そっと人知れず自分だけの王国を持っていたと言える。

私は,その王国に足を踏みいれ,その高原に咲く草花を分類しこのような形で発表してしまった。

本論を読んでくださった方が,子どもたちの内なる王国を,好奇心という土足で踏みにじらないことを願いたい。

とは言え,このように発表しつつそのような願いを人にすること自体あまりにも自己中心的かとも思っている。

アメリカが発見されなければ,1千万のインディアンが殺されずにすんだのにという思いがある。私の発見したと思っている王国がアメリカではないことを祈りたい。

何度読んでも、非常にすばらしい心遣いが感じられる文章だと思います。

特に問題となるのは、非当事者の権威者、つまりIFを経験していない医師や学者による説が広まってしまうことです。アスペルガー症候群の誤解が広まったのは、定型発達の医師が中心になって彼らを研究していたせいでした。

非当事者は、決して当事者の感覚を十分正しく把握することはできませんから、誤った見解が流布する可能性があります。

しかし、今はアメリカ・インディアンが虐殺された時代とは違うのです。アメリカ・インディアンは、自ら声を上げる場を持っていませんでしたが、現代社会は、インターネット上を含め、当事者たちが自分の言葉を発信する機会が多くあります。

確かに、IFを持つのが子どもだけであれば、当事者研究の余地はなかったかもしれません。しかし実際には、青年期以降もIFは存在するのであり、子どものIFとはある程度地続きになっているため、当事者研究の余地は大いにあると思います。

もちろん、IFを持つ人の中にはIFの存在を発信することに違和感を持たない人がいる一方で、IFの存在を秘しておきたいと感じる人もいるでしょう。

IFが一人の人間としての人格を持っている存在であることを考えると、いち早く当事者研究を世に送り出したここにいないと言わないで ―イマジナリーフレンドと生きるための存在証明―の著者のように、友だちの存在を積極的に語りたい人がいる一方で、私秘性を保ち、プライバシーを守りたいと考える人がいるのも当然です。

走馬灯などの解離体験の不思議について記しているなぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学の中に、「意識は座席が一つしかない劇場」であると書かれているとおり、どれほどの言葉を持ってしても、IFを持つ人の実感を持たざる人に伝えるのは難しいことです。(p335)

自分だけが感じているIFという不思議な現象のクオリアを言葉にしてしまうと、多くの重要な要素が削ぎ落とされてしまい、感動が失われるように感じる人もいるかもしれません。

IFはいわば、起きながらにして夢を見ているような現象だとセクション3で説明しましたが、夢は夢のままでそっとしておきたい、まだ現実に目覚めることなく、自分だけの劇場で夢の続きを見ていたいと感じる人もいることでしょう。

様々な感じ方があるでしょうから、他の人の気持ちを尊重するのは大切なことです。

しかし、もしも、アスペルガー症候群の当事者研究のように、当事者として、自らの手でIFの体験談としての半生記や、系統立った文化論をまとめたい、と感じる人がいるとすれば、それはきっと意義のある仕事になると思うのです。

終章 あなたのIFは、あなただけのIF

以上が今回のさらなる4つの考察のすべてです。

この記事で考えたことを最後にまとめましょう。

まず、一つ目のセクションでは、IFは「心の理論」を基盤として、他の人の気持ちを想像する能力から生じることを説明しました。

「心の理論」が発達した子どもが「いない人」のことまで考えてしまうように、小説家もまた強い感受性によって、架空の登場人物を創作することができました。

二つ目のセクションでは、「心の理論」が強く発達しすぎる背景として、「愛着トラウマ」の存在を考えました。

生後わずかな期間の経験が、脳の左右の結びつきを弱め、「安全基地」としてのIFを生み出すことがあります。

三つ目のセクションでは、「解離」という脳の機能の正体に迫りました。

それは感覚遮断によって、起きながらにして夢を見ているような不思議な状態を創りだすものであり、解離による人格の多重化は病気ではなく愛着トラウマに対する防衛反応である、という点を明らかにしました。

最後の四つ目のセクションでは、「自閉スペクトラム症」のIFの特殊性について考えました。

一般的な意見とは異なり、自閉スペクトラム症の人たちも彼らなりのIFを持つことがあり、複数の人格を抱え持つ生き方を自然なものと感じているのです。

これら今回の4つの考察が目的としていたのは、子どものIF、青年期以降のIF、そしてDIDの交代人格、さらにはアスペルガー症候群のIFという、それぞれ一見隔たっているように感じる現象を結び合わせることでした。

様々な違いはあるにせよ、根底のところでスペクトラム性を有している、ということをある程度、論理的に説明できたのではないかと思います。

しかし、このようなスペクトラム性を有しているとはいえ、最後に、強調しておきたいのは、あなたのIFは、あなただけのIFである、ということです。

IFは現実の人間と同じように、一人ひとり性質が異なります。この記事に書いたような一般化された内容がぴったり当てはまるというのはむしろ稀で、実情はもっと多様性に富んでいるはずです。

わたしの見解としては、IFというのは、だれもが創り出せるものではなく、小説家の才能と同様、ある意味で生まれつきの才能に近いものなのではないかと考えています。

正確には生まれつきではなく、生まれて間もない愛着形成の時期に、その人の脳の解離傾向が決定されます。その時期を過ぎると愛着形成が難しくなるように、後になって解離傾向を強めたり弱めたりすることはおそらく不可能です。

それは、解離傾向が比較的弱いため、ストレスに直面しても、IFを創りだすことが難しく、心の中が空っぽのまま、さまようことになる境界性パーソナリティ障害の人たちの場合によく表れています。

岡野憲一郎先生は、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中でこんなことを綴っていました。

私自身は会ったことがないが、解離に興味を持ち、「そのような症状を持ってみたい」という願望や空想を持つ人は少なからずいるということを、患者さんたちから聞くことがある。

私は「解離になりたいと思っても簡単にはなれない」という立場である。「解離になりたい」人たちは「解離になりたい」けれどもそうなれない人のはずだ。(p5)

なぜなのかよくわかりませんが、世の中には「解離になりたい」と考える人たちが存在するようです。

アインシュタインのようなアスペルガー症候群の天才の論理的な思考に憧れて「アスペルガー症候群になりたい」と考える人たちと似ているかもしれません。実際にはアスペルガーは天才ではないにもかかわらずです。

実際に、以前の記事で取り上げたように、IFの作り方を知りたい、と思って調べる人たちはけっこういるようです。

イマジナリーフレンドは自分で「作る」ものなのか「作り方」があるのか | いつも空が見えるから

 

しかし、岡野先生は『「解離になりたい」人は「解離になりたい」けれどもそうなれない人のはずだ』と述べています。

わたしもまったくの同意見で、上記の記事で説明したとおり、たとえIFを作りたいと思って作った人がいるとしても、生来の解離傾向によって創りだされたIFと、見よう見まねで創ったIFとでは、母語と第二言語ほどの違いがあるはずです。ネイティブになりたいと思っても簡単にはなれないのです。

2015年の第14回日本トラウマティック・ストレス学会で発表された、大饗広之先生らの近年の研究、大学生年代におけるイマジナリー・コンパニオン体験の諸相 - を見ても、解離群と非解離群のIF周辺体験を比較したところ、性質が大きく異なることがわかっています。

病的解離群のほうが有意に人格化・他自我・他人格体験の体験率が有意に高く, 実体的意識性体験も高い傾向が認められた( 図4)。

人格化を含むすべてのIC様対象で病的解離群のほうが体験率が高かった。

解離群のほうが
• IC様対象が活発に心的活動をしている,
• 自己-対象間で積極的な心理的やり取りが行われている, と報告

実際に、この記事をここまで読んでくださった方であれば、IFが単なる空想によって生まれるわけではないことを承知しておられると思います。

それは幼少期からの愛着トラウマや過剰同調性、あるいはアスペルガー症候群などからくる苦悩と絶えず向き合わなければならなかった結果、防衛機制が創りだした助け手であり、闇夜にきらめく星のように、まず深い漆黒があって始めて輝き出すものなのです。

上記の記事で取り上げたタメットらのように、IFを自分で創った、と感じている人もいるかもしれませんが、厳密な意味でIFらしいIFを創れるのは、おそらくはある程度の潜在的な解離傾向を持っている人たちに限られるのでしょう。

第一線の研究者が考える「生まれつきの才能」と「練習」の関係という記事に書かれているとおり、「人は生まれつき適性のある活動に自然と引き寄せられ、頑張って続ける」のであり、自分でIFを創ったと感じている人は、おそらくもともと解離傾向という適性があった人たちです。

幼いころに決まる解離傾向を、後々手に入れることができない、解離になりたくてもなれない、というのは、裏を返せば、解離をやめたくてもやめることはできない、という意味でもあります。

解離性障害の人は、加齢と共に症状が軽くなりますし、人格の多重化が消えていくこともありますが、それは生来の解離傾向が弱まったという意味ではなく、解離を用いなくてもストレスに対処できるようになっていくということでしょう。

DIDの予後についての次の記述は、生来の解離傾向が、おそらく生涯にわたりそれほど変化しないことを裏づけているように思えます。

DIDを持つ患者のかなりの部分は、大きなストレスがない保護的な環境に置かれれば、次第に人格部分の出現がみられなくなり、「自然治癒」に近い経路をたどることが観察される。

…ただしそのような例でも多くが長年にわたし心の中に人格部分の存在を内側で感じ続けたり、時折幻聴を体験したりすることが報告されている。(p139)

たとえ別人格が役目を眠りにつこうとも、それらは「眠る」のであって「消える」わけではないようです。それらが本当の意味で「消える」のは、主人格が死ぬときでしょう。

IFにしても、DIDの交代人格にしても、ひとたび精緻な人格としてのアイデンティティを形成したなら、生涯にわたって主人格と人生を共にするのでしょう。

解離傾向は、コントロールを失うと、ときに苦痛を伴うものとなるかもしれませんが、基本的には、苦痛の原因は愛着トラウマなどの別の部分にあり、解離傾向は、それらから心を守るために働いています。

あなたの解離傾向は、優れた感受性や内省的な思考力、芸術的才能などをもたらしているかもしれませんが、それらすべてはあなただけのものです。それを後から獲得することはできません。

それはすなわち、あなたが出会ったIFは、だれか他の人が創り出したいと思っても、決して創り出すことができず、あなたのために、ただあなただけのために、オーダーメイドの存在として、生み出されたものだということです。

最後に、もう一度言います。

あなたのIFは、あなただけのIFなのです。


生まれつき敏感な子ども「HSP」とは? 繊細で疲れやすく創造性豊かな人たち

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■光や音、匂い、そのほかのさまざまな感覚に人一倍敏感
■場の空気や他の人の気持ちを読みとることが得意
■人より深く考え、呑み込みが早いと言われる
■感受性が強すぎるせいで刺激に圧倒されて疲れ果てることがある
■子どものころから空想の友だちなど不思議な体験をしてきた

なたはこのような、人一倍強い感受性の持ち主ですか? あるいは、もしかすると、あなたのお子さんがこのリストに当てはまるでしょうか。

もしそうなら、あなたやお子さんはHSP (Highly Sensitive Person)、つまり「人一倍敏感な人」や、HSC (Highly Sensitive Child)、つまり「人一倍敏感な子ども」と呼ばれる生まれつきの感受性の強さを持っているのかもしれません。

生まれつきの感受性の強さは、優れた才能につながることがあります。HSPの人は人の心をつかむコミュニケーション力に長けていますし、優れた芸術家や科学者の中には、HSPの繊細な感性を生かして成功した人が少なくないとも言われています。

しかし一方で、優れた感受性の強さのために、人混みやイベントで疲れやすかったり、学校で強いストレスを感じて不登校になったり、果ては慢性疲労症候群解離性障害といった心身の問題を抱えることもあります。

HSPとはいったいどんな性質なのでしょうか。しばしば混同されるアスペルガー症候群の感覚過敏とはどこが違うのでしょうか。やはり感受性が強いADHDとの間にはどんな関わりがあるのでしょうか。どんなリスクまた可能性を持っているのでしょうか。

HSPという概念を提唱したエレイン・N・アーロン博士ひといちばい敏感な子や、そのほかの関連する資料から、HSPについてわかりうることを広範囲にまとめてみました。

HSPとは何か?

HSP(人一倍敏感な人)、HSC(人一倍敏感な子)は、心理学者エレイン・N・アーロン博士によって提唱された概念です。

アーロン博士が1996年に書いたHSPについての本、ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。 (SB文庫)(原題は、「The Highly Sensitive Person」)は英語で出版された後、オランダ語、日本語、中国語、ギリシャ語、ポーランド語に翻訳されるベストセラーになりました。

アーロン博士はこれまで、「内向的」「怖がり」「引っ込み思案」などとネガティブに語られがちだった敏感な人についての研究に一石を投じ、それらの人は、本当は感受性豊かで創造的、そして子どもの15~20%を占める個性の一つなのだ、ということを明らかにしました。

そして、感受性の強さとは、おもに育て方によって決まる後天性のものではなく、持って生まれた先天性のもの、その人固有の遺伝的性質であり、才能ともなる、ということを学術的に立証したのです。

アーロン博士は、自身がHSPであり、子どももHSCであることから、人一倍敏感な人の性質や、そのような子どもの育て方について、とても深い洞察と研究を世に送り出してきました。

今回おもに参考にしたひといちばい敏感な子は2002年に書かれた10年以上前のアーロン博士の本の邦訳です。

しかし、日本語版に寄せて、2015年2月に書かれた最新の学術的情報を含む明快な解説が追加されており、その部分を特に参照して、HSPとは何かをまとめる助けにしました。

HSPの4つの特徴

HSPについては、世間ちまたでは、様々な形で紹介されていますが、本来の定義からそれた情報も少なくありません。誤解されがちですが、普通より感覚が過敏であれば すなわちHSPである、というわけではないのです。

HSPという概念を提唱したエレイン・アーロン博士は、ひといちばい敏感な子の中で、HSPには、特徴的な4つの性質が必ず存在すると述べています。

最近、私はこの根底にある性質には「4つの面がある」と説明しています。つまり、人一倍敏感な人にはこの四つの面が全て存在するということです。

4つのうち1つでも当てはまらないなら、おそらくここで取り上げる「人一倍敏感」な性質ではないと思います。(p425)

たとえ感覚が過敏な人であっても、その4つの性質のうちの1つでも当てはまらないならHSPではなく、その人の過敏さは別の問題から来ていることになります。

それでは、その4つの性質とは何なのでしょうか。アーロン博士は、それら4つの頭文字をとって「DOES」と呼んでいます。一つずつ見ていきましょう。(p425-432)

D 「深く処理する」

一つ目の性質は、「深く処理する」(Depth of processing)ことです。簡単に言えば、「一を聞いて十を知る」という性質のことです。

HSPの人たちは、単に敏感に反応するわけではありません。ちょっとした刺激や情報から、他の人以上に深く感じたり、深く考えたりします。無意識にであれ、意識的にであれ、物事を徹底的に処理し、理解していきます。

そのような意味では、HSPの敏感さとは「過敏性」ではなく「感受性の強さ」だと言えるでしょう。

この「深く処理する」という性質は、年齢以上に大人びた受け答えをしたり、初めて経験する場所や人の前で行動するまでに時間がかかったりという行動にも現れます。

これは、場の空気を読み取って行動する能力に優れているということです。自分の考えだけで直情径行に行動したりせず、その場の状況や相手の気持ちを深く読み取り、それに合わせて行動することができます。

HSPの人は、異文化や異なる社会背景の人の気持ちや行動を理解し、共感する能力に長けています。

ビアンカ・アセヴェドによる研究によると、HSPの人は非HSPの人より、脳内の島皮質と呼ばれる場所が活発に働いていたそうです。この場所は内面の感情や、外部の感覚刺激を読み取って統合する意識の座と言われています。(p426)

O 「過剰に刺激を受けやすい」

二つ目の特徴は、「過剰に刺激を受けやすい」(being easily Overstimulated)ことです。

HSPの人は、自分の内外で起こっていることに人一倍よく気がつき、処理し、配慮するので、精神的にかなりの負担がかかり、疲れやすく感じます。

変化に敏感で、普通よりも多くの新しい経験が得られるぶん、多くのことを読み取りすぎて疲れ果ててしまうこともしばしばです。

強い明るさ、大きな音、手触り肌触り、匂い、暑さ寒さなどからも、普通以上のストレスを受けたり、疲れや痛みも通常より強く感じてしまうかもしれません。

すでに触れたHSPの人で強く働いている島皮質は、そうした感覚を感じ取る感受性の源です。他の人と同じ刺激を受けても、感受性が強いせいでより強く刺激を受けてしまうのです。

人の多いパーティーや雑踏、大きな音の映画館や遊園地など、刺激の量が多い場所はことさら苦手です。他の多くの人にとっては、そこは日常よりも目一杯刺激を開けて楽しめる場所ですが、普段から人並み以上に刺激を感じ取っているHSPにとっては、そこは刺激が多すぎる場所なのです。

このような刺激を過剰に受けすぎる性質は、特に子どもの不登校の原因と一つとされる慢性疲労症候群(CFS)と密接に関係していると思われます。おそらくは、学校という集団行動において、普通の子以上に刺激を受けすぎてしまうのでしょう。

子どもの慢性疲労症候群(CCFS)とHSPは、遺伝子レベルで要因が重なっている可能性があり、その点については後ほど改めて取り上げます。

また、過剰に刺激を受けすぎるという性質は、アスペルガー症候群、広汎性発達障害などで知られる自閉スペクトラム症(ASD)の子どもにもよく見られる特性ですが、HSPと自閉症は別のものです。この点についても、次の副見出しで詳しく取り上げます。

E 「感情反応が強く、共感力が高い」

三番目の特徴は「全体的に感情の反応が強く、特に共感力が高い」(being both Emotionally reactive generally and having high Empathy in particular)ことです。他の人の気持ちに同調する力の強さのことです。

ここまで考えてきたとおり、HSPの敏感さは、単に感覚刺激が強い過敏さではなく、深く処理する感受性の強さでした。そしてその中には、場の空気を読み取る力も含まれていました。それは共感力の強さです。

HSPの子どもは人の心を読み取る能力に長けていて、まわりの人の顔色を読んで、自分を合わせることが得意です。親の望むこと、友達や先生の望むことをよく読み取って、適切な配慮や気配りをすることができます。

本を読むときには物語の登場人物に深く感情移入し、相手が人間でなくても、動物やロボットや物にさえ、強い感情移入を示します。ときには、物語の内容や、テレビのストーリーに深く共感して、涙もろくなってしまうこともあります。

後で触れますが、このような他人への関心や共感性の強さは、子ども時代に空想の友だち現象(イマジナリーフレンド)として現れることもあります。

ヤージャ・ヤゲロヴィッチの研究によると、HSPの人では良い経験にも悪い経験にも人一倍強く反応する脳活動が、思考や感情をつかさどる脳の高度な部分で見られたとのことです。(p430)

S 「ささいな刺激を察知する」

最後の四つ目は、「ささいな刺激を察知する」(being aware of Subtle Stimuli)ことです。小さな音、かすかな匂い、ちょっとした変化など、細かいことによく気がつきます。

こうしたささいな刺激を感知する細やかさは、各感覚の受容体が敏感だから、というわけではなく、それらから入ってきた情報を受け取る感受性が強いからだと考えられます。アーロン博士はこう説明しています。

中には感覚器が特に発達している人もいますが、大半は、感覚器の反応が大きいのではなく、思考や感情のレベルが高いためにささいなことに気づくのです。(p432)

そのようなわけで、HSPの人は、どれか特定の感覚だけが過敏である、というわけではなく、さまざまな種類の刺激に対して繊細な反応を示すのです。

環境の変化や、物の配置が変わったことに目ざとかったり、自然の風景や動物とのふれあい、芸術作品などから強い影響を受けたり、親や友達のちょっとした声のトーンや態度の変化から、何かあったのだと察知したりします。

ただし、刺激が過剰すぎる状態では、かえって普通の人以上に気づくのが難しくなることもあります。これはおそらく、感覚の過剰さから脳を守るために、意識がぼーっとしたり上の空になったりする解離が生じるからでしょう。

このように、HSPの人は、「深く処理する」「過剰に刺激を受けやすい」「感情の反応が強く、特に共感力が高い 」「ささいな刺激を感知する」という4つの特徴が見られます。これらは内外の刺激に対する感受性の強さを物語っています。

アーロン博士が述べていたとおり、感覚の過敏性があっても、これら4つの特性のうち、一つでも当てはまらない部分があるなら、その人はHSPではありません。

感覚の過敏性があり、これら4つのうち幾つかは当てはまるものの、すべてを満たさない人の代表例は、途中でも名前が出た自閉スペクトラム症(ASD)の人たちでしょう。

HSPの感受性の強さと、ASDの感覚過敏が別のものであるといえるのはどうしてでしょうか。

アスペルガーの感覚過敏とは別のもの

はじめに、HSPの性質は、ネット上の多くの記事などで誤って説明されていることがあると述べましたが、特に区別があいまいになっているのは、自閉スペクトラム症(ASD)の過敏性との関係です。

自閉スペクトラム症とは、これまで広汎性発達障害(PDD)アスペルガー症候群(AS)として知られていた、さまざまな程度の自閉症を一括りにした概念です。

自閉スペクトラム症の人たちは、しばしば場の空気が読めず、社会的なコミュニケーションが難しいとされますが、そのほかにも様々な感覚過敏を抱えていることが少なくありません。

たとえば、スキー場などの明るさが強い場所や、電車や救急車などの激しい音のせいで感覚刺激が過剰になりすぎてパニックになってしまう人もいます。自閉スペクトラム症の当事者研究によると、そのような過剰な刺激は「感覚飽和」と呼ばれています。

自閉スペクトラム症の独特な視覚世界を体験できるヘッドマウントディスプレイを大阪大学が開発 | いつも空が見えるから

 

このような感覚過敏の面だけを取り出すと、一見、自閉スペクトラム症は、人一倍敏感な人、つまりHSPであるかのように思えますが、実際にはそうではありません。

むしろアーロン博士は、自閉スペクトラム症とHSPをはっきり区別していて、正反対のものであるとしています。

HSPは共感力がとても強い

すでに4つの特徴の中で説明したとおり、HSPの人たちは、場の空気や他の人たちの気持ちに敏感です。親や友達や先生の気持ちを先回りして読み取り、適切に配慮する能力に長けています。

HSPの人たちは、感情移入して相手に配慮できるので、しばしばサービス業などコミュニケーションを要する職種に就きますが、そうした社交的な能力は、自閉スペクトラム症の人には見られません。

ひといちばい敏感な子にはこうあります。

HSCと混同される理由は、自閉症やアスペルガーの子どもたちは、感覚的な刺激に極めて敏感な点です。

でも、場の空気や相手の気持ちには敏感とはいえません。これがHSCと大きく異なるところです。(p66)

では、HSPとは、感覚の過敏性を持つ自閉傾向の人たちのうち、コミュニケーションの点ではさほど苦労がない人、つまり程度の軽い自閉症なのでしょうか。

アーロン博士は、その見方をもはっきりと否定しています。

HSCは、「自閉症スペクトラム」のうち、程度の軽いほうに属するのてはないかという議論もありますが、私は違うと思います。

「自閉症スペクトラム」の程度の軽い子を表現するなら、何か癖があったり風変わりだったり、融通が利かなかったり、感情が乏しかったりということになるでしょう。

HSCを含め、疾患がない子どもは、生まれつき人と関わることを望んでいます。(p67)

アーロン博士が説明するとおり、HSPの人たちは、自閉症のうち程度の軽いものでもありません。自閉症のうち、言語コミュニケーション能力に秀でた程度の軽いもの、とされているのは、アスペルガー症候群ですが、彼らにとってコミュニケーションは決して簡単ではありません。

アスペルガー症候群は、確かにカナー型などの自閉症と比べると程度は軽い、という見方ができますが、実際には人との通常の関わりが難しく、社会で「空気が読めない」というレッテルを貼られてしまう人たちも少なくないのです。

アーロン博士は、むしろ、HSPは自閉症の軽いものであるどころか、正反対のものであると述べます。

つまり、人づきあいが不器用で、人との関わりもあまり望まない自閉傾向のある人たちとは違って、HSPの人たちは人への強い興味があり、根っからの社交性を持ち合わせているのです。

異なる立場の人を理解する力

自閉スペクトラム症の人たちがコミュニケーションを難しく感じる理由として、人の動きを真似するときに発火する脳のミラーニューロンや、それが組み込まれた脳の共感システムであるミラーシステムの働きの問題がしばしば指摘されます。

しかしHSPではその反対の結果が観察されていて、ミラーニューロンの働きが活発であることがわかっているそうです。

HSPは非HSPに比べて、ミラーニューロン系の働きも活発です。特に、自分の大切な人がうれしい、あるいは悲しい表情を浮かべるのを見た時や、知らない人がうれしい顔をした時にもこの傾向が見られます。

これは、HSPが、感情を感じ取った相手に同調すること、全般的にポジティブなことに同調した結果といえるでしょう。…子どもが残酷なことや不公平なことに動揺しやすいのも当然でしょう。(p431)

このような点でも、HSPと自閉スペクトラム症は正反対の特徴を持っているといえますが、こと共感性について言うと、HSPはもっと独特な性質を持っています。

以前の記事で取り上げたとおり、自閉症の人たちが、「共感力がない」とする見方は、近年では誤りとされています。

というのも、自閉スペクトラム症の人たちも、自分と同じ自閉スペクトラム症の人相手には共感性を示せるからです。

そして、世の中の多くの人も、自分と同じ集団、自分と同じ社会の人に対しては共感する力を持っています。ある意味で、自閉症の人も、自閉症でない人(つまり定型発達者)も、自分と同じ相手のことは理解でき、そうでない人の気持ちはわからないという点で共通しています。

アスペルガーは「共感性がない」わけではない―実は定型発達者も同じだった | いつも空が見えるから

 

自閉スペクトラム症の人たちが定型発達の人の気持ちがわからないように、定型発達の人も自閉スペクトラム症の気持ちがわかりません。そして国や人種が変われば、定型発達者同士でも理解や共感ができないため、衝突や差別や偏見や戦争が引き起こされてきました。

こうした観点からすれば、共感性という点では、自閉スペクトラム症の人も定型発達者も似たり寄ったりです。彼らはどちらも「非HSP」という点では同じです。

しかし、HSPの人たちは、この点で独特な立場にいます。

ひといちばい敏感な子によると、HSPの人たちは、際立った共感力のおかげで、文化の違いなどの影響にとらわれにくいことが研究からわかっています。

私のチームが行った研究では、アジア地域とアメリカのそれぞれで生まれ育ったHSPと非HSPについて、育った地域によって難易度が異なるとされる認知処理の作業のしかたを比較しました。

つまり、アジアのように集団を尊重する文化で育った場合と、アメリカのように個々を尊重する文化とで、脳の活動度がどのように違うかを検討したのです。

非HSPの脳は、自分の文化で育った人にとって難しいと感じる作業をした時に、ふだんより多くの労力を使っていましたが、HSPの場合は、生まれ育った地域にかかわらず、特別な労力を使ってはいませんでした。彼らは文化の違いを超えて、物事の「本質」を見ているかのようでした。(p426)

HSPの人たちは、物事を深く感じ取って処理するので、文化による表面的な違いにとらわれにくく、どちらにも共通する本質を感じ取り、異なる文化圏の活動にも自分を合わせることができました。

HSPの人は、場の空気を読み取ることに長けていますが、それは異なるタイプの環境に自分を合わせていける柔軟さのことでもあります。別の文化、という場の空気にもまた適切に順応し、労せずして異なる背景、文化、人種、宗教などの人たちに合わせることができるのです。

この研究については、さらに次のような補足も書かれていました。

HSPのこうした性質についても、脳の活動を調べた研究データがあります。まず、似た写真を見せて違いを見つける試験では、試験中、HSPの脳は非HSPに比べてはるかに活発に働いていました。

また、前出の文化背景に関する試験では、ささいな違いを見つける能力は、HSPは育ってきた文化の影響を受けていないのに対し、非HSPはその影響を受けていました。(p433)

この説明からわかるとおり、HSPの人は、異なるものの違いを見つけるとき、育ってきた文化によるバイアスを受けていませんでした。

文化的なバイアスというと、たとえばわたしたちの日本の社会では、メディアなどの報道のせいで、中国製品は信頼できない、イスラム国は危険だ、といったものがあるかもしれません。

そのせいで個人的に中国人やアラブ人と会ったとき、無意識のうちに先入観が働いて、悪いイメージを持ってしまう人も少なくないでしょう。

また、文化的なバイアスは、男女についてのイメージとも関係しています。男女の脳には本来大きな違いがないのに、男の子はチャンバラ、女の子はおままごとといったイメージがあるために、娯楽や育て方や教育までが左右され、文化的に作られた男らしさ、女らしさ、つまり「ジェンダー」ができあがります。

しかし、HSPの人たちは、そうした文化的なバイアスにとらわれにくく、深く処理する感受性のために、本質をとらえることができ、文化の違いや性別の違いに影響されない感性を発揮することができます。

このようなジェンダーや文化の枠にとらわれない感性は、創造性の強いクリエイティブな人たちの特徴とされています。さまざまな背景の人たちに訴える魅力を備えた、ワールドワイドな製品やサービス、芸術などを作ることができるからです。

脳神経科医オリヴァー・サックスのミクロネシア諸島への旅行記、色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記 (ハヤカワ文庫では、異文化間を橋渡しする仕事において、そのような感性が いかに役立つかについてこう書かれていました。

しかし人類学者は先住民の詩や儀式そのものだけを研究の対象として扱う傾向があるので、その内面や精神、詩を吟ずる人の視点にまで立ち入ることは難しい。

人類学者にとっての歴史は、たとえば外科医にとっての患者のようなものだ。異なる歴史観や文化を十分に理解したり共有したりするには、歴史家や科学者の技術を超えた何かが必要なのだ。

つまり、特別な芸術的・詩的な感性が必要とされるのである。(p282)

ここで言及されている「特別な芸術的・詩的な感性」こそが、HSPの人が持つ感受性の強さです。

異文化に接する人は、しばしばサンプルを扱うかのような冷淡で機械的な態度をとりがちです。これは患者を研究対象としか見られない医者などの場合もそうです。

しかしHSPの人たちは、異なる立場、異なる種類の人たちを同じ対等な人間として見て、理解し、共感できる力を持っており、異文化からより多くの知識や発見を引き出すことができます。

患者に対して友人のような思いやりを示す医師がいれば、その人はきっとHSPとしての感受性の豊かさを持っているのでしょう。また定型発達者と自閉症の人たちの橋渡しができるような人もまたしかりです。

一方で、この強い感受性は、マイナス方面に発揮されてしまうこともあり、それが以前にこのブログで紹介した、「過剰同調性」と呼ばれるものです。これについては、この記事の後の部分、解離性障害との関わりのところで再度取り上げます。

「敏感性感覚処理」と「感覚統合障害」

このように、HSPと自閉スペクトラム症は、場の空気を読み取る能力の点では、正反対ともいえる性質を持っています。

では、どうして両者では、共通する性質として、感覚の過敏性が見られるのでしょうか。

この二つを混同してしまうのは、じつは言葉のあやのようなものです。本当は、HSPの人が抱える敏感さとASDの人たちが抱える過敏性はまったく別のものなのに、同じ感覚過敏という言葉で説明しているせいで、本質が伝わっていないのです。

ひといちばい敏感な子によると、じつは、HSPと自閉スペクトラム症の感覚過敏は、学術的には、それぞれまったく別の用語が当てられているそうです。

[HSPの感覚過敏は] 学術文献では「敏感性感覚処理(sensory processing sensitivity)」と呼ばれています。

第1章でも述べましたが、「感覚処理障害(sensory processing dosorder)」や「感覚統合障害(sensory integration disorder)」と混同しないでください。(p424)

ここで紹介されているとおり、HSPの感覚過敏は学術論文では「敏感性感覚処理」という名前がつけられています。あるいは、別の箇所では「差異感受性」(differential susceptibility )とも呼ばれています。(p434)

他方、自閉スペクトラム症の感覚過敏は、「感覚統合障害」ないしは「感覚処理障害」と呼ばれます。発達障害の早期療育の一つとして「感覚統合療法」という方法をご存じの方もいるでしょうが、一般に感覚過敏として認識されているのはこちらのほうです。

では、HSPの「敏感性感覚処理」「差異感受性」と自閉スペクトラム症の「感覚統合障害」「感覚処理障害」は何が違うのでしょうか。

わかりやすくするために単純化して考えると、これは「入ってくる」感覚の過敏性と、「受け取る」感覚の過敏性の違いだと思われます。

わたしたちは、まず外部から情報が「入ってくる」とき、ちょうどフィルターで濾し取るかのように、 無意識のうちに必要でない情報が取捨選択され、大事な部分だけが脳に届くようになっています。もしこのフィルターが働いておらず、情報がそのままなだれこんできたら、脳が圧倒されてしまいます。

自閉症では、このフィルター部分が弱く、外部からのありのままの情報がそのままなだれこんで来やすいようです。そのため、刺激の多い場所に行くと、騒音が脳に突き刺さったりするような過剰な感覚に圧倒され「感覚飽和」を起こし、メルトダウンとも呼ばれるパニック状態に陥るのでしょう。

このようなありのままな情報がなだれ込んでくることで、かえって特殊な才能を発揮する人たちの中に、自閉症のサヴァンと呼ばれる人たちがいます。

彼らの中には、たとえばスティーヴン・ウィルシャーのような、見たままの風景を記憶して写真のような絵を描ける人や、キム・ピークのように数千冊の本の内容を一字一句たがわず丸暗記できる人がいます。

なぜ自閉症・サヴァン症候群の人は精密な写実絵を描けるのか | いつも空が見えるから

 

こうした人たちは、情報を取捨選択するというフィルターが働いていないため、わたしたちであれば大事な部分しか印象に残らず、後はきれいさっぱり忘れたり見逃したりしてしまうような視覚情報をそっくりそのまま認識し、記憶することができるのです。

もちろん自閉症といってもそこまで顕著な人は少なく、人によってどのような感覚過敏が強いかはさまざまでしょうが、一般に「感覚統合障害」の本質は、情報が適切に取捨選択されずになだれ込んでくることにあると考えられます。

アーロン博士は、ひといちばい敏感な子の中で、HSPと自閉症の過敏性の違いを次のように説明しています。

例えば、自閉症スペクトラムの場合は、感覚処理の過剰な負担に反応することもありますが、反応しなすこともあります。自閉症の場合は、注意を向けるべきものと排除していいものとを見極めるのが難しいようです。

ですから、人と話す時に、相手の顔よりも靴に気をとられてしまうことがあるのです。それに対して、HSPは顔をはじめとする社会的な手がかりに注意を払います。(p429)

このように、自閉症の感覚過敏は、入ってくる刺激のうち、必要なものと排除すべきものが選り分けられていないことによる「感覚処理」の問題、そしてそれらを「感覚統合」することの問題なのです。

一方で、HSPの感覚過敏は「受け取る」側の感受性の強さです。HSPの人の場合、「入ってくる」感覚はしっかり統合されているので、洪水のような情報がなだれ込んでくることはありません。自閉症の人たちのようなメルトダウンと呼ばれる独特なパニック状態にはなりません。

しかし、「入ってくる」情報は適正でも、「受け取る」側の感受性が強いため、少ない刺激でも人より深く処理してしまいます。

これはまさに、先ほど書いたとおり「一を聞いて十を知る」です。入ってくる量は「一」であり、決して過剰ではないのです。しかし受け取る側で情報を増幅して、「十」を感じ取ってしまいます。

この「受け取る」側の感受性の強さは、受け取った情報を解釈し、加工する能力が強いということを意味しています。この部分が、自閉症の感覚過敏にはない別の特徴を生み出します。

というのは、自閉症とHSPの違いとして、先ほどから度々話題に上っているのは、場の空気を読み取り、他の人に共感する能力の強さでした。

自閉症でも、HSPでも、光や音、におい、手触りなどには敏感ですが、人の気持ちや場の空気に対する敏感さは、HSP特有のものなのです。自閉症の人たちは、どちらかというとそれらには鈍感なほうに属しています。

人の気持ちや場の空気というのは、光や音、におい、手触りのような物理的な刺激ではありません。ですからありのままの情報が過剰になだれ込んでくることはありえません。言葉にこめられた感情や、場の空気というのは概念的なものです。

しかしHSPの人は、物理的な刺激に過敏になわけではなく、他の人と同じ物を見、同じ音を聞いているのに、それらを解釈する力が強いせいで過敏に反応します。

すると、だれかから言われた言葉の内容や、周りの人の顔色といった概念的な情報にも、敏感に解釈し、「十を知る」敏感さを示すのです。

このように、自閉スペクトラム症とHSPの最大の違いとされていた場の空気への共感性は、それぞれの過敏性の違い、「入ってくる」情報が過剰か、それとも「受け取る」感受性が強いかという性質の違いに由来していて、アーロン博士の言うとおり、両者は正反対のものなのです。

共感覚にも二通りある

このような自閉スペクトラム症とHSPの感覚過敏の違いは、低位の領域の感覚過敏高位の領域の感覚過敏という分け方もできるかもしれません。

自閉スペクトラム症の人も、HSPの人も、しばしば共感覚を持っていることがあります。共感覚とは、簡単に言えば、ある感覚が、通常は関連していないはずの別の感覚と強いつながりをもって感じられることです。

たとえば黒字の文字を見るとさまざまな色がついて見えるとか、音を聞くと色が見えるとか、数字が空間に配置されて感じられるとか、さまざまなタイプがあります。

共感覚について研究している脳神経学者のV・S・ラマチャンドランは、一見同じように思える共感覚にも低位の共感覚高位の共感覚とがあることに気づきました。この「低位」また「高位」というのは、劣っているとか高度であるという意味ではなく、脳の情報処理の領域の違いを指しています。

脳のなかの天使によると、たとえば、文字に色が見える共感覚には、二種類のタイプの人がいると言われています。一方は、文字の形に反応するタイプ。他方は文字の意味に反応するタイプです。

形に反応するタイプは低位の共感覚であり、「3」と「三」と「III」では、いずれも違う色が見えます。色は視覚的な外形と結びついています。

意味に反応するタイプは高位の共感覚であり、「3」と「三」と「III」は、すべて同じ色が見えます。色は視覚的情報ではなく、それぞれの意味や概念と結びついているのです。

ラマチャンドランは、これらの共感覚は、一見よく似ているものの、脳の内部ではまったく違うプロセスが生じていると分析しています。

一部の共感覚者では、低位の紡錘状回ではなく、角回付近に位置する色と数に関する二つの高次領域のあいだでクロストークが起きているという可能性はないだろうか。

もしそうなら、彼らの場合には、曜日や月によって呼び起こされる抽象的な数の表象や概念に、はっきりとした色がついている理由が説明できる。

言いかえれば、共感覚の遺伝子がどちらの脳領域に発現しているかによって、共感覚者のタイプが分かれる―数の概念によって共感覚が起きる「高位」の共感覚者と、視覚的外形だけで起きる「低位」の共感覚者である。(p146-147)

少し難しい説明ですが、簡単に言えば、形と色がつながっている低位の共感覚は、脳の色や形を処理したり統合したりする浅い処理プロセスにおける混線で、概念と色がつながってる高位の共感覚は、もっと深い思考にかかわってくるプロセスにおける混線である、ということです。

これは、先ほど考えた、自閉症の「感覚統合障害」とHSPの「敏感性感覚処理」の違いとよく似ています、

低位の共感覚が起こる部分は、脳の情報処理のより浅い部分、つまり外から入ってくる情報を処理し、統合する部分の混線であり、本来は別々の処理するはずの感覚がなぜか混ざり合ってしまっている状態です。

一方の高位の共感覚が起こる部分は、脳の情報処理のより深い部分、つまり処理された情報を受け取る感受性に関わる部分であり、情報を解釈するプロセスで、別々の情報を過敏に関連づけ、概念レベルで混ぜ合わせている状態です。

もちろん、必ずしも低位の共感覚が自閉症に特有のものであるとか、高位の共感覚がHSPに特有のものであるというわけではないかもしれません。

しかし一般にひとくくりにされる共感覚が情報処理の過程によって少なくとも2タイプあることは、やはり十把ひとからげにされがちな感覚過敏もまた、感覚が処理される過程によって、複数の種類があるということを示唆しています。

HSPと自閉症の創造性は正反対

アーロン博士のひといちばい敏感な子によると、概念や意味の解釈に鋭く、感受性が豊かなHSPの人たちは、昔から、作家や芸術家など、クリエティブな感性を要する職業で優れた業績を上げてきました。

昔から、敏感なタイプの人は、科学者やカウンセラー、宗教家、歴史家、弁護士、医師、看護師、教師、芸術家などの職に就いてきました。(p46)

現代では、組織の集団主義が浸透しすぎて、そうした職業でHSPの人がやっていくのは難しくなってきているようですが、それでも繊細で敏感な感性は、クリエイティブな仕事に大いに役立つ才能といえます。

そして、興味深いことに、先ほどHSPの人の感受性とよく似ていると述べた高位の共感覚もまた、脳のなかの天使によると作家・詩人・芸術家の才能において大きな役割を果たしてきたと言われています。

才能に恵まれた作家や詩人は、単語や言語に関与する領域どうしのあいだに過剰な結合をもち、才能に恵まれた作家やグラフィックデザイナーは、高位レベルの視覚野どうしのあいだに過剰な結合をもっているのかもしれない。

「ジュリエット」、「太陽」といった一つの単語でさえ、意味の渦、あるいは豊かな連想の渦の中心として考えることができる。才能に恵まれた文章家の脳のなかではその渦が過剰な結合により大きく広がって、より大きな重なり合いができ、それに付随してメタファーに向かう傾向がつよくなるのだろう。

これで、創造的な人たち一般に共感覚の出現率が高いことの説明がつけられるかもしれない。(p154)

高位の共感覚もまた、概念や意味といった深く処理し、混ぜ合わせる力なので、作家や芸術家の創造性と深いつながりをもっています。創造性とはとりもなおさず、情報を人並み以上に鋭く加工し、料理する技術であるといってよいでしょう。

文才豊かな作家や、言葉で絵を描くとも言われる詩人がメタファー、つまり比喩や隠喩などの美しいたとえをひねりだすことができるのは、物事の本質を深くとらえ、意味を解釈して結び合わせることのできる力によるのです。

HSPの人の感受性の強さと、高位の共感覚とは、おそらく同じ土台を持っているものであり、どちらも複数の感覚を混ぜ合わせ、より強く感じ取る感性を指しているのだと思われます。

他方、アスペルガー症候群をはじめとした自閉スペクトラム症の人たちもまた、高い創造性を示すことがあります。

しかしこの点でも、一見同じ創造性に見えても、HSPの創造性とは正反対の特徴を持っています。

近年、自閉スペクトラム症の人たちの脳の活動が統合失調症の脳の活動とよく似ているという研究結果がありましたが、脳のなかの天使には、統合失調症の創造性について次のような説明があります。

脳の配線に問題のある統合失調症の人は、メタファーやことわざの解釈が苦手である。しかし臨床で伝えられているところによれば、彼らは語呂あわせに長けている。

これはつじつまがあわないように思える。

メタファーも語呂あわせも、無関係と思える概念を結びつけることがかかわっているからだ。

それなのになぜ、統合失調症者は前者が苦手で後者が得意なのだろうか? それは両者が似ているように見えても、実際には語呂あわせはメタファーとは反対だからだ。

メタファーは、表面レベルの類似性を利用して、奥深く隠れた結びつきをあらわにする。

語呂あわせは深いレベルであるかのようによそおった表面レベルの類似性である―だから滑稽さがある。

…ひょっとすると、「わかりやすい」表面レベルでの類似性に気をとられることによって、深い結びつきに対する注意が失われたり、そらされたりするのかもしれない。(p157)

HSPの「敏感性感覚処理」や、高位の共感覚を持つ人たちは、比喩や隠喩などのメタファーに秀でていましたが、統合失調症の人たちは逆に語呂あわせに秀でているとされています。

これは、統合失調症と脳の働きが似ているとされるアスペルガー症候群でもよく見られる特徴であり、たとえばアスペルガーだったとされるルイス・キャロルは語呂あわせが大好きで、不思議の国のアリスなどの作品にもたくさん織り込みました。

そうしたアスペルガーの作家たちの作品の特徴については、以下の記事にまとめています。

自閉症・アスペルガー症候群の作家・小説家・詩人の9つの特徴 | いつも空が見えるから

 

独創的なアスペルガーの芸術家たちの10の特徴―クリエイティブな天才の秘訣? | いつも空が見えるから

 

作家にしろ、画家にしろ、彼らの作風の特徴は、膨大な知識から編み合わされるコラージュ的な要素を持っているとされています。

先ほど、見た風景をそのまま記憶しているスティーヴン・ウィルシャーや、読んだ本を一字一句暗記しているキム・ピークを引き合いに出しましたが、自閉スペクトラム症の人たちは情報をありのままに受けとり、記憶する能力に長けているため、それらを語呂あわせしたりコラージュしたりするのが得意なのです。

なぜアーティストは生きづらいのか? 個性的すぎる才能の活かし方でも、そのような優れた正確な記憶力による引き出しの多さで、音楽的な才能を発揮しているアスペルガーのミュージシャンについて書かれていました。

だから独創性という意味では、このタイプの人は、どちらかというと、純粋な意味でのオリジナリティを発揮するのが難しい人が多いのかもしれません。

ただ、ものすごく知識が豊富なので、自分で学んだ多くのパターンから独自の組み合わせを引き出して結果としてオリジナルな方はいらっしゃる。(p72)

本書の中でも、自閉症スペクトラムの傾向を持つ人は即興が苦手だと思われがちだが、膨大なフレージングの引き出しを持っている場合には、むしろ即興の名手になりうるというくだりがありますが、俳優もミュージシャンと同じなんですね。(p125)

この2つの創造性、つまりHSPの感受性や高位の共感覚をベースとする自由奔放な比喩のような創造性と、アスペルガー症候群などに見られる、膨大な引き出しから合成される語呂あわせやコラージュ的な創造性とは、基本的にいって共存しえないものです。

というのは、アスペルガーの創造性は、ありのまま素材をそのまま組み合わせたものであり、HSPの創造性は、素材が調理されて煮詰められたスープだからです。

アスペルガーの人たちは、受け取った大量のありのままの情報が脳の中に蓄えられていきます。それが自閉スペクトラム症の感覚過敏の正体でした。

以前の記事で紹介したとおり、自閉スペクトラム症の人たちは、年月が経過しても記憶がかなり正確であると言われています。記憶が加工されにくいので、正確な記憶による語呂あわせやコラージュができます。

一方で、ありのままの情報を受けとるということは、適切に解釈することが苦手、ということでもあります。

それは、アーロン博士がひといちばい敏感な子で述べるように、比喩表現を字句通りに受け取ってしまったり、冗談を額面通りに解釈してしまったりという、自閉スペクトラム症ならではの融通の利かなさにもつながります。

アスペルガーの子は、コミュニケーションを取りたがりますが、人の話を聴いたり、話すタイミングを直感的に理解することができず、なかなかうまくいきません。

婉曲表現や皮肉を理解する、秘密を守る、顔色を読む、といったことも苦手です。誰も興味がないような事柄について、淡々と話すことがよくあります。

このような点はいずれもHSCでは見られないことです。

それに対して、HSPや高位の共感覚者は、情報を受け取ったらすぐに加工してしまいます。「一を聞いて十を知る」ということは、つまり9割方は勝手に作り出したものだということです。

情報の正確さは失われますが、それらを混ぜ合わせ、味付けして、独特な感性によって新しいものを創造できます。もとの素材をそのまま残すということと、それらを加工してスープにするということは、どちらか一方しか選べないのです。

左脳のインタープリター(解釈者)

このように、HSPと自閉スペクトラム症は、どちらも、感覚過敏や共感覚があったり、創造性を発揮したりすることがありますが、表向きは似ているようでも、よく理解すれば、まったく逆の性質に基づいていることがわかります。

わたしたちはしばしば、自閉スペクトラム症と定型発達者という枠組みで考えがちですが、それは正確ではないのでしょう。

一つの物差しを用意して、左端を自閉症とすると、右端は定型発達ではなく、HSPとなるのです。左端が自閉症、真ん中が定型発達者、そして右端がHSPです。

では、この物差しとは何なのか、というと、これは意味を解釈する脳のシステム、「意味システム」または「インタープリター」(解釈者)と呼ばれる部分の強さだと思われます。

先ほどの見たままの写真のような絵を描けるサヴァンの画家などについて考察した芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察では、こう指摘されていました。

自閉症例では、大脳皮質にも問題がある可能性が示唆されている.

そのために、言語学的な意味に関係するだけでなく経験自体や経験の意味するところを貯蔵するシステムでもある“意味システム”が描くことに関係した神経システムと離断された状態にある、と考えられるのである.(p97)

自閉症の人たちの解釈の弱さは、「意味システム」の働きの弱さを意味しています。

認知神経科学の権威マイケル・ガザニガは、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語るの中で、脳の左半球には、言語的情報の意味や解釈に特化した「インタープリター」(解釈者)という領域があることを説明しています。

左半球には、状況の要点を把握し、できごとの概要にうまく当てはまるような推論を行い、そうでないものはみな捨て去る傾向がある。

こうした手の込んだ作業をすることで正確性には悪影響が生じるが、一般的には新しい情報の処理が容易になる。(p178-179)

したがってインタープリターにとっては、事実は確かに貴重ではあるが必須というわけではない。左半球は手近にあるものを何でも使い、残りを即興で埋めている。(p179)

この説明が示すとおり、脳の左半球、特に言語機能の一部をなす「インタープリター」は、単に言語を操るだけでなく、概念的な意味の解釈や、ストーリーの創造に関わっています。

「インタープリター」にとって受け取った情報は手がかりとしては大切ですが、あくまで材料にすぎないため、正確さを期すためそのまま保存するようなことはありません。それらを解釈し、加工し、組み合わせて、あるときは都合のよい作り話へ、あるときは感動的な物語へと作り変えてしまうのです。

このインタープリターは「トップダウン」の思考方法、つまり全体をおおまかに見渡して、だいたいの意味を抽出する情報処理に特化していると言われていて、自閉スペクトラム症の人が得意とされる、緻密に一つずつ積み上げていく「ボトムアップ思考」とは正反対です。(p266)

自閉スペクトラム症(ASD)の子どもの視覚的思考力とボトムアップ処理のメカニズムが解明! | いつも空が見えるから

 

インタープリターは、脳のどこか一箇所というよりは、複数の部分からなるネットワークによって成り立っているのでしょう。先ほど出てきた島皮質や角回など情報の解釈に関わる脳領域の活動とも関係しているのではないかと思います。

インタープリターの機能が弱いせいで、解釈されない正確な情報の扱いに長けているのが、数学やプログラム、マニアックな専門知識に強く、「もの」に興味がある自閉スペクトラム症であり、逆にインタープリターの機能が強く、鋭い解釈や感受性の強さを発揮する人たちが、芸術やコミュニケーションに強く、「ひと」に興味があるHSPの人だといえます。

もちろん、これから説明するように、HSPにも複数のタイプがありますが、おおまかな区別として、HSPと自閉スペクトラム症とは正反対の傾向を持っている、ということを知っておくと理解しやすくなるでしょう。

アーロン博士が述べていたように、先の4つの特徴すべてに当てはまらないなら、たとえ一部似ている特徴があるとしてもHSPではなく、むしろ正反対の性質を持っているということさえあるのです。

HSPとADHDは同じものなのか

ここまで考えてきたのは、アスペルガー、また自閉スペクトラム症という人たちについてですが、それとは別に、HSPとよく似た性質を持つ人たちとして、ADHD(注意欠如多動症)の人がいます。

ADHDの人たちもまた、さまざまな物事への感受性が優れていますし、突飛なアイデアを駆使した、素材を調理してスープにしてしまうような創造性を発揮することで知られています。

アーロン博士は、ひといちばい敏感な子の中で、HSCとADHDの類似性については幾度も言及していて、次のような意見を述べています。

表面上はこの2つはとてもよく似ていて、多くのHSCがADHDと誤診されていると言う専門家もいます。

私はHSCがADHDだということは、ありえると思います。

でも、この2つは同じではありませんし、ある意味で正反対ともいえます。(p64)

「HSCがADHDだということはありえる」けれども「ある意味で正反対」という歯切れが悪いというか、ややこしい説明がされていますが、ADHDとHSPの関連性を考えると、確かにこう言うしかないように思えます。

HSPとADHDの違い?

まず、アーロン博士が、HSPとADHDは同じものではなく、ある意味で正反対だと述べる根拠は、この本で繰り返し語られている次の点に集約できます。

HSCはたくさんのことに気がつくので、気が散りやすい傾向にあります。ただ通常は、受け取った情報を深く処理する性質のほうが樹の散りやすさよりも強く、不安のない静かな場所では集中力を発揮することができます。(p57)

学校の環境が騒がし過ぎたり刺激が多過ぎたりすると、ADD/ADHDのような反応を見せることがあります。(p337)

つまり、HSPの子どもは、刺激の強い環境に置かれるとADHDのような多動・衝動・不注意になりますが、刺激のない環境では穏やかさを取り戻し、集中することもできます。他方、ADHDの子どもはどんな環境でも多動・衝動・不注意のままだということです。

ADHDに詳しい方、また当事者の方はお気づきかと思いますが、一般的に言って、ADHDの診断のときに、このような点がはっきり考慮されることはまずありません。

むしろ、ADHDの子どもが集中しやすいように、学校や家で環境調整して、気を散らす刺激をなくすという配慮が指導されることはよくあるものです。

アーロン博士の分類によると、そうした方法が功を奏する子はADHDではなくHSPということになります。

愛着障害との切っても切れない関わり

また、アーロン博士がADHDだとしている、どんな環境に置かれても多動性や衝動性が収まらない子には、ADHDでない子が含まれている可能性もあります。

端的に考えて、外部の刺激を減らしても多動性が収まらない子どもは、どんな環境に置かれても変わらない内部の刺激によって駆り立てられ、多動になっているのかもしれません。

そのような内部の刺激は、ADHDのような脳内物質のアンバランスの可能性もありますが、そのほかに、愛着障害の子どもたちのケースが考えられます。

以前の記事で取り上げたように、愛着障害の子どもたちは、ADHDと症状がよく似ていて、さらに愛着障害とADHDを合併しているケースも少なくありません。

よく似ているADHDと愛着障害の違い―スティーブ・ジョブズはどちらだったのか | いつも空が見えるから

 

愛着障害とは、恵まれない養育環境などのため、親子の愛着形成が不十分だったときに生じる症状です。自分を守り養ってくれる安心できる保護者のイメージを育むことができなかったがために、常に警戒し、緊張している状態になります。

子どものPTSD 診断と治療によると、愛着障害(トラウマ障害)とADHDの脳の機能障害は原因こそ違えど、脳の内部で生じている反応は、ほとんど区別がつきません。

トラウマ障害の過覚醒は子どもの命を守るために脳が後天的に身につけた手法のようなものであり、ADHDにおいては、記憶にとらわれない覚醒過剰持続が存在しているといえよう。

…ADHDとトラウマ障害の近似点は、脳科学的な研究からもうかがえる。

HartやTomodaの研究では、被虐待児における脳容量や活動異常の部位が、ADHDで報告されている部位とほぼ同領域であることを報告している。(p117)

愛着障害の子どもは、家庭にいても落ち着かないのはもちろん、一人でいるときも多動で落ち着かないという特徴があります。愛着とは本来、親から離れているときに、一人でいても情動の安定を保てるようにするため、親の温かいイメージを内在化するためのシステムだからです。

そうすると、アーロン博士がHSPとみなしている環境が整えば落ち着く子どもは、実は愛着形成に成功している親子関係がしっかりしたADHDの子どもであり、ADHDとみなしているいつも多動な子どもは、愛着障害の子ども、あるいはADHDに愛着障害を併発している子どもかもしれません。

さらに話がややこしくなりますが、アーロン博士はひといちばい敏感な子の中で、HSPの子どもは、愛着形成が乱れやすいことを説明しています。

ここで愛着について取り上げるのは、HSCは非HSCよりも、愛着が安定しているかどうかの影響を受けるからです。子どもの約40パーセント(ということは、大人も同じ率)が、安定した愛着を得られていません。

私の調査では、この割合はHSPに多いわけではありませんが、愛着が不安定だった場合は、その影響をより強く受けてしまいます。(p235)

ここで説明されているとおり、HSPだからといって愛着が不安定になる確率が高いわけではありませんが、不幸な家庭環境に置かれた場合に、愛着がより不安定になりやすい、つまり感受性の強さゆえに、より大きな愛着の障害を抱えやすい、ということです。

さらに畳み掛けるようですが、これと同じことはADHDでも報告されていて、愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)にはこう書かれていました。

そうした中で、現在のところ、ほとんど唯一有望なのは、すでに述べたドーパミンD4受容体の変異(多型)である。繰り返し配列が通常より長く、七回反復している場合には、新奇性探求が高く、ADHDとの関連を認めている。

またこの多型遺伝子は、混乱型愛着障害のリスク遺伝子でもある。(p162)

ここでは、特定の遺伝子変異をもつ場合に、ADHDになりやすく、混乱型愛着という、不安定な愛着のより悪いタイプにもなりやすいという研究が報告されています。そしてこの遺伝子変異とは、HSPの感受性の強さに関わる遺伝子なのです。

話が非常にややこしくなって混沌としてきました。

アーロン博士が「HSCがADHDだということはありえる」けれども「ある意味で正反対」と述べていた理由がお分かりでしょうか。

一言でまとめてしまうとHSPとADHDと愛着障害は、確かに概念的な違いはあるとはいえ、現実では互いに互いを区別できないほど絡み合っていて、おそらく研究者でさえ明確に区別できていないということです。

そうであれば、医者によって診断された当事者や、ネット上の玉石混交の情報を発信している人たちは間違いなく区別できていないはずであり、もはや誰がADHDで、誰がHSPで、誰が愛着障害と分けるのはかなり困難だということになります。

すべては感受性の遺伝子から

それでも、ここまでの情報から意義ある点を引き出すとなれば、何が得られるでしょうか。

ひとつには、HSP、ADHD、そして愛着障害に共通している特徴を抽出することができるでしょう。それは、先天的なものであれ、後天的なものであれ、ささいな刺激に敏感に反応する、感受性の強さです。

そして、特にそれが先天的なものである場合、もとをたどれば、感受性の遺伝子に行き着くと考えられます。

アーロン博士も、ひといちばい敏感な子の中でHSPの最大の原因は遺伝子である、とはっきり述べています。

しかし、私は、研究によって見えてきた「敏感性の進化的理由」という観点から、人一倍敏感であるという性質は「主に」遺伝子で決まると考えています。(p437)

このHSPの遺伝子は、ひとつではなく、複数あると考えられています。先ほどHSPにもさまざまなタイプがあると述べたのはそのせいです。

まず関係している大きな遺伝子変異は、セロトニントランスポーター遺伝子です。

アカゲザルも人間も、どちらも脳が使うセロトニンの量の違いによる、正常な変異でした。…セロトニンに関する遺伝的変異は「差異感受性」をもたらす主因なのです。

…この遺伝的変異は、どちらも極めて社会的で、さまざまな環境に適応できる、人間とアカゲザルという2種類の霊長類に見られました。(p436)

セロトニントランスポーター遺伝子とは、気分の安定に関わる脳内の神経伝達物質セロトニンの輸送に関わる遺伝子であり、おおまかに分けてセロトニンを運ぶ効率がよいタイプと効率が悪いタイプとがあります。

HSPの感受性に関係しているのは、このうち、運び去る効率が悪いほうの遺伝子です。セロトニンを運び去る効率が悪いというのは、感情を伝達する神経伝達物質が一箇所に長い時間留まりやすいということなので、良い感情も悪い感情も強く感じやすくなります。まさに感受性の遺伝子です。

そしてセロトニントランスポーター遺伝子は、すでに述べたとおり、不安定な愛着のリスク遺伝子でもあり、不幸な家庭環境で育った場合、愛着障害につながりやすくなります。

しかし、これとは別に、意欲や注意などに関わる脳内の神経伝達物質ドーパミンに関わる遺伝子もまた、HSPと関連しているというデータがあるそうです。

HSP、HSCの誰もがセロトニンに関する遺伝子変異があるわけではありません。敏感になる遺伝子には数多くの種類があると考えられています。

例えば、中国のチェンの研究チームが、ドーパミンに関連する7つの遺伝子が、HSPの評価基準と関係することを発見しています。(p436)

HSPの原因はセロトニントランスポーター遺伝子だけではなく、ドーパミン関連の遺伝子変異が関与している場合もあることがわかります。

そして先ほど見たとおり、ドーパミン関連の遺伝子変異もまた、ADHDや愛着障害のリスク遺伝子になることがあります。

またアーロン博士はひといちばい敏感な子の中で、HSPの要因として、遺伝子が主な原因であるとはいえ、環境要因もまた関与しているとしています。

近年のエピジェネティクス、つまり遺伝子は環境で変化するという考えからは、敏感な性質には、遺伝子以外にも要因があると考えることもできそうです。(p436)

脳科学は人格を変えられるか?によると、遺伝子の変化に影響を及ぼすさまざまな環境要因のうち、特に大きなものは、幼児期の家庭環境であり、養育者による愛情だとされています。

これが意味することは深刻だ。母親の愛情という古典的な環境要因は、子どものストレスへの耐性に非常に強く影響していた。

母親の愛情によってストレスに強い子どもが育つのは純粋な慈しみの作用だと思われがちだが、その一見魔法のような力の陰には遺伝子の発現がかかわっていたのだ。(p193-194)

つまり、本来HSPになる遺伝子が発現していなかった子どもでも、極端な家庭環境で育つと、愛着障害という形で遺伝子が目覚め、ストレスから大きな影響を受ける感受性の強さを身につけてしまうことがあるのです。

それで、またややこしくなりましたが、これら遺伝子にまつわる原因を探ると、HSP、ADHD、愛着障害の関係を次のようにまとめることができるでしょう。

HSPとはセロトニンやドーパミンに関わる遺伝子の変異による、生まれつきの感受性の強さである。それはADHDや愛着障害のリスク要因でもある。そして、極端な養育のような環境要因によって眠っている遺伝子が目覚め、HSPや愛着障害になることもありうる。

HSPのもう一つのタイプHNS

ところで、HSPの原因遺伝子として、セロトニンに関わる遺伝子と、ドーパミンに関わる遺伝子の二種類が出てきましたが、これらはどのような違いを持っているのでしょうか。

脳科学は人格を変えられるか?では、それらはある面で正反対の役割を持っている、という研究が紹介されています。

セロトニン運搬遺伝子の発現量が低いSS型の人は、リスクに手を出す率がほかの人々より28パーセントも低いという結果が出た。セロトニン運搬遺伝子の短い型は、リスク回避の役割を果たしているらしい。

いっぽう、脳内のドーパミン分泌にかかわるドーパミン受容体D4遺伝子が長いタイプ(七反復以上)の人は対照群と比べて、リスクを冒してでも設けを増やそうとする率が25パーセント高かった。(p173)

この二つのタイプの遺伝子変異は、どちらも感受性の強さと関わっていますが、それぞれ正反対の反応を示しています。

リスクに対して過敏に反応する、という意味での感受性の強さは同じです。しかしセロトニントランスポーター遺伝子の変異がある人は、リスクを過剰に避ける反応を見せ、逆にドーパミン関連の遺伝子変異がある人は、リスクに飛び込んでいく反応を見せたのです。

アーロン博士は、ひといちばい敏感な子の中で、HSPの70%は慎重で内向的であるのに対し、残りの30%は外向的であるというデータを紹介しています。同じHSPでも、リスクを回避する子もいれば、リスクを求めて冒険する子もいるのです。(p35)

そして、後者のような、あえてリスクに飛び込む感受性の強い子を新奇追求型(HNS:High Novelty Seeking)と呼んでいます。

新奇追求型(HNS)は、…探検が好きで、よく行く場所よりも新しい場所へ、旅行もまだ行ったことのない所へ行きたいと考えます。型どおりの行動が苦手です。

人一倍敏感な人(HSP)が、HNSであることもあります。

HNSと非HSPは、簡単に新しい状況に飛び込もうとするところが、一見似ているのですが、その理由が違います。

HNSは新しい体験がしたいからですし、非HSPは立ち止まって確認をしないからです。(p113-114)

HNSは一見考えなく無謀に冒険しているかのように思えますが、実際には、感受性の強さのため、より大きなスリルや快感、新たな体験を求めて行動しているのです。

このように一括りに感受性の強さといっても、興味を抱いて冒険するタイプと、危険を察知して慎重になる用心深いタイプの2種類の子どもがいる、ということになります。

そして、あくまで単純化した見方だと承知していますが、慎重なHSPにはセロトニン関連の遺伝子が、新奇追求するHNSにはドーパミン関連の遺伝子変異が関わっているのでしょう。

実際には、どちらの遺伝子変異も抱え持っていて、生まれ育った環境によって、どちらかに傾くHSPの子もいるでしょう。

HSPとADHDの本当の違いは何か

それにしても、このHSPの遺伝的要素による2つのタイプは何かとよく似ていないでしょうか。

そう、この2つのタイプは、ADHDの2つのタイプとよく似ていると感じた人がいるかもしれません。

ADHDには大きく分けて2つの傾向があります。多動・衝動性の強いわんぱくな「ジャイアン型」(多動・衝動性優位型)、そして不注意が強く自信を持って一歩踏み出すのが苦手な「のび太型」(不注意優勢型)です。そして、それらの両方を併せ持つ「混合型」も存在します。

ここまでのところでいうと、冒険好きな「ジャイアン型」は外向的なHNSとよく似ていて、用心深い「のび太型」は内向的なHSPとよく似ているように思えます。

いえ、というより、ジャイアンからすぐに怒ったり暴れたりする問題行動を除けば、冒険好きで頼りになるHNSになり、のび太から臆病で怠け者な問題行動を除けばHSPになるのではないでしょうか。(ドラえもんをよく知っている方々には「劇場版」のジャイアンとのび太と言えばわかるでしょうか)

ここにおそらく、HSPまたHNSと、ADHDの本当の違いがあるのです。

すなわち、HSPやHNSといった人一倍感受性の強い子が、学校などの刺激が強すぎる環境にうまく適応できず、感受性の強さが問題行動となって現れたときにつけられる診断名がADHD、つまり注意欠陥多動性「障害」なのではないでしょうか。

近年、大人になってはじめて社会で不適応を起こし、ADHDと診断される人が増えていますが、彼らはそれまでは「障害」ではなかったので、ADHDと診断されなかったのです。それまでは人一倍敏感な子HSPやHNSだったのかもしれません。

ADHDは個性か障害か、という問題はずっと議論されていますが、個性とみなせる状態は、HSPまたHNSであり、何らかの事情ゆえに問題行動が見られ、医学的な対応を必要とする状態はADHDという障害になるのだとするとすっきりします。

HSPがADHDという「障害」になるきっかけとしては様々な要因があるでしょう。

まず、学校などの刺激の強すぎる環境がそうです。アーロン博士の説明のとおり、家では落ち着いていられるHSPなのに、学校に行けば、大勢の人が集まる刺激が強すぎて、ADHDになってしまうかもしれません。

また、もともと持って生まれた感覚過敏の程度と、それを抑制する自己コントロール力のバランスも関係しているでしょう。

たとえ感覚過敏の程度が強くても、それを抑制できる自己コントロール力に長けていれば、問題行動を起こさずにすみ、多動性はエネルギッシュさとして、衝動性は行動力として、不注意は発想の豊かさとして特性を生かしていけるでしょう。

しかし、感覚過敏の程度に対して、自己コントロール力が不十分だと、刺激に対してすぐに反応してしまい、多動で衝動的な不注意な問題児になってしまうでしょう。

興味深いことに、先ほど脳の説明のところで出てきた、認知神経科学の権威マイケル・ガザニガは、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語るの中で、自分はADHDなのではないかと思案しています。

70年前に幼い子どもだった頃、注意欠陥多動性障害(ADHD)などというものは存在せず、私がそう診断されることはなかった。今から振り返るとどうだったのだろう。

母はいつも、私のズボンのなかにアリがたくさん入っていると言っていた(じっとしていられない状態を指す表現)。

ひとつの課題を深く掘り下げるというのは、人生の過ごし方としてはよくあるものだ。だがそれは私には合っていない。(p267)

しかし、ガザニガは、さまよう注意を多方面の研究に向けて、右脳と左脳の役割を見つけるという輝かしい業績を上げました。

また脳の手術を受けた患者たちと友人のように親身に接したり、実験に用いる動物たちを手厚く世話したり、非常に強い共感力を発揮しています。

彼のような人の場合、確かにADHDのような性質は有していますが、優れた自己コントロール能力でそれを活用してる以上、注意欠陥多動性障害ではなく、HSPという呼び名のほうがふさわしいのではないでしょうか。

HSPの子どもたちは、ADHDと同じような感受性の強さを持っているにもかかわらず、優れた自己コントロール力によって行動を制御していることはアーロン博士もひといちばい敏感な子で認めています。

HSCは、幼児期の知覚の感受性が高く、自己をコントロールする力が生まれつき強いというデータもありますが、親から学ぶ部分もあります。

親が刺激への対応を教えたり、同調せず、「そのような反応は受け入れられない」と伝えたりすることで、子どもは学んでいけます。特に用心システムと冒険システムをコントロールする力を育むには、こうした親の手引が有効です。(p243)

アーロン博士は、HSPの子どもたちは自己コントロール力が生まれつき強いとしていますが、たとえそうでなくとも、幸いにも、自己コントロール力は後天的に育んでいけるとも述べています。

生まれつき感覚過敏ばかり強くて、自己コントロール力が弱いためにADHDとして問題行動を起こしがちな子どもでも、辛抱強く訓練を続けることによって、問題行動を減らし、感受性の強さを才能として生かしていけることはよく知られています。

たとえば、以下の記事で紹介した意志力の専門家ロイ・バウマイスターやマシュマロ・テストで有名なウォルター・ミシェルは、自制心を鍛えるさまざまな手段を考案していて、それがADHDの子どもにも役立つことを説明しています。

著書を読む限り、おそらくは、この二人もまた、ADHDのような性質を持っているものの、それをうまくコントロールしてきたHSPです。自分が苦労してきたからこそ意志力について画期的な研究ができたのかもしれません。

意志力のないADHDの人が少しでも自己コントロールするための5つの科学的アドバイス | いつも空が見えるから

 

ささいなことにも傷つく「拒絶感受性(RS)」の強い人たち―傷つきやすさを魅力に変えるには? | いつも空が見えるから

 

何より、ADHDの子どもの症状は、一般に成長し大人になるにつれ和らぐとされていますが、それは大人になるにつれ脳の前頭前皮質という行動の制御に関わる部分が発達し、自己コントロール力が身についていくからです。

しかし、自己コントロール力は後天的に身につく反面、身につきにくくなる要因も存在していて、それが愛着障害です。ADHDでは年齢とともに脳の成長が追いつくキャッチアップが生じますが、愛着障害はそれを妨げると言われています。

もちろん、HSPの場合もADHDの場合も、関係する遺伝子は、まだすべてが発見されるには程遠いため、さまざまなタイプが含まれていることは明白です。

たとえば、感受性は人並みであっても、前頭前皮質の抑制機能が相対的に弱いせいでADHDの症状が出ている場合は、HSPとはいえないのかもしれません。

しかし、一つの考え方として、生まれつき感受性が強いHSPの子のうち、自己コントロール力が十分育っておらず、問題行動が出てしまう場合がADHDと見なされ、さらにマイナスの環境要因が関わっている場合が愛着障害と見なされると考えれば、それぞれの関係性がわかりやすくなります。

感受性が強すぎる人がなりやすい3つの病気

ここまでのところで、感受性の強さであるHSPと、自閉スペクトラム症やADHDといった発達障害との関係を考察してくることができました。

HSPと自閉スペクトラム症は正反対のものでしたが、HSPとADHDは関わりが深く、HSPが不適応を起こした場合にADHDとなるのではないか、ということでした。

このように、HSPの感受性の強さは豊かな創造性や柔軟なコミュニケーション力のような才能として発揮される一方で、さまざまな不慮の事情のせいで、問題を招くことがあります。

特に危険なのが、感受性の強さに特有の病気や障害などを招いてしまうケースです。

ここでは、HSPの感受性の遺伝子がリスク要因であるとされる3つの疾患について考えましょう。

不登校・引きこもり

一つ目は不登校や引きこもりです。

不登校や引きこもりには様々な原因がありますが、その中には、失敗を過度に恐れたり、恥をかきたくない思いから一歩踏み出すのが怖くなったりする回避性パーソナリティ障害があります。

生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)には、特にHSPと同様のセロトニントランスポーター遺伝子の多型が、回避性パーソナリティ障害に関わっているという研究が報告されています。

回避性パーソナリティ障害と関連する遺伝子としては、セロトニントランスポーター遺伝子が知られている。神経伝達物質のセロトニンは不安のコントロールに関係するが、セロトニントランスポーターは、放出したセロトニンをくみ上げるポンプの役割をしている。

このポンプの働きが悪いと、セロトニンがうまく機能せず、不安を感じやすく、うつにもなりやすい。

ただ、この遺伝子との関連は、回避性パーソナリティ障害だけでなく、他の不安障害やうつ病でも報告されており、回避性パーソナリティ障害に特異的なものではない。(p131)

HSPにみられるセロトニントランスポーター遺伝子のタイプは、リスクを強く回避する傾向と関わっていましたが、それこそまさに回避性パーソナリティ障害そのものなのです。

感受性が強すぎ、繊細すぎるために、他の人からの批判や、学校での人間関係から強いストレスを感じてしまい、ストレスを回避して引きこもりがちになってしまいます。

詳しくはこちらの記事で説明しました。

感受性が強すぎて一歩踏み出せない人たち「回避性パーソナリティ」を克服するには? | いつも空が見えるから

 

小児慢性疲労症候群(CCFS)

回避性パーソナリティ障害と共に引きこもりや不登校の原因となっている疾患として、小児慢性疲労症候群(CCFS)があります。

小児慢性疲労症候群(CCFS)の場合、回避性パーソナリティ障害のように心の葛藤から引きこもってしまうわけではなく、慢性的な強い疲労感睡眠リズム障害をはじめとする体調不良によって学校に行きたくても行けなくなってしまいます。

HSPの人が感受性の強さのために疲労感のような身体症状を強く感じやすいことは、ひといちばい敏感な子の中でアーロン博士も言及しています。

HSPが刺激を過剰に受けやすいというデータとして、ドイツの学者フリードリヒ・ゲルステンベルクによる研究があります。

この研究では、コンピューター画面にさまざまな向きのLの文字が並ぶ中に、Tの文字が紛れているかどうかを判断するという、いささか厄介な認知作業をさせて比較を行う実験がなされました。

HSPでは、そうでない人に比べて短時間で正確にできましたが、作業後の疲労も強く感じていました。(p429)

また、国内のHSPの研究者である長沼睦雄先生による「敏感すぎる自分」を好きになれる本の中でも、次のように書かれています。

うつ病ほど認知度が高くないのですが、HSPの方によく見受けられる症状として、「慢性疲労症候群」というものもあります。

…HSPの方は敏感で、しかも良心的なため、疲労感やストレスを感じやすいのです。疲れ果てるまで自分を酷使した結果、そのストレスによって慢性疲労症候群を引き起こしてしまう可能性があります。(p99)

さらに遺伝子レベルの研究においても、慢性疲労症候群とHSPの関わりの深さがわかっています。

文教大学教育学部の成田奈緒子先生の研究 によると、やはり回避性パーソナリティ障害と同じく、セロトニントランスポーター遺伝子の多型が関係していることが判明しています。

しかし、それだけでなく、三池輝久先生の、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)では小児慢性疲労症候群(CCFS)にはドーパミントランスポーター遺伝子の多型も関わっていると書かれています。

不登校の子どもたちのドーパミントランスポーター遺伝子の過多について、東大の石浦章一教授に検討していただいた結果、彼らはいろいろなものに興味をもちやすい性質をもっている可能性が示唆されるデータを得た。(p109-110)

小児慢性疲労症候群(CCFS)の子どもは、単にリスクを回避するセロトニントランスポーター遺伝子の多型だけではなく、新奇追求性に関わるドーパミントランスポーター遺伝子の多型も持ち合わせている可能性があります。

この場合、感情面においても感覚面においても感受性が強く、HSPやHNSの傾向を強く有しているはずですから、外部から受け取る感覚による疲労はかなり強いはずです。リスクを回避したい不安とチャレンジしたい意欲に板挟みになって疲れ果てるかもしれません。

こうした極端な感受性の強さによる繊細な気質のために、他の子と同じレベルのことをしているようでいても学校の環境から人一倍ストレスを受けやすく、慢性的な自律神経系の不調を抱えやすいのかもしれません。

そのような感受性の強さが引き起こされる身体的不調には、起立性調節障害や慢性または急性のストレス性高体温症も含まれます。

朝起きられないもう一つの病気「起立性調節障害(OD)」にどう対処するか(上) | いつも空が見えるから

 

九州大学病院 心療内科 - Department of Psychosomatic Medicine Graduate School of Medical Sciences, Kyushu University

 

またドーパミントランスポーター遺伝子の変異は、神経が高ぶりやすく冷めにくいことを示唆しています。これは、以前の記事で説明したような切り替えの悪さにつながり、概日リズム睡眠障害を招きやすくもなるでしょう。

なぜADHDの人は寝つきが悪いのか―夜疲れていても眠れない概日リズム睡眠障害になるわけ | いつも空が見えるから

 

極端な感受性の強さは、豊かな創造性などの才能をもたらす反面、小児慢性疲労症候群のような体調不良にも陥りやすい諸刃の剣であることを覚えておく必要があります。

また、HSPの子だけでなく、自閉スペクトラム症の子もまた、ある種の感覚過敏があるという点では小児慢性疲労症候群に陥りやすいのは同じでしょう。

小児慢性疲労症候群(CCFS)について詳しくはこちらをご覧ください。

子どもの慢性疲労症候群(CCFS)とは (1)どんな病気か? | いつも空が見えるから

 

解離性障害

最後の3つ目として、強い感受性が仇をなす究極の疾患として、解離性障害があります。解離性障害は、HSPの人が持つ感受性の強さがすべて裏目に出てしまったような病気です。

解離性障害は、幼児期の愛着障害に起因するとされています。

しばしば犯罪被害などの大きなトラウマ経験が解離性障害の引き金になるといわれますが、実際には、幼児期の愛着障害がなければ、トラウマ経験に遭遇しても解離性障害ではなくPTSDになるそうです。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはこう書かれています。

ショアの主張をひとことで言えば、解離という心の働きを脳科学との関連で探っていくと、愛着の問題にまでさかのぼらなくてはならないということである。

すなわち解離性障害とは、それが基本的にはいわゆる「愛着トラウマ」による障害のひとつと理解されることを念頭に置くべきなのである。(p15)

愛着障害はHSPの人特有の問題ではありませんが、すでに見てきたように、HSPの人はより強い愛着障害を抱えやすいことがわかっています

HSPに関わるセロトニントランスポーター遺伝子、ドーパミン関連の遺伝子多型は、両方とも、愛着障害、そして解離性障害のリスク要因です。

解離性障害の特徴は内外の強い感覚刺激に対処するため、意識を飛ばしたり空想に逃避したりする「解離」という反応を用いることで、特に重症の場合は意識を複数に切り離す多重人格(解離性同一性障害)が生じます。

興味深いことに、アーロン博士はひといちばい敏感な子において、HSPの人はADHDと比べると、右脳の血流が活発だと述べています。(p64)

その理由は定かではありませんが、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によると、幼児期の愛着障害と、それに伴う解離傾向は、右脳の働きと関係していると説明されています。

通常はトラウマが生じた際は、体中のアラームが鳴り響き、過覚醒状態となる。そこで母親による慰撫sootingが得られると、その過剰な興奮が徐々に和らぐ。

しかしタイプDの愛着が形成されるような母子関係においては、その慰撫が得られず、その結果生じると考えられるのがこの解離なのだ。

それはいわば過覚醒が反跳する形で逆の弛緩へと向かった状態と捉えることができるだろう。

そしてこのように解離は特に右脳の情緒的な情報の統合低下を意味するため、右の前帯状回こそが解離の病理の座であるという説もある。(p20)

ここで登場するタイプDの愛着というのは、このブログで以前にも詳しく取り上げたより困難なタイプの愛着であり、先ほどHSPの感受性の遺伝子を持つ人がなりやすいとされていた混乱型の愛着のことを指しています。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち | いつも空が見えるから

 

このタイプDの愛着は、すでに触れた、場の空気を読みすぎる「過剰同調性」とも強い関わりを持っていて、まさにHSPの強い共感力が裏目に出た状態です。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か | いつも空が見えるから

 

空気を読むのが得意といえば聞こえはいいですが、空気を読みすぎてしまうと、過剰同調性に陥り、相手の感情を感じ取りすぎて強い疲労を感じるようになります。

その苦痛を処理する手段、つまり限界を超えた感受性の強さに対処する手段が、意識を切り離して飛ばす解離なのです。

解離性障害は虐待による愛着障害などの悲惨な環境で生じるのはもちろんですが、以前の記事で書いたように、そこまで悲惨ではない機能不全家庭で生じる例も多数報告されています。

解離性障害をもっとよく知る10のポイント―発達障害や愛着障害,空想の友だちとの関係など | いつも空が見えるから

 

わかりやすい「解離性障害」入門によると、このような場合、もちろん家庭環境の側の問題も大きいとはいえ、単にそれだけではなく、当人の側の感受性の強さも相互に影響しているとされていました。

この記事で考えたことからすると、それはすなわち、生まれつきのHSP気質により、養育の問題を過敏に感じ取って、D型の混乱した愛着に発展してしまったせいだということになります。

なお、自閉スペクトラム症の人も、人の顔色を過剰に気にしすぎたり、さまざまな解離現象を経験したりすることがあります。

しかし、同じ感覚過敏でもHSPと自閉症では別のものだったように、解離もまた自閉症では似て非なる性質を持っているようです。詳しくは以下の記事をご覧ください。

アスペルガーの解離と一般的な解離性障害の7つの違い―定型発達とは治療も異なる | いつも空が見えるから

 

健常な範囲の解離現象

このようなHSPによって生じやすい解離傾向は、解離性障害にまで発展しなくても、さまざまな形でHSPの人に影響を及ぼしている可能性があります。

たとえば、HSPの人は、さまざまな神秘的な現象を感じやすいとされています。「敏感すぎる自分」を好きになれる本にはこんな話があります。

私が診療の中で出会った、HSPの中でもさまざまな過敏さが複合している「超」過敏なレベルに属するような子どもたちは、幼児期から、だれにも教わらないのに人間や人生や命のことが直感的にわかったり、体内や出産時の記憶があったり、…幽霊や妖怪が見えたり、架空の友人がいたり、重要なときに導いてくれる声が聞こえたりする子どもたちもいたのです。(p53)

HSPの人がこうした様々な神秘体験を経験しやすいことはアーロン博士もひといちばい敏感な子の中で認めています。

多くのHSCが、幼い頃から瞑想的、神秘的な体験をしています。

正式な宗教の指導を受けた場合でなくても、祈ったり、天使を見たり、天の声を聴いたり、現実世界を超える神秘的な体験をした子もいます。

これはあながち不思議なことではありません。(p398)

このブログで説明してきたとおり、これら神秘体験のように思えるものは、正常な範囲の解離現象です。

解離性障害になりやすい人には幼少期から現実との区別がつきにくくなるほど 空想の中に深く没頭する傾向「空想傾向」(fantasy-proneness)が見られると言われますが、それはまさしく生まれつきのHSPを土台とする解離傾向のことでしょう。

正常な解離としての幻聴幻視、また、たくましくリアルな空想力のせいで、実際にはなかったことをあったかのように感じてしまうデジャヴュ(既視感)や虚偽記憶は解離傾向の強い人にしばしば見られます。

近年の発達心理学の研究によると、子どものころの空想の友だち体験は、妖怪や幽霊、天使などの伝承とも結びついており、遭難体験などの際に導く声が聞こえるサードマン現象や守護天使の体験などと同じ種類の解離現象だと考えられています。

そして、以下の記事で紹介したとおり、そうした現象を体験しやすいのは、「周囲の人のことを人一倍気にするので、『いない人』のことまで考えてしまう」、人一倍感受性が強い子たちであることが示唆されているのです。

子どもにしか見えない空想の友達? イマジナリーフレンドの7つの特徴に関する日本の研究 | いつも空が見えるから

 

また、一般に空想の友だちが出現するのは幼児期ですが、少数ながら学童期以降にみられる例もあります。以前に紹介した、ナラティヴ・セラピーの冒険に出てくる、空想の友だちによって恐怖症などを克服していた少女エミリーはHSPだったのではないかと思います。

「変にできる子」の想像上の友だち―イマジナリーフレンド(IF)は人生の助けになってくれる | いつも空が見えるから

 

また、ADHDの中でも、特にHSPの7割を占める内向的なHSPと関わりの深いタイプと考えられる「のび太型」(不注意優勢型)の子どもたちは、空想にふけりがちで、ぼーっと意識を飛ばす傾向が強く見られます。

HSPとのつながりでいえば、これは軽度の解離傾向であり、さまざまな感覚を強く感じすぎるせいで、ときどき感覚を切り離すことによって、刺激が過剰になりすぎないように適応しているといえるのかもしれません。

加えて、すでに触れた高位の共感覚などに関係する芸術的創造性は、解離傾向の強い人に強く見られる特性です。

解離性障害と芸術的創造性ー空想世界の絵・幻想的な詩・感性豊かな小説を生み出すもの | いつも空が見えるから

 

そもそも高位の共感覚を制御していた脳の角回(側頭頭頂接合部)は、体外離脱など一部の解離現象に強く関わっていることが知られています。

なぜ人は死の間際に「走馬灯」を見るのか―解離として考える臨死体験のメカニズム | いつも空が見えるから

 

このように、HSPは、回避性パーソナリティや、小児慢性疲労症候群、そして解離性障害と深く関わっていると考えられます。

ここでは3つの項目に分けましたが、実際にはそれぞれ共通性が多く見られる疾患群なので、遺伝的傾向や環境によって、いずれの症状が強く出るかが変わるだけで、要はすべて「感受性が強すぎることによる疾患」という共通項を持っているのでしょう。

可能性をどう生かすかはあなた次第

こうしてHSPがもたらしかねない負の側面を概観すると、HSPとは心身の弱さをであるかのように思えますが、決してそうではありません。

持って生まれた感受性の強さが、ある時はADHDのような問題行動や、慢性疲労症候群のような強い心身の不調を身に招くことはあれど、ある時は創造性あふれる芸術家や学者の才能として花開くこともまた事実であり、この両極性は、HSPの遺伝子そのものの性質です。

先ほどから紹介している、セロトニンやドーパミン関連の遺伝子は、何かの障害のリスクになる欠陥遺伝子ではなく、ただ感受性の遺伝子、つまり良い環境からも、悪い環境からも、人一倍強い影響を受けやすい遺伝子です。

アーロン博士は、HSPの子どもたちについてひといちばい敏感な子でこう書いています。

私たちの研究から、HSPは不幸を感じやすく心配しやすい傾向があると分かりました。

…さまざまな調査で、不幸な子ども時代を送ったHSPは、同じく不幸な子ども時代を送った非HSPに比べ、落ち込み、不安、内向的になりやすい傾向がありました。

でも、じゅうぶんによい子ども時代を送ったHSCは、非HSCと同様、いやそれ以上に幸せに生活しているのです。HSCはそうでない子よりも、よい子育てや指導から多くのものを得ることができるということです。(p433)

HSCは周囲から、反応が強いとか、身体面でのストレスを受けやすい、内気、引込み思案、あるいは、抑うつや不安症に関係する遺伝子を持っていると評価されることが多いのですが、これらのいずれの面も、例えば良質の子育てを受けるなど、よい環境に置かれた場合には、他の子よりもプラスに作用します。

…敏感な子は、そうでない子に比べて悪い環境を吸収するだけではなく、よい環境も人一倍吸収するのです。(p434)

先ほど、ADHDや愛着障害のリスク遺伝子について説明していた愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)にもこうあります。

また同じチームの別の研究(Bakermans0Kranenburg et al.,2011)でも、この多型遺伝子をもつ人では、親のうつや不和といった影響を強く受けやすく、中年期になっても未解決型の愛着スタイルを示しやすいが、親に問題がない場合には、未解決型の愛着スタイルを示す割合が、むしろ低かったのである。(p131)

ドーパミンD4受容体の遺伝子多型にしろ、セロトニン・トランスポーターの遺伝子多型にしろ、それが存在することは、養育環境に影響されやすいという過敏な傾向を生むが、逆に良い環境を整えることができれば、そうした遺伝子多型でない場合よりも、むしろ安定を獲得することができるのである。(p134-135)

さらにセロトニンとドーパミンの遺伝子変異の違いについて説明していた脳科学は人格を変えられるか?もまたこう述べています。

わたしはまもなくこれらの実験結果が、ロンドン大学バークベック校の心理学者、ジェイ・ベルスキーによる最新の理論に合致することを知った。

ベルスキーは遺伝子と環境との相互作用に関する過去の研究を細かく検証し、これまでだれも目をとめていなかった事実に気づいた。

それは、神経伝達物質に作用するいくつかの遺伝子の発現量が低い人は、良い環境と悪い環境のどちらにも敏感に反応しやすいということだ。(p181)

いずれの場合も要点は共通しています。

これらの感受性の遺伝子の持ち主は、悪い環境に陥ってしまった場合は、より強いダメージを受けやすくなりますが、良い環境に恵まれた場合は、より良い感化を受けて才能を開花させやすいということです。

では、すでにHSPの感受性が、ADHDの問題行動や愛着障害といった悪いほうに出てしまっている場合はどうなのでしょうか。

先ほどの脳科学は人格を変えられるか?は続く部分でこう述べています。

わたしが行った学習実験も結局、セロトニン運搬遺伝子の発現量が低い人は高い人に比べ、ポジティブなものでもネガティブなものでも感情的な背景に非常に敏感であるという、先と同様の結論に落ち着いた。

だから、セロトニン運搬遺伝子は、「逆境に弱い」遺伝子や、「楽観」の遺伝子であるというより、仮にそれが「何かの」遺伝子であるとすれば、「可塑的な」遺伝子だと考えるのが妥当だろう。(p182)

ここで注目したいのは「可塑的な」遺伝子という表現です。これまで、HSPの遺伝子は感受性の遺伝子であると説明してきましたが、より明確には可塑的な遺伝子であるとするべきでしょう。

可塑(かそ) 的であるとは、脳の構造が柔軟に組み変わることを意味しています。

HSPの人が、異なる文化や環境に適応して創造性を発揮できるのも、望ましくない環境でADHDや、さらには愛着障害のような混乱した性質を示すのも、単に感受性が豊かなだけではなく、脳がそれぞれの状況を読み取って適応しているからです。

虐待のような劣悪な環境で生じる愛着障害の場合でさえ、以前の記事で紹介したとおり、それは冷酷な環境で生きていけるように脳が適応していった結果であるとみなされています。

ここまで取り上げた以外の感受性の遺伝子の中には、虐待を受けた子ども特有のものもありますが、それもやはり、環境によって良くも悪くも効果が変化する適応的なものだとされています。

先に紹介したカスピとモフィットによる研究では、虐待を受けた子どもの中でもMAOA遺伝子の発現量が低い子は特に、大人になったとき反社会的な行為に走る率が高いという指摘があった。

だがここで見過ごされていたのは、同じタイプの遺伝子をもつ子どもがもし虐待を受けなければ、そうした行為に走る確率はずっと低いことだ。(p181)

感受性が豊かであるとは、良くも悪くも、環境の変化に柔軟に適応し、脳の働きをそれに合わせて調整していく性質なのです。

このような柔軟な適応力は、心や脳の柔らかさといってもよいでしょう。ささいなことでもストレスを受けやすい反面、ちょっとした環境の良い変化にも目ざとく反応できます。

興味深いことに、解離性障害の症状は幻聴などの点では統合失調症とよく似ていますが、統合失調症は回復がまれで妄想的になっていくのに対し、解離性障害は自分の状況をよく理解することができ、回復することも十分可能であるという違いがあります。

もしかすると、同じような窮地に陥っても、解離性障害のほうは、HSPとしての脳の可塑的な柔軟性が土台にあるために、環境が好転すれば回復していけるということなのかもしれません。

ですから、HSPの子にとって、周りの環境は特に大事です。

適切な養育環境、ストレスの少ない教育サービス、その子に合った生活リズム、手本にできるメンターまたアドバイザーなどを見つけることができれば、今まで感受性の強さがマイナス方向に発揮されていたとしても、それをプラス方向へと変えていくことが十分可能なのです。

そのためにHSPの人やHSCの子どもを持つ親は、感受性の強さにどう対処していくかを学ぶ必要があります。

アーロン博士はひといちばい敏感な子の中で、人一倍敏感というのが、一つの種類であると述べます。

敏感という性質をグラフにすると、身長や体重のように大部分の人が中間値付近に分布するような、なだらかな山形になるのではなく、右端か左端に偏っているのです。

…他のテストの評価にかかわらず、敏感であるというのは一つの種類であって、程度の差ではないことが分かりました。

あなたはHSPか非HSPかのどちらかで、子どももHSCか非HSCかのどちらかなのです。(p439)

人一倍敏感というのは、ほぼ生まれつきの性質であって、性別などと同様、変えることのできない種類です。

アスペルガーの人たちが、自分たちは一つの種族また民族だ、と述べるのと同様、HSPの人やHSCの子もまた、一つの種類、独特のニーズを持った特殊な人たちなのです。

この独特なニーズに対応する点で、ここまで紹介してきた何冊かの本はとても役立ちます。

まず、繰り返し紹介してきたアーロン博士のひといちばい敏感な子は、この記事での扱い方からすると意外かもしれませんが、実はHSPのメカニズムについての本ではなく、HSCを持つ子どもの育て方について実用書です。

HSCを持つ子どもの成長に合わせ、乳児期、幼児期、学童期、思春期にわたり、親がどのように、感受性豊かな子どもに最善の環境を整えて、才能の開花を後押ししてあげられるか、丁寧なアドバイスがふんだんに綴られています。

またアーロン博士の別の本ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。 (SB文庫)や長沼先生の「敏感すぎる自分」を好きになれる本、またデンマークのカウンセラーによる鈍感な世界に生きる 敏感な人たちは、すでに成人したHSPの人を対象に、どのように生きやすい環境を整え、敏感さをプラスに生かしていけるか、やはり丁寧なアドバイスが豊富に載せられている本です。

こうした本を参考にすれば、HSPまたHSCとしての感受性ゆえに陥りやすいリスクを避け、同時にその感受性を最大限に生かすための環境づくりをしていくことができるでしょう。

忘れないでください。HSPの人、またHSCの子どもは、可能性の遺伝子を持っているのです。そして、その可能性を良い方向に導くか、悪い方向へ流れるままにするかはあなた次第なのです。

「ぼくが消えないうちに」―忘れられた空想の友だちが大切な友情を取り戻す物語

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「あのね、こういうわけ。すっごく想像力が豊かな子どもたちが、頭のなかであたしたちを夢見るの。

そして、あんたやあたしが生まれ、その子と大の仲良しになり、なにもかもとってもすてきで、うまくいく。

でも、子どもたちは大きくなるにつれて、そんなことには興味がなくなり、やがてあたしたちは忘れられてしまう。

そしたら、あたしたちはどんどん薄くなって、消えてしまうの」(p137)

の中で創りだした世界って、どこまでが本物で、どこまでが空想なんだろう?

想像力豊かな人は、みんな、何度もそんなふうに思ったことがあると思います。

現実の世界と同じほど、空想の世界も生き生きしている。現実に暮らす立体的な人たちと同じほど、空想の世界に暮らす人たちも生気にあふれている。

こんなに本物らしいなら、実体があってもなくても、大して変わりないんじゃないだろうか。はるか昔に死んで忘れ去られた人と、今、自分の想像力を通して生きている人だったら、どちらがより現実的な存在なのだろう。そんなことを考えるかもしれません。

今回読んだ本、ぼくが消えないうちに (ポプラせかいの文学)(原題 The Imaginary)は、そんな想像力豊かな子どもが創り出す、空想の友だちが主人公の児童文学です。

世にも珍しい、子どもの空想の友だち、イマジナリーフレンド目線で語られる、イマジナリーフレンドたちの世界を描いた、とても不思議で、どこか切ない名作でした。

これはどんな本?

この本の作者のA・F・ハロルド(@afharrold)は、英国の詩人で、これまで数々の詩集や物語を手がけてきたそうです。

A.F. Harrold

 

さすが詩人だけあって、どこか幻想的で、現実と空想が溶け合った見事な世界を描き出しています。現実の世界を舞台にしているのに、まるで夢を見ているかのような不思議な浮遊感に満たされます。

訳者あとがきによると、作者自身は、空想の友だちの記憶がないそうです。でも、お兄さんから、確かに空想の友だちがいたと教えてもらったとのこと。

空想の友だちがいたはずなのに忘れてしまっていて記憶にない、という実体験は、この本の随所に織り込まれていますし、この物語のテーマそのものとも深いつながりがありそうです。

この本を知ったのはこちらで紹介されていたからでした。ありがとうございます。

ぼくが消えないうちに - The Imaginary by A.F. Harrold - 未翻訳ブックレビュー

 

「本当に冒険がいっしょにできるのは、ラジャーだけ」

主人公のラジャーは、ちょっと怖がりでおとなしい普通の男の子。いつも、同じくらいの年の、それはそれは想像力にあふれた活発な女の子アマンダに振り回されてばかりです。

アマンダは、まるで魔法のような想像力にあふれています。アマンダの手にかかれば、木の下に掘った穴は、宇宙船になって飛び立ったり、イヌイットのイグルーになったり、未開のジャングルにまで早変わり。

どんな場所でも、どんなものでも、あっという間に楽しく面白い冒険に変えてしまうアマンダのことが、ラジャーは大好きでした。

アマンダはラジャーにとって、はじめての、そして唯一の友だちでした。

なぜなら、ラジャーは、アマンダのほかには誰にも見えない、アマンダが創造した空想の友だちなのですから。

子どもたちの中には、幼稚園から小学生くらいのころに、空想の友だち(イマジナリーフレンド)を創り出す子が時々います。奇妙に感じて心配する親もいますが、実際のところは、子どもの奔放な想像力と、他の人への深い関心が生み出す健康的なものです。

子どもにしか見えない空想の友達? イマジナリーフレンドの7つの特徴に関する日本の研究 | いつも空が見えるから

 

この本でも、アマンダのお母さんは、アマンダが見えない友だちがいる、と言い出しても、じゃけんに扱ったりせず、自分には見えないラジャーにあいさつしたり、席を用意してあげたりして、アマンダの空想におおらかに付き合ってあげていました。

学校に行き始めたアマンダは、ある日、衣装ダンスの中にいるラジャーを見つけて友だちになりました。アマンダにとってはラジャーの姿ははっきりと見えますし、ラジャーの声も聞こえます。本当の友だちと変わりません。

ときには現実の友だちと同じように、ケンカすることもありましたが、そのときにはラジャーのことがどれほど大切か思い直しました。

アマンダは、ため息をついた。それから深く息を吸いこむ。

ラジャーを失いたくない。ヴィンセントとジュリアも仲良しだけど、親友と呼べるのはラジャーだけだ。

わくわくするような大冒険は、ラジャーとしかできない。頭のなかでこしらえた、ほかの人には見えないお友だちだけとしか。

ほかの子もいっしょにやろうねといってくれるけど、そんなのはただの「ごっこ」にすぎない。

本当に冒険がいっしょにできるのは、ラジャーだけなのだ。(p92-93)

冒頭で、自分が創った世界は、どこまでが現実で、どこまでが空想なのだろう、といった疑問を投げかけました。アマンダにとっては、学校の友だち以上に、ラジャーは現実の存在で、かけがえない冒険のパートナーなのです。

ラジャーが洋服ダンスの中から出てきた、という話は、赤毛のアンを思い出します。アン・シャーリーもまた、アマンダと同じく、あふれる想像力を持った女の子でしたが、ガラス戸棚にうつった自分の姿にケティ・モーリスという名前をつけて、一緒に空想の世界に旅していました。

でも、もう一枚の戸は何ともなかったので、あたしよく、ガラスにうつるあたしの姿は、そこに住んでる別の女の子だと想像したものよ。

あたし、その子にケティ・モーリスという名をつけたの。あたし達、とても仲がよかったのよ。特に日曜日なんか、何時間も続けてケティに話しかけたものよ。

…そうすると、ケティ・モーリスがあたしの手を取って、年中日が照って、花が咲いてる、ふしぎな妖精の国に連れて行くの。そしてあたし達そこでいつまでも幸福に暮らすのよ。

アマンダとラジャーの物語では、空想の友だちと出会う場所は洋服ダンスだったリベッドの下だったりします。ふとしたことで空想の友だちを見つけるのは鏡の中です。

哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)の著者アリソン・ゴプニックも、子どものころにベビーベッドの中にいるダンザーという小人に出会ったと書いていました。

幼い頃、わたしの家にヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』のような怪奇現象が起きたことがあります。

家の中にダンザーという小人が現れたのです。

母によると、二歳のわたしは、ベビーベッドの中にダンザーという変な小人が住んでいると言ってきかなかったそうです。(p73)

空想の友だちとの最初の出会いは、洋服ダンスやベッド、鏡の中と相場が決まっているのでしょうか。それらの場所はもしかすると、空想の世界と現実をつなぐ扉なのかもしれません。

ちなみにわたしの記憶にある最初の空想の友だちとの出会いは、たぶんアマンダと同じくらいの年のころ、ベッドで夜、布団に潜っていたときでした。

そのとき出会った少女は、今はもう空想の友だちではありませんが、すっかりわたしと同じように成長して、ときどき書く小説の登場人物として生き続けています。

小説家のお気に入りの登場人物の中には、じつは子どものころひょっこりと洋服ダンスやベッドの下から飛び出してきて、そのまま作品世界に定住した空想の友だちが意外といるのかもしれません。

小説家の約5割はイマジナリーフレンドを覚えている―文学的創造性と空想世界のつながり | いつも空が見えるから

 

「わたしには、あんたのお友だちが見えるんだよ」

おおらかなお母さんに見守られて、毎日、アマンダと一緒に冒険を楽しむラジャー。アマンダ以外には誰にも見えませんが、ラジャーはアマンダがいてくれたらそれで幸せでした。

それまで自分がどこにいたのか、ラジャーはおぼえていない。もしもどこかにいたのだとしたら、目が覚めたときにその記憶がすっぽりぬけ落ちてしまったにちがいない。

けれどもアマンダを目の前にすると、心の底から「これでいいんだ」という思いがわいてきた。ラジャー自身が、アマンダのためにつくられたとでもいうように。

ラジャーが知るかぎり、アマンダは最初の友だちだ。そしてまた、たったひとりの友だちで、だからいちばん大事な友だちだった。(p25)

ところが、ある日、奇妙な訪問客が現れます。玄関ベルが鳴らされ、お母さんがドアを開けると、そこにいたのは、アロハシャツにサングラスという怪しい男。男は「バンティング」という名だと名乗ります。

そしてもう一人、学校の制服のようなものを着た、青白い奇妙な少女。

お母さんは、その怪しげな男を追い返しますが、男と一緒にいた女の子の姿は見えていませんでした。アマンダとラジャーは気づきます。あの少女は怪しい男の空想の友だちなのではないだろうか。

それからというもの、アマンダとラジャーの前に男と少女は幾度となく現れます。それも、二人の行くところを先回りし、二人を追い詰めようとしてきます。

そして男はアマンダとラジャーにこう言いました。

男は、うなずいた。

「けっこう。なんともなくて、ほっとしたよ、お嬢ちゃんをけがさせようなんて、思ってないからね。

じつをいうと、あいにく、お嬢ちゃんにはまったく興味がないんだ。

だけど、わたしには、あんたのお友だちが見えるんだよ」(p95)

アマンダに少女が見えていたように、男には、ラジャーの姿が見えていたのです! 狙いは、ラジャーだったのです!

その日を境に、アマンダとラジャーは、恐ろしい計略に巻き込まれ、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれ、離れ離れに引き裂かれてしまうのでした…。

「あふれるばかりの想像力に恵まれた、アマンダの友だちでいたい」

奇妙な男バンティング氏と、彼に付きそう見えない少女。

正体不明で、目的もわからない二人に、じりじりとアマンダとラジャーが追い詰められていく様子は、読んでいてハラハラします。

サスペンスのドラマのような緊迫感のある語り口、エミリー・グラヴゥットによるゾクッとする挿絵、そしてラジャーの存在が ただアマンダの想像力にだけ支えられているという儚さが、息をつかせぬ目まぐるしい物語を織り合わせます。

ラジャーがアマンダと離れ離れになり、よりどころを失って消えてしまいそうになりながらも、なんとかしてもう一度、もう一度、アマンダに会うべく、傷だらけになって糸口を探し続けるところは、この物語ならではの独特な部分でしょう。

ラジャーは、たしかに消えかけていた。

アマンダが考えたり、思い出したり、夢見たりしてくれるから、ラジャーはこの世界に存在しているのに。

アマンダがいなくなってしまったら、するするとこの世界からすべりおちていくしかない。(p110)

これまでも、現実の子ども目線で空想の友だちを描いた作品は多々ありました。たとえば ジェシカがいちばんふしぎなともだちといった作品では、空想の友だちは、現実の友だちができるまでの通過点のように扱われています。

ところが、この作品ではそうではありません。空想の友だちは、いつしか忘れ去られて消えていくとはいえ、ただの空想の産物ではなく、現実の創り出された、ひとつの命として描かれています。

だからこそ、空想の友だちであるラジャーは、アマンダと離れ離れになっても、アマンダのことを忘れません。アマンダに創られた、アマンダの空想の友だちだからこそ、もう一度アマンダに会うために命をかけるのです。

ラジャーは、アマンダを探し求めるうちに、不思議な存在たちと出会います。それは、自分と同じように、創ってくれた人と離れ離れになってしまったイマジナリーフレンドたち。

空想の友だちとは何かをよく知っている女の子から、想像力のことを教えてもらったり…、

「この子どもたちってね」エミリーは写真を指さした。

「見えないお友だちが必要だったり、ほしいと思ったりしているのに、つくりだすだけの想像力がないの。

それができる子は、めったにいないからね。ほんとに輝くほどの、すっごい想像力を持ってる子だけだから」(p141)

なんと、アマンダのお母さんが昔に創り出した空想の友だちと出会ったり。

「そうさね、おまえのアマンダは、わたしのリジーの娘なんだ」

ラジャーは、犬の耳の後ろをかいてやっているうちに、やっと話が飲みこめた。
「わたしは、これだけ知りたいんだよ」

犬は、いった。「ええ……なんていうか、あの子は幸せかね? 大人になって、幸せになったかね?」(p194)

自分を創ってくれた子どもが成長し、空想の友だちが見えなくなり、存在を忘れられてしまった後も、空想の友だちの人生は続いているのです。

こうして自分と同じ空想の友だちと出会ったラジャーは、彼らと協力して、自分たちの身に起こったことは何だったのか、バンティング氏とは何者なのか、アマンダはどうなってしまったのか、という謎に立ち向かっていきます。

消えそうになりながら、風に飛ばされそうになりながら、それでもラジャーを突き動かしていたのは、ただひとつの思いでした。

ラジャーは、ほこらしい気持ちでいっぱいになった。だからこそラジャーは、ジョン・ジェンキンスでもジュリアでもなく、アマンダがいい。

あふれるばかりの想像力に恵まれた、アマンダの友だちでいたい。(p252)

「あたし、ぜったいにあんたのことを忘れないからね」

せっかくのすばらしい物語、詳しいストーリーや結末まで語ってしまうと、あまりにももったいないので、ダイジェストはこのへんにしておきましょう。

離れ離れになったアマンダとラジャー、過去の冒険の日々を忘れてしまったアマンダのお母さんと忘れられた空想の友だち、そして謎めいたバンティング氏と彼に付き添う少女。

これら三組の登場人物による、空想の友だちとの三者三様のストーリーが絡み合って物語は進んでいきます。

空想の友だちは、現実の子どもがたった一瞬考え出すだけの存在ではなく、離れ離れになったあとも互いに思い続ける、強い絆で結ばれたパートナーなのだ、ということを、時には温かく、時には恐ろしく描き出します。

この本は、300ページを超える力作ですが、次から次に場面が移り変わり、登場人物の気持ちの描写が生き生きしていて、続きが気になる山あり谷ありの展開なので、わたしも一気に最後まで読んでしまいました。

このブログでは、これまで空想の友だち(イマジナリーフレンド)という子ども特有の現象を、科学的な観点から詳しく分析してきました。

空想の友だち研究 | いつも空が見えるから

 

これまでの記事で触れたのは、発達心理学や精神医学、当事者の体験談ばかりです。空想の友だちを扱ったフィクションの感想を詳しく書いたのは、これが初めてです。

空想の友だちを扱ったフィクションをあまり取り上げないのは、途中で挙げた本のように、空想の友だちはあくまで現実の人間関係に至るまでのステップでしかない、という扱いが多いためです。

あるいは、孤独な子が現実逃避のために創り出す、精神異常的なものとしてネガティブな扱いがされることも少なくありません。この本でも、アマンダの同級生、ジュリアの母親はそうやって騒ぎ立てます。

でも、そんなジュリアの母親に、アマンダのお母さんははっきりと、「うちのアマンダは、どこも悪くありませんから」と言い切ります。そしてアマンダを温かく見守り、空想の世界を一緒に楽しみます。

アマンダも、決してコミュニケーションが下手で孤独な子ではありません。最近の研究では、空想の友だちを持つのは、根が暗いどころか社交的で他の人に強い関心を持っている子だといわれていますが、アマンダはまさにそのような才気あふれる子どもです。

ただ、学校の友だちから見たら、「ちょっとばかり変わり者」、いえ、「すっごく変な子」なのですけれど。(p203)

こうしたアマンダの性格は、以前に紹介した ナラティヴ・セラピーの冒険という本の「変にできる子」エミリーを思わせます。エミリーは現実の女の子です。

「変にできる子」の想像上の友だち―イマジナリーフレンド(IF)は人生の助けになってくれる | いつも空が見えるから

 

現実の子どものうち、半数近くが、幼少期に空想の友だちを持つという研究もありますが、その中でも とりわけ空想の世界が豊かで、空想の友だちと強い絆を持つのは、HSPと呼ばれるひときわ感受性豊かな子たちでしょう。

エミリーや、アン・シャーリーとその作者のモンゴメリ、そしてこの本のアマンダとそのお母さんは、とびきり感受性と想像力が豊かなHSPの特徴をよく満たしていると思います。

生まれつき敏感な子ども「HSP」とは? 繊細で疲れやすく創造性豊かな人たち | いつも空が見えるから

 

またエミリーは空想の世界のエージェント、ハリット氏の紹介で空想の友だちと出会いましたが、この本の中でラジャーが出会う空想の世界の住人たちもそれとよく似た活動をしています。

現実の少女であるエミリーの空想世界と、この本のアマンダやラジャーを取り巻く空想世界とが似通っているのは大変おもしろいところです。本当に、どこまでが空想で、どこまでが現実なのでしょう。

こうしたところから、この本は、作者のA・Fハロルドが、しっかり調査をして物語を練り上げ、子どものころのような詩的な感性でそれを彩ったことが読み取れます。

空想の友だちについての正しい理解に根ざし、感受性豊かな子どもや、そうした子どもが創り出した空想の世界を魅力的に描いたこの作品は、とても貴重な一冊です。

もし作者のA・F・ハロルドが自分の空想の友だちのことを覚えていたらバンティング氏の描写などはもう少し変わっていたのかもしれませんが、忘れてしまったからこそ紡ぎ出された儚さやうすら怖さを味わうのもまた、この本の醍醐味でしょう。

この本のカバーの絵も、想像力をかきたてる力作で、表側のアマンダとラジャー、そして裏側のパンティング氏と少女、どちらも物語を読んだ後に細かい部分までじっくり眺めてみると、こみ上げてくるものがあります。

子どものころに空想の友だちがいたような気がする感受性豊かな人や、今まさにそんな想像力豊かな子どもを育てていて、空想の友だちのことを毎日聞かされている親の皆さんには、ぜひ読んでいただきたい物語です。

ときどき大人たちは、いろんなことを、いともかんたんに忘れてしまう。

アマンダはラジャーの顔を見た。

「あたし、ぜったいにあんたのことを忘れないからね」(p320)

きっと、子どものころの不思議で奇妙な扉の奥を、もう一度のぞき込んで、どこか懐かしい気持ちに満たされるに違いありません。

心の中に創られる別人格の8つの特徴―解離性同一性障害とイマジナリーコンパニオン

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「あの人は二重人格だ」

身近な人の、意外な、あまり好ましくない一面を知ってしまうと、そうつぶやく人がいます。

普段は優しい人が家庭では横暴だったり、人前では謙虚な人が二人きりになると高圧的だったりすると、あたかも「二重人格」や「多重人格」のように思えるかもしれません。

しかし、専門的にいえば、裏表があったり、時と場合によって色々な建前を使い分けるような人は「多重人格」ではありません。一人の人間の性格に多面性が見られるのは、ごく普通のことです。

「多重人格」の別人格や人格交代は、もっと特殊なものです。各々の人格は、まったく独自のプロフィールや個性を持ち、自分の考えて行動し、別々の人間であるかのように振る舞います。

この記事では、多重人格者 あの人の二面性は病気か、ただの性格か (こころライブラリーイラスト版) などの本にもとづいて、一人の人間の心の中に、複数の別人が存在する場合、どんな特徴が見られるのかを考えたいと思います。

一般に「多重人格」として知られる解離性同一性障害(DID)の別人格に加えて、ある程度の関連性があると思われる空想の友だち(イマジナリーコンパニオン:IC)の別人格も考えましょう。

これはどんな本?

今回主に参考にした 多重人格者 あの人の二面性は病気か、ただの性格か (こころライブラリーイラスト版)は、解離の専門家である岡野憲一郎先生が、解離性同一性障害(DID)についてイラスト入りで解説しているわかりやすい本です。

普通の人に見られる多面性と、多重人格という特殊な状態との区別が、易しい言葉や表現で説明されています。

この記事の中で、出典を明記せずページ数のみを書いている引用はこの本からのものです。

解離による別人格の8つの特徴

まずは解離性同一性障害やイマジナリーコンパニオンに見られる別人格について、単なる二面性や裏表以上の独特な特徴を持っている、ということを8つの点から考えてみましょう。

1.だれもが持っている多面性との違い

人は誰しも、多面性をもっているもの。いつも優しい人が、別の場面で冷たい顔をみせるのは、そう珍しいことではありません。

その一般的な多面性と、多重人格者のみせる多面性・多重性し、性質が異なります。(p6)

冒頭で触れたように、わたしたちは、身近な人の二面性や裏表に気づいて、ショックを受けることがあります。

その一方で、会社では、とても厳格な上司が、家庭では優しいお父さんになることもあります。

多くの人が、こうした性格の多面性を、時と場合によって使い分けるのは、病的なことでも、異常なことでもなく、ごく普通の脳の働きによるものです。

近年の研究によると、人間の脳はカラクリ仕掛けの機械のようなものではなく、脳全体が状況に応じて柔軟に対応を変化させているというマルチネットワークモデルが注目されています。(p76,80)

その場の空気を読んだり、相手の状況を察したりして、どのような対応をするべきか、この場ではどんな発言や振る舞いがふさわしいか、その都度用いる脳のネットワークを切り替えて対処しているのです。

ですから、会社では規律正しく厳格に対応している人が、家庭では優しい一面を見せたり、お客さんの前ではひたすら奉仕に努めている人が、休みの日には自己中心的に振る舞ったりすることができます。

2.自分でスイッチのコントロールができない

多重人格を発症している人は、自己を場面や相手に応じて切りかえることができない。

スイッチが勝手に動いている状態で、なおかつ個々のスイッチにそれぞれ人格が生じてしまっている。(p80)

わたしたちは、普段、多面的な心をうまくコントロールし、仕事中には素を出さないようにしていたり、家族の前では自由に振る舞ったりしているものです。

しかし多重人格、つまり解離性同一性障害(DID)の人は、そのような切り替えがうまくいきません。

自分でスイッチをコントロールできないばかりか、意図しない場所で、まったく意識していなかった一面が表に現れたりします。

別の人格が突然、不適切なタイミングで現れ、それを制御できないために、生活に支障をきたすこともあります。

これから考えていきますが、健康な人と、DIDの人には連続性があり、健康か病気か単純に二分できる問題ではありません。スイッチのコントロール能力は、人によってさまざまな程度があるのです。

3.それぞれが独自のプロフィールを持つ

断絶したネットワークは、やがて主たる人格から離れて自律性をもち、別人格を形成していきます。

彼らは独自のアイデンティティ、趣味、性格をもっています。(p85)

身近な人が二面性や裏表を発揮する場合と、DIDの別人格の明確な違いの一つは、DIDの別人格は、それぞれが別個の個性とプロフィールを有するということです。

職場では厳しい上司が、家では子煩悩だとしても、その人は決して別人になるわけではありません。

どちらの状況においても「あなたは誰ですか?」と尋ねると、当然、同じ名前を名乗るでしょう。生育歴について聞くと、同じ内容を話すでしょう。

それはあたかも、一つのサイコロに幾つもの面があるのと似ています。それぞれの表面には、違う数字が書かれていますが、どの面が上になっているとしても、それは同じサイコロです。

それに対し、DIDの別人格は、根本的に別人になります。身体的な見た目は同じかもしれませんが、表情、性別、性格、年齢、名前、行動までが変わってしまいます。

人格が交代しているときに名前を尋ねると、たいていは別の名前を名乗りますし、話し言葉も変わっていて、趣味や経歴の記憶まで変わっているのです。

ここまで変化すると、周囲の人は、嘘をついて演技をしているのではないかと疑いますが、決してそうではありません。

人格同士が「解離」、つまり分裂してつながりをなくしてしまっているので、まったくの別人になってしまっています。これが解離性同一性障害(DID)なのです。

4.別人格は自分とは思えない

多重人格を発症している場合、別人格も自分の一部といえる。

別人格が正反対な自分や、理想の自分などの現れになっている場合も

(ただし本人はそれを自分と思えないという特徴がある)(p79)

もちろん、まったく異なるプロフィールや記憶を持つ複数の別人の人格が出てくるとしても、その人の脳は一つだけです。ですから、別人格も、その人の一部であることに変わりありません。

しかしそれでも、DIDの人たちは、自分の別人格について知ったとき、あまりに本来の自分とかけ離れているように感じられ、とても自分の一面だとは思えないことが少なくありません。

たとえば、人格交代しているときの様子について家族や友だちから聞かされたり、そのときの様子をビデオやレコーダーで記録したのを見せてもらったりすると、非常に驚きます。

かつて「多重人格」と呼ばれていたこの病気が、「解離性同一性障害」(DID)と呼ばれるようになったのはそのためです。これは、単なる裏表のようなものではなく、自分が分裂してしまう、自己同一性(アイデンティティ)の障害なのです。

分裂した人格が有するプロフィールは実に様々です。解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論という本には、DIDの別人格の類型についてこう書かれています。

パトナムPutnum,F.Wは多くの交代人格の類型をあげている。

主(ホスト)人格、子ども人格、迫害者人格、自殺者人格、保護者人格、内的自己救済者(internal self helpers,ISH)、記録人格、異性人格、性的放縦人格、管理者人格、 強迫的人格、薬物乱用者、自閉的人格、身体障害のある人格、特殊な才能や技術を持った人格、無感覚的人格、模倣者人格、詐欺師、悪霊、聖霊など多彩である。(p72)

DIDで現われる人格には、もともとの人格とは年齢がまったく違う子どもの人格や、性別が違う異性の人格、そもそもの頭の働き方が違う自閉的人格、振る舞いが極端になり性格も変わる放縦な人格なども含まれています。

また、以前の記事で取り上げたように、本人を慰めたり、支えたりする、「内的自己救済者」と呼ばれる、保護者や助け手のような人格が現われることもあります。

特殊な才能や技術を持った人格の例としては、<眠り>をめぐるミステリー―睡眠の不思議から脳を読み解く (NHK出版新書)には、普段の本人にはまったくない絵の才能を持った別人格を有する男性のことが書かれていました。

これほど多彩で異なるプロフィールを有するわけですから、DIDの人が、自分の別人格について、自分とは思えないと感じるのも無理のないことです。

4.別人格は変化し成長する

解離症状は、創造性をもつもの。個々の人格がそれぞれ好みや特技をもち、独自の生活史を有する。(p43)

別人格が形成され、独特の言動がとられるときには、孤立したネットワークに症状特有の創造性が発揮されている。人格も言動も、日々変化・成長をとげる。(p85)

DIDの人が別人格について自分とは異なる別の人間であるかのように感じてしまう別の理由は、おのおのの人格が、独自に変化し、成長していくからです。

DIDで形作られる別人格は、常に同じ考え、同じ役割に固定しているわけではありません。現実の人間と同じように、それぞれが日々変化し、経験や知識、他の人との関わりを通して、成長していきます。

このような、独特な創造性は、解離性同一性障害(DID)の別人格と、統合失調症の妄想とを区別する重要な手がかりになるそうです。

DIDと統合失調症は、どちらも幻聴などを伴うことがあり、突拍子もないことを言うので混同されがちです。

しかし統合失調症の妄想では、「ある程度、決まった内容が繰り返し生じる」のに対し、解離では「声が人格をもち、創造的に広がっていく。内容が変化する」という大きな違いがあります。(p27,30)

6.話しかける声が聞こえることも

誰もいないところで人の声や気配、物音などを感じるのは、統合失調症に典型的な症状です。

多重人格によって、別人格の声が聞こえる状態とは異なります。(p27)

医師に幻聴を訴えると、たいていの場合「統合失調症」という診断が下ります。

しかし幻聴は、統合失調症だけでなく、DIDなどの解離性障害でも生じますし、さらには健康な人でさえ幻聴を耳にすることがあります。

統合失調症の幻聴と異なり、DIDの幻聴は、別人格の声であることが多いと言われています。

統合失調症の場合は声の主が誰かはわかりませんが、DIDの場合は、だれが、つまりどの別人格が話しているのか本人がわかることもあります。

また統合失調症の幻聴と異なり、DIDの人は子どものころから、日常的に別人格の声を聞いていることもあります。

統合失調症と解離性障害の違いについては、以下の記事も参考にしてください。

統合失調症と解離性障害の6つの違い―幻聴だけで誤診されがち
精神科医の中には「幻聴=統合失調症」と考えている人が多いと言われます。しかし実際には解離性障害やアスペルガー症候群が統合失調症と誤診されている例が多いといいます。この記事では解離の

7.記憶のつながりがあるかどうか

DIDの人格交代の大きな特徴の一つは、記憶のつながりが失われる場合があることです。

健康な人の場合、仕事中に厳格に振るまい、家族の前では優しい一面を見せるとしても、記憶の連続性は保たれていて、そのときのことを思い出せないということはありません。

しかしDIDの場合は、それぞれの場面で別の人格が活動しているため、記憶のつながりがなく、思い出せないことがあります。

たとえば、いつの間にか買った覚えのない物の請求書が届いたり、日記に別人の筆跡で書き込まれていたり、メールに記憶にない送信履歴があったりします。

いずれの場合も、別人格に交代している間に、自分の意思とは無関係に行われたことなので、記憶にないのです。

しかし、DIDだからといって、必ず各人格同士の記憶のつながりが途切れているかというとそうではありません。

人格同士で記憶のやりとりがある場合、心の中で人格同士が対話や相談をすることがある。

相談の結果をどちらかの人格が公言する場合も。(p45)

人格同士に記憶のやりとりがあり、まるで友人のようにコミュニケーションできる場合もあれば、ある人格が一方的に他の自分のことを知っていて、自分のほうではまったく存在にさえ気づいていない場合などもあり、記憶のつながりは様々です。

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)によると、人格の交代が軽度の段階では、記憶のつながりが保たれていますが、重度になると、記憶が途切れ、同一性が保てなくなるそうです。(p48)

8.空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)との関係

最後に、考えておく必要があるのは、空想の友だち(イマジナリーコンパニオン:ICまたはイマジナリーフレンド:IF)と呼ばれる現象との関係です。

一般に、イマジナリーコンパニオンは、幼児にみられる現象で、目に見えない空想の友だちをありありと想像し、一緒に遊んだり会話したりするという特徴があります。

一見、病的に思えるかもしれませんが、統計によると、少なくとも20-30%の子どもが経験する、ごくありふれた現象だと言われています。基本的にいって、子どものイマジナリーコンパニオンが精神疾患につながることはありません。

しかし、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)によると、解離性同一性障害(DID)では、一般人の倍の60%の割合で、イマジナリーコンパニオンがみられたとされていて、何かしらの関連性はあるようです。

解離性障害に関わるイマジナリーコンパニオンは、通常の1、2人より人数が多く、平均6人程度であり、幼児期だけでなく、思春期、青年期まで持続するという特徴があるとされています。(p128-129)

おさなごころを科学する: 進化する幼児観によると、イマジナリーコンパニオンを持つ定型発達の子どもと解離性障害の子どもを比較した結果、前者は空想の友だちが実在しているとは思っていないのに対し、後者は実在していると信じていた、という研究が紹介されています。(p241)

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)にも、解離性障害になりやすい人の素因の一つに、次のような傾向が挙げられています。

空想傾向が強い

想像上の友だちと遊ぶ。その友だちは実在するかのように、目で見て、声を聞くことができる。

空想上の物語があり、長期間にわたって物語が展開しつづけ、映像を映画のように見ている。人物設定やストーリーは具体的かつ詳細。(p60)

現実との区別がつかないほど、空想に深くのめり込む「空想傾向」や、空想の世界が物語のように発展していく「持続的空想」は、解離性障害の素因の一部です。

さきほど、DIDの別人格が、さまざまなプロフィールや役割を持つという点を取り上げましたが、イマジナリーコンパニオンの別人格もまた、さまざまな類型を持っています。

想像の遊び友達一その多様性と現実性ーの中で、麻生武先生は、幼児期から青年期のイマジナリーコンパニオンを、4つないしは8つのタイプに分類しています。

「秘密の友達」「もう一人の私」タイプ…相談相手、良き理解者、忠告者。一番多い。本人と瓜二つであったり、同一の名前を持っていたりすることも。

「白昼夢・ドラマ」「メルヘン・妖精」タイプ…人物を取り巻く物語が生み出され、本人がドラマの世界にいるかのような状態。空想と現実の区別がつかないほどのめりこむ。ファンタジーな内容のことも。

「神様・保護者」「妖精・怪人」タイプ…神、守護霊、天使などのスピリチュアルな存在。

「実在の人物」「亡き人」タイプ…あこがれの人や、亡くなった家族など。

これらのタイプのうち、特に白昼夢が関わるタイプは、すでに考えた「空想傾向」や「持続的空想」と重なり合っているように思えます。

解離性障害や解離性同一性障害(DID)は、健康か病気かで二分される明白な脳の異常ではありません。

健康な人と、DIDの人の間には連続性があり、その間には、さまざまな程度の解離症状を示す人が分布しています。

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)にはこう書かれています。

解離性障害は脳になんらかのトラブルが起こることによる病気ではありません。

また病気と健常との境目もはっきりしていません。過敏や離隔に似た症状は、解離のない人にもある、ごくありふれた症状です。ただ、それが強く出ているのが解離性障害なのです。(p56)

健康な人でも、時間を忘れて趣味に没頭したり、一時期の記憶が飛んでしまったりすることがよくあります。これは健康な範囲の一過性の解離症状です。

解離傾向が強くなってくると、普通の人にない不思議な体験が生じることがあります。だれかの気配を感じたり、イマジナリーコンパニオンが現れたり、体外離脱を経験したりします。それでも日常生活に支障がないかぎり、病気ではありません。

しかし、さらに解離症状が強くなると、「自分」がいくつかに分かれた状態になります。記憶が途切れたり、体の感覚がまひしたり、現実感がなくなったりして、生活に支障をきたします。すると「解離性障害」と診断されます。

そしてさらに解離症状が極端になり、分かれた「自分」が、それぞれ人格をもち、バラバラにふるまう状態になり、「解離性同一性障害」(DID)と診断されるのです。

別人格はどこから生まれるのか

ここまで、解離性同一性障害の別人格の特徴について8つの点を考えました。

DIDの別人格は特殊な性質を持っていますが、広い視野でみれば、健康な人が持つ性格の多面性と地続きになっている現象だといえます。

しかし、本来なら、自分の多面性の一部であり、時と場合に合わせてコントロールできるはずの性格の一面が、別の人格として独立し、自律性を獲得してしまうのはどうしてでしょうか。

幼少期に創られる

DIDの別人格の流れをたどると、行き着く源は幼少期の経験です。

心に別人格の芽となる部分が発生するのは多くの場合、幼児期や児童期と考えられています。

幼い頃にストレスを受けて人格が分裂し、のちに家庭外での人間関係のなかで表面化します。

成人後のストレスで本格的な分裂がはじまる例は、ほとんどみられません。(p39)

DIDは思春期以降に発症することが多いので、家族や周囲の人たちは戸惑いがちです。

しかし、別人格が誕生するのは、大人になってからではなく、そのずっと前、幼児期や児童期であると考えられています。どうして、子どものころに人格がわかれてしまうのでしょうか。

人格の分裂がはじまるのは、幼児期・児童期だと考えられています。

幼いうちから、本心の表現をおさえ続けていると、心の一部がじょじょに隔離され、解離して、別人格を形成するのです。(p50)

幼いころに別人格が造られる要因は、幼少期のさまざまなストレスです。ストレスの内容はさまざまですが、慢性的に抑圧され、本心をさらけ出せない環境のもとで育つと、心が解離して、複数の人格のネットワークが脳に形成されます。

DIDは、思春期以降の人間関係のストレスや、外傷体験によって表面化する場合が少なくありませんが、別人格はそれよりはるか前から存在しているのです。

多重人格は、思春期以降に突然、別人格という非現実的な姿で表面化することが多いため、周囲を驚かせます。

突然の出来事のようにみえるかもしれませんが、本人の心には幼児期・児童期から苦痛やストレスが蓄積しています。発端は、たえまなく苦痛を感じていた過去の生活にあります。(p35)

別人格が、DIDを発症するよりも前に形作られていた、という点を考えるなら、いくつかの疑問の説明がつきます。

たとえば、すでに考えた通り、解離性障害の人は、統合失調症とは異なり、子どものころから幻聴を日常的に聞いていることがありますが、それは、その当時から別人格が存在していて、その声が聞こえていたのかもしれません。

また、衝撃的な外傷体験に直面しても、解離性障害や解離性同一性障害にならず、PTSDや他の心の病になる人がいますが、そのような人は、素因としての解離傾向がなく、幼い頃に別人格が造られるということもなかったのでしょう。

幼いころに形作られる別人格というと、やはり、先ほど考えた空想の友だち、イマジナリーコンパニオンとの共通性も感じられます。

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)にもには、解離性障害の人が、子どものころからリアルな存在感を伴うイマジナリーコンパニオンを持っている場合があることが書かれていました。

昔からずっといっしょにいた

子どもの頃からずっといっしょにいる空想上の友だちの姿を見ることも多い。

本人のことをよく知っており、孤独や不安を癒やし、遊び相手や話し相手になってくれる。(p25)

子どものころは、脳の可塑性が強く、変化しやすい時期です。別人格の形成という脳の根底に関わるような変化は、その時期に特有のものなのかもしれません。

外傷体験・トラウマ・虐待があるとは限らない

多重人格というと、虐待や性被害と関連づけられることが少なくありませんが、そうした目立ったトラウマが別人格が創られる原因になっているとは限りません。

目立った外傷体験がなくても、いじめ、人間関係のストレス、家庭内の緊張、自己や災害、そのほかの様々な慢性的なストレスによって、解離性障害や解離性同一性障害を発症することがあります。

また、本人の性格傾向などの素因も、重要なリスクファクターです。解離性障害の人には、次のような性格の人が多いといわれています。

■引っ込み思案で緊張しやすい
■自己主張が苦手
■優しくて繊細。いつもまわりを気遣う
■素直で逆らわない
■周囲の期待や失望に敏感

こうした性格傾向を持つ人は、不満や怒りを感じても、それを表現するのをためらって、自分の感情を心のうちにしまい込み、抑圧しがちです。

他の人と関わるとき、傷つけたり、傷つけられたりすることを恐れるあまり、本心を押し殺して、相手の望むとおりにふるまってしまいます。

建前ばかりを強要される生活や、ストレスを外に発散することのできない環境が慢性的に続くと、人前で振る舞う人格と、本音を言う人格とが解離してしまい、別の人格として振る舞い始めることがあります。

緊張した家庭で育ったため、本心を押し殺して生活せざるを得ず、心が解離していく人も少なくありません。

親との間に距離やズレがある、手のかからない子だと親が思い込んでいる、病気のきょうだいの世話に忙しく手が回らない、親の性格と子どものニーズが大きく異なるなど、一概に親が悪いとはいえないケースもしばしばです。

解離性障害や解離性同一性障害には、外傷体験だけでなく、さまざまな素因も関係しているので、専門家でも原因を特定できないことが多いそうです。(p54)

素因としての性格特性についてはこちらの記事もご覧ください。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か
空気を読みすぎる、気を遣いすぎる、周囲に自分を合わせすぎる、そのような「過剰同調性」のため疲れ果ててしまう人がいます。「よい子」の生活は慢性疲労症候群や線維筋痛症の素因にもなると言

記憶や知識を元にして生み出される

さまざま素因やストレスが重なりあったとき、どのようにして別人格が造られるのでしょうか。

別人格は、無から生じるわけではありません。

脳の中に蓄積されていた記憶や知識、特定の人物のプロフィールなどをとり入れる形で生まれます。

しかしそのつくられ方は恣意的で、本人にも正確には由来がわからないことも多いものです。(p43)

別人格は何もないところから脈絡なく創造されるわけではありません。どんな別人格であっても、それはその人の一部であり、脳に蓄えられた知識や経験をもとにして生み出されます。

多くの場合、実在の人物やアニメのキャラクターなどのプロフィールの一部をもとにしていたり、自分の理想やコンプレックスが反映されていたりします。

またトラウマ経験が関わる場合は、隔離されたストレスや外傷体験の記憶、虐待者のプロフィールが取り込まれることがあります。(p43)

DIDの別人格だけでなく、空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)の場合も、アニメなどのキャラクターや、自分の理想像などが影響する場合があるようです。

しかし、いずれの場合も引用した文中にあるとおり、「そのつくられ方は恣意的で、本人にも正確には由来がわからない」ことが多いようです。

DIDが表面化する2つのパターン

続解離性障害によると、別人格が表に現れ、DIDが発症する状況には、2つの典型的なパターンが見られるといいます。

一つ目は、外傷体験が明らかな場合です。

まずは明白な外傷の存在が明らかな場合である。ある患者は親からの虐待を受けた際に、その苦痛と恐怖のために「内側に急いで入り、ふたを閉めてしまった」と表現した。

そしてその際に、「ほかの誰か」が外の状況を処理する必要が生じ、新たな人格が形成されたという。(p80)

虐待や外傷体験、犯罪被害など、衝撃的な体験に直面した場合、その危機的状況から逃れるために、突然激しい解離症状が生じるかもしれません。

ふたつ目は、もっと緩やかで、はっきりとしたトラウマ体験などが見られない場合です。

そしてもうひとつは外傷がより不明瞭な場合である。こちらは親との関係で常に自分が理解されず、あるいは無視されていると感じ続けるといった状況をひとつの典型とする。

その場合患者はその深刻な孤独感を体験した際に、自分の心に生まれた新たな人格との対話によりその苦しみを軽減するという経路が考えられる。(p80)

家庭内の緊張など、日常的に慢性的なストレスにさらされていると、どこにも安心できる居場所がなく、徐々に別人格が表面化していくかもしれません。

多重人格者 あの人の二面性は病気か、ただの性格か (こころライブラリーイラスト版)には、そのようなパターンの一例として、10代後半のCさんのことが書かれていました。

Cさんは、暴力や虐待を受けたことはないものの、教育に厳しい母親に叱責されながら育った女性です。

母親にも、父親にも意思が伝わらず、Cさんはストレスを一人で抱えこんでしまいました。さびしくて、つらくて、心がはりさけそうです。

そんなある日、Cさんが自室で泣いていると、心の中に男性の人格が現れ、Cさんをなぐさめてくれました。別人格が生じはじめました。(p33)

この例のように、寂しさや居場所の無さのため、相談相手として別人格が現れるケースは、やはりすでに考えた空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)との共通性がうかがえます。

いずれの場合にしても、幼少期に何らかの理由で別人格が形成されること、そして思春期以降に衝撃的あるいは慢性的なストレスによって、それらの別人格が表面化することがDIDの発症に関わっていると思われます。

幼少期のストレスで人格が分裂していても、その後の人生が平穏であればDIDにはならないでしょうし、逆に幼少期に人格が分裂しておらず、大人になってからトラウマ経験に直面した場合もDIDにはなりにくいといえそうです。

別人格は最終的にどうなるのか

こうして誕生し、表面化した別人格は、その後どうなるのでしょうか。

一般に、複数の人格が存在するような状態は異常で治療しなければならないと思われがちですが、近年の治療者の見解はそうではないようです。

過去にはいくつもの人格が統合され、ひとつになることが多重人格の治療だといわれました。

しかし現在は、人格が分裂していても、各人格や役割分担をおこない、生活に支障がなければ、ひとまずの回復とする考え方が一般的です。(p49)

すでに見てきたとおり、解離性障害は、脳の明らかな異常というよりは、だれにでもある脳の「解離」という機能が強く働きすぎている状態だと考えられます。

また、外傷やトラウマ体験の直接的な結果として、ちょうど骨が折れるかのように、人格が分かれてしまったわけではなく、別人格そのものは、子どものころから存在しているようです。

過去の記事で取り上げたように、解離という防衛機制をストレス対処に頻繁に用いてきた人の場合、人格の統合を目指すと、かえってストレスがうまく処理できなくなり、別の精神疾患を抱える可能性もあります。

多重人格やイマジナリーフレンドは必ず人格を統合し、治療する必要があるのか
解離性同一性障害(DID)や、大人になっても残るイマジナリーフレンドは、治療によって人格を統合すべきなのでしょうか。岡野憲一郎先生の「解離性障害―多重人格の理解と治療」という本から

別人格が、あまりに自律的で、独自のプロフィールと生活史を有するため、本人も、別人格自身も、消滅することを恐れ、統合を望まない場合もあります。

解離性同一性障害(DID)の尊厳と人権―別人格はそれぞれ一個の人間として扱われるべきか
解離性同一性障害(DID)やイマジナリーコンパニオン(IC)の別人格は、一人の人間として尊厳をもって扱われるべきなのか、という難問について、幾つかの書籍から考えた論考です。

それで、近年の治療では、人格の統合よりも生活の安定を目指し、不適切で唐突な人格交代や、記憶の断絶、攻撃的な幻聴や自傷行為がなくなれば、ひとまずのゴールだとみなされているようです。

解離性同一性障害(DID)を発症する前の状態、つまり幼少期に形成された別人格やイマジナリーコンパニオンが心の中に存在しているとしても、病的な解離症状は生じていない状態に戻ることができれば、もはや病気ではないと考えることができるでしょう。

解離性同一性障害(DID)のそのほかの情報や、治療に役立つポイントなどは、以下の記事も参考にしてください。

多重人格の原因がよくわかる7つのたとえ話と治療法―解離性同一性障害(DID)とは何か
解離性同一性障害(DID)、つまり多重人格について、さまざまな専門家の本から、原因やメカニズムについて理解が深まる七つのたとえ話と治療法についてまとめました。

別人格の存在のために生活に何らかの支障を来たしている場合や、家族など身近な人の解離症状を理解したいと思っている場合は、この記事だけではなく、ぜひここで紹介した専門家による幾つかの本に直接目を通してみてください。

こうした専門家の本は、独特な性質を持つ解離の別人格についての理解を深め、より良い対策やサポートの方針を見つける助けになるに違いありません。

解離性障害をもっとよく知る10のポイント―発達障害や愛着障害,空想の友だちとの関係など

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記憶が失われる、自分が自分でないように思える、現実感がなくなる、さまざまな幻聴が聞こえ、視界に黒い影が見える、だれかの気配を感じる、自分の中に他人がいる、 次々に別の人格が出てくる…。

うした症状は「解離性障害」として知られています。有名な記憶喪失(解離性健忘)や、多重人格(解離性同一性障害)も、この「解離性障害」と呼ばれる病気の一つです。

解離性障害はしばしば子ども虐待や性犯罪のようなおぞましい事件の被害者が発症する極めて異常な病気だと説明されることがあります。確かに悲惨なトラウマ経験の結果、解離性障害になる人もいます。

しかし、実際には、解離性障害の原因はもっとさまざまであり、目立ったトラウマ体験がない、ごく普通と思える家庭の子どもが発症することもあります。またADHDやアスペルガー症候群といった発達障害が関係していることもあります。

さらに、意外に思えるかもしれませんが、解離性障害は決して異常な病気ではなく、たとえさまざまな解離症状があっても、病気とはみなされず、ごく普通に暮らしている場合もあります。

頻繁な離人感や、空想の友だち現象、さらには複数の人格が自分のうちに存在するという強い解離症状があっても、それをうまくコントロールして社会に適応している「マイノリティ」な人たちもいるのです。

この記事ではこころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害という本やその他の資料から、解離性障害の原因や実態をもっとよく知るのに役立つ10のポイントをまとめてみました。

これはどんな本?

今回おもに参考にしたこころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害は、解離性障害の専門家たちが、解離をさまざまな観点から網羅的に説明した共著です。

第一部は、「解離性障害Q&A」と題して、総勢30人以上もの専門家が、解離性障害をめぐるよくある50の疑問に、1問につき1ページずつ割いて詳しく答えています。

第二部は、有名な医師たちによる座談会からはじまり、専門的な論文が幾つか掲載されています。

基本的には一般向けではなく専門家の本ですが、特に「解離性障害Q&A」の部分は少し知識のある人なら、役立つ情報が多いのではないかと思います。

解離性障害について知っておきたい10の特徴

これから解離性障害の原因や実態を理解するのに役立つ10の話題を考えますが、もちろん、解離性障害の原因は人それぞれです。

複数の要因が複雑に絡み合っていることもしばしばですし、途中でも触れますが、素人判断による診断や治療はたいへん危険です。

このブログを含め、ネット上の情報は、あくまで参考程度にとどめて、治療においては専門家の指導を仰ぐようになさってください。

1.虐待ばかりが原因とは限らない

解離性障害や解離性同一性障害(DID)というと、とかく身体的・性的虐待を受けた子どもが発症するなどの凄惨なイメージがつきまといます。

確かにそうした残酷な子ども時代を過ごしたために解離性障害を発症する人は少なくありません。

しかし、柴山雅俊先生は、虐待より目立たない慢性的なストレスが解離性障害につながるケースがあることを語っています。

私自身は、家族の内や外における居場所のなさがもう少し焦点を当てられてもいいようにに思う。

両親の不和、家族成員間の対立、葛藤のため、つねに自分がその緩衝役を強いられ、いわば身代り、犠牲者としての役割を強いられてきた症例。

転校を繰り返し、そのためイジメの対象となった症例。

多くの症例が「安心していられる居場所」をこの世に得ることができずに、過度の緊張を強いられていたと訴える。(p112)

柴山先生が重視するのは、虐待などの壮絶な体験よりも、むしろ「安心していられる居場所」の欠如です。

虐待などの深刻な外傷を受けた場合でも、解離性障害の引き金となるのは、虐待そのものではなく、その苦痛を一人で抱え込まなくてはならない状況です。

深刻な虐待を受けても、愛情深い家族や友人が支え、安心できる居場所となって保護し包み込んでくれるなら、徐々にであれ傷を癒やすことができ、解離性障害のような深刻な問題を発症せずにすむかもしれません。

一方で、外からは、それほど悪くは見えない家庭で育ったとしても、両親の不和や家庭内の緊張などのせいで「安心していられる居場所」がどこにもなく、常に板挟みになって自分を犠牲にしてきたような子どもは、深刻な解離性障害を発症するかもしれません。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か
空気を読みすぎる、気を遣いすぎる、周囲に自分を合わせすぎる、そのような「過剰同調性」のため疲れ果ててしまう人がいます。「よい子」の生活は慢性疲労症候群や線維筋痛症の素因にもなると言

 解離性障害とは、子どものころに、ひとりではとても抱えきれないようなストレスを抱え、まわりのだれも、家族や友人も助けになってくれないような状況で、たったひとりで生き延びなければならなかったときに生じる防衛反応なのです。

近年では、解離性障害のおおもとの解離傾向を形作るのは、幼いころの養育環境による「愛着トラウマ」であると考えられています。 解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合かにはこうあります。

すなわち解離性障害とは、それが基本的にはいわゆる「愛着トラウマ」による障害のひとつと理解されることを常に念頭に置くべきなのである。(p15)

この愛着トラウマの影響については、後ほど6番目の項目で詳しく考えます。

2.本当に女性に多いのか

一般に、解離性障害は、女性のほうが男性より何倍も発症しやすいと言われています。

こころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害によると、たとえば、アメリカやヨーロッパでは患者の8割以上が女性で、アラブやインドでも6割が女性だったという報告があるそうです。(p26)

日本の柴山先生の統計でも、53人中44人、つまり83%が女性でした。(p139)

解離性障害の患者の圧倒的多数が女性であるのはなぜでしょうか。以下のようなさまざまな説があります。

■社会文化的要因
性的虐待などの被害のターゲットになりやすいのは女性です。また女性は社会的に抑圧され、感情を表現する機会が与えられないことが多いと考えられます。(p26)

■脳の構造の違い
男女の脳の構造の違いやホルモンバランスの違いが関係している可能性もあります。

■養育者と同性である
近年、解離性障害の原因として、幼少期の養育からくる愛着障害が注目されています。もしかすると、乳幼児の養育が一般に母親によって行われているため、同性である女児が影響を受けやすいのかもしれません(p104)

■症状の性差
解離性障害は男性と女性で症状の出方が異なり、男性患者が見過ごされている可能性があります。

このうち、ここで注目したいのは最後の症状の性差です。

パトナムやクラフトといった解離性障害の専門家たちは、女性のDIDと男性のDIDを比較したところ、女性は攻撃性を自分に向けるのに対し、男性は外に向けるのではないかと述べているそうです。(p89)

この本でもちらっと触れられていますが、日本でも2007年、相撲取りの横綱朝青龍が暴行事件を起こしたときに、当初、解離性障害との診断名が発表されたのを覚えている人もいるかもしれません。(p17)

朝青龍が本当に解離性障害だったのかどうかは定かではありませんが、実際に男性の解離性障害や解離性同一性障害(DID)の患者の一部は、暴力犯罪などに関わってしまい、病院ではなく、少年院や刑務所にいるのかもしれないと言われています。

男性多重人格者の73%、女性患者の27%に殺人を含む暴力犯罪を認めたという報告もある。(p89)

概して解離性障害は若年女性に多いとする報告が多いが、一方で、Putnamは、男性の解離性障害の患者の多くは、精神保健サービスにかかることなく、非行や触法行為のため警察や刑務所などで扱われているのではないかという指摘をしている。(p139)

近年、脳のさまざまな疾患において、症状の現れ方に性差(ジェンダー・ディファレンス)があることが注目されています。

もちろん、解離性障害の男性が、すべて攻撃的だったり犯罪に関わったりするわけではありませんが、全体の傾向としての症状の違いはあるのかもしれません。

3.大人になってから発症すると症状が違う

解離性障害の患者は、一般に子どものころから、強い解離傾向を持っていると言われています。

外傷体験やストレスによって解離性障害を発症する前から、強い空想傾向を持っていたり、交代人格や空想の友人による幻聴など、独特な体験を有していたりすることがあります。

トラウマ研究の専門家ヴァン・デア・コーク先生の身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、解離は幼少期にのみ学習されるものだと書かれています。

ライオンズ=ルースの研究から、解離は幼少期に学習されることが明らかになった。のちの虐待やその他のトラウマでは、若年成人に見られる解離の症状は説明がつかなかったのだ。

虐待やトラウマは、他の多くの問題のおもな原因だったが、慢性的な解離や自分に対する攻撃性の原因ではなかった。

根底にある重要な問題は、これらの患者が、どうしたら安全に感じられるかを知らなかったことだ。(p201)

そのため、解離性障害は、子どものころからの素地がある場合と、大人になってから初めて外傷体験に遭遇した場合とでは、症状の現れ方が異なるそうです。

岡野憲一郎先生はこころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害でこう述べていました。

成人になってから初めて深刻な外傷体験を負った際にみられる解離症状は、やや異なった現れ方をします。

それらは一過性に現れ、また限定された内容が繰り返される傾向にあります。

…明確な人格の形成にまで至るような多彩で創造性に富んだ内容は備えていません。(p40)

もともと解離傾向があったわけではなく、成人になってから初めて深刻なトラウマを経験した場合は、PTSDなどの激しいフラッシュバックや身体症状として現れ、はっきりした人格交代などの解離症状は少ないそうです。

それで、DIDのような解離性障害は、あくまで子どものころから強い解離傾向という素因を持っていて、しかも幼少期に強いストレスを経験した人にみられるものだとされています。

DIDはあくまでも本来高い解離傾向をその素地として持っている人が、幼少時の外傷やストレスをきっかけとして発展させるものと考えられます。

ちょうど言語の獲得には臨界期があるように、解離の能力や病理の発現にも一定の年齢の制限が存在するようです。(p40)

以前に読んだ本では、別人格が誕生するのは、幼少期のころに限られている、という説明もありました。

心の中に創られる別人格の8つの特徴―解離性同一性障害とイマジナリーコンパニオン
普通の人の裏表や二面性と、多重人格はどこが違うのでしょうか。解離性同一性障害(DID)の別人格の8つの特徴と、別人格の創られ方についてまとめてみました。空想の友だち(イマジナリーフ

 思春期以降にはじめて交代人格の存在が明らかになる場合でも、交代人格は実際には幼いころに生まれて深く潜行していて、成長したあとに初めて自覚されたにすぎないとも言われています。

なぜ大人になってからトラウマ体験に遭遇した場合には、解離性障害というよりもPTSDのような症状に発展しやすいのでしょうか。

この本の中で、国立精神・神経センターの金吉晴先生は、外傷体験を受けたとき、完全に解離することで対処した場合は解離性障害になるのに対し、不完全な解離が起きた場合にPTSDになるのではないか、という考察を述べています。

トラウマ体験の最中、不完全な解離が生じると、部分的に意識があり、逃げたい、抵抗したいのに身体が動かなくなり、大きな恐怖や恥辱感が残ります。

そうすると、その恐怖体験がPTSDになり、激しいフラッシュバックなどにつながるのではないかとされています。(p119)

生来の強い解離傾向がない人でも、恐ろしい状況に直面すると生物的メカニズムとして解離が生じますが、その効果が不十分なためにPTSDのような別の症状へ発展してしまうのかもしれません。

そもそも解離傾向とPTSD傾向は、脳科学的には正反対の反応であるとされています。それはおそらく、子どものころの愛着の傾向の違いに由来するのでしょう。

そして、PTSD傾向のほうが強い人は、前述のとおり、成長してから経験したトラウマに対して、感情のフラッシュバックを伴うPTSDが生じます。

一方で解離傾向のほうが強い人は、感情を別人格に委ねて封じ込める、人格の多重化という方法で対処しますが、解離傾向とPTSD傾向の両方が強いと、多重化した人格が制御できず、フラッシュバックのように表面化してしまうようです。

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脳科学的には正反対の反応とされるPTSDと解離。両者の違いと共通点を「愛着」という観点から考え、ADHDや境界性パーソナリティ障害とも密接に関連する解離やPTSDの正体を明らかにし

4.ADHDと解離性障害の複雑な関係

解離性障害は、子どものころからの解離しやすさや、幼少期のストレス体験のみならず、注意欠如・多動症(ADHD)自閉スペクトラム症(ASD)といった脳の発達障害とも深い関連があるようです。

犯罪者や非行少年の原因を説明した有名な説にDBD(破壊行動障害)マーチというものがあります。

ADHDの子どもは手がかかるために、そして親もまたADHDの衝動性を持っていることが多いために、不適切な養育や不適応を生じやすく、結果として慢性的な解離が生じ、非行や反社会的行動へと発展していく場合があると言われています。(p92)

話をややこしくしているのは、ADHDによる不注意などの症状と、虐待などの結果生じる解離による症状(後で説明する愛着障害)はとてもよく似ていて見分けにくいことです。

解離により適切な注意集中ができなかったり、一度得た情報が状態の切り替えによって健忘されたりすれば注意欠陥と判断され、まさにADHDの症状と見分けがつかない。(p102)

つまりADHDのせいで虐待されて解離症状が生じる場合もあれば、虐待されて解離症状が生じた結果ADHDのようになる場合もあるということです。

子どものPTSD 診断と治療にはこのように書かれていました。

ADHDとトラウマ障害の近似点は、脳科学的な研究からもうかがえる。

HartやTomodaの研究では、被虐待児における脳容量や活動異常の部位が、ADHDで報告されている部位とほぼ同領域であることを報告している。

…心ここにあらずで注意が散漫な不注意優勢のADDと思われていた症状は、トラウマ障害の解離であるかもしれない。(p117)

このように、ADHDと解離症状は非常によく似ていますが、ADHDの場合はもともとの脳の傾向であるのに対し、トラウマによる解離症状は後天的に身につけた防衛反応であり、治療の方法も異なるとされています。

とはいえ、すでに述べたDBDマーチのように、もともとADHDの素因を持っている子どもが不適切な養育を受けて解離性障害になる場合も少なくなく、場合によっては、ADHDと解離は区別できないほど複雑に絡み合っているといえます。

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 5.アスペルガー症候群は原因がなくても解離しやすい

解離性障害は、虐待などのトラウマ体験によって発症することが多いとされていますが、特に目立った原因がない場合、高機能広汎性発達障害やアスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)が関係している可能性もあります。

一般的に、解離性障害は虐待の既往との深い関連があるものと理解されていますが、高機能広汎性発達障害における解離性障害の場合、必ずしもそうではなく、ここに独自の特徴が反映されているものと考えられます。(p21)

自閉スペクトラム症(ASD)では、虐待などのトラウマ経験がなくても解離性障害を発症するという独自の特徴があり、それにはASD特有の解離しやすさが関係しているようです。

ASDと解離の関係性の一つは、ファンタジーへの没頭しやすさです。

高度なファンタジー世界への没頭は解離状態との識別が困難な自己意識の不連続を引き起こすため、もともとファンタジーに没頭しやすい高機能広汎性発達障害の場合は、解離へと滑りやすい基盤を持っているというものです。(p21)

ASDの人は、自分の世界に深く没頭しやすいという、解離性障害になりやすい子どもの空想傾向と似た特徴を持っています。

またそもそもASDの人は自ら進んで解離を用いることで、日常生活で生じる苦痛に対処している可能性もあります。

更に、高機能広汎性発達障害においては、むしろこのような意識状態の変容自体が、脅威的な外界の中で適応をするための発達の過程とみる必要性があるのではないかと杉山らは指摘しています。(p21)

ASDの人は、もともと解離しやすい脳の傾向を持つだけでなく、 強い孤独感や疎外感、感覚過敏などによる苦痛を経験しやすいので、目立ったトラウマ体験がなくても、知らず知らずのうちに解離によって感覚を麻痺させて対処しているのかもしれません。

アスペルガーの解離と一般的な解離性障害の7つの違い―定型発達とは治療も異なる
一般にアスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)は解離しやすいと言われていますが、定型発達者の解離性障害とは異なる特徴が見られるようです。その点について、解離の専門家たち

6.無秩序型の愛着パターンは解離性障害になりやすい

ADHDや自閉スペクトラム症は、生まれつきの脳の傾向からくる発達障害ですが、近年、ごく幼い時期(生後半年から1歳半ごろ)の養育環境が関係する愛着障害(アタッチメント障害)もまた解離性障害のリスクになるとして注目されています。

パトナムも最近では、従来思われていたよりも、愛着の障害によりDIDが引き起こされると指摘しています。(p48)

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち
見知らぬ人に対して親しげに振る舞いながらも、心の中では凍てつくような恐怖と不信感が渦巻いている。そうした混乱した振る舞いをみせる無秩序型、未解決型と呼ばれる愛着スタイルとは何か、人

 子どもの愛着パターンは、幼少時の親との関係から、一般に4つに分類されます。

A型(回避型)…親の関心が不足している家庭の子どもに多い
B型(安定型)…安定した家庭の子どもに多い
C型(抵抗型)…親が過干渉する家庭の子どもに多い
D型(無秩序型)…虐待する親や精神的に不安定な親の家庭の子どもに多い

このうち、特に解離性障害になりすいのはD型(無秩序型)だと言われています。

1991年にはBarach,P.M.M.がはじめて解離性同一性障害とD-アタッチメントの関連を示唆し、2003年にLyons-Ruth,K.によって、D-アタッチメント・タイプの幼児はのちに解離性障害になるリスクが高いと指摘された。(p78)

D型の子どもは、本来安心させてくれるはずの親の行動が予測不能な環境で育ったため、他人に対する強い恐れがあり、他人を信頼することも拒絶することもできない混乱した振る舞いを見せます。

D型のアタッチメントパターンとは近接と回避という本来ならば両立しない行動が同時的に、また継時的にみられたり、また、フリーズしたり、初めて出会う人にむしろ親しげな態度をとることなどが特徴である。(p98)

D型とは、言い換えれば、A型とC型の重ねあわせですが、A型は解離傾向と、C型はPTSD傾向と関係しているように思えます。

つまり、先ほどDIDとは解離傾向とPTSD傾向の重ねあわせであると述べましたが、D型の人はまさにそうした特徴を持っており、解離性障害、ひいては解離性同一性障害(DID)に発展しやすいのでしょう。

おそらく、すでに見た、幼少期に学習される解離とは、D型アタッチメントのことだと思われます。

また、愛着崩壊 子どもを愛せない大人たち (角川選書)によると、ADHDのリスク遺伝子を持つ子どもはD型アタッチメントにもなりやすいと言われていて、環境要因だけでなく、遺伝的要因も関係しているようです。

ADHDの子どもを持つ親は、自分自身もADHDのことが多く、無秩序な子育てをする場合があり、ADHDの子どもは脳の過覚醒のためそれに過敏に反応するので、D型アタッチメントが生じやすいのかもしれません。

こうした事情もあって、ADHDと解離性障害は密接に関連しているのかもしれません。

発達障害と似て非なる「愛着崩壊 子どもを愛せない大人たち」
急増する、ADHDや自閉症スペクトラム、境界性パーソナリティ障害などを結びつける鍵は“愛着”である。「愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)」をもとに、愛着障害とは何か、発

ただし、近年の研究では、病的な解離の背景に明確な遺伝的な要因は見つからなかったとされています。(p27,83)

つまり、発達障害などとの関連性は考えられるものの、やはり病的な解離性障害の最も大きな原因は、「安心できる居場所」の欠如といった環境のほうにあるといえます。

発達障害の子どもは、その一般的でない特性ゆえに、そのような望ましくない環境に遭遇しやすいので、結果的に解離につながる場合があるということでしょう。

7.強い解離現象があっても「障害」とは限らない

ここまでのところで、虐待以外のさまざまな要因が解離性障害の発症と関係していることを考えました。

それは裏を返せば、深刻なトラウマを経験していなくても、日常生活でさまざまな解離現象を経験し、それとうまく付き合っている人もいるということです。

解離症状が強いからといって、必ずしも、解離性障害という「障害」として、治療の対象になるわけではありません。

空想や白昼夢は内容によっては、解離性障害や解離と関連がある一方で、内容によっては、適応促進的に働く機能とみなされている、というのが現状といえます。

要するに、空想にふけることや白昼夢をみることは、解離という現象の一種ということはできますが、それのみで解離性障害とはなりません。(p16)

解離性障害になりやすい子どもにみられる強い空想傾向や、自閉スペクトラム症の子どものファンタジーへの没頭などは、解離症状の一種ではあるものの、日常に支障をきたしていない限りは治療を必要とするものではありません。

たとえ交代人格のような極度の解離症状がみられる場合でも、「障害」とみなすか否かは、生活に大きな支障が及んでいるかどうかに左右されます。

極端な例をあげれば、たとえば交代人格をもっていたとしても、その人の社会的、内的な生活の調和がとれていて、ある程度安定した生活が営めるのであれば、通常ではない(そのような体験化の様式がマイノリティである)という理由だけでそれを障害と見なすことはできないでしょう。(p9)

解離という現象自体は病的なものではなく、多かれ少なかれ、すべての人の脳に備わっている防衛機制の一つです。

解離傾向の強さを決めるのは、感覚過敏などの遺伝要因と、愛着トラウマなどの環境要因の重ねあわせだと思われます。

たまたま解離が強く働く脳を持っていて、独特な現象が生じるとしても、それらとうまく付き合って日常生活を送れるのであれば、治療の対象にはなりません。

解離性障害や解離性同一性障害(DID)を病気として治療する場合でも、目標とするのは解離症状のコントロールであって、治療が成功した場合でも解離しやすさそのものは残るといわれています。

8.正常な解離としての空想の友だち現象

解離性同一性障害(DID)の交代人格と類似しているために、解離性障害に関係する書籍の多くで取り上げられている現象の一つに、空想の友だち現象(イマジナリーコンパニオン:IC)というものがあります。

イマジナリーコンパニオンは、目に見えない空想の友だちがありありとした存在感をもって感じられ、一緒に遊んだり会話したりすることもできる不思議な現象です。

この本でも、幾つかの箇所で、解離症状とイマジナリーコンパニオンの関連性について説明されています。子どもの解離性障害に詳しい白川美也子先生はこう書いていました。

想像上の友人現象(imaginary companionship)は、正常児の20%から60%にみられるが、解離性障害の子どもには42-84%と多い。

正常児のもつ想像上の友人は、2歳から4歳までに現れ、通常8歳くらいまでに消失する。

養護施設の子どもたちの想像上の友人は(1)支援者、(2)パワフルな保護者、(3)家族成因などの役割をもっていることがあり、さらに被虐待の子どものそれは、「神」、「悪魔」などの名前をもっていることがある。

このように、子どもの示す解離現象には、想像機能が非常に大きな役割を果たしている。(p97)

この説明からわかるように、イマジナリーコンパニオンは、幼少期の子どもの一部にみられる、ごく正常な解離現象です。

しかし解離傾向が強い解離性障害の子どもには、より頻繁にイマジナリーコンパニオンがみられます。

普通の子どものイマジナリーコンパニオンは単なる遊び相手にすぎないことが多いようですが、複雑な環境で育った子どもの場合は支援者や保護者、家族といった役割を持ち、さらに虐待児の場合は超越的存在のイメージを持っていることがあるとされています。

イマジナリーコンパニオンは、DIDの交代人格と似ているように思えますが、交代人格とは違い、一般的に、明らかな引き金がなくても現れ、記憶の分断がなく、人格交代して意識を乗っ取ることはないと言われています。(p240)

そしてたいていの場合、成長とともに消えてしまいます。

イマジナリーコンパニオンのうち、特に青年期以降も残るようなものは、病的ではないかと疑われることもありますが、先ほども考えた通り、強い解離症状があるとしても、それ自体は必ずしも障害ではありません。

空想上の友達との内的対話、ある場面で極端に「人が変わる」こと、頻繁な離人感や既視感(デジャヴュ)、都合が悪いことは急に「聞こえなくなる」ことなどは、上述の例ほど適応性は明確でないかもしれませんが必ずしも不適応的、病的とも言えません。

極端に苦痛に満ちた境遇にある人たちにとっては、空想にのめり込むことがむしろ適応的かもしれませんし、環境に適応するために著しい健忘や麻痺を伴う体験化の傾向を発達させたのかもしれないという視点は重要です。(p9)

解離症状の背景には、確かに解離しやすい素地や、ストレス環境があるのかもしれません。しかし、環境に適応するために役立っている場合は、病気ではありません。

確かに一般的とはいえず、社会的にみると「マイノリティ」ではあるでしょう。しかし少数派であることは、決して「障害」ではありません。

ちなみに、解離性障害の研究の大家であるラルフ・アリソンの本「私」が、私でない人たち―「多重人格」専門医の診察室からによると、多重人格者にみられる人格のうち、空想の友だちが発展したものは「想像人格」(イマジナリープレイメイト)と呼ばれ、交代人格とは区別されています。

交代人格が自己の分離による「断片」なのに対し、想像人格は、想像力によって作り出される「膨張」であり、たいていは善良で友好的だと説明されています。(p71,137,254,付録の解説p10)

イマジナリーコンパニオンと解離性障害の関連性について、詳しくはこちらの記事で考察しています。

イマジナリーフレンド(IF)「私の中の他人」をめぐる更なる4つの考察
心の中に別の自分を感じる、空想の友だち現象について、子どものイマジナリーフレンド、青年期のイマジナリーフレンド、そして解離性同一性障害の交代人格にはつながりがあるのか、という点を「
はてなブックマーク - イマジナリーフレンド(IF)「私の中の他人」をめぐる更なる4つの考察 | いつも空が見えるから
 

9.治療には専門家の見極めが必要

解離性障害は、さまざまな原因が複雑に絡みあい、多彩な症状をみせる複雑な病気です。

そのため、このブログの情報も含め、ネット上の知識などで素人診断を下したり、見よう見まねで治療を試みたりするのは危険です。

まず、一見解離性障害のように思えても実は他の病気であったり、その逆に別の病気と診断されていても実は解離性障害としての治療が必要だったりする場合があります。

この本にはたとえば、統合失調症との違い(p18,24,48)や、境界性パーソナリティ障害との違い(p20,23,48)が書かれていました。これらの病気との違いはこのブログでも過去に扱いました。

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精神科医の中には「幻聴=統合失調症」と考えている人が多いと言われます。しかし実際には解離性障害やアスペルガー症候群が統合失調症と誤診されている例が多いといいます。この記事では解離の
境界性パーソナリティ障害と解離性障害の7つの違い―リストカットだけでは診断できない
境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン:BPD)と解離性障害はどちらもリストカットなど共通点があり区別しにくいとされています。その7つの違いを岡田憲一郎先生の「続解離性障害」など

また他の病気と同様に、自助グループや家族会、ネット上のコミュニティなどが助けになる場合もありますが、解離性障害の特有の不安定さのため、よりストレスを抱え込んだり、再外傷体験につながったりするなど、安全性の危うさが指摘されています。(p49)

さらに、医師選びにおいても慎重さが求められます。たとえば一般にトラウマ処理に用いられる治療法であるEMDRでは、解離の専門家が慎重に行わないと、健忘障壁が一気に低くなることで封印されていた記憶が拡散するなどの危険もあるそうです。(p42,43)

治療を進めることで、隠れていた人格が目覚め、一時的に悪化したように見えることもしばしばで、治療には専門家による安全のサポートが必要です。(p45,47)

解離性障害は、自分の手には負えず、触れることさえ危険な記憶を隔離している防衛反応ともいえるので、いわば危険物の取り扱いに熟達した信頼できる専門家を探して受診し、信頼関係を深めた万全の体制で治療を始めることが大切です。

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子ども時代の慢性的なトラウマが、統合失調症や双極性障害と見分けにくい様々な問題をもたらすことや、その治療法としてトラウマフォーカスト認知行動療法、自我状態療法などが注目されている点

10.治療の目標は解離症状のコントロール

解離性障害の専門家のもとで、万全の体制で治療を始めたなら、すでに書いた通り、目ざすべきゴールは、解離傾向そのものを治療することではなく、解離傾向をコントロールして安定化させることです。

人格が複数に分かれているような解離性同一性障害(DID)の場合でも、必ずしも人格を統合し、ひとつにする必要があるわけではありません。

解離性同一性障害は、1人の心の中に2つ以上の異なる人格が存在している状態です。かつてはそのこと自体が病的とされ、1つの人格に統合するということが最終的な治療の目標になると、当然のように考えられてきました。

そのため、好ましくない人格を消したり、似たような人格を融合させていくような方法がとられたこともありましたが、そういった治療は必ずしもいい結果を生みませんでした。(p33)

交代人格は、それぞれ必要があって生まれたものなので、無理に統合すると、かえってストレスにもろくなる危険が生じるかもしれません。

多重人格やイマジナリーフレンドは必ず人格を統合し、治療する必要があるのか
解離性同一性障害(DID)や、大人になっても残るイマジナリーフレンドは、治療によって人格を統合すべきなのでしょうか。岡野憲一郎先生の「解離性障害―多重人格の理解と治療」という本から

あるDIDの患者は、症状が回復するとともに、状況に応じてどの人格を表に出すかコントロールできるようになり、困ったときに別の人格がアドバイスしてくれるようになったといいます。

自分の意志に反して解離しそうになったときは、地に素足をつけるグラウンディングなどの技法によって解離を抑制するスキルも身につけました(p28)

何度も考えてきたとおり、解離性障害になる人の解離傾向は幼いころからのものですし、解離症状があっても、日常生活に大きな支障がないなら「障害」ではありません。

解離性障害の人が持つ強い解離傾向は、こまやかな感受性や芸術的な才能として役立つことも多いそうです。

治療の目標は、強い解離傾向を消し去ることではなく、それをコントロールして、「障害」ではなく「個性」や「強み」に変えることだといえるでしょう。

解離性障害と芸術的創造性ー空想世界の絵・幻想的な詩・感性豊かな小説を生み出すもの
芸術家や作家の豊かな創造性には、解離という脳の機能が関わっていることがあります。なぜ解離が創作と関わるのか、夏目漱石、宮沢賢治、芥川龍之介、宮崎駿などの例を通して考えてみました。

解離性障害の理解を深めるために

今回紹介したこころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害は、専門的な本ではあるものの、比較的わかりやすく、気づきも多い一冊でした。

今までこれほど大勢の専門家が解離について語っている本を読んだことがなかったので、さまざまな専門家に意見に触れることができて、とても新鮮でした。

これから解離性障害について知りたい人には、とてもわかりやすく書かれた解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)わかりやすい「解離性障害」入門のほうをお勧めしますが、解離についての本をすでに何冊か読んでいて、さらに詳しい点が気になる人はこの本を読んでみるといいかもしれません。

ひとつ個人的な意見をいうと、Q&Aの部分のイマジナリーコンパニオンについての説明(Q30,Q31)は疑問に感じる内容も多く、その点だけは他の専門家によるこれまで紹介してきた本のほうが参考になるように思いました。

解離性障害は、いまだ研究途上の病気であり、患者や家族も、いったい何が起こっているのか、どう対処すればよいのか、どの病院に行けばよいのか、といった悩みを抱えがちです。

そんなとき、多くの患者を診て回復へと導いてきた解離性障害の専門家による本を読んでみるなら、あたかも地図を参照するかのように、自分の居場所がわかり、向かうべき方向もおぼろげながら見えてくるものと思います。

「解離型自閉症スペクトラム障害」の7つの特徴―究極の少数派としての居場所のなさ

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精神科臨床では、自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder:ASD)と診断される患者のなかに解離症状を併せ持つ一群がいることは知られている。

ここではそういった病態を、「解離型自閉症スペクトラム障害(解離型ASD)と呼んでおく」。(p192)

れは、先週 発売された解離の舞台―症状構造と治療の中で、解離性障害の専門家である、柴山雅俊先生が述べている言葉です。

解離性障害は、一般に、トラウマ的な経験をきっかけに記憶が失われたり、現実感を喪失したり、人格交代が生じたりする、さまざまな困難な症状を伴うものです。

近年の研究によると、こうした解離症状を示す人たちの中に、自閉スペクトラム症(ASD)つまり、アスペルガー症候群などの発達障害の人たちが含まれていることが明らかになってきました。

たとえば、つい昨日発売されたASD当事者の天咲心良さんによる自伝的小説COCORA 自閉症を生きた少女 1 小学校編 では、子どものころの辛い経験がきっかけとなって解離性同一性障害(DID)などの解離症状に苦しめられたことが綴られています。

ASDの人たちの解離症状は、一見、一般的な解離性障害の人たちと似ているようにも見えますが、実際には同じ「解離」と言っても、定型発達者とASDの人とでは、異なった傾向があるそうです。

それゆえに、柴山雅俊先生の本では、そうした解離症状を示すASDの人たちを、通常の解離型障害とは異なる、「解離型自閉症スペクトラム障害」(解離型ASD)として区別し、別個に考察されているのです。

この記事では、この本解離の舞台―症状構造と治療を紹介するとともに、解離型ASDの人たちの7つの特徴を、ASDの人たちの具体的なエピソードも交えながら調べてみましょう。

これはどんな本?

この本は先週1/22に発売された柴山雅俊先生の新刊で、わたしもかねてから読むのを楽しみにしていました。

【1/21】柴山雅俊先生の新刊「解離の舞台 症状構造と治療」が発売予定
解離の専門家、柴山雅俊先生の新刊「解離の舞台ー症状構造と治療」が2017年1月21日に発売されます。

前著解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論と似ている部分も多いですが、以下のような近年の新しい話題も豊富に取り入れて、より具体的に、解離の本質に迫る本となっています。

■解離と色
■解離型自閉症スペクトラム障害
■無秩序型愛着
■テーブルテクニックやマインドフルネスなどの治療技法

特に、解離性障害や解離型ASDの人たちに「自分は何色だと思いますか?」と尋ねて明らかになった、彼女らの自己イメージとしての色が、解離の本質をよく表しているという考察には、芸術的な感性と論理が融合した柴山先生の真骨頂を感じました。

この本はさまざまな興味深い話題に満ちていますが、今回の記事では、より具体的にされた、解離型ASDの特徴に焦点をしぼりたいと思います。

「解離型自閉症スペクトラム障害」(解離型ASD)の7つの特徴

冒頭で述べたように、自閉スペクトラム症の人たちの解離症状、すなわち、解離型ASDの解離は、定型発達者の解離とは、幾らか違ったおもむきを持っています。

現実感が薄れたり、人格が多重化したりするなど、類似した部分も多いですが、ASDと定型発達とでは、人格の土台となる自己のあり方が違うため、当然、解離の症状もまた異なってくると柴山先生は述べます。

定型発達者とASD患者のあいだでは自己のあり方が異なるため、彼らに見られる解離症状に微妙な差異が生じることはむしろ当然のことであろう。(p191)

ASDの解離と定型発達の解離とが異なっているという点は、このブログでも、以前に、柴山雅俊先生の別の本などを参考に、詳しく考察したことがあります。

アスペルガーの解離と一般的な解離性障害の7つの違い―定型発達とは治療も異なる
一般にアスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)は解離しやすいと言われていますが、定型発達者の解離性障害とは異なる特徴が見られるようです。その点について、解離の専門家たち

そのときに書いたことは、ASDの人たちの解離とは何なのか、という脳科学的な原因まで探った内容で、今回の本の内容とも一致しています。

しかし今回は、脳科学的なメカニズムというよりは、具体的に表に現れる症状を通して、別の角度からその本質に迫ってみたいと思います。

この本で具体的な症例として取り上げられている解離型ASDの人たちの事例は、ウェンディ・ローソン、グニラ・ガーランド、ドナ・ウィリアムズ、そして先生自身の患者たちなどですが、いずれも女性のエピソードとなっています。

冒頭で紹介した解離性同一性障害の経験を含むCOCORA 自閉症を生きた少女 1 小学校編 の著書 天咲心良さんも女性のASDでした。

またやはり解離性障害の経験が載せられているCDブック 発達障害のピアニストからの手紙 どうして、まわりとうまくいかないの?の著書 野田あすかさんも、女性の広汎性発達障害です。

ASDというと、一般に男性に多い発達障害だと言われていますが、女性のASDは男性のASDとは少し異なる症状の表れ方をすることが知られています。

女性のアスペルガー症候群の意外な10の特徴―慢性疲労や感覚過敏,解離,男性的な考え方など
女性のアスペルガー症候群には、男性とは異なるさまざまな特徴があります。慢性疲労や睡眠障害になりやすい、感覚が過敏すぎたり鈍感すぎたりする、トラウマや解離症状を抱えやすいといった10

そもそも解離性障害は女性に多い疾患ですから、解離型ASDも、よく知られている男性のASDよりも、女性のASDのほうに多い症状のひとつとみなせるかもしれません。

とはいえ、必ずしも解離が女性のASD特有の現象だというわけではなく、この記事では、少数ながら、東田直樹さんやダニエル・タメットといった、男性のASDの人たちの解離症状の例も含めたいと思います。

では7つの特徴を見ていきましょう。

1.離隔

まず、ASDの解離に多い症状の一つ目は「離隔」です。

「離隔」とは、読んで字のごとく、世界が自分から「離れて」「隔てられて」いるという現実感喪失などの感覚のことを指します。

解離の舞台―症状構造と治療の中で、柴山先生は、解離型ASDの人の現実世界の感じ方を物語る一例として、私の障害、私の個性。の著書、ウェンディ・ローソンの体験談を引用しています。

ウェンディ・ローソン(Lawson 1998/2005)はその著書Life behind Glass(邦題『私の障害、私の個性』)のなかで、「自分は永遠の傍観者(perpetual onlooker)だ」「生きている時間のほとんどはビデオのように、映画のように流れていく。観察することはできるが、手は届かない。世界は私の前を通り過ぎていく。ガラスの向こう側を」と述べている。

ここで、ウェンディ・ローソンは、あたかも傍観者のように現実世界から疎外され、切り離された自分の意識について述べています。

このような現実世界から隔てられているかのような感覚、つまり「離隔」は、解離型ASDの人に特に目立つ傾向の一つだといいます。

臨床的経験からすれば、ASD者の体験世界はウェンディ・ローソンが言うように主に離隔(detachment)を中心としており、解離性健忘や交代人格などの時間的変容は比較的少ないように思われる。(p193)

解離にはさまざまな症状があって、その中には記憶を失う解離性健忘や、人格が交代する多重人格なども含まれますが、解離型ASDの人たちは、そうした症状よりも、現実感喪失の離隔のほうが目立つようです。

現実から切り離された感覚は、アスペルガー症候群の人に多いとされる、感情を抑圧した状態、つまり「失感情症」(アレキシサイミア)がより強く働いている状態とみることができるでしょう。

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)の中でアスペルガー女性の動物管理学者として有名なテンプル・グランディンは自身の失感情症についてこう述べています。

「わたしは恋に落ちたことがありません」と彼女は言った。

「恋に落ちて、有頂天になるということがどんなことか、わからないのです」(p383)

トラウマ研究の専門家であるヴァン・デア・コークは、著書身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、失感情症と比較して「自己忘却への階段をもう一段下がったところにあるのが離人症で、自己感覚の喪失」だとしています。(p167)

つまり、自分の気持ちを認識できない失感情症は、世界を傍観しているかのように現実感が失われる離隔と地続きになっていることがわかります。

現実感がない「離人症状」とは何か―世界が遠い,薄っぺらい,生きている心地がしない原因
現実感がない、世界が遠い、半透明の膜を通して見ているような感じ、ヴェールがかかっている、奥行きがなく薄っぺらい…。そのような症状を伴う「離人症」「離人感」について症状、原因、治療法

2.過剰同調性

解離型ASDに特徴的な症状の2つ目は「過剰同調性」です。

解離の舞台―症状構造と治療によると、ある解離型ASDの人は次のように語っています。

私は自我を消そうとしている。自己は周囲の環境に合わせる。

自我はいらないんです。出てこようとすると消すんです(急に涙が溢れ出てくる)。

自分のやりたいようにしようとすると怒られてきた。はみ出さないようにしてきた。

生きていくうえでどこに主体としての私を置いていいのかわからない。

つねにいろんな見方があって、統合されずに揺らいでいる。私は錨を下ろしていない船のよう……。(p205)

こうした自分を犠牲にした過剰な適応は、解離型ASDに特有の症状というわけではなく、解離性障害の患者全般に見られる性格特性です。

解離性障害の人たちは、空気を読みすぎるあまり、周りの人に対して過剰に同調しすぎて、カメレオンのように、その場に応じて自分の「色」を変容させ、周囲に合わせる生き方が染み付いています。

過剰同調性とは何か、そして解離性障害の症状とどのように関係しているのか、という詳しい点は、以前の記事で扱いました。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か
空気を読みすぎる、気を遣いすぎる、周囲に自分を合わせすぎる、そのような「過剰同調性」のため疲れ果ててしまう人がいます。「よい子」の生活は慢性疲労症候群や線維筋痛症の素因にもなると言

しかしながら、同じように空気を読みすぎ、過剰に同調するといっても、定型発達者の過剰同調性と、解離型ASDの過剰同調性とでは、微妙な違いがあると柴山先生は言います。

過剰同調性については、ASDと解離性障害では差異がある。

解離性障害では虐待やいじめなどが関係しているのに対し、ASDではそこに発達の病理が絡んでいる。

解離性障害では他者の意図をすみやかに汲むことによって先回りして他者に合わせようとするが、ASDではそもそも相手の意図がわからず、それを汲み取ることが苦手である。

そのため、せめて表面的にでも他者に合わせようとする。(p16)

過剰同調性の特徴は、「空気を読みすぎる」ことですが、よく知られているように、アスペルガー症候群の人たちは「空気が読めない」ことで苦労します。

それは過剰に同調しようとするときもまた同様で、解離性障害の人たちが、適切に空気を読んでカメレオンのように周囲に合わせるのに対し、解離型ASDの人たちは、空気を過剰に読もうとしながらも、やはり空気が読めずに孤立するという苦労を経験しがちです。

以前の記事でも引用したとおり、発達障害の専門家の杉山登志郎先生は発達障害のいま (講談社現代新書)の中で、ASDの人たちが陥りがちな過剰な気遣いについて、こう述べていました。

人の気持ちが読めないということと、他者配慮ができないということは、別ものということである。

むしろ、この問題に気づいている凸凹系の人は多く、代償的に人の気持ちに対して読みにくいぶん、逆にすごく気にするようになるのが常である。

すると人の意図や感情に過敏に反応をしてしまうということが逆に持ち上がってくる。(p232)

他人の気持ちがわからないからこそ、なんとかして合わせようと自分を犠牲にして配慮するのですが、その配慮さえもが周りの期待とはずれていて、空気を読もうとすればするほど空回りしてあつれきを産んでしまうのが、解離型ASDの過剰同調性なのです。

3.同化

過剰に同調しようとするにもかかわらず、同調できない解離型ASDの人たちは、別の形で、居場所を見つけようとします。

それが、解離型ASDの人の3つ目の特徴である「同化」です。

定型発達の解離性障害の人が、他の人に過剰に同調して自分を合わせてしまうのに対し、解離型ASDの人は、人への「同調」が難しいぶん、ものや生物への「同化」という形で居場所を確保します。

解離の舞台―症状構造と治療によると、ある解離型ASDの人はこう述べました。

物に入り込んじゃう。人には入らない。植物には入るが、動物はあまり入らない。

こういうことは小さいときからずっとできる。ただそれになるだけだから。(p195)

この例では、ものに入り込んで同化してしまう、といった体験が語られています。

この無生物との同化については、続・自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない高校生がたどる心の軌跡の著者の 東田直樹さんも、鳥の鳴き声や絵の具の色と同化する体験について述べていました。

鳥の鳴き声が聞こえると、僕は鳴き声に浸ってしまいます。鳴き声を聞くのではなく、まるで自分が鳥の仲間になったように、鳴き声そのものを聞き取ろうとするのです。自分が人だということも忘れてしまいます。(p42-43)

僕は、絵を描くのが好きですが、絵の具を塗っているときは、自分が塗っているというより、絵の具の色そのものになります。その色になりきって、画用紙の上を自由に描写するのです。(p65)

柴山先生は、こうした同化現象は、ASD特有のもので、定型発達者の解離性障害では、無機物との同化はほとんどないと述べています。 (p194)

解離の舞台―症状構造と治療では、ASDの人にとって、人の心のような複雑すぎて理解しがたいものに同調するのは難しいので、無機物に同化するのではないか、という考察がなされています。

同化は解離型ASDの患者の幼少期から見られ、それが成人になっても続く。対象の多くは無機物、植物などであり、時に色、形、光、音、感触との一体化を口にすることもある。

同化する対象が動物であることもあるが、ヒトであることはまずない。

このことは彼らにとってヒトの心の動きはあまりに複雑で変化に富み、その全体像を把握し予想することが難しいことが関係している。(p195)

あたかも目の前のものに入り込み、同化してしまうような不思議な現象が起こるのは、ドナ・ウィリアムズが自閉症という体験の中で説明しているとおり、ASDの人たちが、脳のより原始的な認識機構といわれる、「感覚システム」を利用しているからだと考えられます。

「感覚システム」によりまわりの世界を認識するドナ・ウィリアムズが経験した、同化をはじめとする さまざまな解離体験については、こちらに整理してまとめられていました。

高機能自閉症者Donna Williamsの幻視・白日夢・夢における超自然的特性の吟味

4.拡散

無機物や動植物へ同化する現象と同時に生じやすい解離型ASDの人の4番目の症状は「拡散」です。

解離の舞台―症状構造と治療によると、ある解離型ASDの女性は、拡散体験についてこう描写しています。

自分はばらばらで砂時計のように分子レベルで飛散している。輪郭が点々になっている。

粒子の集合体が私。落ち着く場所がない。体の部位が部屋中に飛び散る。粒子のような形で広がって、壁にもバウンドする。(p196)

「同化」はコンクリートや動植物など、形のあるものに一体化したように感じる現象でしたが、「拡散」は、形のないもの、たとえば空気や風や海などに一体化し、あたかもばらばらになって溶け込んでいくかのように感じる体験です。

自閉症という体験の中でドナ・ウィリアムズも、次のような「神と溶け合う」体験について述べています。

巨大なシャンデリアを見上げたときの恍惚感、それが何かと問うならば、「神と溶け合う」ような体験を呼び醒ましたのです。

なぜなら私は正に絶対的な純粋さと無我の心で対象物の感覚的本性と共振し、その結果抗うことのできない情熱に自らを溶け込ませ、美そのものの一部となることができたからです。(p10)

柴山先生は、「拡散」という体験が持つ意味についてこう考察します。

あたかも自分が気化するかのように周囲世界へと拡散していく体験については、ウェンディ・ローソン(Lawson 1992/2000)も記載している。

解離型ASDの患者に「自分を色に譬えると何色ですか」と聞くと、そのすべてが「透明」ないしは「色がない」と答えることも、こうした観点からすれば理解しやすいであろう(本書第1章参照)。

彼らは自分自身をひとつのまとまりをもった対象として把握することが困難であり、そもそもそうしたことに馴染んでいない。

自己という存在の色や形を実感することができないのである。(p197)

この本の第一章で扱われている点ですが、「自分は何色だと思いますか」と尋ねられたとき、一般の女子大学生たちは、それぞれ何らかの有彩色または無彩色という固有の色を答えるそうです。

しかし、解離性障害の女性は有彩色だと答えることがほとんどなく、たいていは無彩色を挙げ、中には「透明」であるとか、「色がない」といった、普通とは違った表現を使う人もいます。

この「透明」また「色がない」という自己認識は、解離型ASDの女性たちでは、特に多くなります。そして拡散体験のような、周囲の世界に溶け込んで消え失せてしまうかのような、形も色も感じられない自己認識と関係しているのではないか、と柴山先生は考察します。

天才の秘密 アスペルガー症候群と芸術的独創性の中で、アスペルガー症候群の偉人たちの研究をしてるマイケル・フィッツジェラルドは、彼らのうち多くが、自分が何者かわからない「アイデンティティ拡散」という体験をしていると述べています。

こういう作家は、彼らの「自閉症的頭脳」のせいでアイデンティティ拡散の感覚を示すことがよくあり、それは作品中の問題につながる。またそのせいで、作品が難解になることがある。(p33)

かなり拡散したアイデンティティや拡散した心理的領域があるため、自閉症の芸術家というのは、画家ジョージ・ブルースが芸術に必須のものとして述べたこと、すなわち「対象物を単に描くだけではなく、対象物に入り込み、その対象物になりきってしまう」才能をもっていると思われる(Weeks & James 1997)。

…アスペルガー症候群の人たち特有の芸術作品は、混乱したアイデンティティと表出しがたい言語とを解決するための一種の努力なのである。(p302)

この「アイデンティティ拡散」こそが、自分の個性や素顔といった「色」や「形」がわからず、「透明」「色がない」と感じてしまう自己認識の正体なのでしょう。

解離型ASDの人たちは自己認識があいまいで、自分を統合されたひとまとまりの自己と感じるのが苦手であり、その反映のひとつが、周囲世界に容易に溶け込んで消滅してしまうかのような不安を伴った「拡散」体験なのです。

5.原初的世界(マイワールド)

現実世界に居場所がなく、人に同調しようとしても空気を読みきれず、物に同化したり溶け込んだりしてしまう不安定さを抱えた解離型ASDの人たちは、5つ目の特徴として、それぞれの「原初の世界」を持っています。

「原初の世界」というと、なんとも壮大でつかみがたいものですが、平たくいえば、以前の記事で、アスペルガーの女性が持っていることが多いと述べた、自分だけの「マイワールド」のことです。

女性のアスペルガー症候群の意外な10の特徴―慢性疲労や感覚過敏,解離,男性的な考え方など
女性のアスペルガー症候群には、男性とは異なるさまざまな特徴があります。慢性疲労や睡眠障害になりやすい、感覚が過敏すぎたり鈍感すぎたりする、トラウマや解離症状を抱えやすいといった10

解離の舞台―症状構造と治療によると、ある解離型ASD女性はこう述べます。

向こう側へ行くと私しかいない。自分と世界の境目がない。地面も、空気も、遊び相手も全部が私。向こう側は人がいなくて、言葉がない世界。

元々いた場所へ帰ることで楽です。そこからいつ頃こっちに来たかがわからない。(p198)

この女性にとって、原初の世界、「マイワールド」とは、だれもいない自分だけの世界であり、現実世界にひしめく騒々しいものがすべて取り除かれた、極楽浄土のような場所です。

同時に、そこは魂の故郷であり、かつて自分がいた場所、もともと存在していた居場所であり、今住んでいるこの世界は、迷い込んだ仮りそめの世界、異国の地にすぎません。

柴山先生は、解離型ASDの人たちが持つ、原初の世界についてのイメージを、こう説明しています。

解離型ASDの患者は時に「向こう側の世界」について語る。

患者は人間社会のストレスを回避するかのように、現実の「向こう側」の世界へと赴く。

その世界はあたかも自分がかつて存在していた故郷のような安らぎの場所として描き出される。(p198)

ASD女性の中には、たとえば自分は「火星の人類学者」のようだと述べたテンプル・グランディンのように、地球に住んでいながら、異星人の中を放浪しているかのような異質さを感じながら生きている人が大勢います。

この世界は、自分の本来いるべき場所ではなく、ただ一時的な旅行者として、いつの間にかこの理解しがたい奇妙な世界に迷いこんでしまったのだ、という感覚です。

解離型ASDの人たちは、この世界が自分の故国ではないと感じるとともに、自分が自分でいられる、本当の故郷についてのイメージを心のなかに持っていて、それが疲れたときに心を休める魂の休み場、「マイワールド」として機能しているのです。

解離型ASDの人たちの「原初の世界」がどんな風景であるかは、人それぞれでしょうが、わたしはこの本を読んでいて、ジブリの背景美術家としても活躍した井上直久さんの心象世界「イバラード」を思い出しました。

井上直久/ イバラードの世界展 Naohisa INOUE

わたしが「イバラード」について知ったのは、知り合いの10代のASDの子が「イバラード」の世界が好きだ、ということで教えてくれたことがきっかけでした。

「イバラード」の絵では、いずれも詳細で幻想的な風景が描かれていますが、不思議なことに、たいていの場合、一人の人間を除いて、だれも存在しない、静まり返った空想世界が広がっています。

わたしは当事者ではないので、あくまで推測にすぎませんが、もしかすると、このような場所こそが、解離型ASDの人が思い浮かべる、「私しかいない」魂の休み場なのかもしれません。

6.感覚の洪水

解離型ASDの人が、こうした魂の休み場を必要とするのには、6番目の特徴としての「感覚の洪水」も大きく関係しています。

「感覚の洪水」については男女問わず、さまざまなASDの人たちが口々に述べるものであり、必ずしも解離型ASDに特有のものではありません。

解離の舞台―症状構造と治療には、次のような体験が載せられています。

人間の相手をすることが嫌。相手の気持ちを読まないといけない。ごちゃごちゃするときは混乱する。

いろんな思考が頭に湧き出てきて止まらない。周りの人の会話が混ざってしまい、入ってくる。

人の会話と自分の会話の区別がつかなくなることがある。考えたくないのに考えてしまう。

考えるのを止めなくてはいけないと思っても、止まらない。泣き出したい、大声を出したくなる。(p101)

こうした感覚の洪水に圧倒された結果、パニックになって大声を出したり、自傷行為に及んだり、フラッシュバックやメルトダウンを経験したりするASDの人は少なくありません。

なぜ無意識のうちに自傷をやってしまうのか―リスカや抜毛の背後にある解離・ADHD・自閉症
リストカット、抜毛、頭を壁にぶつけるなどの自傷行為、また自己破壊的な依存症の原因はどこにあるのでしょうか。それらが注目を集めるための演技ではなく、解離という心の働きや、脳の構造と関

ASDの人たちが、感覚の洪水を経験する理由については、先ほどドナ・ウィリアムズが述べていたとおり、「感覚システム」によって世界をとらえているためです。

自閉スペクトラム症の人たちは、定型発達者の人たちが用いている左脳の「解釈システム」が弱いため、情報を取捨選択し、まとめあげることが苦手です。

一方で、右脳の「感覚システム」によって、周囲の世界を捉えているために、統合されない情報がそのままなだれこんでくる感覚飽和に陥ります。

脳卒中によって左脳の機能を一時的に失った科学者ジル・ボルト・テイラーは、奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)の中で、「感覚システム」のみで捉えた世界がどんなものであるか、実体験に基づいて描写しています。

わたしは明らかに、入ってくる刺激を苦痛として受け止めていました。

耳から流れ込む轟音のため、脳は無感覚となり、そのために人々が話していても、彼らの声を背景の騒音から区別できないのです。

わたしにしてみれば、全員が群れをなして叫びまわっているような感じ。それは、落ち着かない動物の耳障りな鳴き声のように共鳴する。(p102)

ここで、ジル・ボルト・テイラーが、感覚の洪水のために脳が無感覚となった、と述べているのは注目に値します。

柴山先生が述べるように、ASDの人たちの多くは、「感覚の洪水」に絶えず苦しめられるせいで、意図的に静かな環境を求めたり、社会から退いて隠遁したりすることがあります。

こういった症状を鎮めようとして、ASDの患者たちは好んで海、屋根の上、崖の上などに身を置き、世界との距離を保ち、自分に迫ってくることのない自然のなかに身を置こうとする。

また単調なリズムの繰り返しや文字の世界を好むようになる。(p101)

ASDの人の中には、過剰な感覚の洪水に対して、刺激の多い場所を避けるという環境調整によって対処するだけでなく、心を切り離すといった心理的な方法で対処する人もいて、それが解離型ASDだといえます。

解離型ASDの人たちが、失感情症(アレキシサイミア)や、離人症などの現実感喪失に至るのは、もともとのASDの症状というよりは、感覚過敏に対して、解離を用いて対処した結果生じる、二次的なものだと思われます。

ASDの人たちのコミュニケーションの難しさは、生まれつき低周波帯の音が洪水のようになだれこんでくるせいで、高周波帯の声の微妙なニュアンスを認識できず、感情を読み取る力が発達しないせいだと考える研究者もいます。

「トマティス効果」―なぜ高周波音が聞こえてしまう人は感情がこまやかなのか
大半の人には聞こえないモスキート音やコイル鳴きのような高周波音が聞こえてしまう人は、もしかすると、こまやかな感情を読み取る力にも秀でているかもしれない、ということを「トマティス効果

「感覚の洪水」と、解離型ASDの解離症状とは、表裏一体の関係にあるといえるでしょう。

なお、アスペルガー症候群・高機能自閉症における「感覚の過敏・鈍麻」 の実態と支援に関する実態調査には、アスペルガー症候群のさまざまな感覚異常のチェックリストが載せられています。(リンク先のPDFのp299-308)

7.仮面とイマジナリーコンパニオン

感覚過敏による洪水を、解離による切り離しを使って生き延びている解離型ASDの人たちは、この生きづらい世界をやり過ごすために、最後の7番目の特徴である、イマジナリーコンパニオン(空想の友だち)を用いることがあります。

イマジナリーコンパニオン(空想の友だち)は、決してASD特有の現象ではなく、健康な子どもをはじめ、定型発達の解離性障害の人たちでも見られるものですが、ASDの人たちのイマジナリーコンパニオンには、やはり定型発達者とは幾らか異なる性質が見られます。

解離の舞台―症状構造と治療で、柴山先生は、ドナ・ウィリアムズが持っていたイマジナリーコンパニオンのウィリーとキャロルを例として挙げつつ、こう説明しています。

ASDに見られる交代同一性は、ウィリーやキャロルのように、ICの延長に見えることが多い。

通常ICは遊び相手となったり、孤独を癒やしてくれたりする空想上の存在である。健常人の20-30%に見られ、早期小児期に出現し、10歳前後には消失するとされている。

ここで取り上げるASD症例の全員がICの存在を報告しており、しかもそれが幼少時にとどまらず、中学から大学、20歳代、30歳代までと長期的に存在する傾向がある。

通常、ICは親しい友人ができると消失することが多いとされる。

このことを考慮すると、解離型ASDにおけるICの高い頻度やその長期化は、周囲世界に馴染めず「居場所がない」という意識や、親しい友人ができないという孤独など、社会性の障害と関係しているかもしれない。(p103)

通常のイマジナリーコンパニオンは、基本的には子ども時代に限定されるもので、成長するとともに、自然に消えていきます。

一方、解離性障害では、定型発達者の場合も、解離型ASDの場合も、大人になってもイマジナリーコンパニオンが存在する場合がしばしば見られます。

子ども時代のイマジナリーコンパニオンは、一般的な通識とは異なり、孤独で友だちのいない子どもではなく、むしろ外交的で共感能力の高い子どもに見られることがわかっています。

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そのため、従来、共感や想像に乏しいとされてきた自閉スペクトラム症の人たちは、空想の友だちを持たないのではないか、と言われていました。

しかし、それは定型発達とASDのイマジナリーコンパニオンの性質の違いを考慮に入れていないことからくる誤解である、という点は前に扱ったとおりです。

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実際に、柴山先生が述べていたように、「ここで取り上げるASD症例の全員がICの存在を報告」しているほど、解離型ASDにとってイマジナリーコンパニオンの存在は一般的であるようです。

有名なASDの当事者の例を見ても、ドナ・ウィリアムズはもちろん、テンプル・グランディン、ダニエル・タメットなど、男女を問わず大勢の人がイマジナリーコンパニオンが存在した経験を自伝に書いています。

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他人の心を想像する能力の高い定型発達者に見られる一般的なイマジナリーコンパニオンと異なり、ASDの人たちが持つイマジナリーコンパニオンは、『周囲世界に馴染めず「居場所がない」という意識』と関係していて、役割も異なるとされています。

柴山先生は、解離型ASDに見られるイマジナリーコンパニオンの役割についてこう述べています。

ASDに見られるICは、コンパニオン(同伴者)というより、患者の代わりをつとめる仮面のキャラクターのようである。

キャロルは相手に合わせて明るく振る舞う適応的な存在であり、自分が理想とする友人像を取り入れることで生まれた柔らかい仮面である。

それに対してウィリーは自分を守る盾のように硬い仮面である。

ただしそうした仮面は背後に素顔をもつ仮面ではなく、素顔のない仮面、それに全面的になりきるヴェールをかぶったコスプレイヤーのような存在である。(p103)

定型発達者のイマジナリーコンパニオンは、その名のごとくコンパニオン(同伴者)として、話し相手や友人のような役割を果たし、ときには「救済者ないしは守護者」ともなります。(p161)

一方で、解離型ASDのイマジナリーコンパニオンは、盾また仮面のような役割をもつ傾向があります。

ドナ・ウィリアムズの場合、ウィリーやキャロルは、さまざまな場面に応じて、自分に変わって現実の物事に対処してくれる人格であり、理解しがたい定型発達者の社会に馴染むための仮面のような存在でした

自分があやふやで何者かわからない解離型ASDの人たちにとって、この社会で生き抜いていくためには、この社会が求めるものに合わせた仮面を作り出し、別の自分になりきって対処していくしかないのです。

解離型ASDの人のイマジナリーコンパニオンが持つ詳しい機能については、前の記事で扱った「タッチパネル状の自己」についての説明を参考にしてください。

アスペルガーの解離と一般的な解離性障害の7つの違い―定型発達とは治療も異なる
一般にアスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)は解離しやすいと言われていますが、定型発達者の解離性障害とは異なる特徴が見られるようです。その点について、解離の専門家たち

究極の少数派として社会を生き抜くための生存戦略

この記事では、解離型ASDの人に特徴的な7つの症状を概観してきました。

それは、「離隔」「過剰同調性」「同化」「拡散」「原初の世界」「感覚の洪水」「イマジナリーコンパニオンと仮面」の7つでした。

これら7つの特徴から描き出される解離型ASDの人たちの姿は、定型発達の解離性障害の人と似ているようで、じつはかなり異なっていることに気づきます。

この解離の舞台―症状構造と治療の中で、柴山先生は、定型発達者の解離性障害と、解離型ASDとでは、そもそも解離に至る原因が異なっているとしています。原因が異なっていれば、対処法としての解離の目的も異なってくるのは必至です。

解離型ASD者も同じように、そのほとんどが幼少時から「居場所はなかった」と訴える。

しかしASD者にとって辛いのは、こういった定型発達者の他者の攻撃性に由来する「居場所のなさ」とは異なり、そもそも自分はこの社会に落ち着くところがない、馴染むところがないという発達的問題としての「居場所のなさ」である。

定型発達者とASD者では、同じ「居場所のなさ」でもその内実が異なっている。(p104)

定型発達者の解離は、機能不全家庭や、学校での居場所のなさが原因となって生じます。つまり、「身近な他者」から疎外され、攻撃され、だれも信頼できる人がいなくなった結果として解離していきます。

そうすると、解離の目的は、おもに「身近な他者」への対処、つまり人間関係に対応することです。

だからこそ、定型発達の解離性障害では、過剰同調性によって、身近な他者の空気を読んで、場の雰囲気に溶け込み、さまざまな人格が入れ代わり立ち代わり現れるような戦略を取ります。

定型発達の解離性障害の人にとって、イマジナリーコンパニオンとは、だれも信じられる他者がいない中で、慰めや保護を与えてくれる「救済者ないしは守護者」です。すべては人間関係を中心としています。

しかし、解離型ASDの場合は、身近な他者に虐待されたとか、いじめられたという以前に、この世界そのものに居場所がない、馴染むところがないという、「社会」からの疎外が原因にあります。

多数派である定型発達者を中心に作られた、刺激の多い社会、騒音や喧騒に満ちた社会に生まれ落ち、自分とはまったく違った性質を持つ人たちの中で生きていかねばならないということが、居場所のなさの原因です。

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当事者研究の熊谷晋一郎先生が、ASDは障害ではなく少数派であるという考察をしていました。

すると、解離の目的は、身近な他者をやりすごすため、というよりは、社会全体から押し寄せてくる刺激に対処することです。

だからこそ、解離型ASDの解離症状は、人ではなく物に同化したり、大気全体に拡散したり、この社会とは別の世界に逃げ場を用意したりするといった形をとります。そしてイマジナリーコンパニオンもまた、社会に対処するための仮面として機能します。

ドナ・ウィリアムズの自伝自閉症だったわたしへ (新潮文庫)の原題は「No body Nowhere」であり、 自閉症だったわたしへ〈2〉 (新潮文庫)の原題は「Somebody Somewhere」というものだそうで、彼女の社会また世界に対する居場所のなさがこめられています。

柴山先生は、ずっと「普通」になりたかった。の著者グニラ・ガーランドの言葉を引用して、解離型ASDの人たちが感じる居場所のなさについてこう書いています。

他の人々の表情や動作などをそのまま取り入れて、この世界にかろうじて自分の居場所を見出そうとする。

彼女たちは他者への共感によってではなく、外部の姿形をそのまま取り入れ、模倣することでそうするのである。

グニラ・ガーランド(Gerland 1997/2008)は「誰でもいいからほかの、普通の子どもにならなければならない。私は私であってはならない」と述べている。(p105)

解離型ASDの人たちは、定型発達の解離性障害のように、過剰な共感によって人間関係の中をわたり歩くためではなく、仮面をかぶり、本来自分がいるはずのない、どこにも居場所のない異文化としての社会をやり過ごすために、解離を用いているのです。

そのような意味で、解離型ASDというのは、究極の少数派としての生存戦略だということができます。

多数派である定型発達者によって作られた社会の中で生きる少数派であるASDの人たち、そしてASDの中でもさらに少数派であるASDの女性たちが生き延びるために選ばねばならなかった生存戦略が解離型ASDなのです。

ASDというだけでも、ただでさえ定型発達者が多数派を占める社会で生きていくのは難しいのに、ASDの女性はさらに理解されにくく、男性中心の社会によるストレスも抱えやすいでしょう。

スウェーデンの統計調査では、北欧のような福祉先進国家であっても、ASDの女性が社会的要因のあおりを受けやすいことを示しています。

自閉症スペクトラムの人が平均より18歳も短命な理由とは? - GIGAZINE

全体的な傾向は性別の影響がなかったものの、学習障害を持つASDの女性に限り、早く死亡する可能性が最も高いとのこと。

専門家は「これらの傾向は自閉症の遺伝的要因だけでなく、社会的要因も早期死亡率に影響を与えているかもしれない」と指摘しています。

もともと生まれついた感覚の洪水に加えて、それら社会的な圧力が上乗せされ、心身が耐えきれなくなることで、強い解離症状が表面化するようになるのかもしれません。

解離型ASDの人たちにとって、心身の安定を得るには、解離症状だけでなく、根底にある発達障害も考慮に入れた対策が不可欠でしょう。

この記事で参考にした、解離の舞台―症状構造と治療には治療のためのアドバイスも書かれていますし、何より自身の心の構造について理解するのに大いに役立つはずです。

生活に支障が出るほどの解離症状に悩まされているなら、発達障害とトラウマ障害の双方に詳しい医師の治療を受けることが望ましいかもしれません。

杉山登志郎先生による発達障害の薬物療法-ASD・ADHD・複雑性PTSDへの少量処方は、そのような人たちを対象とした治療について書かれています。

解離型ASDがこの社会では究極の少数派であるとしても、少数派であることは、必ずしもデメリットではなく、活かし方を理解すれば究極の才能にもなりうる、という点を覚えておくといいかもしれません。

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わたしたちが考えている「健常者」と「障害者」の違いは、実際には「多数派」と「少数派」の違いかもしれません。全色盲、アスペルガー、トゥレットなど、一般に障害者とみなされている人たちの

最後に、この記事で参考にした、解離型ASDに関する書籍を紹介して終わりたいと思います。解離型ASDの人にとっては、まず自分自身についてよく知ることが、不可思議な症状と、生きづらい多数派中心の社会に対処していく第一歩となるでしょう。

付録:解離型ASDについてもっとよく知るための本

■解離型ASDの専門家による本

■解離型ASDの女性の体験談(海外)

■解離型ASDの女性の体験談(国内)

心は複数の自己からなる「内的家族システム」(IFS)である―分離脳研究が明かした愛着障害の正体

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ありがたいことに、分離脳研究から多くのことが学べた。

手術で二つの半球を分離すると二つの心をもつひとりの人間になるという最初の定義づけに始まり、長い道のりを経た今日では、決定を行動に移すことのできるようになる複数の心を私たちの誰もが実際にもっているという、直観に反するような見解に到達した。(p402-403)

たしたちの脳は、ただひとつの自己ではなく、「複数の心」、複数の異なる自己から成り立っている。

そんなことを書くと、まるでドラマやマンガに出てくる現実離れした話だ、と感じるかもしれません。たいていの人にとって、自分はひとつであり、心の中に複数の自分がいる、などと言い出す人は突拍子もなく思えます。

ところが、冒頭の本、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の著者、マイケル・S・ガザニガは、認知神経科学の研究を通して、「複数の心を私たちの誰もが実際にもっているという、直観に反するような見解」に至りました。

その後、多くの研究を通して、わたしたちが単一の自己を持っていると感じるのは、巧妙な錯覚であることがわかってきました。実際には、人の脳は、異なる複数の心から成る社会のようなもの、「内的家族システム」(IFS:Internal family systems)であることが明らかにされつつあります。

そして、わたしたちが経験する、さまざまな精神的な葛藤、抑うつ、衝動、依存症などの背景には、この内的家族システムの不和が関係していることがわかってきました。

わたしたちの心が複数の自己から成り立っているといえるのはどうしてでしょうか。それは愛着障害や、解離性同一性障害、イマジナリーコンパニオン(空想の友だち)などの現象とどのように関係しているのでしょうか。

自分が無意識のうちに、内的家族システムの問題を抱えているとしたら、どのようにしてそれに気づき、問題を解決することができるのでしょうか。

これはどんな本?

今回おもに参考にした本は、次の三冊です。

右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -は、タイトルのとおり、分離脳研究を通して、右脳と左脳の役割を発見したマイケル・S・ガザニガによる自伝ともいえる本です。

脳は奇跡を起こすは神経可塑性についてさまざまな角度から研究している医師また作家であるノーマン・ドイジによる本で、第9章では、幼少期のトラウマと右脳の関係に光が当てられ、愛着や解離のメカニズムが説明されています。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法は、トラウマやPTSD研究の第一人者であるベッセル・ヴァン・デア・コークによる本で、心が複数の自己からなる社会であることを活用した、内的家族システム療法が紹介されています。

心は複数の自己からなる「内的家族システム」である

一人の人の心の中に、複数の自己がいる。

そんな奇妙で直観に反する事実が明らかになったのは認知神経科学の先駆者マイケル・S・ガザニガの研究を通してでした。

ガザニガは、分離脳研究の専門家として知られています。分離脳とは、重度のてんかん患者の症状を和らげる手術として、左右の脳をつなぐ脳梁(のうりょう)を切り離した状態のことを言います。

左右の脳を切り離すというと、恐ろしいことに思えますが、重度のてんかん患者の場合、脳を分離させる手術を受けると、症状が解決するばかりか、一見したところ、まったく正常に見えることさえ知られていました。

では、なぜ左右の脳を結びつける脳梁が必要なのでしょうか。そしてなぜ、脳は左右両半球にわかれているのでしょうか。

それまで、脳の言語機能は左脳にあることが知られていたので、わたしたちの自己は左脳にあり、右脳は付属品であるかのように考えられていました。

プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちにはこう書かれています。

脳に障害のある患者に関するそれまでの研究は、脳の左半球が意識のある側だと結論づけていた。

左半球が私たちの魂の中枢であり、すべてのものが集まる場所である。脳のもう一方の半球、すなわち右半球はたんなる付属品だと考えられていた。

ロジャー・スペリーは1981年のノーベル賞受賞記念講演で、彼がこの研究を始めた当時の右半球に関する一般的概念を簡潔に述べた。

すなわち右半球は「沈黙し、書字不能であるだけでなく、失読症、言語聾、失行症であり、高次な認知機能を全面的に欠いている」と考えられていたのである。(p262-263)

しかし、ロジャー・スペリーとその弟子であるマイケル・S・ガザニガは、分離脳の手術を受けた人たちの特殊な状況を利用して、右脳と左脳それぞれの役割を調べることにしました。

通常、右脳と左脳は脳梁によってつながっているため、それぞれを別々に調査することは困難です。しかし、両者が分断されている患者では、ある工夫を凝らすことによって、片側の脳だけを調査することができました。

右脳と左脳の命令系統はクロスしていて、右脳は左半身を、左脳は右半身を統御しています。そうすると、脳が分断されている患者の場合、右目だけに何かを見せれば、その情報に気づくのは左脳だけです。その逆ももちろんしかりです。

そうした手法によって、これまで沈黙を保っていた右脳の役割が明らかになりました。

驚いたことに、右半球は無言でもなければ無能でもなかった。それどころか「抽象化、一般化、連想」において不可欠の役割を果たしているらしかった。

当時の定説に反して、脳の一方の半球が他方の半球を支配したり減圧したりすることはないのだった。

実際、これらの患者はその逆が正しいことを証明した。

すなわち、それぞれの葉(よう:半球のこと)は独自の自己をもっていて、それぞれが独自の願望、才能、感動をもっている。(p263)

この発見は、またたく間に世界を席巻し、左脳は論理的、右脳は芸術的といった都市伝説が流布することになりました。

当のガザニガやスペリーは、こうした左脳人間、右脳人間といった俗説には関わりを持ちませんでした。「脳の一方の半球が他方の半球を支配したり減圧したりすることはない」からです。

論理的な左脳人間、芸術的な右脳人間という俗説は、現在の脳科学で否定されています。

「芸術家は右脳人間」は間違い―自閉症の天才画家からわかる創造性における左脳の役割
芸術家の創造性は右脳を用いているという考えは人気がありますが、最新の脳科学では否定されています。自閉症の画家などの研究に基づき、創造性と右脳・左脳の関係について考えてみました。

彼らが注目した点は、もっと別のところでした。

それはそれぞれの半球に、本人も気づかないうちに「独自の自己」が存在していて、互いに協力しあっているという不可思議な現象でした。

ガザニガは、分離脳患者に対する実験について、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中でこう振り返っています。

こうした簡単な検査を行い、P・Sの右半球には自己意識があり(自分の名前を知っていた)、未来についての感覚がある(作業上の目的があった)ことがわかった。

どちらも自覚的な意識に備わった重要な性質である。

とりわけ興味深いのが、右半球と左半球とが、それぞれに異なる未来の目的をもっていることだった。

つまり、ひとつの頭に二人の人がいるということなのだろうか?(p175)

分離脳研究が示していたのは、彼らのなかに、あたかも「二人の人」がいて、目的も願望も異なっているかのようだ、ということでした。

それどころか、研究を進めるうちに、これは分離脳のような特殊な状況にある人にのみ見られる現象ではないことがわかってきました。

わたしたちの脳は二つの心だけでなく、もっと多くの心的システムからなっているのではないか、ということです。

 この例では、ひとつの別個の心的システムが興奮し、そのせいで他の心的システムの通常機能が妨げられた。

「心」はひとつではなく、複数の心的システムの集まりなのではないか、という考えが頭をもたげた。

当時、それは新しい考えであり重要な意味をもっていた。こうした概念は、分離脳のサルや人間の患者たちがなぜあのようにふるまうのかを理解するにあたり、きわめて重大なものだった。(p100)

「心」はひとつではなく、複数の心的システムの集まりなのではないか。

このガザニガの着想は、分離脳研究や、その後のさまざまな実験を通して裏づけられてきました。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ベッセル・ヴァン・デア・コークは、ガザニガが最終的にどのような結論に至ったか、次のように書いています。

現代の神経科学も、心をある種の社会と見なすこの概念を裏づけている。

分離脳に関する先駆的な研究を主導したマイケル・ガザニザは、心は半自律的な機能モジュールで構成され、各モジュールには特有の役割があると結論した。

彼は1985年の著書『社会的脳―心のネットワークの発見』に、次のように書いている。

「だが、自己とは統一された存在ではなく、私たちの内部には、いくつもの意識領域が存在しうるという説についてはどうだろう

……私たちの[分離脳の]研究から新たに浮上したのは、文字どおり複数の自己が存在し、しかもそうした自己は、必ずしも内面で相互に『対話』してはいないという見方だ」。(p463)

スペリーとガザニガは、右脳と左脳には別々の自己が存在するという研究から始まって、やがて、わたしたちすべてには「文字どおり複数の自己」が存在している、という結論に至ったのです。

そしてそれら「複数の自己」は、「必ずしも内面で相互に『対話』してはいない」ために、わたしたちのうちの多くは、自分が単一の自己であるかのように錯覚し、心はひとつだと思いこんでいます。

「単一の自己」というごく当たり前に思える認識は、錯覚また思い込みにすぎず、脳の本当の姿ではない、ということは、今やほかの研究者たちも認めています。

人工知能研究の草分けであるマサチューセッツ工科大学のマーヴィン・ミンスキーは、こう断言した。

「単一の『自己』 という伝説は、自己に関する研究の対象を見誤らせることにしかならない。

……人の脳の中に、異なる複数の心から成る社会が存在すると考えることは、理にかなっている。

家族一人ひとりと同じく、それぞれの心が協力した互いに助け合いながら、他の心にはけっして知りえない、独自の心的経験を持っている可能性がある」(p463)

マーヴィン・ミンスキーは、「単一の自己」という考え方は「伝説」でしかなく、実際には一人の人の中に「異なる複数の心からなる社会」があると認めています。

彼はそうした複数の心を、「社会」にたとえると同時に、いみじくも「家族」とも表現しています。

サイコセラピストのリチャード・シュウォーツは、わたしたちの内なる複数の自己を「内的家族システム」(IFS:Internal family systems)と名づけました。

IFSの核をなす概念は、私たちの心とは、一人ひとり成熟度も、興奮しやすさも、見識の程度も、苦痛の大きさも異なる家族のようなものだというものだ。

そうしたいくつもの部分がネットワーク、もしくはシステムを形成しており、その一部分に変化が起これば、それが他のあらゆる部分にも影響する。(p463)

わたしたちの心は、単一の自己であるどころか、複数の自己からなる「内的家族システム」であり、それぞれの心は、文字どおりの家族の成員一人ひとりのように、異なる性格や感情、記憶を持っているのです。

そして、わたしたちが「単一の自己」だと思いこんでいるものは、それら複数の家族のメンバー一人ひとりが互いに影響しあった結果生まれた、見かけ上ひとつのものにすぎないのです。

あなたは複数の自己に気づいていない

それではなぜ、心は複数の自己からなる「社会」また「内的家族」であるのに、大半の人は、自己はひとつだと思い込み、錯覚してしまうのでしょうか。

マイケル・ガザニガは、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中で、そこには、脳が考案した巧妙なトリックがあることを示唆しています。

外部から見れば、二つの半球が一体となって見える。

いずれにせよ半球の内部においても数百、数千のモジュールが相互に作用してその半球の心を生み出しているのだ。

おそらくは、右の心と左の心は別々のものでありながら、外部の観察者だけでなく内部の観察者の目にも統一して見えるのかもしれない。(p300)

ガザニガが言うように、わたしたちの心は別々のものでありながら、外部の観察者から見ても、内部の観察者から見ても、統一された単一のものであるかのように見えます。

外から見れば、その人の身体はひとつであり、頭もひとつですから、見かけ上ひとりの人間に見える、というのはごく当たり前のことです。

しかし、一体どうして、脳は内部の観察者、つまりわたしたち自身をも欺き、自分の中にはひとりの自己しかいないかのように思い込ませることができるのでしょうか。

ガザニガが行った実験は、その驚くような答えを明らかにしました。 プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちには次のようなエピソードが書かれています。

だが、私たちはふつうこの皮質の対立に気づかない。それはなぜか。

自己は本当は分断されているのに、どうした私たちには統一感があるのか。

スペリーとガザニガは、この疑問に答えるために、いささかいたずらっぽい実験をおこなった。両断脳の患者の左右の目に、別々の写真を同時にぱっと見せたのである。

たとえば患者の右目にはニワトリのかぎ爪の写真を、左目には雪の車道の写真を見せた。

その後、患者にさまざまな画像を見せ、その中から先に見た写真と最も縁の深いものを選ぶようにと指示した。

両断脳の患者の両手は優柔不断さを悲喜劇的に発揮して、それぞれ別の写真を指さした。右手はニワトリを(これは左半球が見たニワトリのかぎ爪と符合する)。左手はシャベルを指さした(右半球はシャベルで雪かきをしたかったのだ)。(p264)

スペリーとガザニガは、分離脳の患者の左右の目に別々の画像を見せました。脳梁がつながっている普通の人なら、この時点で、かぎ爪と雪の車道の両方の画像が見せられていることを認識できますが、分離脳の患者はそれができません。

そのため、似ている画像を指差すよう言われたとき、左半球の自己と、右半球の自己とは、お互いに示し合わせることなく別個に行動し、それぞれ別個の判断をしたのです。

しかし、驚かされるのはこの後です。

科学者たちが患者に、その矛盾した反応を説明してくれないかと頼むと、患者はすぐにもっともらしい作り話をした。

患者は「ああ、それは簡単です。ニワトリのかぎ爪はニワトリについているものですし、ニワトリ小屋を掃除するにはシャベルが必要です」と答えた。

患者は、自分の脳が絶望的に混乱していることを認めず、その混乱をきちんとした話に仕立てたのである。(p264-265)

なんと、分離脳の患者は、自分の中にいる内なる別々の自己が異なる判断を下したことに気づかず、もっともらしい理由を考え出したのです。

しかも、このときの理由づけに、「雪の車道」の写真に関する情報が一切含まれていないことに注目してください。

すでに見たとおり、大半の人の言語機能は左脳の言語野が司っています。つまり、ここで科学者の質問に答えて、口頭でもっともらしい理由をひねり出したのは、左半球の自己です。

右半球の自己は「雪の車道」の写真を見たからシャベルを選んだのですが、左半球の自己は、自分が見ていない「雪の車道」の写真について、記憶を持っていませんでした。

そのため、自分が知っている情報、つまり「かぎ爪」の写真を見たという記憶から、ニワトリだけでなくシャベルまでをも結びつける説明を、無理やりひねり出してしまったのです。

左半球の自己は、自分の左手が選んだ行動の理由を知りませんでしたが、自分の中にもう一人別の自己がいるなどと思ったりせず、単一の自己が矛盾した行動をとるもっともらしい理由を考え出すのです。

ガザニガは、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中で、別のいたずらっぽい実験についても、こう振り返っています。

スプーンの写真が左視野に一瞬映された。その内容は右半球だけに知らされている。

MSG:何が見えましたか?
N・G:何も見えません。

顔に特別な表情はない。

MSG:わかりました。では点を見つめてください。

次は、右半球に裸の女性の写真が映しだされた。

MSG:何が見えましたか?
N・G:何も見えません。

……笑いを抑えようとするが、抑えきれずにくすくす笑いだす。

MSG:なぜ笑っているのですか?
N・G:なんででしょう。先生はおもしろい機械を持っているのね。(p108-109)

この実験では、いささか悪趣味ですが、分離脳の女性の左視野にだけ、ヌード写真を見せました。

すると、女性の右脳の自己は、それを見て、つい笑いをこらえられなくなってしまいましたが、言語機能をつかさどる左脳の自己は、右脳の自己が見たヌード写真を知りませんでした。

それで、なぜ笑っているのかを尋ねられたとき、理由がわからず、ガザニガが使っていた面白い機械のせいだと、適当な理由づけをしてしまったのです。

このように、左半球の自己が、自分とは異なる自己がとった不可解な行動の理由を即座にひねり出せるのは、左半球に言語機能の中枢があるからです。

それは「インタープリター」(解釈者)と呼ばれていて、理由を考え出したり、筋道だった物語を考え出したりする才能を持ち、自己の連続性や一貫性を作りだす役割を担っています。

ガザニガはこう述べます。

これは貴重な装置であり、おそらくは人間独特のものである。

自分が何かを好きな理由やある特定の意見をもつ理由を説明しようとしたり、自分のしたことを正当化しようとしたりするたびに、この装置が私たちの中で作動している。

…インタープリターは「筋の通った」説明を考えだし、ある種の本質主義を、すなわち私たちは統一された意識体であることを自らに信じ込ませる。(p404)

わたしたちの多くは、この左脳のインタープリター装置によって、自分は単一の自己であるという作り話を信じ込まされています。しかしそれは悪いことではなく、自己の同一性を保つのに大いに役立っています。

以前の記事で書いたとおり、自閉スペクトラム症(アスペルガー症候群)の人たちは、おそらく左脳のインタープリターが弱いせいで、冗談や比喩を解釈したり、柔軟なコミュニケーションをとったりするのが苦手なようです。

そして、アスペルガー症候群の人たちがしばしば訴える、自己の連続性の乏しさ、アイデンティティのあやふやさなどは、インタープリターが弱いために「統一された意識体であることを自らに信じ込ませる」のが苦手であることを示唆しています。

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分離脳研究が明らかにした二人の自己

このように、脳の左右をつなぐ脳梁を切り離した分離脳の患者たちは、一見、まったく正常であるかのように見えて、じつは左右の脳が別々に行動するという矛盾を抱えているということがわかりました。

左右の脳が別々に行動し、一人の人の脳の中でまったく違う二人の自己が勝手に振る舞っていることを考えれば、極めて混乱した日常になってしまいそうですが、実際はそうなりません。

実験室の外では、右目と左目がまったく違う別々のものを見ることなど、そうそうありませんし、たとえ右脳が左脳とは違う判断を下して予想外の行動をとったとしても、左脳の自己は、もっともらしい理由を考え出すことができるからです。

さらに、分離脳の患者の右脳と左脳は、脳の中では切り離されていますが、同じ身体を通してつながりを保ってはいます。そのため、やがて無意識のうちに身体を使った合図をするようになり、右半球だけが気づいた刺激を左半球にも伝えるといったことがうまくなっていくそうです。

こうして、たとえ自分の中に切り離された二人の自己がいるとしても、ある程度はうまく協調し、折り合いをつけながら生活していくようになります。それはある意味で、結合双生児の人が二人の脳で一つの身体を使って生活していくのと同じでしょう。

では、ここまで考えてきた右脳の自己と、左脳の自己が別々に行動し始めるという奇妙な現象は、分離脳など、極めて特殊な状態にある人にだけ関係する研究結果にすぎないのでしょうか。

じつはそうではなく、この分離脳研究の発見は、意外なことに、まったく別の分野の研究者たちに、これまで解けなかった不可思議な問題に対するインスピレーションを送ることになりました。

それは、トラウマ研究の専門家たち、そして愛着障害の研究者たちでした。だからこそ、さっきPTSDの専門家ベッセル・ヴァン・デア・コークが、著書の中でガザニガの研究に触れていたのです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、ヴァン・デア・コークは、PTSD患者の脳画像の研究をしていたとき、奇妙なことに気づきました。

これらの画像からは、フラッシュバックの間、研究の参加者たちの脳は、右側だけしか活性化しなかったこともわかった。

今日、右脳と左脳の違いについては、厖大な数の科学的な文献や通俗的な文献がある。

だが90年代初期には、私は一部の人が世の中の人を左脳人間(理性的で論理的な人々)と右脳人間(直感的で芸術的な人々)に分け始めていることを耳にしたものの、この考え方にはろくに注意を払わなかった。

ところが、私たちのスキャン画像は、過去のトラウマが脳の右半球を活性化させ、左半球を不活発にさせることをはっきり示していた。(p81-82)

それは偶然の発見のようでいて、実際には、科学者がいつかは必ず行き当たる発見だったのでしょう。PTSD研究の第一人者だったヴァン・デア・コークが真っ先にそれに気づいたのは必然でした。

いったいなぜ、分離脳の研究と、トラウマ研究、そして愛着障害の研究とがつながってくるのでしょうか。

脳の右半球にあるアクセスできない記憶

これに先立って、分離脳研究をしていたマイケル・S・ガザニガは、脳のなかには複数の自己がいるという発見とは別に、さらに不可思議な事実を探り出していました。

右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -によると、ガザニガは、こんな疑問を抱きました。

私たちは、かなり風変わりな疑問を解こうとしていた。

言語機能が優位な左半球が睡眠中で右半球がいわばひとりで留守番をしているとき、右半球に何かを教えることはできるだろうか?

さらには、右半球は教えられた知識を、麻酔から目ざめた左半球に伝えることができるだろうか?

優位な言語システムが眠っているあいだに右半球において記憶が作られたなら、眠りからさめた左半球の言語システムは、居眠りをしていたあいだにコード化された情報にアクセスできるだろうか?

ガザニガは、左半球の自己と右半球の自己とは、記憶を共有しているのかそれとも別々の記憶を持っているのか、ということを知りたいと考えました。

分離脳の実験では、確かに、左目だけが見た「雪の車道」の写真を知っていたのは右半球の自己だけでした。言語機能を持つ左半球の自己は、その情報を知らずに、もっともらしい作り話を考え出しました。

では分離脳ではない、健康な人の場合はどうでしょうか。もし仮に、脳の片側が寝ている間に、もう一方だけが何かを見たり聞いたりしたら、その情報の記憶は後に共有されるのでしょうか。

それまでの実験は、脳梁を切断した分離脳の患者を対象としたものでしたが、ガザニガはあるとき、健康な脳を持つ人たち、つまり左右の脳を切り離していない、脳梁で左右がしっかりとつながっている人たちの左右の脳について調べる機会を得ました。

かつては、脳梁がつながっている人の左右の脳を別々に調べる方法はありませんでしたが、科学の進歩は、脳の片側だけを麻酔薬アミタールソーダを使って眠らせるという方法を考案しました。

神経外科医は、脳の手術をする前に、言語機能に影響しないように、脳の片側を麻酔して、その人が左右の脳のどちらに言語中枢を持っているかを調べるようになりました。

脳の言語中枢は、ここまで見たとおり、大半の人では左脳に存在していますが、まれに右脳に言語中枢が存在する人もいることが知られています。

芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察によると、言語機能が右半球にあるのは右利きの人の4%、左利きの人の15%で、両半球に言語機能にある特殊な例も、左利きの人の15%に見られます。(p183)

ガザニガは、脳の片側を麻酔する検査に便乗して、右半球の自己と、左半球の自己の記憶の違いについて調べました。

脳の片側は、もう片側が眠っている間に知った情報を共有できるのか。

その結果はたいへん示唆に富むものでした。

私たちの行った実験では、それは不可能だという答えが見つかった。

その一方、私が掲げたカードに書かれた回答をただ指すように患者に指示した場合には、(おそらくは)右半球がコード化された情報を上手に思い出せたようだった。

情報はそこにあったが、もう一方の半球にある言語システムからは到達できないところに保存されていたのだ。(p202)

脳梁で左右の脳がつながっている健康な人であっても、脳の左半球が麻酔で眠っている間に右半球が見た情報は、左半球が目覚めた後も共有されていなかったのです。

ガザニガは、一連の研究を通して、自分が発見したものが何なのか気づきました。

簡単に言えば、意識的には到達できない情報が、それでもなお、意識的に見えるような決定がくだされる過程に影響を与えることがあると証明したのだ。

私たちは、広大な無意識を、私たちがすることの大半をおそらくは支配しているネットワークをのぞき見ることができたのだ。(p186)

そう、それは「無意識」または「潜在記憶」と呼ばれる領域でした。

フロイトら心理学者たちは、早くから、人には意識していない潜在記憶としての無意識があることを主張していましたが、今や、たしかに意識からはアクセスできない記憶があることが証明されました。

解離性障害の専門家である岡野憲一郎先生も、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中でこの右脳の自己とはフロイトのいう無意識である、というアラン・ショアの見解について触れています。

ショアは、自己の表象は、左脳と右脳の両方に別々に存在するという考えが専門家の間でコンセンサスを得つつあるという。

…この右脳の自己表象とは、フロイトの無意識や、非明示的な情報処理とも関係しているという。(p23)

脳の左半球を麻酔する実験で、左半球の自己が眠っているあいだに右半球の自己が得た情報は、後に共有されることなく、右半球だけが知っている無意識の記憶として保存されていたのです。

右半球の情動は共有されている

しかしながら、右半球の無意識に保存されている記憶が、左半球から気付かれないまま格納されているとしても、アクセスすることができないのなら、特に気にする必要はないのではないでしょうか。

確かに、実験に参加した人たちは、左半球が麻酔で眠っている間に、右半球が見た何かの情報を思い出せないとしても、特に困りませんでした。

しかし、ガザニガは、もう一つ、極めて重要な発見をしていました。

右半球の自己だけが知っている記憶にアクセスすることはできませんが、右半球の自己が抱いている感情は、脳梁が切断されている分離脳の人でも、皮質下を通して共有されているのです。

右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -で彼はこう言います。

情動の状態は、皮質下において半球間でやりとりされているようであり、脳梁を切断してもこのやりとりは影響を受けない。

したがって、そうした情動の状態のきっかけとなった知覚や体験は、すべて右半球に隔離されているかもしれないが、両方の半球がその情動を感じることになる。

左半球は、その情動がなぜ、どこから生じたかを知る手がかりをもっていなくても、つねに理由を説明しようとする。

左半球の自己と右半球の自己は、別々の記憶を持っていますが、感情は共有しています。

すると、ガザニガが言うように、左半球の自己は、右半球の自己が持っている記憶を知らないのに、その結果として生じた感情だけを感じるので、自分が感じる感情の原因について、もっともらしい作り話をして理由付けすることになります。

ガザニガは、次のような例を紹介しています。

たとえば、男の人が火事に巻き込まれる怖い防火ビデオをV・Pの右半球に見せたことがあった。何が見えたかと質問すると彼女はこう答えた。

「何を見たかよくわかりません。一瞬白い光が見えたような気がします」。

この分離脳の女性の左半球(ふだん話しているほうの自己)は、右半球だけが見せられた、トラウマ的なビデオについて気づいていませんでした。右半球の自己が持つ記憶は共有されていなかったのです。

しかし、右半球がそのビデオを見て感じた気持ちについては、そうではありませんでした。

しかし何かの感情をおぼえたかと尋ねるとこのように答えた。

「理由はよくわかりませんが、ちょっと怖くなりました。びくっとしました。

たぶんこの部屋の居心地が悪いのか、それとも先生のせいかもしれません。先生のせいで神経質になっているのかも」。

彼女はそれから研究助手に向かって、「私はガザニガ先生を好きなはずですが、今はなぜだか先生が怖いんです」と言った。

左半球は負の感情が生じていることに気づいているのに、その原因についてはまったくわからないでいた。

興味深い点は、原因がわからなくても、状況に応じた「筋の通った」説明をひねりだす妨げにはならないということだ。(p178)

左半球は、右半球だけが見た恐怖をあおるビデオを知りませんでした。しかし右半球が感じた「ちょっと怖い」気持ちは感じていました。

それで、理由もわからずに感じる怖さについて、その場で、もっともらしい理由をひねり出しました。ビデオについての記憶はなかったので、その場にある手近なものを使って、つまり、目の前にいる先生のせいで怖いのではないか、と解釈したのです。

左半球の自己が眠っている間に、右半球の自己が見聞きした情報の記憶はアクセスできない無意識に隔離されている。しかし、右半球の自己が感じた感情は共有されるので、左半球の自己は、理由のよくわからない感情を味わうことになる。

ガザニガたちが見つけたこの奇妙な発見は、とても興味深いものです。しかしある人たちはこう考えることでしょう。

これは分離脳の患者や、実験室で麻酔を使って左半球の自己を眠らせた、特殊な状況の人にのみ当てはまる研究結果だ。

わたしたちの日常では、脳の片側だけが眠っているなどという状況はありえないのだから、大半の人には関係ない雑学にすぎない。

なぜあなたは生後数年間の記憶を覚えていないのか

わたしたちの日常では、脳の片側が眠っているような特殊な状況はありえない。これは本当にそうでしょうか。

PTSDやトラウマ研究の専門家たちは、これが決して特殊なものではないことに気づきました。いえ、むしろ、あらゆる人類がその状況を経験したことがあることに気づきました。

わたしやあなたを含め、世の中のありとあらゆる人すべてが、あたかも麻酔をかけられた人のように、左半球が眠っている間に、右半球だけが目覚めている、という奇妙な経験をしているのです。

「幼児期健忘」という言葉をご存じでしょうか。

たいそうな名前がついていますが、ただ単に、幼いころの記憶を思い出せない、ということを指す心理学的な用語です。

わたしたち誰もが実感として気づいていることですが、人間はみんな幼少期の記憶がほとんどありません。小さいころの記憶は、ほぼまったく覚えていなかったり、とても断片的なものだったりします。

「小さかったから覚えてないのね」とさも当たり前のように言われますが、幼いころのことを覚えていないのは「小さかったから」なのでしょうか。

ベッセル・ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で述べる次の説明を読めば、勘の良い人は、すぐさまピンとくることでしょう。

右脳は子宮の中で先に発達し、母親と赤ん坊の間の非言語的コミュニケーションを担う。子供が言語を理解し、話し方を学び始めると、左半球が稼働するようになったことがわかる。

言語能力を獲得すれば、子供は物の名前を言ったり、物どうしを比べたり、物と物の関係を理解したり、自分独自の主観的経験を他者に伝え始めたりすることができる。(p82)

同様の点を、脳は奇跡を起こすの著者ノーマン・ドイジは、もっと具体的にこう指摘しています。

ヒトの場合、二歳までは右半球のほうが大きい。左半球はそれから急激な成長をはじめるが、三歳頃までは右半球が脳を支配している。

二歳二ヶ月の幼児は、複雑な「右脳に支配された」感情的な生き物であるが、左脳の機能がまだじゅうぶん発達していないので、自分の経験したことを話すことができない。

脳スキャンでも、子どもが二歳になるまでは、母親が自分の右半球を使って非言語コミュニケーションをして、子どもの右半球に訴えかけているのがわかる。(p267)

両者の説明から明らかなとおり、脳の右半球と左半球は、発達する時期が異なっています。

そして、生まれてから数年間にまず活動しているのは右脳のほうなのです。そして、遅れて左脳が発達し始めます。

これが意味しているのは、わたしたちは生まれてから数年間、みな、あたかも左脳が眠って留守にしているかのような状態にあるということです。

正確には、左脳は留守にしているのではなく、まだ発達していないだけなのですが、状況としては、左脳を麻酔で眠らせている人の場合とよく似ています。

あなたが、生まれてからしばらくの時期、幼いころの記憶を思い出せない、幼児期健忘を経験する理由がもうおわかりでしょう。

あなたが覚えていない時期に、あなたの身体を使って生きていたのは、あなた、つまり左半球の自己ではないのです。

そのときにあなたの身体をコントロールしていたのは先に生まれていた右半球の自己であり、左半球の自己であるあなたは、右半球の自己が経験した幼少期の記憶にアクセスできないのです。

「愛着障害」の正体

わたしやあなたが、生まれてからの数年間、右脳の自己によって生きていた、ということは、極めて重要な意味を持っています。

生まれてから数年間の養育経験は、その後の人生に大きな影響を及ぼす、と主張したのは、イギリスの精神分析学者ジョン・ボウルビィでした。

ボウルビィは、戦災で孤児になった子どもたちを観察して、生後2、3年ごろまでの養育者との絆が、その後の生き方や人間関係の土台となることを発見し、その生物学的な絆を「愛着」(アタッチメント)と名づけました。

長引く病気の陰にある「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」
愛着理論によると、子どものころの養育環境は、遺伝子と同じほど強い影響を持ち、障害にわたって人生に関与するとされています。愛着の傷は生きにくさやさまざまなストレスをもたらす反面、創造

ボウルビィやその共同研究者であるメアリー・エインスワース、その教え子のメアリー・メインの研究によって明らかになったのは、1歳のころに子どもが示す愛着のパターンが、6歳になってもほとんど変わらず、さらには大半の人で生涯にわたってほぼ変化しないということでした。

それはちょうど、わずか1歳や2歳ごろに受けた母親の世話の特徴を無意識のうちに記憶していて、大人になっても、友だちや恋人、さらには我が子に対して、そのときと同じパターンで、接しているかのようでした。

幼少期に安定した世話を受けられた人は、その後の人生でも安定した人間関係を築きますが、不安定な世話を受けた人は、その後の人生の対人関係もまた依存的になったり、回避的になったりしてしまいます。

さらには、不幸にも幼いころに満足のいく世話を受けられなかった人は、精神的に不安定になりやすく、しばしば理由もわからず、うつ状態になったり気分が変動したりしがちです。

しかも当の本人は、自分の考え方や行動の癖が、幼少期の母親の世話に由来している、ということにまったく気づいていないのです。

なぜ、生後わずか数年間の母親の世話が、これほどまでに色濃く、ときには「第二の遺伝子」と呼ばれるほどに、わたしたちの人生に影響を与えるのか、ボウルビィをはじめ愛着の研究者たちはよくわかっていませんでした。

右脳の自己だけが幼少期を覚えている

しかし、分離脳の研究という、まったく意外なところから、その答えがもたらされました。 脳は奇跡を起こすの中で、ノーマン・ドイジは、不安定な愛着とは何か、その正体を明らかにしています。

生まれてから三年以内にトラウマを経験した場合、そのトラウマの顕在記憶は、あったとしてもごくわずかだと思われる(Lは、四歳までの記憶はひとつもないと話していた)。

しかし、これらのトラウマについての手続き記憶/潜在記憶は存在していて、トラウマと似たような状況に置かれたときに噴出したり、誘発されたりする。

こういった記憶は、「まったく予期しないときに」よみがえる。顕在記憶とは違って、時間や場所、文脈によって分類されないらしいのだ。

感情的なかかわりにまつわる潜在記憶は、転移あるいは人生のさまざまな場面において、しばしば繰り返される。(p270-271)

愛着とは、すなわち、生まれてから数年間にあなたの身体を用いている、右脳の自己が経験した記憶なのです。

左脳の自己、すなわち今のあなたが目覚めるより前に、右脳の自己は生後数年間、母親の世話を経験します。そのときの記憶は、右脳の自己はしっかりと覚えています。

しかし、4、5歳ごろになって左脳の自己が成長してくると、身体のコントロールは、言語機能に秀でた左脳の自己に任されるようになります。

左脳の自己は、自分が目覚めるまでに右脳の自己が経験した記憶にはアクセスできないので、幼児期健忘が生じます。

しかし、情動は共有されているので、その後の人生で、右脳の自己が感じる気持ちをリアルタイムに経験します。

解離性障害の専門家の岡野憲一郎先生は、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で、アラン・ショア博士の分析を参考にしてこう述べています。

逆に愛着の失敗やトラウマ等で同調不全が生じた場合は、それが解離の病理にもつながっていく。

つまりトラウマや解離反応において生じているのは、一種の右脳の機能不全というわけである。ショアがこれを強調するのには、それなりの根拠がある。

というのも、人間の発達段階において、特に生後の最初の1年でまず機能を始めるのは右脳だからだ。

そのとき左脳はまだ成熟を始めていない。

するとたとえば生後2ヶ月になり、後頭葉の皮質のシナプス形成が始まると、その情報は主として右脳に流れ、右脳が興奮を示す(Tzourio-Mazoyer,2002)。

子どもが成長し、左右の海馬の機能などが備わり、時系列的な記憶が生成され始めるのは、4,5歳になってからだ。(p19)

 幼少期に満足のいく養育を受けられなかった場合、さらにはトラウマ的な経験をしていた場合、成長してからの日常生活や人間関係において、それを思い出させるような場面に出くわしたとき、右脳の自己が反応し、怒りや悲しみ、抑うつなどを感じるかもしれません。

しかし左脳の自己には、なぜそんな感情が生じているか、理解するための記憶がありません。すると、左脳の自己は、手近にある情報を用いて、なんとか理由づけしようとして、作り話を考え出します。

ちょうど、「雪の車道」の写真を覚えていなかったために、ニワトリ小屋を掃除するにはシャベルが必要だと解釈した分離脳の人や、怖いビデオを見せられたのにその記憶にアクセスできず、怖いのはガザニガ先生のせいだと理由付けした人のように。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でヴァン・デア・コークはこう言います。

トラウマを負った人々が何かの弾みで過去を思い出すと、そのトラウマ体験が今起こっているかのように、右脳が反応する。

だが、左脳がうまく働いていないので、自分が過去を再び経験したり、再現したりしているという自覚がないかもしれない。

彼らは単に怒り狂ったり、ぞっとしたり、激怒したり、恥じ入ったり、凍りついたりする。

情動の嵐が去ったあとは、何か、あるいは誰かのせいにしようとするかもしれない。(p83)

理由もわからずに感じられる抑うつや気分の変動、強迫症状、パニックなどに直面したとき、たいていの人は、その理由は、最近経験した何かの出来事にあると考えて理由づけします。

あるいは、精神疾患は「脳の病気」であるという医学モデルにしたがって、理由もなくただ脳が故障して、化学物質のバランスがおかしくなっていると理由づけして、処方された薬を飲んで対処しようとするかもしれません。

確かに精神疾患が脳は化学物質のバランス異常である、というのは間違いではありません。しかし、なぜ化学物質のバランス異常が生じるのか、という答えにはなりません。

ほとんどの人は、理由もわからず生じる感情の変動の原因が、右脳の自己が過去の記憶にしたがって抱いている感情にあるかもしれない、とは考えもしないのです。

もちろん、脳が、このような順序で発達していくことには十分な理由があります。つまり、共感に満ちた養育を経験した場合、右脳の自己は、愛情に満ちた親の世話を記憶し、安定した愛着が育ちます。

そうすると、子どもの心には、「基本的安心感」と呼ばれる、無意識の安心や信頼が育ちます。そのおかげで大半の人は、特に理由がなくても、他人という存在は、基本的には信頼してもよいものだ、という無意識の感情を持っています。

極端な言い方をすれば、世の中の多くの人は、右脳の自己が感じている、“原因不明”の安心感や信頼感があるおかげで、他の人と円滑なコミュニケーションができる大人になれるのです。

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち
だれも心から信じられない、傷つくのが怖い、安心できる居場所がない。そうした苦悩の根底にある「基本的信頼感」の欠如とは何か、どう対処できるのか、という点を「母という病」という本を参考

幼少期を「再演」する

不安定な愛着を抱えた人たちは、自分でも理解しがたい感情にとらわれたり、気分が変動したり、理由もわからないまま、衝動的に行動したりして、後で後悔してしまうようなことがあります。

愛着障害が、ときに慢性的な自尊心の低さや、双極性障害のような気分の不安定さとして表れることは、トラウマ研究の専門家たちはよく知っています。

臨床家のためのDSM-5 虎の巻の中で杉山登志郎先生は、重度気分調整障害(DMDD)という概念についてこう述べています。

DMDDはわれわれが見ている被虐待児の気分調整困難と、あまりにも臨床像が一致しており、異なった問題を扱っているとは考えにくい。

さらにこの愛着障害を基盤にした気分調整不全は、成人にいたった時に、双極性障害II型類似の、気分変動に展開していくという発達精神病理学的な出世魚現象が認められるのである。(p47-48)

愛着障害の子ども、または大人は、気分や行動の調整に困難を抱えていることが多く、さまざまな診断名をつけられますが、トラウマに気づかれることは少なく、PTSDという診断を受けることもめったにありません。

なぜなら、PTSDの診断には、トラウマ体験を記憶していることが必要ですが、愛着障害の人たちは、具体的なトラウマ体験を記憶していないことが多いからです。

ヴァン・デア・コークは身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でこう書いています。

マサチューセッツ・メンタルヘルスセンターの外来クリニックに来る子供たちは、必ずしも自分のトラウマ体験を記憶していない(PTSDの診断基準の一つ)か、あるいは少なくとも、虐待の具体的な記憶で頭がいっぱいではないが、自分が依然として危険な状態にあるかのように振る舞い続ける。(p236)

トラウマを負い、国立子供トラウマティックストレス・ネットワークで診療を受けた子供の82パーセントは、PTSDの診断基準を満たさない。(p262)

愛着障害を抱えた子ども、または大人の多くは、トラウマ経験を記憶していないため、PTSDのようなトラウマに関連した病気とは診断されません。

しかし理由もわからずに「自分が依然として危険な状態にあるかのように振る舞い続ける」ので、表面的な症状にだけ注目して、うつ病や双極性障害、ADHD、さらには原因不明の痛みや疲労と診断されるのです。

なぜ、あたかもトラウマを抱えているかのような気分変動や問題行動、あるいは身体への強い負担が症状として現れるのに、トラウマ体験そのものの記憶はないのか、それはこれまで調べてきた分離脳研究がはっきりと示しています。

左脳の自己が不在の間、つまり生後幼いころに右脳の自己が経験した記憶は、左脳の自己とは共有されません。

しかし右脳の自己は、はっきりと記憶をもっており、感情は皮質下で共有されています。

分離脳研究で見たとおり、右脳の自己は、確かに理由があって、「シャベル」の写真を指差すという行動をとったり、怖いビデオを見た「恐怖」という感情を感じたりします。

同様に、愛着障害では、左脳の自己が気づかないところで、右脳の自己が反応し、恐怖や悲しみを感じたり、パニックになったり、身体をこわばらせたりします。

しかし、左脳の自己は、その理由を知らず、右脳の自己の記憶にアクセスできないので、それは原因不明の感情や身体の反応として認識されます。

原因不明の感情や行動とは、左脳の自己が知らないところで経験されたトラウマ記憶を持つ右脳の自己が、そのときの反応を「再演」しているのですが、気づかれることはほとんどありません。

すでに見たとおり、安定した愛着を持っている人もまた、幼少期に受けた優しい世話の無意識の記憶を、その後の人生の人間関係で「再演」しているともいえますが、ほとんどの人はそうした信頼感や安心感をごく当たり前のこととみなして気にも留めていません。

ガザニガは、人の心は、本当は複数の自己から成り立っているのに、外部の観察者の目にも、内部の観察者の目にも、ただひとつの自己に見えてしまう、と述べていました。

愛着障害を抱える人の不可解な感情や行動もまた、本人が知らない記憶を持っている内なる別の誰かによるものだとは気づかれません。

ある人が思い出す代わりに再演を続けているかぎり、医師や警察官、ソーシャルワーカーはどうすれば、その人がトラウマ性ストレスを抱えているのだと気づくことができるだろうか。

患者自身は、自分の振る舞いの原因をどうすれば突き止められるだろうか。

過去のいきさつがわからなければ、彼らは過去を統合する助けを得られずに、頭のおかしい人というレッテルを貼られたり、犯罪者として罰せられたりする可能性が高い。(p301)

病院に行くと、過去を統合する代わりに、原因不明の症状に対する対処療法として、感覚を麻痺させたり、無視したりするのに役立つ薬を処方されます。

つまり、内なる別の自己の悲痛な叫びを封じ込め、麻痺させ、なかったことにすることで、問題にフタをしてしまいます。

だが、薬はトラウマを「治す」ことはできない。乱れた生理機能の表れを抑えることができるだけだ。

また、自己調節を可能にする効果が永続するような教訓を与えてはくれない。

感情と行動を制御するのを助けることはできるが、それには常に代償が伴う―なぜなら薬は、関与、モチベーション、痛み、喜びを調節する化学システムを抑え込むことによって作用するからだ。(p368)

ヴァン・デア・コークが言うように、愛着障害による気分変動や問題行動を薬によって治療しようとするのは、症状を和らげる助けにはなります。その助けによって一時的な安定を得ることもできます。

しかしそれは、内なる別の自己が感じている感情や、抱え持っている記憶を抑え込んでいるだけで、トラウマを「治す」という根本的な対策にはなっていないのです。

では本当の解決策とはなんでしょうか。

ヴェトナム戦争の帰還兵のスール・マーランテスは、長年、自分の中にある、コントロールできない相反する感情に苦しめられていました。戦争を楽しむ気持ちと、戦争を悲しみ恐れる気持ちとが同居していました。

やがて彼は、自分が感じるその理由のわからない感情の葛藤は、心の中の複数の自己の分裂にあると気づきました。

長年、その分裂状態を癒やす必要があることを自覚していなかったし、帰還後にそれを指摘してくれる人は誰もいなかった。

……自分の中には一人の人間しかいないと、なぜ思い込んでいたのだろうか。(p383)

そして彼は、内なる別の自己を薬で麻痺させ、無理やり黙らせるのではなく、その自己が何を考えているのか、何を感じているのか、そして自分が知らない何を知っているのか、耳を傾けようと考えました。

私は自分の中で起こっていることを誰にも話せなかった。だから、そうしたイメージを長年、遠くのほうに押しやってきた。

その若者を一人の若者、ことによると私の子供だと本当に想像するようになって初めて、自分の経験のうち、切り離された部分を再統合し始めた。

すると、この圧倒するような悲しみが訪れた―そして癒やしが。(p383)

彼は、自分の中にいる別の自己を知り、その記憶と悲しみを共有することにしたのです。

これと同じことをするために体系化された手法、それが「内的家族システム(IFS)療法」です。

「内的家族システム(IFS)療法」とは

「内的家族システム療法」 (Internal family systems Therapy)とは、リチャード・シュウォーツによって考案された、内なる自己とのコミュニケーションによるトラウマ解決方法のことです。

Center for Self Leadership, IFS Therapy Training (Official Site)

文字どおりの家族療法では、精神疾患を抱えた人の問題は、本人だけでなく、その家族全体が抱えている家庭の病理の一角にすぎない、とみなして、家族全体を治療していきます。

内的家族システム療法は、それと同様に、一人の人の内部に存在する複数の自己を、ひとつの家庭とみなします。そして、表に出てきている自己が抱えている問題は、内的家族全体の問題だと考えます。

IFSでは、各部分を単なる情動の一時的状態や習慣的な思考パターンではなく、独自の来歴や、能力、欲求や世界観を持つ個別の精神システムと捉える。

トラウマは、そうした各部分にさまざまな信念や情動を植えつけ、その信念や情動が各部分を乗っ取り、本来の有益な状態から切り離してしまう。(p464)

ここまで見てきた左脳の自己、右脳の自己というモデルでは、マイケル・ガザニガが初期の分離脳研究から見いだした、脳の中に二人の自己がいる、という考えに基づいて考えてきました。

しかしすでに見たとおり、ガザニガはやがて、自己は右脳と左脳のたった二人の自己のみではなく、もっと多くの、複数の自己から成り立っていると考えるようになりました。

「だが、自己とは統一された存在ではなく、私たちの内部には、いくつもの意識領域が存在しうるという説についてはどうだろう

……私たちの[分離脳の]研究から新たに浮上したのは、文字どおり複数の自己が存在し、しかもそうした自己は、必ずしも内面で相互に『対話』してはいないという見方だ」。(p463)

わたしたちの内部には複数の自己がいますが、それらは「必ずしも内面で相互に『対話』しては」いません。

内部の複数の自己は、脳という一つの家に住んでいますが、互いに互いのことをよく知っているとは限らず、それぞれが自分勝手に身体をコントロールしようとします。

文字どおりの家族において、家族のメンバーの意思疎通ができていないと、内部分裂が生じて、さまざまな家庭問題が噴出しますが、内的家族の場合もそれと同様です。

内的家族の分裂がもとで生じている多種多様な原因不明の問題を解決するには、内的家族のメンバー同士が一致した家庭になっていけるよう助ける必要があります。

解離性同一性障害(DID)は特別ではない

自分の中に、複数の異なる自己がいて、互い同士をよく知らないままに勝手に身体をコントロールしようとしている、などというと、まるで多重人格(解離性同一性障害)の人のようだ、と感じられるかもしれません。

大半の人は、解離性同一性障害(DID)を極めて異常で、オカルトチックなものだと考えがちですが、分離脳研究が明らかにしたことからすれば、決してそうではない、ということがすぐわかります。

分離脳研究や、内的家族システムのモデルが示すように、一人の人の中に複数の自己がいるのは、まったく普通なことです。

つまり、健康な人の場合、内なる複数の自己からなる家族が、一致団結しているので、見かけ上、ひとつの自己に見えているにすぎません。

一方、解離性同一性障害(DID)の人は、ちょうど脳梁を切断され、右脳の自己と左脳の自己が別々に機能している分離脳の人たちのように、内なる複数の自己が分裂し、無秩序に行動している状態にあります。

健康な人の愛着が「秩序型」に分類されるのに対し、解離性同一性障害の根底にある愛着は「無秩序型」と呼ばれています。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち
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ヴァン・デア・コークは、解離性同一性障害(DID)は、決して異常なものではなく、極端なトラウマ体験のせいで内的家族が極端な反応を見せているにすぎないと述べます。

解離性同一性障害に見受けられる内部分裂や異なる人格の出現は、幅広い精神生活の領域の極端な例にすぎない。

自分の中に相容れない衝動や部分がいくつもあるという感覚は誰しも抱いているが、トラウマを負い、生き延びるために極端な手段に頼らざるを得なかった人々には、とりわけ顕著なのだ。(p457)

特に、幼少期にトラウマを経験した人の場合、脳は、自分の記憶や感覚の一部を切り離す「解離」という防衛手段を身に着けます。

ちょうど左脳と右脳を文字どおり切り離した分離脳の人たちと似ていますが、「解離」とは、脳のネットワークの一部を物理的にではなく、機能的に切り離すことです。

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解離性同一性障害(DID)、つまり多重人格について、さまざまな専門家の本から、原因やメカニズムについて理解が深まる七つのたとえ話と治療法についてまとめました。

たとえば、著しいトラウマ体験に直面した場合、そのとき表にいた自己は、恐怖や痛みから脳の大部分を守るために、感覚を遮断します。

すると、表に立ってトラウマを経験した自己(犠牲者人格)と、切り離して逃れさせてもらった自己(生存者人格)とにわかれます。

そして、トラウマを経験した自己(犠牲者人格)は、自分が経験したトラウマ記憶を覚えていますが、そのとき切り離されて守られた自己(生存者人格)は、あたかも麻酔で眠らされていた左脳のように、トラウマ経験の記憶がありません

それ以降の人生では、おもにトラウマ体験から守られ、トラウマ体験を記憶していない自己(生存者人格)がメインの人格となって身体をコントロールします。

しかし身代わりになってトラウマを体験し記憶している自己(犠牲者人格)もまた内なる自己として存在していて、ときおり別人格として表れます。

お気づきのように、これは、左脳の自己がいない間に、右脳の自己が経験した幼少期の記憶によって、感情や行動のトラブルが生じる愛着障害と同じ構造です。

このようにして、トラウマを経験した人の内的家族は分裂してしまいます。

スイッチング―気づかれない人格交代

では、このような人格の分裂、内的家族の分裂は、極端なトラウマを経験した人にのみ生じるのでしょうか。

つまり、内的家族には、統一されている健康な状態か、内的家族が完全に分裂している解離性同一性障害(DID)か、という、白か黒か、はっきり区別できる二つの状態しか存在しないのでしょうか。

ヴァン・デア・コークは、内的家族システム(IFS)というモデルが、その答えを与えてくれたと述べています。

IFSモデルのおかげで、私は解離がスペクトルの上で生じることに気づいた。

トラウマを負うと、自己システムが故障し、自己を成す各部分がスペクトルの両極に分かれて互いに争い始める。(p464)

内的家族の分裂、つまり「解離」という現象は「スペクトルの上で生じる」のです。

スペクトルとは、虹のように連続したグラデーションのことですが、そこには白か黒か、というような切れ目はなく、さまざまな程度の色が連続しています。

内的家族の分裂もまた、一致団結しているか、完全に分裂しているか、という二択ではなく、さまざまな程度の解離が存在しているということです。

文字どおりの家庭の問題がさまざまであるように、内的家族が抱えている問題の程度もさまざまで、ちょっとしたコミュニケーションの行き違い程度のものから、互いに激しい憎しみを抱いて口も利きたくないと思っている状態まで多種多様です。

では、内的家族が一致している状態が普通の人、内的家族が完全に分裂している状態が解離性同一性障害(DID)だとするなら、その中間に存在する、さまざまな程度の分裂とは、どのようなものなのでしょうか。

たとえばそれは、「スイッチング」と呼ばれる病理です。

テキサス大学オースティン校のジェイムズ・ペネベーカーによる実験では、学生たちは、誰も見ていないときに、テープレコーダーに向かって、自分の辛い体験について語るよう指示されました。あとで記録された声を再生すると、奇妙なことがわかりました。

私はペネベーカーの研究の別の点にも注意を惹かれた。

参加者が、私的な問題あるいは厄介な問題について話したときは、声の調子と話し方が変わることが多かったのだ。

素の違いがあまりにも著しいので、ペネベーカーは自分がテープを取り違えてしまったのかと思ったほどだった。(p396)

ペネベーカーは、精神科の患者ではなく、学生たちを対象にこの実験を行いましたが、辛い経験を思い出して語ってもらったとき、あたかも別の人間であるかのように話し方が変わっている人たちがいたのです。

ヴァン・デア・コークは、これと同様の現象を、臨床現場ではしばしば目にすると述べています。

そうした変化は臨床現場では「スイッチング」と呼ばれており、トラウマを負った人にしばしば見られる。

患者は話題が変わるたびに、まったく違う情緒的状態と生理的状態に入る。

スイッチングは声のパターンのはなはだしい変化としてだけでなく、表情や体の動きの変化としても表れる。

臆病な人から強引で攻撃的な人へ、心配症で他人の言いなりになる人からいかにも魅惑的な人へと、人格が変わるようにさえ見える患者もいる。(p396-397)

「スイッチング」が生じる人は、必ずしも、解離性同一性障害(DID)の人たちのように、完全に別の人格へと交代しているわけではありません。「スイッチング」しても記憶はつながっていて、別人になっているという自覚はありません。

しかし、その振る舞いや話し方、行動は、はた目から見てもはっきりとした違いが感じられます。

このような「スイッチング」を見せる人の中に境界性パーソナリティ障害(BPD)の人たちがいます。

BPDの人たちは、自分の心の中に複数の自己がいるとは思っていませんが、とても親切で魅力的な人が、突然 別人のよう振る舞い出し、激しく怒りだしたり、罵詈雑言を浴びせたりします。

見捨てられ不安に敏感な「境界性パーソナリティ障害」とは?―白と黒の世界を揺れ動く両極端な人たち
他の人を白か黒かでしか判断できなくなってしまい、グレーゾーンがわからない。最初尊敬して、どこまでもついていきたいと思うのに、ちょっとしたことで裏切られたと感じ、幻滅してしまう。そん

これは、単に二面性のある人、というものではなく、人格交代の軽微なもの、つまり「スイッチング」だとみなすことができます。知らず知らずにうちに、別の自己にコントロールを奪われていることに気づかないのです。

シュウォーツが指摘するように、「私たちは、彼らの視点から自分自身、さらには世界を眺めるので、それこそが、『唯一無二の』世界だと信じ込んでしまう。

この状態では、まさか自分が乗っ取られていようとは思いもしない」(p479)

同様のことは、双極性障害のような奇妙な気分変動で別人のようになる人や、衝動的な依存行為からなぜか抜け出せないような人にも当てはまります。

内的家族の成員が口を利かず、情報共有もしていない状態が解離性同一性障害だとすると、内的家族が一応コミュニケーションしてはいるものの、意思疎通がうまくいっていなくて、分裂しかかっている状態が、境界性パーソナリティ障害などの軽微な人格交代だといえます。

「幸せな子ども時代」だと言ってしまえる理由

こうした分裂した内的家族を抱えている人の中には、自分にはトラウマ的な経験などなく、「幸せな子ども時代」を送ってきたと信じている人もいます。

過去について尋ねると、幸せな子供時代を「送ったに違いない」と思うとマリリンは答えたが、12歳になる前のことはほとんど思い出せなかった。(p206)

過去の記事で取り上げたように、ガボール・マテは、身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価の中で、「自分は幸せな家庭で育った」という偽りのポジティブシンキングにはまりこんでしまっている人たちがいると述べています。

ここに働いているのは、一種の逆「偽りの思い出症候群」である。

意識的なレベルでは、人はだいたい子供時代のいいことだけを覚えている。嫌な出来事を思い出すにしても、その出来事の感情は抑圧されているのである。(p361)

過去の出来事は覚えているが、それにまつわる心の傷は思い出さないというときには、この種の“解離”が働いている。

人が「幸せな子供時代」を回想するのはそれが理由なのである。(p363)

病気の人が習慣にしがちな偽りのポジティブ思考とは何か
病気の人はポジティブシンキングを身につけるようよくアドバイスされます。しかし意外にも、ポジティブに見える人ほど病気が重いというデータもあるのです。「身体が「ノー」と言うとき―抑圧さ

これは特に、「回避型」と呼ばれる愛着スタイルを抱える人に多い傾向です。

本当に幸せな子ども時代を送った人たちは、「安定型」の愛着スタイルを持っており、幼少期の良い出来事も悪い出来事もはっきりと回想することができますし、心身の不安定さを見せることもありません。

しかし「回避型」の人たちは、幸せな子ども時代を送ったと述べはしますが、具体的なエピソードはあまり思い出せず、原因不明の身体的な不調を抱えていて、ときおり解離症状を見せるという特徴があります。

きっと克服できる「回避型愛着スタイル」― 絆が希薄で人生に冷めている人たち
現代社会の人々に増えている「回避型愛着スタイル」とは何でしょうか。どんな特徴があるのでしょうか。どうやって克服するのでしょうか。岡田尊司先生の新刊、「回避性愛着障害 絆が稀薄な人た

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で、回避型の愛着を、「感じることのない対処」と呼んでいます。

なぜなら、この回避型の愛着の人たちは、心ではストレスを意識せず、身体だけがストレスに反応して心拍数を上げたり、過覚醒になったりといった反応を見せるからです。(p191)

回避型の愛着の人たちの特徴は、分離脳研究が示していた、理由のわからないストレスを感じる左脳の自己と、ただ無言のうちに抱え持つ記憶に反応している右脳の自己の関係とよく似ています。

回避型の愛着の人が、さまざまな不調を抱えながら、言葉では「幸せな子ども時代」を送ったと述べるのは、決して無理をしているわけでも、嘘をついているわけでもありません。

それはちょうど左脳の自己が、麻酔をして眠っている間に右脳の自己が経験したことをまったく知らなかったのと同様です。

また、解離性同一性障害の生存者人格が、身代わりになって自分を生き延びさせてくれた犠牲者人格のトラウマ的体験の記憶を知らないのと同様です。

すなわち、「回避型」の愛着スタイルの人が「幸せな子ども時代だった」といえるのは、別の誰かが、身代わりまた犠牲になって、辛い記憶を引き受けてくれているからこそ言える言葉です。

そもそも「回避型」の人が回想するような理想化された子ども時代は現実にはありえないもので、本当に愛情に満ちた子ども時代とは、「安定型」の人たちが回想するような、良いことも悪いこともあるなかで成長していくものです。

心身に明らかにトラウマ反応類似の異常が出ているのに、臆面なく「幸せな子供時代だった」と言いきってしまえるのは、身代わりになった内なる別のだれかを意識から解離して「感じることのない対処」に陥っているのでない限り説明できないほど不自然です。

原因不明の身体の緊張や疲労などの症状は、解離された過去の記憶を代わりに抱え持ってくれている、身代わりとなった内なる人格の心の声であり、言葉にならない悲鳴のようなものです。

内的家族のだれかが辛い記憶を抱え、すすり泣いているとき、その心身の反応は共有されていても、記憶は共有されていません。そのため、過去に何もなかったはずなのに、症状だけが出ているという不可解な状態になってしまうのです。

結果、「回避型」の愛着スタイルの人は、原因不明の身体疾患を訴えたり、謎めいた抑うつ症状を脳の病気とみなして抑え込んだりするだけで、根本的な治療を求めることはありません。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でヴァン・デア・コークは、そのような人たちについてこう書いています。

彼らの大半は、さまざまな医師を訪ね、癒えることのない病気を治療し続けるほうが、過去の魔物たちに立ち向かう、つらい課題をこなすよりもましだという、無意識の決定を下してしまったように見える。(p167)

内なる自己を見つける

もし自分がスイッチングを起こしていたり、回避型の愛着のような内的家族の見えない不和を抱えていることに気づいた場合、何ができるでしょうか。

必要なのは内なる別の自己の存在に気づくことです。

たとえば、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、理由のわからない抑うつ感などを抱えている場合、それは内なる別の自己の感情であることを認め、その自己がなぜ泣いているのかを知ろうとする必要があります。

J.G.Warkins,1997は、抑うつ感を人格化する例としてこれを説明している。

「私たちは、抑うつ感が想像の中でどのように感じられるのか、そして、それに苦しんでいるのが誰で、どのような人物なのかを知る必要がある」(p626)

感情を人格化する、というと、精神論的で奇妙なものに思える人がいるかもしれません。空想上のままごと遊びみたいだという人もいるでしょう。

しかし、あなたという自己が、名前を持ち、ひとりの人格としてアイデンティティを持っているのはどうしてでしょうか。

たとえば、あなたが生まれてから一度も名前を呼ばれたことがなく、じめじめした暗い部屋にたった一人で生きてきたとしたら、あなたは自分が誰であるか、どうやって識別できるようになるでしょうか。

あなたもまた、最初は、名前もない、ただの感情の塊にすぎませんでした。ただ泣きわめき、感情と衝動のままに行動することしか知りませんでした。

しかし親があなたの名前を呼び、あなたが誰であるかを教えてくれたおかげで、あなたは徐々に、自分は何者であるかが認識できるようになってきました。そして、自分の感情や行動をコントロールできるようにもなっていきました。

ヴァン・デア・コークは視力も聴力もなく、自分を呼ぶ声に気づけなかったころのヘレン・ケラーを引き合いに出しています。

彼女は、言葉を見つけるまで、「手に負えない孤立した生き物」でした。しかし、サリヴァン先生によって「water」という言葉を見つけたとき、はじめて自分が何者であるか識別できるようになり、半年後に「I」(わたし)という言葉を使い始めました。(p384)

ときおり話題になる、動物に育てられた人間の子どもの場合もこれと似ているのでしょう。言葉によって呼びかけられ、名前で呼ばれることがなければ、ただの感情の塊は自分が何者であるか識別できず、ひとりの人格として目覚めることができません。

そうであれば、あなたの中にいる、まだ名前のない感情の塊も、あなたと同じなのです。だれかがそれに気づいて、名前をつけ、自分が誰なのかを教えてやらなければ、いつまでも感情のままに行動することしかできないのです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、マリオン・ウッドマンはこうアドバイスしています。

つらすぎて正視できない、その影は、私たちが生きなかった、最良の人生を宿しているのかもしれない。

地下室に、屋根裏部屋に、ゴミ箱の中に、入っていきなさい。そこで尊いものを見つけなさい。

食べ物も水も与えられていない獣を見つけなさい。

それは、あなただ!

この顧みられずに、追放され、注意を向けてもらいたがっている獣は、あなたの自己の一部だ。(p377)

内なる家族に自ら気づく創造的な人たち

不思議なことに、なかには、このような働きかけをせずとも、内なる家族の存在におのずと気づいてしまう人もいます。

たとえば、脳神経科医オリヴァー・サックスは、道程:オリヴァー・サックス自伝の中で、自己の「連続性」について疑問を感じることがある、と述べています。(p426)

私はいつからか時間のことを考えていた―時間と知覚、時間と意識、時間と記憶、時間と音楽、時間と運動、とくに、私たちの目に切れめないように映る時間と運動の経過は錯覚なのだろうかという疑問に、たちもどっていた。

私たちの視覚経験は、じつは一連の時間を超越した「瞬間」で成り立っていて、それが脳内の高次のメカニズムによってひとつにまとめられているのではないか。(p425)

独特すぎる個性で苦労してきた人の励みになる脳神経科医オリヴァー・サックスの物語
書くことを愛し、独創的で、友を大切にして、患者の心に寄り添う感受性を持った人。2015年に82歳で亡くなった脳神経科医のオリヴァー・サックスの意外な素顔を、「道程 オリヴァー・サッ

オリヴァー・サックスによると、かの有名なジークムント・フロイトは、68歳だった1924年に、カール・アブラハムへの手紙の中で、自身の「人格の統一性」について不思議に感じていることを吐露しています。(p427)

またこのブログの過去記事で取り上げたように、プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちによると、作家のヴァージニア・ウルフは、自己の不連続性を強く意識していて、それが「ダロウェイ夫人」などのユニークな小説を書く動機になりました。

彼女は自分が「一つの状態でない」ことを発見した。「病気であることが、人を何人かの別々の人に分裂させるなんて、じつに妙だ」と彼女は述べている。

…ウルフは、精神について自分の病気から学んだこと、すなわちその移り変わりの早さ、一つではないこと、そしてその「矛盾だらけの奇妙な寄せ集め状態」を、文学技巧へと転換した。

彼女の小説の主題は、人間を知ることの難しさ、つまり「彼らはこうだとか、ああだとか」と言い切ることの困難さだった。(p254)

天才とは10代の脳の可塑性を持ったまま大人になった人? 創造性ともろさが隣り合わせ
脳の可塑性は豊かな創造性をもたらすと同時にもろさと隣り合わせ。可塑性を引き出す近年の研究や、可塑性によって「絶えず変化した人」ヴァージニア・ウルフの生涯などを通して、可塑性の光と闇

これらの人たちの共通点は、いずれも、ある程度、愛着の不安定さを抱えていたと思われることです。

オリヴァー・サックスやヴァージニア・ウルフの愛着の不安定さについては、自伝や経歴から言わずもがなですが、ジークムント・フロイトについても、岡野憲一郎先生が、岡野憲一郎のブログ: フロイト私論(9)の中で、愛着の不安定さゆえの防衛を指摘していました。

みな社会的に大きな成功を収めた人物ですが、いずれも複雑な内面を抱えていて、アイデンティティの悩みに突き動かされるがごとく、研究や創作に人一倍打ち込んだように思われます。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でヴァン・デア・コークが、「ほとんどの研究は自分探しだ」というベアトリス・ピーピーの言葉を引用しているように、彼らの業績や創作はアイデンティティの悩みの結果だったのでしょう。(p180)

近年の研究によると、解離という防衛反応は、幼少期に不安定な愛着を抱えた人特有のもので、その後の人生の家庭問題やトラウマ体験では説明できないと言われています。

解離性障害をもっとよく知る10のポイント―発達障害や愛着障害,空想の友だちとの関係など
解離性障害は深刻なトラウマ経験がなくても発症することがあり、ADHDやアスペルガーのような発達障害、愛着障害とも関係していると言われています。解離性障害の専門家の本から、役立つ10

おそらくは、内面の不連続性に自ら気づく人たちは、程度の差こそあれ、左脳の自己と右脳の自己が分かたれるかのような愛着の不安定さを抱え持っていて、自分の中にいる相異なる複数の自己の独立性を強く意識しやすいのでしょう。

分離脳研究では、左右の脳をつなぐ脳梁が切断された人に注目することで、二人の異なる自己が存在することを発見しました。

かつて、アインシュタインの脳梁がとても太かったことなどから、脳梁はより太いほうが創造性が強い、という主張がなされていました。

しかし、意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)によると、近年の研究では、左右の脳をつなぐ脳梁が細いことによって創造性が発揮される場合がある、と報告されています。

しかし驚いたことに、創造的な人間は脳梁が小さいという。

この研究に携わった研究者たちは、小さな脳梁は脳の各半球により大きな独立性を与えるのではないかと述べている。

ことによると創造性は枠組みにとらわれないことより、二つの枠組みで思考することにかかわりがあるのかもしれない。(p182)

Hemispheric connectivity and the visual-spatial divergent-thinking component of creativity. - PubMed - NCBI

以前の記事で取り上げたように創造性には少なくとも二通りあって、統合失調症や自閉傾向と関係していると思われる数学・科学分野の創造性と、愛着障害や解離傾向と関係していると思われる芸術・文芸方面での創造性は、別個のものではないかとされています。

創造的な人は心の断崖のふちに立っている―「天才の脳科学」を読み解く
創造性とはなにか。「天才の脳科学―創造性はいかに創られるか」という本に基づいて、「通常の創造性」と「並外れた創造性」について考えています。また統合失調症との関連が強い科学者の創造性

そして、今取り上げたオリヴァー・サックス、ジークムント・フロイト、ヴァージニア・ウルフ、さらには、この記事で参考にした本の著者マイケル・ガザニガ、ノーマン・ドイジ、ヴァン・デア・コークなどはみな、後者の創造性を有しているように思えます。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳によると、子ども時代にトラウマを経験した人では、左右の脳をつなぐ脳梁が細いことが知られています。

虐待されたりネグレクトされた経験のある男児では、脳梁の中央部が対照群に比べて明らかに小さいことを発見した。

また男児では、ネグレクトが他のどの虐待よりも各脳梁部位のサイズ減少に影響が大きいことがわかった。

一方女児では脳梁中央部のサイズと最も強い関連があったのは性的虐待であった。(p66)

ネグレクトや性的虐待は、回避型の愛着や解離症状のリスク要因でもあります。

また、9-10歳ごろの学童期のトラウマ体験が、より強いダメージを脳梁に与えやすいという研究結果もあるそうです。(p78-79)

オリヴァー・サックスは幼少期に疎開体験という一種のネグレクト状態に置かれたことが自身の愛着の不安定さの要因だとみなしていましたし、ヴァージニア・ウルフは学童期の性的虐待のサバイバーです。

もしかすると、不安定な愛着を抱える人が内面の複数の自己に気づきやすく、同時に文芸などの分野で芸術的創造性を発揮しやすいのは、左右の脳をつなぐ脳梁が細く、右脳と左脳が別々の人間のように振る舞いやすいこと、そしてその結果、心の理論など複数の視点で考える能力が発達しやすいことから来ているのかもしれません。

イマジナリーコンパニオン―セルフ内的家族システム療法

自己の不連続性に気づく人の中には、単に自分の中に複数の自己がいることを認めるどころか、内なる別の自己の存在を自然と受け入れ、コミュニケーションを取っている人たちもいます。

内的家族システム(IFS)療法を教えられるまでなく、内的家族とやりとりすることを自然と覚えてしまう人たちです。

その一例は、このブログでも何度か取り上げてきた、10代以降にも残っているイマジナリーコンパニオン(空想の友だち)でしょう。

イマジナリーフレンド(IF)「私の中の他人」をめぐる更なる4つの考察
心の中に別の自分を感じる、空想の友だち現象について、子どものイマジナリーフレンド、青年期のイマジナリーフレンド、そして解離性同一性障害の交代人格にはつながりがあるのか、という点を「

イマジナリーコンパニオンを持つ人たちの多くは、いつしか自然と自分の中の他人、つまり内的家族のだれかと話すようになったといいます。物心ついたころにはすでに、自分とは別のだれかがいることが当たり前だったと言う人もいます。

こうした人たちは、おそらくは、ヴァン・デア・コークが述べるところの、解離のスペクトルにおいては、解離性同一性障害(DID)にかなり近い位置にいる人たちなのでしょう。

自分自身が一つではなく、明らかに別の自己に思える存在が心の中にいるために、おのずから、内的家族の存在に気づくことができます。

解離性同一性障害と異なっているのは、内的家族との仲の良さ、であると言えるかもしれません。

イマジナリーコンパニオンを持つ人たちも、解離性同一性障害の人たちも、強い解離傾向を持っていて、内的家族の独立性が強いのは同じです。だからこそ、はっきりとした別の人格だとわかります。

しかし、解離性同一性障害の人たちは、独立性のある内的家族同士が互いに反目し、口も利かないような分裂状態になっています。

一方のイマジナリーコンパニオンを持つ人たちは、独立性のある内的家族と仲良く接していて、親密なコミュニケーションを保っています。

ある意味では、イマジナリーコンパニオンを持つ人たちは、自身が抱える愛着の問題と無意識のうちに向き合い、自己治療のようにして、セルフ内的家族システム療法をやるようになった、とみなせるかもしれません。

しかし、たとえそうであっても、イマジナリーコンパニオンを持つ人たちには、内なる自己を知る内的家族システム療法を行う必要がない、というわけではありません。

というのは、たとえ内的家族の存在を知って、平和裏にやりとりしているとしても、内的家族の成員すべてを知っているとは限らないからです。内的家族の中に、「仲間はずれ」にされている自己がいるかもしれないのです。

内なる家族をとりまとめる

内的家族システム療法では、理由のわかない感情や、理解しにくい衝動を感じたとき、「私の中の何がそう感じているのか」と自問し、その自己のイメージを思い描きます。

そして、立ち現れた内なる自己と話し合いを始め、その自己とは誰なのか、何を感じ、何を求めているのか、自分とは別の他人とみなして理解を深めていきます。

この手法は、日本国内でも行われている「自我状態療法」とほぼ同じなので、以下の記事を参考にしてください。

トラウマを治療する「自我状態療法」とは? 複数の自己と対話する会議室テクニック
「図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法」という本から、トラウマを治療するのに使われる自我状態療法として、解離のテーブルテクニック・会議室テ

また、こちらの方の記事では、実際に内的家族システム療法を体験した経験談が書かれています。

自分の中のキャラを引き出す — 花川ゆう子、Ph.D. サイコロジスト 

こうして自分の内面の自己を探るうちに、さまざまな自己を見つけることになります。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によれば、それらさまざまな自己には、大きく分けると「追放者」「管理者」「消防士」という呼び名が当てられています。

追放者(exile)

まず、「追放者」とは、幼少期の辛い体験のときに身代わりとなり、トラウマ記憶の重荷を引き受けている、いわゆる「犠牲者人格」や「身代わり天使」のことです。

しかし、内的家族システム療法において、この自己が「犠牲者」ではなく「追放者」と呼ばれていることには理由があります。

私たちには誰にでも、子供っぽいおどけた部分がある。

だが虐待を受けると、こうした部分は最も大きく傷つき、虐待による苦痛や恐怖、裏切りを背負わされ、凍りつく。

この重荷のせいで、そうした部分は有害な存在、すなわち、どのような犠牲を払っても否認しなければならない部分になる。

そうした部分は内側に閉じ込められてしまうので、IFSでは「追放者(exile) 」と呼ばれる。(p464)

犠牲者人格は、辛い記憶を背負わされているために、危険で有害な存在とみなされ、他の自己から遠ざけられ、黙殺されています。つまり、解離されています。

他の内的家族と親しくして、イマジナリーコンパニオンのように会話している人でも、内的家族から遠ざけられているこの「追放者」の存在に気づいていないことがあります。

原因不明の気分の落ち込みや悲しみ、怒りといったネガティブな感情が生じる場合、それは何らかの辛い記憶を抱え持つ「追放者」が、ひとりぼっちにされたまま すすり泣いていることを示唆しているといえます。

彼らは現実の大部分を否認したり、分離したりすることによって生き延びる。虐待を忘れ、憤激や絶望を抑え込み、身体的感覚を麻痺させる。

もしあなたが子供のころに虐待を受けていたとしたら、あなたの中にはおそらく当時のまま凍りついた子供のような部分が残っていて、今なお、そうした自己嫌悪や否認をやめられずにいるだろう。(p459)

こうした「追放者」としての自己は、「インナーチャイルド」と呼ばれていることもあります。

管理者(manager)

内的家族システム療法では、インナーチャイルドとしての「追放者」のほかにも、さまざまな内なる自己が存在していることがわかっています。

身代わりとなって犠牲にされた「追放者」を隔離し、その存在をなかったかのように思わせているのは、「管理者」です。

批判的で完璧主義者の「管理者(manager)」は、私たちがけっして誰にも近寄らないようにすることも、絶えずしゃにむに生産性を追求するように仕向けることもできる。(p464)

「管理者」はトラウマ体験を負った人が、その体験を思い出さないようにし、あたかも何事もなかったかのように日常生活を送れるよう助けている人格部分です。ときにこの自己は「守護天使」とも呼ばれます。

「管理者」は冷静かつ批判的で、あなたが傷つけられないよう気を配っています。再び辛い経験をしないよう、常にまわりの空気を読んで立ち回り、厖大なエネルギーを費やしています。

「管理者」は、ときに有能な完璧主義者のように振る舞うので、生産性を追求したり、めざましい業績を挙げたりして、社会的に成功して責任ある立場に就くトラウマのサバイバーもいます。

「管理者」の過剰なまでの自己コントロールは、過剰同調性と呼ばれる傾向として現れることもあります。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か
空気を読みすぎる、気を遣いすぎる、周囲に自分を合わせすぎる、そのような「過剰同調性」のため疲れ果ててしまう人がいます。「よい子」の生活は慢性疲労症候群や線維筋痛症の素因にもなると言

消防士(firefighter)

最後の3つ目のタイプは「消防士」と呼ばれています。

トラウマを抱えた人は、ふだんは「管理者」にコントロールされ、過剰なまでに気を遣ってうまく立ち回るかもしれませんが、エネルギーを使い尽くしたり、トラウマを思い出させるトリガーに遭遇したりすると、「追放者」が反応し、暴れだします。

そのような場面で、なりふり構わずになんとしてでも「追放者」を閉じ込めておき、その存在を葬り去ってしまおうとする火消し役が「消防士」です。

IFSで「消防士(firefighter)」と呼ばれる別の種類のプロテクターたちは、緊急時の対応にあたる存在で、追放された情動が喚起されるような体験をするたびに、衝動的に行動する。(p464)

「消防士」は、冷静にコントロールして危険を避けようとする「管理者」とは対極にあり、文字どおりどんな手を使ってでも、「追放者」を封じ込めようとします。

たとえば、衝動的にリストカットして意識を飛ばしたり、アルコールやコンピューターゲームに依存させて我を忘れさせたり、行きずりのセックスで感覚を麻痺させたり、火消しのためにはなんでもします。

内的家族が分裂している人の場合、問題を起こしているように見えるのは、たいていの場合、「追放者」と「消防士」です。

ふだんは「管理者」がコントロールしている理性的な人物が、ときどき、意味もわからず気分の落ち込みや変動を感じたり、衝動的な行為や依存症にとらわれたりしてしまい、どうやってもそれをなんとかできないので、困惑して、医療の門を叩きます。

意味もわからず生じる気分の落ち込みや変動、自殺衝動などは、閉じ込めている「追放者」が泣きわめいている声です。

異常とも思える衝動的な行動は、「消防士」がなりふり構わず、泣きわめく「追放者」を牢獄に閉じ込めておくための非常手段ですが、ただの問題行動にしか見えません。

それで、医者は感覚を麻痺させ、感情を抑制する薬を出します。それは、牢獄の中で暴れている「追放者」をおとなしくさせる鎮静剤です。

すると、麻痺させられた「追放者」は静かになり、「消防士」には頑張る必要がなくなるので、症状は消えます。ふたたび「管理者」の手にコントロールが戻り、日常がまわるようになります。

ただし、牢獄の中で悲痛な叫びを挙げている「追放者」をつねに鎮静剤で眠らせるために、ずっと薬を飲み続けるならば、のことです。

そして「管理者」も「消防士」も、いつ目覚めるかわからない「追放者」にずっとピリピリしているため、緊張に満ちた家庭のような状態になり、内的家族の一致は永遠にもたらされません。

ヴァン・デア・コークはトラウマ治療にさまざまな薬を使っていますが、薬が有用なのは、トラウマに向き合うセラピーに取り組みやすくする目的で用いる場合のみだと考えています。あくまで薬は治療の「補助輪」のようなものなのです。

「セルフ」(自分そのもの)によるリーダーシップ

このような内的家族の分裂を解消するために、内的家族システム療法では、「セルフ」(自分そのもの)によるリーダーシップを育んでいくよう助けます。

つまり、あなた自身がリーダーシップを発揮して、内なる自己、また内的家族である「管理者」や「消防士」と話し合うようにします。そして、彼らが決して外に出すまいと閉じ込めている「追放者」の存在に気づき、面会します。

自分自身とどれだけうまく折り合いをけられるかは、自分の中のリーダーシップ技能に負うところが大きい。

さまざまな部分の言い分にどれだけうまく耳を傾け、それぞれが尊重されていると感じられるように気を配り、互い足を引っ張り合わないようにしておけるか、だ。(p461)

有能な「管理者」はともかく、トラウマ体験の記憶とネガティブな感情に支配された「追放者」や、衝動的な自己破壊行動で緊急対応する「消防士」は、一見すると厄介者ですが、それらを家族の一部として理解し、抱きしめ、包み込むことが目的です。

この共同作業は、すべての部分が歓迎されること、そして、現在どれほど自己システムを脅かしているように思えても、どの部分も(自殺衝動があったり、破壊的な行動に走ったりする部分でさえも)、すべてシステムを守る方策として形成されたということを、内部システムに納得させるところから始まる。(p466)

内的家族が分裂している状態では、家族のリーダーシップをとるあなた自身(セルフ)はほぼ存在していないかのように見えます。

というのも、ふだん身体の指揮をとっているのは批判的な「管理者」だからです。あるいはトラウマ記憶が強すぎて、理性的に考える力を失っている人の場合は、「消防士」が取り仕切っていることもあります。

極端な幼少期のトラウマを経験した人の場合、自分そのもの(セルフ)を認識する脳の領域が停止していて、鏡に映った自分を自分だと認識できないことさえあります。

鏡が怖い,映っているのが自分とは思えない―解離性障害は「脳の地図」の喪失だった
わたしたちの脳は「バーチャルボディー」と呼ばれる内なる地図を作り出しているという脳科学の発見から、解離性障害、幻肢痛、拒食症、慢性疼痛、体外離脱などの奇妙な症状を「身体イメージ障害

しかし、どれほど混乱して分裂していても、内的家族システム療法では、必ず無傷の「セルフ」が生き残っていると考えます。

そもそも、「管理者」や「消防士」といった内的家族の面々が必死になっているのは、どこかに無傷の「セルフ」が残っていて、守る必要があるからなのです。

内的家族システム療法で、内なる自己の「管理者」や「消防士」、「追放者」を特定し、それらを分けて考えていくと、いつしか、本来のあなた自身「セルフ」が出てこられるようになります。

内的家族システム療法は、患者が生き延びるために創り出した、分離された部分を呼び出して、その人がそれらを特定し、それらと話せるようにし、その結果、無傷の「セルフ(自分そのもの)」が出てこられるようにする。(p509)

そして、「セルフ」(自分そのもの)によるリーダーシップを取り戻し、あたかも「セルフ」が一家の大黒柱、便りになるお父さんのような存在へと成長してしていくにつれ、内的家族を取りまとめる方法が見えてきます。

家族であれ、組織であれ、国家であれ、どのようなシステムも効果的に機能するためには、明確に定められた優れたリーダーシップを持っていなければならない。

内的家族も例外ではなく、私たちの「セルフ」も、そのあらゆる側面に目配りする必要がある。(p467)

「セルフ」を発見し、「セルフ」によるリーダーシップを取り戻し、「管理者」や「消防士」、そして「追放者」といった内なる自己一人ひとりの言い分を尊重し、ひとつの家族として一致できるよう結び合わせたとき、心身の問題はおのずと快方に向かいます。

「追放者」が一人で抱え持っていた記憶が癒やされれば、「追放者」は泣きわめく必要がなくなります。すると、「管理者」と「消防士」がやっきになって火消しをする必要もなくなります。家族が一致すれば、スイッチングが生じることもありません。

この本の中で、ヴァン・デア・コークは、内的家族システム療法を用いて治療した人たちの具体例をいくつか載せています。

その中には、自分でも理解できない癇癪やセックス依存に悩まされ、「どれが本当のわたしなのか、自分でもわかりません」と述べたジョーンがいます。彼女は「消防士」のなりふり構わない行動に振り回されていました。

また非常に尊大な医者で、自分には何の問題もなく、妻の気難しさを治してほしいと言ってきたピーターの例も載せられています。彼の場合は、「批判者」が思考を乗っ取っていました。

自己愛性パーソナリティ障害代理症―人をモノ扱いする夫を持つ妻と子どもの苦痛
さまざまなパーソナリティ障害を説明している本、「パーソナリティ障害とは何か」から、自己愛性パーソナリティ障害の特徴や、その周りの人が抱え込む苦痛への対処法について解説しています。

また、自己免疫疾患の関節リウマチなど、身体疾患に対しても内的家族システム療法を導入して効果があったという臨床研究の結果も載せられています。(p482)

内的家族の不和が身体疾患の直接の原因だというわけではないにしても、「管理者」の過剰なコントロールなどが闘病を難しくして、重荷を増し加えている場合があるからです。

ほどなく根本的な問題が発覚した。多くのトラウマサバイバーと同じで、関節リウマチ患者もまた失感情症だった。

のちにナンシー・ソーウェルから聞いたのだが、患者たちはとても耐えられない状態にならない限り、苦痛や身体的な不自由について決して不満を訴えなかった。

いかがですかと問われると「大丈夫です」と判で押したように答えた。

患者たちの毅然とした部分が問題への対処に役立っているのは間違いなかったが、そうした管理者のせいで、患者は何でも否認する状態に陥っていた。(p483)

内的家族システム療法に関心のある人は、ぜひ、この本をじっくり読んでみるようお勧めします。

この本全体の感想についてはこちらの記事でまとめていますので、参考にしてください。この記事と合わせて読めば、より理解が深まると思います。

身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

「右脳には言いたいことがある」

内なる自己の存在に気づき、その言い分に耳を傾ける方法は、内的家族システム療法だけではありません。

ノーマン・ドイジは、この記事でも参考にした脳は奇跡を起こすの中で、幼少期に右脳の自己が経験した愛着トラウマを理解するためにをヒントにしています。

右脳の自己が持っている記憶は、左脳の自己からアクセスできないところにある潜在記憶ですが、夢を見ているレム睡眠の状態では、ときおり潜在記憶が悪夢などの形で再生されることがあります。

夢を見ている状態で、解離されている潜在記憶にアクセスしやすくなるのは、レム睡眠が記憶の整理の役割を持っているからですが、それと似たメカニズムは、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)としてトラウマ治療で活用されています。

子ども時代の慢性的なトラウマ経験がもたらす5つの後遺症と5つの治療法
子ども時代の慢性的なトラウマが、統合失調症や双極性障害と見分けにくい様々な問題をもたらすことや、その治療法としてトラウマフォーカスト認知行動療法、自我状態療法などが注目されている点

また、ガザニガが指摘していたように、左脳の自己は言語機能を持つのに対し、右脳の自己は言語機能を持たないため、感情を表すことはできても、具体的な言葉にして伝えることができません。

内的家族システム療法で内なる自己と会話するとしても、言葉によるコミュニケーションは、左脳の言語機能を通して解釈されています。

それでは、右脳の自己に、自分の記憶について直接語ってもらうことは不可能なのか、というとそうではありません。

ヴァン・デア・コークは 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で、アルバート・ペッソが考案したペッソ・ボイデン・システム精神運動療法(PBSP:Pesso Boyden system psychomotor therapy)という「今まで私が目にしたグループワークのどれとも違ってた」手法について紹介しています。

Pesso Boyden System Psychomotor

わたしはこの療法について読んだときに、これを考えついた人はまさしく天才ではないか、と思ったほどですが、この治療法は右半球の自己に直接語らせる極めて独創的な手法です。

一言で言うと、これは三次元的な箱庭療法であり、実在の物と人物を用いて、右半球が抱え持っている言葉にできない記憶を視覚化します。

右半球には言語機能がないといっても、左半球より劣っているというわけではなく、ガザニガが右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中で述べるとおり、右半球にもまた特化した役割があります。

左半球のほうが言語情報の処理に長け、右半球は顔などの視覚情報の処理に長けているということもわかった。

つまり、半球の能力がそれぞれ特化しているのだ。提示された種類の情報を専門とする半球は、その種の情報のあつかいが上手である。(p315)

左半球が言語機能に長けているのに対し、右半球は視覚情報の処理に長けていて、顔の表情や身振り、空間的な位置などの把握に特化しています。

つまり、左脳の自己は、体験したことを言葉という文脈に当てはめて記憶しますが、右脳の自己は、体験したことを空間的に散らばる断片として記憶しています。

そのせいで、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれているとおり、左脳の自己が停止し、右脳の自己に支配されると、断片的で脈絡のない記憶がフラッシュバックします。

脳の左側と右側では、過去の痕跡の処理の仕方も著しく異なる。

左脳は事実や統計的数値、出来事を描写する言葉を記憶する。私たちは左脳に、自分の経験を説明したり整理したりしてもらう。

右脳は音や声、触感、匂い、それらが喚起する情動の記憶を保存する。また過去に見聞きした声や目鼻立ち、仕草、場所に自動的に反応する。

右脳が思い起こすことは、直感的な事実、すなわち物事の実際のありようのように感じられる。(p82)

これらの画像からは、フラッシュバックの間、研究の参加者たちの脳は、右側だけしか活性化しなかったこともわかった。(p81)

では、言葉も文脈も持たない右脳の自己に語らせるためにはどうすればいいのか。

それは、左脳の自己の文法ではなく、右脳の自己の文法にそって語れる場を作ってやればいいということになります。

PBSP療法は自分のまわりの空間を使って、三次元的な箱庭療法をすることで、右脳の自己が持っている言葉にならない空間的な記憶をストラクチャー(構造体)として再現します。

私はストラクチャーを実施するたびに舌を巻くのだが、脳の右半球はじつに的確に外部への投影を行なう。

主役は常に、自分のストラクチャーのさまざまな登場人物がどこにいるべきかを、正確に心得ているのだ。(p502)

この手法は、言語を用いた心理療法では効果が見られないような、誰にも安心感を抱いたことがなく、空虚感を感じている人たちに特に効果があるとされています。

すでに見たとおり、言語機能としてのインタープリター(解釈者)は、基本的に左脳特有のものですが、だからといって右脳が解釈能力に劣っていて、まともに話せない、というわけではありません。

むしろ右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -によると、ガザニガは、その後の研究によって、左脳には言語機能のインタープリターがあるのに対し、右脳には視空間認知機能に特化した別のインタープリターが存在するという結論に至っています。

左半球にインタープリターがあると同時に、右半球にも視覚情報のインタープリターがあることを発見したのだ。

つまり、二つの視覚的な物体が同じ方向を向いているのかどうかを判断する能力を授けてくれる特殊なプロセスが右半球にあるのだ。しかもこの機能は右半球だけに特化している。

話ができ分析が得意な左半球であっても、右半球から分離されるとこんな単純な作業もできない。(p348)

つまり、左半球の自己がお手上げになるような複雑な内的家族の問題があった場合、まったく異なる才能に特化している右半球の自己に語らせれば、解決の糸口が見つかるかもしれないというわけです。

右脳に語らせる、というこの独創的な手法について読んだとき、わたしはマイケル・ガザニガが述べていた印象的なフレーズを思い出しました。

右脳には言いたいことがある (p284)

「多数でありながら一人の自己」

この記事では、マイケル・S・ガザニガとロジャー・スペリーによる分離脳研究が明らかにした、左脳の自己と右脳の自己という発見から始まり、「単一の自己」というのは思い込み・錯覚であり、わたしたちには内なる「複数の自己」があるのが普通である、という最新の認知科学の概念について考えてきました。

そして、わずか生後数年間に時期の親子の触れ合いによって生じる「愛着」が、生涯にわたって影響をもたらすのは、その時期にいち早く目覚めていた右脳の自己が幼少期の出来事を記憶していて、左脳の自己の知らないところで「再演」するからだ、という理解を得ました。

また、幼児期健忘が、右脳の自己という内なる他人の存在を示唆しているように、回避型の愛着スタイルの人の過去の記憶の乏しさもまた、だれか別の内なる自己が身代わりとなって記憶を引き受けていることを示唆している、という類似点を考えました。

わたしたちは誰しも内なる複数の自己からなる内的家族システム(IFS)を有していますが、たいていの人は内的家族が一致して、セルフによるリーダーシップが働いているので、自己が複数であることを意識しません。

しかし内的家族が分裂していると、気づかないうちに他の自己と切り替わってしまうスイッチングや、極端な場合は内的家族が反目しあっている解離性同一性障害(DID)、いわゆる多重人格として複数の自己が表に出てきてしまう、ということがわかりました。

つまり、スイッチングや解離性同一性障害(DID)によって複数の自己が現れてしまう人の場合、問題なのは自己が複数存在することではなく、複数の自己を取りまとめる「セルフ」が機能していないことなのです。

解離性障害の専門家である柴山雅俊先生は、解離の構造―私の変容と〈むすび〉の治療論―の中で、解離性同一性障害の治療に必要なのは、「むすぶこと」「包むこと」だと述べます。

断片化した魂同士がむすばれるためには、それらが互いに包まれることが必要である。

犠牲者としての交代人格は外傷の記憶をひとりで抱え込んでいた。

すでに述べたように、生存者は切り離されていた犠牲者人格を包み返す必要がある。

つながるとはそこでしっかりとしたやりとりがなされることである。

解離性障害の治療において重要なことはたんに一つの人格にすることではない。

必要なことはそれぞれの魂が「包まれる」とともに「つながり」を回復していく過程であり、それによって〈むすび〉すなわち生成する生命の力を奮い立たせることにある。(p236)

内的家族システムとして考えたとき、「むすぶこと」とは、互いに意思疎通ができていない内的家族のメンバー 一人ひとりの仲を取り持ち、家族としての絆を結び合わせることだとわかります。

そして「包むこと」とは、複数に分かれてしまった内的家族のメンバーを、「セルフ」であるあなたが、ひとつの家庭としてまとめ上げることを意味しています。

柴山先生は、解離の舞台―症状構造と治療で、フィリップ・ブロンバーグの言葉をこう引用しています。

できるだけ簡潔に言うと、ひとつの統合された自己―「現実のあなた」―というものは存在しない。自己表現と人間関係は必然的に衝突するだろう。(…)

しかし健康とは統合することではない。健康とは、さまざまな現実とのあいだの空間に、それらのうちにどれも失うこともなく立つ能力である。

これこそ私が考える自己受容の意味であり、創造性は実際にすべてこのことと関連している。

すなわち多数でありながら一人の自己であるかのように感じる能力のことである。(p250-251)

わたしたちの内面に、複数の自己が存在することは当たり前なのです。「ひとつの統合された自己」というものはありません。文字どおりの家族のメンバーと同じように、一人ひとりは別々の個性、記憶、感情を持っています。

しかし文字どおりの家族が、異なる複数のメンバーから成り立っていても、ひとつの家族として一致団結できるように、内的家族の一人ひとりが、「セルフ」(あなたそのもの)のもとに一致するとき、「多数でありながら一人の自己」と感じられるようになります。

文字どおりの家族が、それぞれの才能や能力を活かして互いに補い合い、喜びも苦難も共にして生きていくように、内的家族もまた、固い絆で結び合わされ、人生の諸問題を協力して乗り越えていけるようになるのです。

解離と愛着から考える空想の友だち―イマジナリーコンパニオンに「出会う」人「作る」人の違い

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■幼児期の子どもの半数近くに見られる空想の友だち
■小学校高学年ごろに一部の子どもに現れるイマジナリーコンパニオン
■アスペルガー症候群の子どもがしばしば持つイマジナリーコンパニオン
■遭難事故などの極限状況で現れるサードマン
■自ら願って作りだすイマジナリーフレンドやタルパ

のブログでは、解離や愛着について扱う中で、それらと深く関係していると思われるイマジナリーフレンド(空想の友だち)という現象についても取り上げてきました。

ひとえに空想の友だちと言っても、上にリストアップしたように、様々なタイプが存在しています。幼児期に現れるもの、学童期に現れるもの、果ては遭難した大人が出会うものまで様々です。

このブログで主に扱ってきたのは、健常な発達の過程で現れる幼児期のイマジナリーコンパニオン、そして少数ながら青年期にまで存在するコンパニオンです。いずれの場合も、どこからともなくいつの間にか現れる、という性質が共通しています。

ところが、ネット上を調べてみると、イマジナリーフレンドを「作りたい」、と思っている人たちが少なからずいることに気づきました。タルパとして知られる概念も、これに類するものでしょう。

様々な時期ごとに現れるイマジナリーコンパニオンや、望んで作ったイマジナリーフレンドは、それぞれ同じものなのでしょうか。それともケースごとに異なる特徴があるのでしょうか。

この記事では、どれが本物か、どれが正しいか、といった意味ではなく、似ているように見えても、それぞれ成り立ちの部分に大きな違いがある、という観点から、さまざまなタイプの空想の友だちと、解離・愛着のつながりについて整理してみたいと思います。

これはどんな本?

今回の記事は、おもに、岡野憲一郎先生の解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合と、柴山雅俊先生の解離の舞台―症状構造と治療という、国内の解離の専門家として双璧を成しているともいえるお二人の書籍に基づいています。

前者は脳科学に基づく客観的な分析、後者は患者の体験に基づく主観的な分析からなる、趣の異なる二冊ですが、いずれも解離について並外れた洞察が感じられるところは共通しています。

そして、どちらの本でも、解離の周辺体験として、イマジナリーコンパニオンについての記述がいくらか出ており、その意味を読み解くヒントを与えてくれます。

「出会う」と「作る」の違いはなぜ大切なのか

まず、冒頭でリストアップした様々なタイプの空想の友だちを、大きく2つのグループにわけて考えたいと思います。

簡単にいえば、上の4つはいずれも無意識のうちに勝手に現れ「出会う」もの、最後の1つは自分で意識的に「作る」ものという違いがあります。

一見したところ、「出会う」も「作る」も、たいした違いではないように思えます。

しかし、以前の記事で、両者はあくまでも別個のものとして分けて考えるべきではないか、と説明しました。このブログで扱っているイマジナリーコンパニオンは、基本的に「出会う」ものであって「作る」ものではありません。

イマジナリーフレンドは自分で「作る」ものなのか「作り方」があるのか
イマジナリーフレンドに「作り方」はあるのか。イマジナリーフレンドとタルパはどう違うのかを説明しています。

イマジナリーコンパニオン、すなわち空想の友だちという現象について考えるにあたり、いつの間にか「出会う」、つまり無意識のうちに現れる、といった性質を重要視するのはなぜでしょうか。

それは、最も典型的かつ一般的なイマジナリーフレンドといえる、幼児期の空想の友だち現象が、そうした無自覚の現れ方をするからです。

幼児期のイマジナリーフレンドは、だいたい2-3歳ごろに出現することが多いと言われます。当然ながら、幼児は、イマジナリーフレンドを作ろうと思ってあれこれ考えるわけではなく、どこからともなく空想の友だちが現れ、いつの間にかその存在を受け入れます。

このブログで過去に取り上げてきた青年期のイマジナリーフレンドも、いつの間にか勝手に存在するようになることがほとんどです。

イマジナリーフレンド(IF) 実在する特別な存在をめぐる4つの考察
成人・大人のイマジナリーフレンド・イマジナリーコンパニオン(Imaginary Friend/Imaginary Companion:空想の友だち/想像上の仲間)に関する詳しい考察

つまり、無意識のうちに出会う、という要素は、幼児期のイマジナリーフレンドと青年期のイマジナリーフレンドをつなぐミッシングリンクであり、両者が無縁のものではなく、何かしら共通の基盤を持っているのではないか、とうかがわせるゆえんとなっています。

このブログでは、発達心理学や精神医学におけるイマジナリーフレンド(専門的に言えばイマジナリーコンパニオン)を扱った文献を数多く取り上げてきましたが、いずれの場合も、それらは「出現」するものだとされています。意図して「作る」という説明は見かけません。

独りでに現れるという共通点があるからこそ、幼児期に現れるものも、青年期に現れるものも、同じイマジナリーコンパニオンという呼び名でくくることができるのだといえます。

解離によって「出会う」3種類のイマジナリーコンパニオン

では、幼児期のイマジナリーコンパニオンと、青年期のイマジナリーコンパニオンとに共通する、独りでにいつの間にか現れるという性質はいったい何を示唆しているのでしょか。

それは、どちらにも、解離という脳の防衛機制が関係している、ということを意味しています。

解離の働きの中には、まったく健康なレベルのものから、病的なものまで、さまざまな程度があります。

たとえば物語の世界に没入して時間を忘れたり、だれかの気持ちになりきったりするのは、だれでも経験しうる範囲の解離です。しかし、記憶が飛んだり、慢性的に現実感を喪失したりするのはトラウマ患者に生じやすい解離でしょう。

いずれの場合も共通しているのは、圧倒されるような感覚刺激から脳を守るために、何かしらの感覚を遮断して切り離す、という働きが生じていることです。つまり、解離というのは、刺激に圧倒されてしまうないよう、脳が自動的に起動するセーフティシステムのようなものです。

解離を含め、あらゆる防衛機制は無意識のうちに自動的に生じます。本人が意識していないところで生じるので、誰かに指摘されたり、客観的に振り返ったりしない限り、気づくことができません。

無自覚に生じるというその性質ゆえに、解離は、葛藤とは両立しないものです。 解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にこう書かれているとおりです。

スターンの解離理論からすれば、葛藤よりもさらに深刻な状況があり、それは葛藤が成立しない状況、心の一部が体験として成立していない解離された状態であるということになる。(p77)

葛藤なしにいつの間にか生じるのが解離であり、ああするべきか、こうするべきか、という葛藤が生じているとしたら、それは無意識の防衛機制ではありません。

それゆえに、解離によって生み出されるイマジナリーコンパニオンは、いつの間にか勝手に存在するという形をとります。作ろうか否かという葛藤が生じるとすれば、それは解離らしくありません。

解離によって生み出されるイマジナリーコンパニオンは、勝手に現れ、何のためらいもなくいつの間にか存在を受け入れていることが多いでしょう。幼児のイマジナリーコンパニオンの場合は、そのまま葛藤もなく自然に消えていきます。

児童期以降も残るイマジナリーコンパニオンの場合は、最初、自分にとって当たり前と思って受け入れていた空想の友だちが、周りの人にとっては当たり前ではなく、奇妙なことをしているのではないか、と気づいたときに始めて、困惑を含んだ葛藤を感じるようになります。

ですから、「出会う」イマジナリーコンパニオンと「作る」イマジナリーコンパニオンは、解離的なものかそうでないものか、という大きな違いをはらんでいることになります。

どうやら、イマジナリーフレンドと「出会う」人たちと、イマジナリーフレンドを「作る」人たちとでは、互いに連続性はあれど、根本のところでは正反対の傾向があるようです。

ここからは、まず、「出会う」イマジナリーコンパニオンを3種類に分けて考え、それから「作る」タイプのイマジナリーコンパニオンについて考察していきましょう。

(1)幼児期のイマジナリーコンパニオン

わたしたちは誰でも、幼児のころは感覚が未分化で、周囲の刺激が取捨選択されずに飛び込んできます。たとえば、複数の感覚が絡み合って感じられる共感覚は、幼児のころは、だれでもみんな持っていると言われています。

そのため、幼児のころは、みな感覚刺激に圧倒されやすく、それゆえに防衛機制としての解離も働きやすいのでしょう。HSPのようなひときわ感覚に敏感な子どもが、幼児期にイマジナリーコンパニオンを経験しやすいのもそのためだと思われます。

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通常、感覚の未分化は、発達とともに統合され、組織化されていきます。入ってくる情報が取捨選択されるようになるので、感覚刺激に圧倒されることはなくなり、解離も生じにくくなります。それで、幼児期のイマジナリーコンパニオンはいずれ消えていきます。

こうした幼児期のイマジナリーコンパニオンは、まったく健全なものであり、成長してからの病気とは無関係だというデータが報告されています。

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(2)学童期のアスペルガー症候群のイマジナリーコンパニオン

しかし、感覚が統合されないまま成長していく子どももいます。それはアスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)の子どもで、感覚統合障害を抱えているため、成長しても大量の情報の洪水に圧倒されがちです。

それゆえに、アスペルガー症候群の子どもは、青年期になっても、さらには大人になっても、強い解離を経験しやすいと言われています。

こうした子どもの中にも、解離傾向が強いため、イマジナリーコンパニオンを持つ子がいます。

しかし、アスペルガー症候群の子どものイマジナリーコンパニオンは、そうでない子どものイマジナリーコンパニオンとはいくぶん異なる性質があるようです。

アスペルガー症候群では生まれつき感覚刺激が強すぎて、人の目のコントラストがきつすぎる人の声が心地よく感じられないといった理由から、コミュニケーション能力の発達が妨げられるようです。

結果として、人間への興味が育たなかったり、人の気持ちを想像する心の理論の発達が遅れたりするので、イマジナリーコンパニオンは比較的現れにくいか、学童期などに遅れて現れる傾向があるようです。

以下の記事で取り上げたように、アスペルガー症候群の子どもが持つイマジナリーコンパニオンは、遊び相手というよりも、社会に適応するための仮面のような役割が見られやすいと言われています。コミュニケーションの難しさを補う必要があるからでしょう。

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また、アスペルガー症候群は、男女で症状の現れ方に違いがあると言われています。おそらくは女性のアスペルガー症候群のほうが、男性のアスペルガー症候群よりいくらか他の人への関心が育つせいで、イマジナリーコンパニオンを持ちやすいのではないかと思います。

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(3)学童期の居場所のなさからくるイマジナリーコンパニオン

一方、自閉スペクトラム症のような感覚統合障害がなく、感覚が組織化された通常の子どもたちの場合は、日常生活の感覚刺激に圧倒されて頻繁に解離が生じるということはなくなります。

しかし、特殊な環境のせいで、許容量を越えた刺激にさらされてしまうと、防衛機制として脳を守るために解離が働くことがあります。

成長期の子どもの脳にとって、逆境によってもたらされる強い刺激は、ときに耐えられないほど大きく感じられることもあり、それが解離を起こすきっかけとなりえます。

たとえば、虐待、災害、いじめ、病気などの強いストレスに、長期間、慢性的にさらされることが含まれるでしょう。解離の舞台―症状構造と治療によると、こうした解離を引き起こす逆境に共通しているのは「安心していられる居場所の喪失」です。

解離性障害の外傷として特徴的なことは、それらが共通して〈安心していられる居場所の喪失〉に結びついていることである。

本来、そこにしかいられないような場所で、逃避することもできないような状況に立たされ、きわめて不快な圧力や刺激が反復して加えられること、このような場の状況が解離を発生させ、増悪させるのである。(p140)

虐待のような鮮烈な体験に限らず、「安心していられる居場所の喪失」はさまざまな要因が絡み合ってもたらされることがあります。

たとえば、以下のような場面は、いずれも虐待ほどセンセーショナルではありませんが、子どもが「安心していられる居場所の喪失」を感じ取る可能性があるものです。

■きょうだいの誰かが病気になって家族がそちらにかかりっきりになってしまうこと
■特殊な病気や障害のため、ひとりきりで入院したままの日々を過ごすこと
■両親の不仲やステップファミリーにより、家庭内に居場所がなくなること
■親がアルコール依存症や精神疾患などを抱えていて、家庭内が緊張していること
■生まれつき感受性の強いHSPのため、学校や家庭で人いちばい緊張した空気に敏感なこと

こうした「安心していられる居場所の喪失」に直面したとき、子どもは、大人のように自分から家を出て環境を変えたり、家庭外の信頼できる大人や相談機関に助けを求めたりすることはできません。

どこらも居場所がないのに、逃げ出すことができない。そんな「逃避不能ショック」とも呼ばれる環境に置かれたとき、脳を守る最後の手段が、解離、つまり感覚を切り離して感じないようにしてしまうことです。身体が逃げられない以上、意識を逃避させるしかありません。

幼児期ではなく、学童期に生じるイマジナリーコンパニオンの多くは、こうした居場所のなさによって引き起こされる解離の働きの一つとして、無意識のうちに現れるのではないかと思われます。

家族にも友だちにも、気持ちを打ち明けられなかったり、寂しさを分け合ってもらえなかったりする場合、その孤独感をやり過ごすには、信頼できる空想の他者を作るしかないからです。

そうした事情があるからか、以前の記事で取り上げたように、施設の子どもたちに見られるイマジナリーコンパニオンは、単なる遊び相手としての「空想の友だち」ではなく、保護者、守護者といった役割があることが多いと言われています。

そうした相談できる相手としてのイマジナリーコンパニオンは、愛着理論における「安全基地」としての役割を担っています。

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「安心していられる居場所の喪失」によって架空の他者がありありと現れる、というのは何も学童期の子どもに限ったことではなく、雪山や海上で遭難した大人の場合でも報告されています。

遭難などの極限状態で現れる頼れる空想の他者は、冒頭のリストに含めたとおり、「サードマン」として知られていますが、これは学童期のイマジナリーコンパニオンと同じものだと考えられています。

つまり現実の社会で「安心していられる居場所の喪失」に陥った子どものそばに現れるのがイマジナリーコンパニオンなら、雪山などで「安心していられる居場所の喪失」に陥った大人のそばに現れるのがサードマンだということです。

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突き詰めて言えば、アスペルガー症候群のイマジナリーコンパニオンも、目立ったトラウマ環境などに遭遇せずとも、アスペルガー症候群という少数派としての脳の特性それ自体が、居場所のなさをもたらすと解釈することもできます。

そして、いずれの場合も、やはり意識して作りだすものではなく、どこからともなく勝手に現れるという点が共通しています。両者ともに、自動的に作動する脳のセーフティシステムである、解離が空想の他者を生み出しているからです。

無意識のうちに「空気を読みすぎる」傾向

こうして説明するとしばしば誤解されてしまうのは、イマジナリーコンパニオンは、内向的で引きこもりがちな、社交性に欠けた子どもが持つものではないか、ということです。

確かにアスペルガー症候群のイマジナリーコンパニオンはそういった一面を持っています。しかしそれ以外のタイプにおいては、まったく逆のことがわかっています。

まず以前の記事で見たとおり、幼児期のイマジナリーコンパニオンは、孤独であるどこか、社交性が強い子どもに多いと言われています。

また、家庭や病気などの事情によって、「安心していられる居場所の喪失」に陥って現れるイマジナリーコンパニオンの場合も同様です。

こうした子どもが感じる孤独とは、文字どおりの孤独ではなく感情的な孤独であり、外から見れば一見とても社交的で、友だちもそれなりにいる子がイマジナリーコンパニオンを持っていることも多いのです。

すでに見たとおり、コミュニケーションの難しさと関係しているアスペルガー症候群のイマジナリーコンパニオンは社会とのやりとりを助ける仮面のような役割を果たします。

アスペルガー症候群の子どもは、イマジナリーコンパニオンという仮面をかぶることで、やっと多数派をなす定型発達者の社会に入っていけるようになる場合もあります。

しかし、「安心していられる居場所の喪失」からくるイマジナリーコンパニオンの場合は、コミュニケーションの障害を伴っているわけではありません。

こうした子どもは、友だちが少ないどころか、むしろ空気を読むのが上手で、他者配慮に秀でていて、一見したところ、友だちも多く、むしろコミュニケーションが巧みだと思われるかもしれません。

それもそのはず、人いちばい他人の気持ちに敏感で、場の空気を読み取りすぎ、気を使いすぎることが、両親や友だちの板挟みになって、居場所のなさを感じてしまう原因のひとつになりうるからです。

前述のさまざまな状況、ステップファミリーや機能不全家庭、幼少期からの慢性病などと付き合ってきた子どもたちは、年相応の無邪気さが欠けていて、大人びていることが多いものです。

これは以前ブログで取り上げた、空気が読めないコミュニケーション障害とは正反対の傾向、つまり、過剰に気を使いすぎ、他の人の責任まで引き受けてしまいがちな いい子特有の「過剰同調性」と呼ばれる特性でしょう。

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過剰同調性は、解離性障害の人に見られる特徴的な病前性格であり、やはり解離傾向を土台としているイマジナリーコンパニオンを持つ青年にも見られやすい性格だといえます。

空気を読みすぎる子どもたちは、こんなことを言ったら親や友だちはどう反応するだろうか、どう思われるだろうか、何と言われるだろうか、と先読みしすぎるせいで、自分の気持ちを正直に打ち明けられず、相手が望むようなことをつい言ってしまいがちです。

そうすると、だれにも素直な気持ちを打ち明けられないので、臆面なく相談できる、絶対的に信頼できる他者が現実には見いだせなくなります。

そのニーズを満たすために、解離という防衛機制によって作り出されるのが、保護者や友のようなイマジナリーコンパニオンです。

他人の気持ちがわかりすぎるために現実の親や友人に気持ちを打ち明けるのをためらってしまい、精神的な意味での孤独感を深めてしまうということ。

そして他人の気持ちを想像できすぎるために、つまり、いわゆる「心の理論」に長けているがために、架空の他者をありありと作り上げてしまえること。

この二重の意味において、過剰同調性は、イマジナリーコンパニオンが現れる土台をなしているといえます。

過剰同調性もまた葛藤が成立しない

興味深いことに、この過剰同調性という空気を読みすぎる性格特性もまた、無意識のうちに、いつの間にか発揮される、という特徴を持っています。

一般的に、気を使いすぎるとか、顔色を見て話すとか言うと、無理にへつらって、自分の気持ちを抑え、気苦労している人を思い浮かべるでしょう。

会社では、上司の顔色をうかがって、相手に気にいられるようなお世辞を並べ立て、仕事帰りに同僚と立ち寄った飲み屋で鬱憤を爆発させる。そんな苦労人をイメージするかもしれません。

しかしこれは過剰同調性ではありません。というのも、本心では相手のことをよく思っていないのに、口ではお世辞を言う、という本音と建前を使い分けている人は、葛藤が成立しているからです。

本当は言いたくもないことを言っているという自覚があるからこそ、つまり葛藤があるからこそ、影では不満を爆発させたり、愚痴ったりするわけです。

葛藤が生じている時点で、それは解離的ではありません。しかもどこかで愚痴ったり不満を爆発させたりできるのなら、居場所のなさには陥りません。ストレスのはけ口という逃げ場がある以上、無意識の最終手段として、解離が働く必要もありません。

解離の舞台―症状構造と治療によれば、こうした葛藤や裏表を抱えている状態は、過剰同調性ではなく、ある種の対人過敏です。

対人過敏では不安、混乱、嫌気、怨み、自罰、他罰など苦悩の色彩が概して強い。そしてそれらですぐに自分が一杯になる。

それに対して解離性の過剰同調性においては、こうした感情や同調をめぐる苦悩はあってもそれほど目立たない。

また必ずしも周囲に同調していることを意識しておらず、気づいたときにはすでに「自分が目の前の相手に合わせてしまっている」ことが多い。(p143)

この本が述べるように、本音を無理やり押し込めて、表面上だけ相手に合わせる対人過敏は、「気分障害、パーソナリティ障害、対人恐怖などに限らず、現代の若い女性たちにも見られる一般的な傾向」です。もちろん男性にも見られるでしょう。(p142)

しかし、イマジナリーコンパニオンや解離と関係している過剰同調性のほうは、無理して合わせる、という苦労をほとんど伴っていません。「こうした感情や同調をめぐる苦悩はあってもそれほど目立たない」のです。

この本の中で、ある女性は、自分の過剰同調性について、こう説明しています。

相手に合わせるというよりも、そういった自分が出て来る。相手によって色が変わる。コアは変わらないが、それを覆う膜が変わる。それがいつか破綻する不安がある。

読書をすると、その世界に入ってしまう。夢にも影響を受ける。

さまざまな状況に合わせることがそれなりにできてしまう。合わせることに疲れるということはない。いろんな人の気持ちがわかる。

裏表ではなくサイコロです。どの面が出ても私。(p143)

注目したいのは「合わせることに疲れるということはない」という点です。

過剰同調性を持つ人は、自分から意識して相手に合わせようと思う必要はありません。「相手に合わせるというよりも、そういった自分が出て来る」からです。

自分から主体的に行動するのではなく、いつの間にか勝手にそうなってしまっている、という特徴は、おわかりの通り、解離的なものです。

最初に見たとおり、解離とは葛藤が生じていない状態のことですが、過剰同調性も、相手に合わせるかどうか、といった葛藤を感じるまでもなく、いつの間にか相手に勝手に合わせてしまいます。

自分の意見がないから、誰にでも合わせてしまう、というわけではありません。「コアは変わらない」、つまり自分の考えはしっかり持っています。でも、気づいたら、相手のペースに合わせてしまっています。

本音と建前があるわけでも、裏表があるわけでもなく、相手に合わせて、無意識のうちに空気を読んで気を使ってしまう。すると、葛藤が生じないせいでストレスの理由がわからないので、うまくはけ口を作ることができません。

事実、解離傾向が強い人は、子ども時代に逆境的な体験をしたり、あまり恵まれない家庭で育ったりしても、ストレスを自覚しておらず、「幸せな子ども時代だった」と淡々と語ることがよくあります。自覚していないので不平も不満もほとんど言いません。

ではどうやって、ストレスから脳を守ることができるか。本人がストレスを意識できないのであれば、脳に備わる無意識のセーフティシステムが作動するしかありません。

つまり意識的に逃げ場が確保できないがために、無意識の解離によって、ストレスを切り離すしかなくなってしまうということです。

解離の根本原因は乳幼児期にある

それにしても、過剰同調性を抱える人たちは、なぜ、無意識のうちに周りに合わせてしまい、葛藤さえ生じないのでしょうか。

それは、さらにさかのぼれば、幼少期の体験に由来するようです。

以前の過剰同調性の記事でも説明しましたが、過剰同調性の土台が作られるのは、生後わずか半年から数年ごろの乳幼児期だと思われます。

乳幼児期に養育者がころころ変わったり、親が精神的に不安定で養育態度がころころ変わったりすると、赤ちゃんは、その場その場に応じて自分の対応を変化させる必要に迫られます。

そうした赤ちゃんが身につける生存戦略は、無秩序な養育環境に合わせて適応するので、「無秩序型」のアタッチメント(愛着)と呼ばれています。

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一般的に無秩序型のアタッチメントは、虐待と関係していると言われがちですが、解離の舞台―症状構造と治療に書かれているように、一番の原因は予測できない無秩序な養育態度です。

虐待された幼児の80%が無秩序型愛着を呈したとする報告もあるが、はっきりとした虐待がなくても、養育者自身が子どもの体験に調子を合わせていなかったりコミュニケーションに食い違いが見られたりすると、無秩序型愛着が見られることがある。

ヘッセとメイン(Hesse and Main 1999)は、明らかな虐待がなくても、両親の脅しや怯え(fightening or frightened)の行動が無秩序型愛着をもたらしうることを報告している。(p138)

通常の子どもが身につける「秩序型」のアタッチメントとは異なり、「無秩序型」のアタッチメントは、場面ごとに性格がころころと変わるような一貫性のなさが特徴です。

親の養育態度に一貫性がなかったので、自分もまたその都度 空気を読んで、その時々の親の状態に合わせて振る舞う傾向を身につけるというわけです。

この無秩序型のアタッチメントの延長線上にあるのが、どんな相手に対しても無意識のうちに空気を読んで、いつの間にか合わせてしまう過剰同調性であるのは言うまでもありません。いわば、それは赤ちゃんのときから染み付いている対人関係ののクセのようなものです。

そして、続く部分に書かれているように、乳幼児期の混乱した養育体験は、解離の根本原因でもあります。

ライオンズ=ルース(Lions-Ruth 2003,2006)によれば、虐待や外傷などは後の解離症状を予想しなかったのに対し、幼児の18ヶ月における母親の混乱した感情的コミュニケーションは19歳における解離症状をかなり予想したという。

貧困、片親、母親の解離症状などとの関連は見出せなかったという。(p139)

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にも、同様の点がこう書かれています。

ライオンズ=ルースの研究から、解離は幼少期に学習されることが明らかになった。

のちの虐待やその他のトラウマでは、若年成人に見られる解離の症状は説明がつかなかったのだ。

虐待やトラウマは、他の多くの問題のおもな原因だったが、慢性的な解離や自分に対する攻撃性の原因ではなかった。(p201)

つまり、幼少期に無秩序な養育を受けていないかぎり、その後の人生で虐待や外傷などのトラウマを受けようが、強い解離症状は生じにくいということです。

言い換えれば、学童期以降も解離症状を示す人たちは、アスペルガー症候群などの特殊な事情がある場合を除いて、乳幼児期に混乱した養育を経験している可能性が高いということになります。

すでに見たとおり、通常、解離傾向は、幼児期特有のものです。だからこそ、イマジナリーコンパニオンは、成長するとともに消えていきます。感覚が組織化され、解離が生じなくなるからです。

しかし学童期以降もイマジナリーコンパニオンが現れる人は、何らかの理由で、解離が生じやすいのではないか、ということでした。

ひとつの理由はアスペルガー症候群であり、感覚の統合障害のせいで、明確なトラウマがなくても、強い解離傾向が大人になっても残ります。

もうひとつのケースはさまざまな環境要因による「安心できる居場所の喪失」とのことでした。

しかし単に逆境的な環境に面した子どもがみな居場所のなさを感じるわけではありません。なぜなら、普通の子どもは、逆境に面したとき、ストレスを意識でき、葛藤を抱えるために、何かしらの行動をとるからです。

ある場合は、友だちや親に愚痴って発散します。別の場合は非行や暴力などの問題行動に出て、怒りや不満を発散するかもしれません。

しかし、過剰同調性をもつ子どもはストレスそのものを自覚していないのでそれができません。葛藤を意識できず、どんな場面でも周りの人に合わせてしまいます。乳幼児期から、問答無用で周りに合わせる生き方が染み付いているからです。

ストレスを意識できず、葛藤を経験できない子どもは、自分の行動によってストレスを発散できないため、成長してもずっと、意識を切り離す解離という無意識の防衛機制に頼り続けます。ストレスがたまるとぼーっしたり空想世界に意識を逃したりします。

そうして、本来はなくなるはずの解離傾向が残り続けるため、学童期以降、強い慢性的なストレスにさらされると、泣いたりわめいたりして助けを求める代わりに意識を切り離します。

その切り離された意識は、別人格として、つまりイマジナリーコンパニオンとして、その子の前に現れることになるのです。

3つの条件が重なったとき空想の友だちが現れる?

こうして筋道立てて考えてみると、アスペルガー症候群ではない子どもの場合、学童期以降にイマジナリーコンパニオンが現れるには、3つの特徴的な条件が重なり合う必要があるのではないか、と思われます。

まずひとつは、乳幼児期の無秩序な養育体験です。これはすでに見たとおり、虐待のような状況はもちろんですが、それ以外にも、親の精神疾患や、やむを得ない理由による養育者の交代などによっても生じるものです。

無秩序型のアタッチメントは、単に養育者側の問題ではなく、子どもの側の過敏さがリスクとなる場合もあるようなので、生まれつきのHSP傾向の有無も関係しているでしょう。

これが一つ目の必須条件であり、もしこれがなければ過剰同調性が形成されません。

過剰同調性がなければ、学童期以降にストレスを受けたとしても、解離という無意識の防衛機制で対処することはなく、問題児になったり、別の何らかの精神疾患を発症したりするだけでしょう。

二つ目の条件は、成長してから慢性的なストレス環境にさらされ、「安心できる居場所の喪失」を経験することです。

解離の舞台―症状構造と治療が先ほどの文脈の続きでこう述べています。

カールソンほか(Carlson et al.2009)によれば、早期幼児期において無秩序型愛着が見られてもその後の生活が標準的であれば、解離傾向は高くなるがサブクリニカルな水準にとどまり、ストレス状態において解離的行動が表面化する潜在的素質を抱えることになる。

その後の生活において重度あるいは慢性的な外傷が見られ、かつそれに対する情緒的な援助がなければ、病的解離として発症する危険性は高くなる。(p139)

幼児期に身に着けた無秩序型のアタッチメントは、それ単独で解離を発症させることはありません。

しかし潜在的な解離傾向として潜伏し、のちに慢性的なストレスにさらされ、「安心できる居場所の喪失」に直面したときに解離として表面化します。

そして三つ目の条件は、慢性的なストレス体験の時期です。

幼児期に無秩序型のアタッチメントを身に着けた人が、その後の人生のどの時期にストレスを経験しても、たとえば成人になってから慢性的なストレスにさらされた場合でもイマジナリーコンパニオンが現れるのかというと、どうもそうではないようです。

以前に取り上げたように、イマジナリーフレンドが最も頻繁に観察されるピークは、2歳半から3歳半の時期と、9歳半から10歳半にかけての時期の2回だとされてます。

一回目のものは健常な幼児のイマジナリーコンパニオンですから、ここで関係しているのは、二度目の9歳半から10歳半のイマジナリーコンパニオンだということになります。

それ以降の時期、例えば成人後のサードマン現象などの場合、イマジナリーコンパニオンと呼べるほどまとまった人格としては現れにくく、しかも一過性にすぎないように思えます。

なぜ9歳半から10歳半という短い限られた期間が関係しているのか、当初は謎でしたが、いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳には興味深い情報が書かれていました。

性的虐待を受けた時期(年齢)の違いによる被虐待者の局所脳灰白質容積を多重回帰解析にて検討したところ、被虐待ストレスによってさまざまな局所脳の発達がダメージを受けるには、それぞれに特異な時期(感受性期)があることが示唆された。

海馬は幼児期(3~5歳頃)に、脳梁は思春期前期(9~10歳)に、さらに前頭葉は思春期以降(14~16歳頃)と最も遅い時期のトラウマで重篤な影響を受けることもわかってきた。(p78)

脳の発達には順番があり、年齢ごとに成長している場所が異なります。子どもの場合、強いストレスは、脳にいつも一様なダメージを与えるわけではなく、ストレスを受けたときの年齢に応じて、その時ちょうど発達中だった場所がピンポイントで発達不良を起こすということです。

上記の研究は、性的虐待を受けた子どもについてのものですが、性的虐待は「安心できる居場所の喪失」の体験の最たるものです。

そうした子ども時代の「安心できる居場所の喪失」は、3から5歳ごろなら海馬に、9から10歳ごろなら脳梁に、14から16歳ごろなら前頭葉の発達に大きな影響を及ぼすことがわかりました。

このうち注目すべきは9から10歳ごろに脳梁の発達の感受性期があるということです。脳梁というのは、左脳と右脳をつなぐ橋の部分ですが、そこの発達が妨げられるとどうなるのか、子ども虐待という第四の発達障害 (学研のヒューマンケアブックス)に、こう書かれています。

ド・ベリスらの研究では、脳梁体部から脳梁膨大部にかけての脳梁4~7の体積が、被虐待児では健常な対照群に比べて小さかったのである。

さらに脳梁の体積と子どもの解離症状とは負の相関を示していた。つまり脳梁の体積が小さいほど、強い解離症状が認められたのである。

脳梁という右脳と左脳をつなぐ橋の体積が小さければ、右脳と左脳の共同作業が滞り、別々に働く傾向が強くなると予想される。

従って、そのような脳の状態において、解離症状が強くなることは当然考えられることである。(p104-105)

脳梁の発達不良は解離症状の強さと相関関係にあったのです。しかも、その結果として生じるのは、「右脳と左脳の共同作業が滞り、別々に働く傾向が強くなる」ことです。

イマジナリーコンパニオンを持つ子どもや大人は、別人格が囁きかけてくる声を実際に聞くことがよくあります。書きたがる脳 言語と創造性の科学が述べるように、そうした内なる誰かの声は、左右の脳が同期していないことで生じるようです。

現代では自我異和的な声を聞く主たる例は統合失調症だが、患者は両半球の連携に欠陥があるらしい。また分離脳手術を受けた患者も基本的に失感情症に陥る。

このような欠陥は病理的な事例に限らない。幼い子どもたちは左右の半球の電気的活動が比較的に同期してない。成熟するにつれて、脳梁が左脳と右脳を効果的に連携させるようになる。

最後に両半球の連携はふつうの人々が自我異和的な存在を感じるときにも一役買っているらしい。(p318)

右脳と左脳が別々に働くことが、人格の多重化と密接に関係しているというのは、以下の記事で詳しく考察したとおりです。

心は複数の自己からなる「内的家族システム」(IFS)である―分離脳研究が明かした愛着障害の正体
スペリーとガザニガの分離脳研究はわたしたちには内なる複数の自己からなる社会があることを浮きらかにしました。「内的家族システム」(IFS)というキーワードから、そのことが愛着障害やさ

もし、無秩序型の人がこれとは別の時期に慢性的なトラウマを経験した場合は、たとえば3から5歳の頃なら海馬へのダメージによる解離性健忘といったように、イマジナリーコンパニオンとは別の形の解離症状として現れやすいのではないかと思います。

ここまで考えれば、9歳半から10歳半にピークを迎えるという、学童期以降に見られるイマジナリーコンパニオンの正体が見えてきたように思います。

この遅い時期のイマジナリーコンパニオンは、ひとつのグループをなしているとはいえ、一般的な乳幼児期のイマジナリーコンパニオンに比べれば、かなり少数です。

なぜなら、それは、3つの条件が重なり合って始めて生じる特殊な現象だからです。その3つの条件とは、

(1)生後半年から数年ごろの乳幼児期に何かしらの混乱した養育を経験する
(2)その後の人生で「安心できる居場所の喪失」に遭遇する
(3)およそ9-10歳頃(小学校高学年ごろ)に経験する

の3つであり、おそらく、このいずれが欠けても、学童期以降のイマジナリーコンパニオンが明確に出現することは難しいのでしょう。

(1)の無秩序型のアタッチメントを抱える人は、人口の約15%に上るとされていますが、学童期以降にイマジナリーコンパニオンを持つ人はそれよりもかなり少ないので、やはり複数条件を満たす必要があるように思えます。

例外としてアスペルガー症候群のケースがありますが、自伝でイマジナリーコンパニオンがいたことを公言しているドナ・ウィリアムズは3歳ごろの幼児期に、ダニエル・タメットやテンプル・グランディンは学童期に空想の友だちが出現していて、やはり似たような時期的な条件があるようです。

ここまで考えてきたのは、このブログで過去からずっと取り上げてきた、いつの間にかイマジナリーコンパニオンと出会う人たちについての考察です。

しかし、冒頭で触れたように、このグループよりもはるかに多い人数の人たちが、イマジナリーフレンドを持ちたい、作りたいと考えているようです。

そうした人たちが「作る」イマジナリーフレンドとはいったい何者なのでしょうか。ここまで見てきた解離が無意識のうちに生み出すイマジナリーコンパニオンとはどのような違いがあるのでしょうか。

イマジナリーフレンドを「作る」人たち

これまでの論議から明らかなように、イマジナリーコンパニオンを語る上で、無意識のうちに生み出されるという性質は欠かせません。

幼児期のイマジナリーコンパニオンも、雪山でのサードマン現象も、そして9から10歳ごろにピークを迎える遅い時期のイマジナリーコンパニオンも、いずれも解離というメカニズムが色濃く関わっており、解離の本質は無意識のうちに生じることだからです。

ひとたびイマジナリーコンパニオンと「出会った」人たちは、その後の人生で創作に親しむなどして、空想の存在を「作る」かもしれませんが、それはあくまでも、自分から欲したものというより、空想世界が先にあって、その延長線上にあるものだと考えます。

それに対して、いちからイマジナリーフレンドを「作りたい」と考える人たちは、明らかに、はじめから意識してそうした存在を欲しています。

これは、解離とは正反対の状態、つまり葛藤が認識されている状態だとみなせます。

寂しい、一人ぼっちだ、だれか話し相手がほしい、などといったストレスがはっきり意識されているので、その解決策として、意識的に空想の人物を作りたいと願うのでしょう。

こうした対人関係のストレスが意識されている状態は、すでに見たとおり、過剰同調性にも当てはまりません。過剰同調性は対人関係における「感情や同調をめぐる苦悩はあってもそれほど目立たない」からです。

そうすると、イマジナリーフレンドを「作りたい」と考える人たちは、過剰同調性のおおもとにある無秩序型のアタッチメントにも当てはまらないことになります。

ということは、イマジナリーフレンドと「出会う」人と、イマジナリーフレンドを「作りたい」と思う人は、どうやら、乳幼児期の経験からして異なっているのではないか、ということになります。

イマジナリーフレンドを「作りたい」と思う人の特徴を挙げるとすれば、葛藤にとらわれ、人間関係に悩み、孤独を強く意識する人たち、ということになるでしょう。

こうした特徴は、乳幼児期に「無秩序型」とは別の、「不安型」と呼ばれるアタッチメントを身につけた人たちに見られるものです。

寂しさと空虚感はどこから来るか

「不安型」のアタッチメントの特徴については、以前の記事で詳しく扱いました。

このタイプは、過干渉を受けて育った人や、養育者を突然喪失した人などに見られます。

見捨てられ不安にとらわれる「不安型愛着スタイル」―完璧主義,強迫行為,パニックなどの背後にあるもの
岡田尊司先生と咲セリさんの「絆の病」を参考に、「不安型」「とらわれ型」の愛着スタイルを持つ人の感情や葛藤の原因についてまとめました。

「不安型」のアタッチメントを持つ人は、常に構われていた体験や、喪失体験のせいで、見捨てられ不安に敏感で、孤独を人いちばい強く感じやすく、他の人を慕い求める気持ちが強いという特徴を持っています。

「無秩序型」のように、混乱した養育を受けたわけではないので、無意識のうちに他の人に合わせることはできません。

しかし、見捨てられ不安が強いため、他の人に嫌われたり、拒絶されたりすることに強い恐れを持っていて、そのために相手に気に入られるような振る舞いをして、「良い子」を演じてしまいがちです。

人に合わせていることさえ意識していない過剰同調性とは違って、無理をして周りに合わせているという自覚があるので、対人関係でストレスが溜まりますし、孤独感を強く意識します。つまり、先ほど出てきた対人過敏の状態です。

この、対人過敏からくるストレスや、慢性的な寂しさ、空虚感などのために、それを満たしてくれる存在を求めるようになり、ときにイマジナリーフレンドのような存在を持ちたい、と考えるようになるのでしょう。

こうした人たちは、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合に書かれている次の例に相当するといえます。

解離に興味を持ち、「そのような症状を持ってみたい」という願望や空想を持つ人は少なからずいるということを患者さんたちから聞くことがある。

私は「解離にはなりたいと思っても簡単にはなれない」という立場である。「解離になりたい」人たちは「解離になりたい」けれどもそうなれない人のはずだ。(p5)

こうした人たちは、解離の現象の一種であるイマジナリーコンパニオンに興味を持ち、そのようなものを持ってみたい、という願望や空想を持ち、そしてある程度の形でそれを実現させることができます。

しかし、それは解離によって無意識のうちに存在するようになった一般的な意味でのイマジナリーコンパニオンとは、少し異なるものでしょう。

すでに見たとおり、「解離は幼少期に学習される」ゆえに、「解離にはなりたいと思っても簡単にはなれない」からです。

こうして成り立ちを考えてみると、どちらが本物だとか優れているといった意味ではないものの、その性質が異なっている、というのは確かであるように思えます。

無秩序型の人の閉じた世界

ここまで見てきたように、いつの間にかイマジナリーコンパニオンが存在するようになった人たちと、自分の心を満たすために意識してイマジナリーフレンドを作った人たちとでは、振る舞いや性格がかなり異なる可能性があります。

つまり、同じように空想の友だちに親しんでいる人でも、「出会った」人たちと、「作った人」たちとでは、この現象の受け止め方や解釈、そしてコミュニティの文化といった点に至るまで、性質が異なっているのではないかと思います。

たとえば、無秩序型のアタッチメントを土台とし、イマジナリーコンパニオンと「出会った」人たちは、自分の空想の友だちとの交流について、ただ自分の心のうちにだけとどめているか、ごく一部の信頼できる人以外には打ち明けていないことが多いでしょう。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合には、解離性同一性障害をはじめ、解離傾向の強い人たちの特徴として、次のような点が書かれています。

私はおそらく多くの「見事な多重人格」に出会っているが、彼女たちの大半は、症状により自己アピールをする人たちとは程遠いということだ。

彼女たちの多くは解離症状や人格交代について自分でもあまり把握していないことが多い。

…そして多くはそのことを他人にはできるだけ隠そうとするのだ。なぜなら彼女たちは他人から「おかしい」と思われることを非常に恐れるからである。(p5)

解離性障害など、強い解離傾向を持つ人たちは、自分の経験している症状を「他人にはできるだけ隠そうとする」傾向があります。

これは、土台となっている無秩序型のアタッチメント、そして過剰同調性を考えれば当然のことといえます。

これは、予測不可能な状況に自分を合わせることを特徴としていて、周りからおかしいと思われたり、人目を引いたりすることを極端に避け、空気を読みすぎる特性だからです。

自分には空想の友だちがいるとか、見えないものが見える、といった奇妙な体験を、さほど親しくもないだれかに積極的に打ち明けて、空気の読めない振る舞いをすることなどほとんどありえないでしょう。

解離傾向の強い人たちは、そもそもだれかに理解してほしいとか、わかってもらいたい、経験を共有したい、という気持ちをほとんど表に出さないことがしばしばです。

根底ではそうした気持ちを持っているのでしょうが、「安心できる居場所の喪失」を経験して空想の世界に意識を飛ばすことが当たり前になったせいで、現実の他者にはほとんど期待しなくなっていくのでしょう。

その代わりに、長年にわたって構築してきた内的な空想世界を持っており、空想世界にたくさんの仲間がいるおかげで、現実世界の交友には固執しなくなります。

現実の他者への執着がないせいで、自分の空想の友だちについて誰かに理解してほしい、気持ちを共有してほしいという思いはほとんど抱いていません。どちらかというと共有したくない、踏み込まれたくないという気持ちのほうが大きいかもしれません。

リアルでもネット上でも、人間関係でトラブルを引き起こすことは少なく、いざこざに巻き込まれても自分から身を引いてしまうような人たちです。

おおよそのところ、この人たちは、解離の舞台―症状構造と治療に書かれている次のような性格に近いことが多いでしょう。

解離性障害の患者の多くは、演技的でも、露出狂的でも、虚言的でもない。

内気で人にうまく合わせ、控え目で、どこか怯えを抱えている。単に「健康」とは言えず、「一見健康に見える」と言うのがふさわしい。(p19)

解離傾向の強い人たちは、だれか他者を求めるより、一人きりになって自分の空想世界に親しみ、絵や小説などを創作するのに忙しくしている傾向があるように思います。

自分自身の経験を世に送り出すとしても、ちょうど、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)に書かれている夏目漱石がそうしたように、創作作品に織り込むなどして、はっきりと目立たないようカモフラージュするかもしれません。

漱石は、自分のことを表現するのが、とても不器用だった。それゆえ、文学作品という体裁をとって、間接的に自分の傷ついた心を表そうとしたとも言える。

漱石の作品は、いかに自分の正体を見破られないよう隠蔽しつつ、かつ自分を表現するかという二つの相反する要求の微妙なバランスの上に成り立っていた。(p238)

この人たちは、人間関係も孤独の解消も自分の内側でほぼ完結してしまっていて、閉じた世界、ある意味 自給自足の内部循環システムのある世界に住んでいるのだといえます。

青年期の解離や空想の友だちについての研究があまり進んでいないのは、こうした事情から、当事者が自分の経験を語ることに消極的であるせいなのかもしれません。

不安型の人の開けた世界

他方、「不安型」のアタッチメントを持っていて、寂しさや空虚感を埋めるためにイマジナリーフレンドを「作りたい」と考える人たちは、まったく逆の特徴を示すかもしれません。

この人たちは、慢性的な空虚感や寂しさを抱えているので、現実の他者を求める傾向が強くなります。

その空虚感を埋めるためにイマジナリーフレンドを「作りたい」と考えるのでしょうが、たとえ空想の他者を作ったとしても、現実の人間関係を求める気持ちは変わらないでしょう。

自分が作った空想の存在に癒やされるかもしれませんが、それだけでは満足できず、現実のだれかと、あるいはSNS上の人たちと、この空想を共有したい、わかってもらいたい、と考えるかもしれません。

そうした積極的な行動は、「他人にはできるだけ隠そうとする」傾向を持っていた解離傾向の強い人たちとは正反対です。

おそらく、インターネット上のブログやSNSで活発に発信されているイマジナリーフレンド関係の体験の多くは、こちらのタイプの人たちによるものかもしれません。

自分の内的世界の中だけで完結せず、どうしても現実の他者を巻き込もうとしてしまうのは、解離傾向の強い人たちが有していたような巨大な内的世界を持っていないからです。

解離傾向の強い人たちは、子どものころから空想の世界に意識を飛ばすことが習慣だったせいで、空想傾向や持続的空想と呼ばれる内的世界を構築しています。

だからこそ、危機に直面したとき、あたかも内側からだれかが助けに来てくれるかのようにイマジナリーコンパニオンと出会います。

一方、不安型のアタッチメントを持つ人たちは、現実の他者への執着が強いために、空想世界に心を飛ばすようなこともほとんどなく、空想世界を構築してきませんでした。

そのため、自分の内側が空っぽだと気づいたとき、自分でイマジナリーフレンドをどこからか作る必要に迫られます。

内側から呼び出せないものは、外側から手に入れるしかありません。もともと現実の他者ありきの開けた世界に住んでいるため、たとえイマジナリーフレンドを作ったとしても、それだけでは完結できません。

現実の人間関係を切り捨てることはできず、対人過敏傾向はそのままなので、リアルでもネット上でも、しばしば過剰反応したり、意見を闘わせたりと、活発で起伏の激しいやりとりをしがちです。

ここまで見てきたイマジナリーフレンドといつの間にか「出会う」人たちと、イマジナリーフレンドを「作りたい」と考える人たちの性格特性の違いは、おおまかにいえば、以前に記事で取り上げた、解離性障害と境界性パーソナリティ障害の違いと共通しています。

境界性パーソナリティ障害と解離性障害の7つの違い―リストカットだけでは診断できない
境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン:BPD)と解離性障害はどちらもリストカットなど共通点があり区別しにくいとされています。その7つの違いを岡田憲一郎先生の「続解離性障害」など

青年期にイマジナリーフレンドを持つ人たちの多くは、解離性障害や境界性パーソナリティ障害と診断できるほど顕著な症状を示さないかもしれませんが、基本的な性格特性は、このいずれかに相当すると思われます。

つまり、無秩序型のアタッチメントや、過剰同調性を土台として、いつの間にかイマジナリーフレンドが存在するようになる解離傾向の強い人たちは、解離性障害に近い存在でしょう。

他方、不安型のアタッチメントを土台として、対人過敏を抱え、心の空虚感や寂しさに敏感で、イマジナリーフレンドを作りたいと考える人たちは、境界性パーソナリティ障害に近い性格特性を有しているといえます。

解離の舞台―症状構造と治療には、境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン)と、解離の違いが次のように簡潔に書かれていますが、それはここまで考えてきたことと一致します。

ボーダーラインでは身近な他者と自己とのあいだ、解離では自己内の他者と自己とのあいだで、病理が展開する。(p190)

境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン)傾向のある人では、現実の他者やSNS上の誰かを巻き込んだ世界が必須で、気持ちを共有したいという気持ちが強いのに対し、解離傾向の強い人たちは、自分の内部で人間関係が完結しているので、かえって踏み込まれたくないという気持ちのほうが強いのでしょう。

回避型の人のさばさばした世界

ここまで無秩序型アタッチメントによってイマジナリーフレンドと「出会った」人たちと、不安型アタッチメントによってイマジナリーフレンドを「作った」人たちの性格特性や振る舞いの違いを考えましたが、中には、どちらにも当てはまる中間的な人がいるかもしれません。

もともと無秩序型のアタッチメントは、内部に不安型のアタッチメントを含んでいるので、ときには人を求めすぎ、ときには人を恐れすぎるという両極端に振り回されることは十分にありえます。

アタッチメントスタイルはある程度変動しうるもので、その時々の環境の影響を受けるので、年齢を経るとともに振る舞い方が変わっていく人もいるかもしれません。

他方、ここまで見てきた傾向のどちらにも当てはまらない中間的な人もまた存在しているはずです。

特にアスペルガー症候群の人たちは、他者を過度に恐れて避けることも、他者に執着してとらわれることもなく、そもそも他者に関心が乏しい失感情症傾向が強い場合があります。

この場合は、無秩序型でも不安型でもなく、回避型と呼ばれるアタッチメントの振る舞いに近くなるかもしれません。

きっと克服できる「回避型愛着スタイル」― 絆が希薄で人生に冷めている人たち
現代社会の人々に増えている「回避型愛着スタイル」とは何でしょうか。どんな特徴があるのでしょうか。どうやって克服するのでしょうか。岡田尊司先生の新刊、「回避性愛着障害 絆が稀薄な人た

そうした人たちは、イマジナリーフレンドの存在を他者に理解してもらおうと執着することもなければ、踏み込まれたくないと過剰に恐れることもなく、淡々と空想世界と付き合っていくことでしょう。

解離の舞台―症状構造と治療に書かれているように、アスペルガー症候群の人たちが解離しやすいのは、定型発達者のような対人関係の過剰同調性または対人過敏によるものではありません。

解離型ASD者も同じように、そのほとんどが幼少時から「居場所はなかった」と訴える。

しかしASD者にとって辛いのは、こういった定型発達者の他者の攻撃性に由来する「居場所のなさ」とは異なり、そもそも自分はこの社会に落ち着くところがない、馴染むところがないという発達的問題としての「居場所のなさ」である。

定型発達者とASD者では、同じ「居場所のなさ」でもその内実が異なっている。(p104)

アスペルガー症候群では、そもそも他者に対してはあまり関心がなく、生まれ持った感覚統合の弱さのために、社会そのものに対する居場所のなさが生まれ、解離してしまいます。

もともと他の人への関心に乏しく、良くも悪くも空気を読まない、つまりマイペースに振る舞いがちなので、イマジナリーコンパニオンの存在についても、過度に隠すことも、過度にアピールすることもなく独自路線を行くのかもしれません。

しかしアスペルガー症候群でない定型発達者たちの場合は、あくまでも他の人の気持ちに鋭い関心がある上で、それでも現実の他者への不信感や失望から回避的になる場合に、心が分裂するような解離状態が生じ、人格の多重化の土台になるのだと思います。

ところで、イマジナリーコンパニオンや空想世界を有している無秩序型の定型発達者は、一見、回避型に近い性格であるように感じられることがあります。

おそらく空想世界の存在が安全基地として働いているおかげで、不安傾向が弱まり、見かけ上、クールな回避型に近い性格で安定しているのではないかと思います。

わかりやすい「解離性障害」入門によると、青年期にイマジナリーコンパニオンを持っていることで、かろうじて精神のバランスを保っている人たちがちらほらいると書かれていました。

解離性障害の患者さんでは、大人になってもイマジナリーコンパニオンの存在によって心のバランスを保っている場合があります。(p40)

ある意味、その存在が安全基地として支えになっているおかげで、本格的な解離性障害や解離性同一性障害が発症するのを食い止めている状態にあるのかもしれません。

しかし、もしそれらの空想上の安全基地が取り去られるようなことがあれば、安定性が損なわれ、典型的な無秩序型の性格に近づくことでしょう。

これに対して、純粋な回避型の定型発達者は他の人の気持ちにあまり共感しないクールさが特徴なので、たとえ解離症状を経験するとしても、イマジナリーコンパニオンのような空想の相談相手は現れにくいのかもしれません。

自身のアタッチメントスタイルは愛着スタイル診断テストなどである程度判別できますが、あくまで空想世界やイマジナリーコンパニオンがない場合を仮定して設問に回答するなら、見かけ上の補正されたアタッチメントではなく、生まれ育った本来のアタッチメントが判別しやすいと思います。

上記テストだと、この記事で考えてきた解離傾向の強い無秩序型の人は「恐れ・回避型」、不安感の強く境界性傾向のある人は「不安型」や「未解決型」に相当します。

「強い解離」と「弱い解離」は文化が異なる

以前の記事の中で、イマジナリーコンパニオンと「出会う」人と「作る人」は、ちょうどある言語を第一言語として話す人と、成長してからバイリンガルの第二言語として学んだ人のような違いがあるのではないかと書きました。

この記事で扱ったことからすると、それは具体的には、幼少期から解離傾向を持つ人と、成長してから「解離になりたい」と感じる人の違いと言うこともできるのでしょう。

アスペルガー症候群や無秩序型のアタッチメントの人が持っている解離傾向は「強い解離」と呼ばれる一方、境界性パーソナリティ障害の人が示すような軽度の人格のスイッチングは「弱い解離」と呼ばれることを以前の記事で書きました。

PTSDと解離の11の違い―実は脳科学的には正反対のトラウマ反応だった
脳科学的には正反対の反応とされるPTSDと解離。両者の違いと共通点を「愛着」という観点から考え、ADHDや境界性パーソナリティ障害とも密接に関連する解離やPTSDの正体を明らかにし

とすると、イマジナリーコンパニオンといつの間にか勝手に出会ってしまう人は「強い解離」の持ち主であり、心の空虚感や寂しさからそうした存在を求めて作る人は「弱い解離」の持ち主だと言い換えることもできます。

解離という現象はスペクトラム(連続体)なので、あらゆる人に程度の差こそあれ存在しています。

アスペルガー症候群の感覚統合障害や、幼少期の無秩序型のアタッチメントを持つ人は、その傾向がかなり強く、それゆえに自動的に人格が解離され、多重化する傾向があるのでしょう。それがイマジナリーコンパニオンとの「出会い」です。

このタイプの人たちは、もちろん「出会う」ことも「作る」こともどちらもできます。しかし解離が無意識のうちに働きやすいことを考えると、少なくとも最初にイマジナリーコンパニオンと接するときは「出会い」から始まり、その後、別のだれかを「作る」としても、やはり無意識的な性質が強いはずです。

一方、それほど解離傾向の強くない人たちは、無意識のうちに解離して人格が作り上げられることはないのでしょう。だからこそ、意識して自分の心の中の多面性に目を向け、自分の手でイマジナリーコンパニオンを「作る」しかないのだといえます。

この両者は「強い解離」か「弱い解離」かという、同じ解離のスペクトラム上にいるとはいえ、 解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合で書かれているとおり、「強い解離」と「弱い解離」はかなり異なった振る舞いを見せます。

解離性障害における「解離」(強い解離)とは、輪郭が鮮明であり、しばしば健忘障壁があったり別の主体により担われたりしている。

スターンたちの論じる解離はむしろ緩やかな解離(「弱い解離」)である。

…そこで出てくる解離は、もっぱら「弱い解離」であり、解離されている心はいずれ治療その他を通して主体に取り入れられる。そしてあくまでも主体は一つということになる。

つまりスターンの解離理論はそもそも人格部分という考え方を前提としていない。その意味ではまだまだ「精神分析的」なのである。

そのため「強い解離」すなわち解離性障害に悩む人にとっては必ずしも助けにはならないかもしれない。(p82)

ここでのポイントは、「弱い解離」の場合、「あくまでも主体は一つ」ということです。たとえ自分からイマジナリーコンパニオンを作って人格を独立させたように思えても、根本のところで一つです。だからこそ、現実の他者をどうしても必要とします。

他方、「強い解離」の持ち主は、はっきりと別の人格部分の存在を意識しており、「輪郭が鮮明」です。自分はもともと複数であり、自己の内側で世界が完結してしまうのはそのためです。現実の他者にほとんどこだわりません。

「出会う」人と「作る」人の文化の違い

わたしは空想の友だち現象に興味を持ってから、さまざまな本を調べたり、ネット上の当事者たちのブログやSNSを見てきましたが、「出会う」人たちと「作る」人たちの文化には何かしら違いがあるように感じていました。

「出会う」人たち、つまりこのブログで取り上げてきた、精神医学や発達心理学の本の中に出てくる純粋な意味でのイマジナリーコンパニオンを持つ人は、その存在を、自分とははっきり違う他者として認識しているように思えます。

その感じ方は、「強い解離」の最も極端な例である、解離性同一性障害(DID)の人が、自分の別人格に対して感じる気持ちとかなり近いものだと思われます。

以前に書いたとおり、DIDや純粋な意味でのイマジナリーコンパニオンとして別人格を持つ人たちは、別人格を自分と同等の尊厳を持つ一個の人間として捉えています。

別人格を自分の望みに応じて作ろうとしたり、使役しようとしたり、無理やり消そうとしたりはしません。あくまで同等の他人だからです。

解離性同一性障害(DID)の尊厳と人権―別人格はそれぞれ一個の人間として扱われるべきか
解離性同一性障害(DID)やイマジナリーコンパニオン(IC)の別人格は、一人の人間として尊厳をもって扱われるべきなのか、という難問について、幾つかの書籍から考えた論考です。

解離の舞台―症状構造と治療に書かれているとおり、DIDの別人格と純粋な意味でのイマジナリーコンパニオンは、おそらく「強い解離」を土台とした、かなり近い部類の現象なのでしょう。

多くの場合、ICは幼少時だけに見られて思春期になるとほとんど消滅してしまい、以降出現することはない。

しかし、DIDではICと交代人格が密接に関係しているケースも散見され、実際にそうした報告もいくつかある。

DIDとICの関係については、幼少期のICと交代人格の連属性がまったく見られないケースや、ICが幼少期に一過性に見られなくなるが思春期に交代人格としてふたたび出現するケース、幼少期のICが成人期の交代人格へとそのまま連続しているケースなどさまざまである。

DIDに見られる幼少期のICは、困難な状況において本人の身代わりを演じていたり、助言を行なったり、本人を守ったりしていることが多い。

こうしたICの役割傾向は、交代人格に見られる救済者ないしは守護者などへとつながっているように思われる。(p161)

以前に書いたとおり、心の中の別人が、互いに親密な関係にあり、しっかりコミュニケーションできる状態がイマジナリーコンパニオンであり、何かのあつれきのために互いに口を利かなくなっている状態がDIDではないかと思います。

現実の他人が、親友として意思疎通することもあれば、気持ちのすれ違いから秘密を作ってしまうこともあるのと同じです。解離傾向が強くて、別人格が明確な輪郭を持つ他人のように分離しているからこそ、現実の人間と同様の振る舞いを見せます。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中に書かれているように、「強い解離」による別人格は、はっきりとした別人であり、当人の一面としてではなく、「個別に」扱う必要があります。

「強い解離」を扱う場合は、やはり解離された個の人格部分を「個別に」、もう少し言えば「別人として」扱う必要はどうしても出てくる。

解離された側は、主観にとっては「なんとなく」「繭に包まれたように」感じ取られるだけかもしれない。

でも「なんとなく」感じさせている側は、独自にある明確な体験を持っている。

…精神分析における「弱い解離」では、解離している部分からの囁きを問題にする。

ところが解離性障害における「強い解離」では、囁き手と直接かかわる必要が生じるのである。(p90)

他方、ネット上で見かけたイマジナリーフレンドやタルパを「作る」人たちの中の場合、創作の延長線上にあるかのように別人格の設定を考えたり、対等な人間というよりも、うちの子、使い魔といった捉え方をしたりしている人たちもいました。

作成した空想の他者は、自律化していく必要がある、とする説明もありました。これは、現れた瞬間から一個の人格として意志をもって動いている純粋な意味でのイマジナリーコンパニオンにはまったく必要ない過程でしょう。

また、自分自身はハンドルネームを使っているのに、自分の別人格の名前はSNSやブログで公開している人もいました。

もし同等の個人としての尊厳をはっきり意識していれば、別人格のプライバシーを意識して自分と同じように本名を伏せるか、あるいは自分も別人格も両方とも本名を公開するように思います。

扱いに差があるというのは、つまり同等の個人ではなく、あくまで上下関係があるということになります。

もちろん、そうした扱いがおかしい、間違っているというわけではなく、単に認識の違いがある、という意味においてです。

そうした上下関係は、すでに見たとおり、創作に近いもので、作家が自分はペンネームを使いながら、登場人物たちには本名を使って語らせるのと似ているでしょう。

そもそも、別人格との具体的なやり取りを、ブログやSNS上に積極的に公開しているのは創作作品との親和性を感じます。ふつう、現実の友だちとのやりとりは、個人的な日記に残すことはあるとしても、ネット上で不特定多数の人に公開したりはしないからです。

以前の記事で扱ったとおり、作家が作るキャラクターと、イマジナリーコンパニオンは連続した性質を持っているのは確かです。

しかしその連続性は「弱い解離」か「強い解離」かという違いにつながるので、同じものとして論じることはできません。

「弱い解離」によって作られたイマジナリーフレンドは、「強い解離」の人のイマジナリーコンパニオンほど独立した別人としての輪郭を持っていないせいで、自分で設定して作ることもできれば、自分の望みに合わせて変更することもできるのでしょう。

「弱い解離」と「強い解離」には、はっきりと境目があるわけではありませんが、それでも、内なる人格に対する扱い方が、対等な尊厳を持つ他者に似ているか、それともある程度創作的なキャラクターに似ているかは、わりとはっきり現れるのではないでしょうか。

解離の文化を知るために

同じ空想の友だちといっても、これほど「出会う」人と、「作る」人との間に認識の差があるのだとすれば、やはり、それをひとまとめにして扱うのは適切でないように思えます。

空想の友だち現象を、創作の登場人物まで含むものとして定義を広げてしまうと、解離性同一性障害の別人格や本来のイマジナリーコンパニオンを持つ人たちの独特な体験が覆われてあいまいになってしまう可能性があります。

もし意識的に「作る」ものを解離の範疇に含めてしまうと、解離性同一性障害の人格交代は意識的に演じ分けている演技や詐病、自己アピールなのではないか、という批判にもつながりかねません。

それが現に生じている極端な例が、アニメやドラマに出てくる、現実にはありえないキャラ付けとしての多重人格者だったり、イマジナリーコンパニオンをエア友や脳内彼氏(彼女)と同列にみなしたりする風潮でしょう。こうした混同は、解離という体験の本質を歪めて伝えてしまっています。

もちろん、作家が空想の友だちのようにして登場人物を「作る」のは事実ですし、イマジナリーフレンドを意識して作り、その空想を楽しむ人たちには、その人たちなりの体験世界があります。

この記事で考えたとおり、「強い解離」を持つ人たちに独特な世界や文化があるのと同様、「弱い解離」を持つ人たちにも特有の文化がありました。それらは、どちらも興味深いもので、掘り下げて調べる価値があります。

しかし、どちらを掘り下げて調べるにしても、やはり両者をはっきり区別しておかないと あいまいになってしまい、本質を捉え損なうでしょう。

「強い解離」と「弱い解離」の違いは、この記事で考えたように、源流をたどれば幼少期のアタッチメント(愛着)の違いに行き着くのではないか、と考えられます。 

愛着障害の克服~「愛着アプローチ」で、人は変われる~ (光文社新書)とでは、アタッチメントスタイルが違えば、あたかも別の人種のような違いが生じるとされています。

愛着スタイルは、パーソナリティのさらに土台ともいえる部分を動かしている。つまり異なる愛着スタイルの人は、異なる言語と文化をもつ異国人のようなものである。

この点を理解しておかないと、言語や文化の違いを無視して、コミュニケーションをしようとするような無茶なことになってしまう。

すれ違いや誤解が起きてしまうことは必定だ。実際に、いたるところでそうしたことが起きている。

それぞれの愛着スタイルに備わった認知や思考の様式、感情や行動の表出方法の特性を知らないと、相手の真意をとらえ損なってしまう。(p221)

異なるアタッチメントを持つ人たちの文化をまぜこぜに扱ってしまうと、「相手の真意をとらえ損なってしまう」ことになります。

たとえばヨーロッパの文化をひとくくりにしてとらえると、そこにある多様性の本質を捉え損ないます。本当にヨーロッパの文化を理解したいなら、ヨーロッパの各国家や各民族それぞれの文化を個別に理解し、その上で、それらが混じり合った世界について考えなければなりません。

そのようなわけで、やはりこのブログでは、解離とその文化を扱う以上、イマジナリーコンパニオンに「出会う」人と、「作る」人は、別個に分けて考えるのが不可欠だ、ということになるでしょう。

結局のところ、多様性が混じり合った文化を尊重するには、まずそこに含まれる小さなグループそれぞれの文化を尊重し、個々の違いを理解していく必要があるのです。


脳という劇場の不思議な幻視「シャルル・ボネ症候群」とは―レビー小体病や解離性障害と比較する

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「病院の点滴スタンドの上に小人さんが見えるのよ」。

そんなことを言われたら、この人は冗談を言っているのだろうか? と頭をひねってしまうのが普通かもしれません。人によっては気は確かなのだろうか、と思うこともあるでしょう。

しかし、わたしの場合は違いました。そう話してくれている人が、とても頭脳明晰なおばあちゃんで、大半の若い人たちよりも頭の回転が鋭く、とても理知的なのを知っていたからです。

話を聞いてみると、その人は目の病気のために視野が欠けていて、その欠けた部分を補うかのように、妖精や小人のような不可思議な幻が見えるのだということでした。

当人は、もちろん見えているものが幻であることを知っていました。その幻はとてもリアルで本物のように動くのですが、そんなものは現実にはいないと知っているし、あまりに場違いなので、幻覚だとはっきりわかるようでした。

この不思議なエピソードは、ずっとわたしの記憶に刻まれていたのですが、数年前、たまたま稀で特異な精神症候群ないし状態像という本を読んでいるとき、まさしくこれだ、という記述を見つけて驚きました。

それはシャルル・ボネ症候群(Charles Bonnet Syndrome:CBS)。

目の病気で視野が歪んだり欠けたりする年配の人に現れる幻視で、異国風の楽しい幻覚が多く、それを見ている本人は至って冷静で、幻覚を幻覚だと認識している、とのことでした。

その後、アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語など別の幾つかの本にもシャルル・ボネ症候群の話が紹介されていて、この幻覚は決してまれなものではなく、視覚障害を持つ高齢者の少なくとも15%ほどは経験しているのだと知りました。

また、この幻覚は視覚障害のある高齢者のみならず、別の原因、たとえば大脳皮質の不具合などによっても起こることを知りました。つまり、目の病気がなくても、はたまた高齢者でなく若い人であっても、同じような幻覚を見る可能性があるのです。

そして、どうやらそのようなケースは、レビー小体型認知症(レビー小体病)や、幼児のイマジナリーコンパニオン、若者の解離性障害とみなされているのではないか、と考えるようになりました。

この記事ではシャルル・ボネ症候群の幻覚の特徴を調べるとともに、レビー小体病や解離性障害の幻覚との類似性を見てみたいと思います。

これはどんな本?

わたしが最初にシャルル・ボネ症候群(CBS)について知ったのは、前述のとおり稀で特異な精神症候群ないし状態像でした。この本はタイトルと裏腹に、「稀で特異な」症候群というよりは、本当は稀ではないのにあまり知られていない症候群についての論文が含まれています。

その後、脳神経学者オリヴァー・サックスの見てしまう人びと:幻覚の脳科学を読んだとき、のっけからCBSについてまる一章を割いて詳しく扱われていて、CBSのめくるめく幻覚の不思議な世界について理解を深めることができました。

このサックスの本では、彼の本より前に、オランダの心理学者ダウエ・ドラーイスマがCBSについての詳しい本を書いた、とされています。(p18)

その本とは、アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語のことで、こちらもまる一章を割いて、CBSの歴史や特徴について考察されています。

先に出版されたアルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語では確認されていないとされる症例が、見てしまう人びと:幻覚の脳科学のほうで報告されているなど、情報が補われているので両方読むと理解が深まります。

また意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)ではサックスの記述を踏襲する形でCBSの話題が少し出てきます。

興味深いのは、レビー小体病の当事者、樋口直美さんによる私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活で、サックスが記したCBSの幻覚に、ご自身の体験を重ね合わせる記述がありました。

ダウエ・ドラーイスマは、本を出版した時点ではCBSはほとんど知られておらず、論文は100に満たないと書いています。(p24)

しかし、CBSのような幻覚はまれではないことからすると、こうした論考が世に送り出されたことが呼び水となって、今までなかなか人に自分の体験を打ち明けられなかった当事者たちが声を挙げるようになり、次第に認知が広がっているように思います。

今回の話題は、以前の記事でも似たような範囲を取り扱いましたが、シャルル・ボネ症候群(CBS)を中心に据えて再考したものとなっています。

姿が見える,声が聞こえる,リアルな幻覚を伴うイマジナリーフレンド現象の研究
姿を見ることも、声を聞くことも、触ることもできる、というリアルなイマジナリーフレンド現象についてオリヴァー・サックスの「見てしまう人びと」などから説明しています。幻聴や幻覚は解離の

シャルル・ボネ症候群(CBS)の歴史

シャルル・ボネ症候群の歴史については、ダウエ・ドラーイスマのアルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語に詳しく書かれています。

この幻覚は昔からずっと存在していたと思われますが、それを学問的に研究するきっかけとなったのは、1759年、90歳近かった元判事のシャルル・リュランが、自分の体験を口述筆記したことでした。

リュランは、ほとんど視力がなくなってから、奇妙な青いハンカチのようなものが見えるようになりました。

しかし、リュランは老齢になっても頭脳明晰だったので、そのハンカチが実際に存在すると考えたことは一度もなく、目の問題と関わりがあるに違いないと確信していました。(p20)

しかし、ときにはハンカチどころか、もっと複雑な幻視が現れることもあり、そのときばかりはさしもの元判事も、幻覚のリアルさにだまされてしまいます。

八月のある日、孫娘がふたりやってきた。リュランは暖炉の前の肘掛け椅子にすわり、孫娘たちは彼の右側にすわった。

すると左のほうから、ふたりの若者があらわれた。彼らは赤とグレーの豪華なコートを着て、帽子には銀の縁取りがあった。

「ずいぶん立派な紳士たちをお連れしたんだね。どうしてあらかじめ教えてくれなかったんだい?」。

孫娘たちは、ここには誰もいませんよと答えた。ハンカチと同じく、紳士たちはじきに消えた。(p20)

もちろんリュランは、突然、見当識障害に陥ったわけではありません、あまりに幻覚がリアルすぎて、指摘されるまで本物と見分けがつかなかったのです。リュランは頭脳明晰だったので、指摘されれば、いくらリアルでも幻覚だと理解できました。

そんな経験を繰り返し経験し、あまりに幻覚が多様なことに驚いたリュランは、あるとき博物学者であった孫の熱心な勧めに促されて、自分の体験を生き生きと詳細に18ページも口述筆記し、5人の立会人に署名させました。(p22)

このシャルル・リュランの孫にして博物学者、のちには心理学者としても活躍した先見の明ある人物こそ、シャルル・ボネ、つまりシャルル・ボネ症候群の名前の由来となった人物でした。

名付け親はド・モルシエ

ではシャルル・ボネが、シャルル・ボネ症候群という名前をこの幻覚に付したのかというと、そうではないようです。

シャルル・ボネは、1760年の著書「魂の働きに関する分析的研究」の中で、「ある老人」すなわち祖父シャルル・リュランの体験を紹介しました。さらに自身も晩年、祖父と同じような幻覚を見るようになりました。つまりシャルル・ボネはシャルル・ボネ症候群になりました。

しかしその体験について詳しく論じることもなくシャルル・ボネは亡くなり、くだんのシャルル・リュランのノートは、彼の死後、1900年ごろになってようやく発見されます。

そして1902年、心理学者・哲学者のフルールノワがリュランのノートをはじめて活字にし、雑誌「心理学の古文書」の創刊号の巻頭に載せて発表しました。(p24)

その後、さらに30年が経過して、1936年、ジュネーブの神経学者ド・モルシエが、「スイス医学週報」の中で、このような幻覚を「シャルル・ボネ症候群」(CBS)と命名したのでした。

興味深いのは、このときまで、リュランの幻覚は「病気」や「症状」とはみなされていなかった、という点です。

シャルル・リュランは、この幻覚を大いに楽しんでおり、見てしまう人びと:幻覚の脳科学によれば、たびたび幻覚を楽しむべく静かな自室をシアター代わりにくつろぐほどでした。

孫のシャルル・ボネもこれを心理学の話題として書き残していて、その後ジュネーブで発掘されたときも「心理学の古文書」として扱われました。

しかしド・モルシエがはじめてこれを「症候群」、つまり、何かしら病理学的な要素のある異常として定義したのでした。

この歴史を知っておくと、シャルル・ボネ症候群の幻像が、当事者を困惑させることもあれば、楽しませることさえあるという独特の性質、すなわち一概に病気とは言い切れない不思議な特徴をもっていることが理解しやすくなります。

シャルル・ボネ症候群(CBS)の特徴

幻覚というと、掴みどころのない摩訶不思議なものをイメージするものですが、シャルル・ボネ症候群の幻覚には、様々な点において似かよった特徴があるといいます。

客観的に意識できる幻視

CBSの人たちが見る幻視は、とても客観的な内容で、ちょうど傍観者として眺める映画のスクリーンのようなものです。

見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中で、当事者の一人のロザリーは、こんな体験をしていました。

ロザリーによると、彼女の幻覚は夢というより「映画のよう」だという。

映画のように、心を奪われることもあれば、退屈なときもある(「例によって上ったり下りたりばかり、いつも東洋風の衣装ばかり」)。来ては去り、彼女には何の用もないように思われた。

無声の画像で、向こうは彼女に気づいていないようだ。異様に静かなことを除けば、その人たちはとてもリアルで、確実にそこにいるように見える。ただし映像のようにうすっぺらに見えることはある。

しかし、彼女はこのような経験をしたことがなかったので、「私は頭がおかしくなっているのかしら?」と考えずにはいられなかった。(p17)

CBSの幻視は、統合失調症の幻覚や、夢の中で見る奇妙な世界のように、自分が幻の世界に入り込んで、深く関わったりすることはほとんどありません。中立的な内容で、感情を掻き立てたり、妄想的にならせたりはしません。

「私は頭がおかしくなっているのかしら?」と考えるのは、冷静かつ客観的な証拠です。妄想的になっている人は、自分が正しいと信じ込んでいるので、そんな自己吟味はしません。

サックスは、CBSの人たちは、概して「物事を批評できる通常の目覚めた意識を保っている」といいます。

夢を見る人は自分の夢のなかに完全に入っていて、たいていは積極的にそこに参加するが、CBS患者は物事を批評できる通常の目覚めた意識を保っている。

CBSの幻覚は、外部空間に出現はするが、他との相互作用がないのが特徴である。つねに静かで中立的で、感情を伝えることも引き起こすこともない。

見えるだけで、音もにおいも触感もともなわない。たまたま入った映画館のスクリーンに映った映像のようによそよそしい。

その映画館は心のなかにあるのに、真に個人的な意味では、幻覚は本人とほとんどかかわりがないようだ。(p38)

CBSの幻覚は、あくまでも中立的で、感情を伝えることも引き起こすこともなく、本人とほとんど関わり合いにならない「たまたま入った映画館のスクリーンに映った映像」のようなものです。

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語に載せられている老人専門精神科医ロベルト・チューニスの調査でも、CBSの当事者は、それはが幻だと理解していて、幻像は感情的に中性で生活の内容と無関係、さらには自分で幻像を呼び出せず、内容もコントロールできないといった特徴がありました。(p34-35)

幻覚は幻視だけ

今引用した記述にあったとおり、CBSの幻覚は幻視、つまり視覚性のものだけに限られているのが普通です。

「見えるだけで、音もにおいも触感もともなわない」幻像で、ロザリーが言っていたように「無声の画像」です。たまたま入った映画館でサイレント映画すが上映されているようなものだ、ということでしょう。

しかしながら、シャルル・ボネ症候群と同じような現象が、視覚のみならず、他の感覚でも起きることが報告されています。

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語では、聴覚性の幻覚として「ボネ幻聴」とでも言うべきものが紹介されています。

触覚、味覚、嗅覚も老いや病によって鈍くなることがある。

しかしこれまで、視覚におけるボネの幻像に相当するような、触覚・味覚、嗅覚における幻覚に関する報告はない。

ただし聴覚に関する報告はある。そのいわば、「ボネ幻聴」とでも呼びうる現象は、聴覚を失いつつある人びとが経験する音楽の幻聴である。(p41)

ここでは、視覚を失いかけた人がシャルル・ボネの幻像を見るように、聴覚を失いかけた人が架空の音楽や声を聞く例が紹介されています。

ボネ幻聴のようなタイプも含め、聴覚性のさまざまな幻聴についてはサックスの別の本、音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々に詳しいので参照してください。

ダウエ・ドラーイスマは「視覚におけるボネの幻像に相当するような、触覚・味覚、嗅覚における幻覚に関する報告はない」と書いてはいますが、その後に出版されたオリヴァー・サックスの見てしまう人びと:幻覚の脳科学では、嗅覚などでも同様の例があると言及されています。(p66)

CBSとメカニズムが似ていると思われるレビー小体病の当事者、樋口直美さんも、私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活や以下の記事の中で幻臭の体験を語っています。(p151)

第2回 匂い、このうっとりするもの|かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-

必ずしも他の感覚においてCBS的な幻覚が存在しないわけではなく、わたしたちは感覚の大部分を視覚や聴覚に依存しているために、その二つがとりわけ目立ちやすいだけなのかもしれません。

CBSでは、目の障害が直接の原因で幻覚が生じるので、ほとんど視覚性の幻覚に限られていますが、別の感覚が衰えればそれに対応する幻覚が現れます。

後で説明するように解離性障害などでは、同様のことが複数の感覚にまたがって現れている可能性があります。

摩訶不思議な幻視の内容

幻視の内容、つまりどんな幻視を見るかについては、極めて多種多様なので、一概にこれ、と言い切ることはできません。

しかし特徴的なのは、奇怪で恐ろしい幻視に悩まされることはほとんどないという点です。サックスは、大部分のCBSの幻覚は恐怖心を生じさせるものではなく、慣れてしまうとちょっと楽しくなるとさえ述べています。(p42)

幻視は、ごく普通の現実にありそうなものが見えることもあれば、いささか非現実的に改変されていることもあります。

たとえば、CBSの幻視は、異様に鮮やかだったり、異様に細かいディテールまで見えたりすることがあります。

CBSの幻覚はよく、まばゆいばかりの鮮烈な色がついているとか、人が目で見るよりはるかにディテールが細かくて豊かだと言い表される。

みな同じような服を着て同じような動きをしているというような、反復や増加が現れる傾向が強い。(p33)

また、シャルル・リュランや、先程のロザリーがそうだったように、ちょっとした異国情緒のある凝った幻像が見えることが多いようです。

理由はわかっていないが、この異国風を求める強い傾向はCBSの特徴であり、これが文化によって異なるかどうかを知りたいところだ。(p37)

サックスは他の文化の例を知りたいと述べていますが、わたしがCBSについて知ったおばあちゃんは、妖精や小人という、西洋風の幻視を見ていたようです。やはり文化が違っても、「異国風」という趣向は共通しているのでしょうか。

幻像は大きさが現実とは異なっていて、人間や物が奇妙なほど大きかったり、逆に小さかったりもするようです。これは「不思議の国のアリス症候群」と呼ばれる偏頭痛やてんかんに伴うことの多い幻視とよく似ています。

そのほか、マンガのようなデフォルメされた顔、幾何学的な図形などを見る場合もあり、CBSの幻像には特定の傾向はあっても、これこれはありえない、といった制限はないようです。(p33)

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によれば、自分自身の姿が見えるという幻視、つまり自己像幻視(オートスコピー)も見られる場合があります。(p24)

しかし、これらの幻視の注目すべき特徴として、たいていは、見知らぬ人や見知らぬ物が見えるという共通点があります。だからこそシャルル・リュランは、孫娘たちが見知らぬ紳士を連れてきたと感じましたし、CBSの幻視はスクリーンの映画のように他人行儀です。

サックスは、見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中で、CBSの幻視は、具体的な記憶ではなく、もっと普遍的に分解された要素のようなものから構成されているのではないか、と考えています。

CBSでは、記憶が完全なかたちでそのまま幻覚にはならない。

CBSの患者が人や場所の幻覚を見るとき、認識できる人や場所であることはほとんどなくて、もっともらしいものやつくり上げられたものでしかない。

CBSの幻覚は、初期知覚系のどこか下位レベルに、イメージや部分的イメージのカテゴリー辞書があるような印象を与える。(p36)

これはつまり、CBSでは「富士山」(固有名詞)のような特定のものではなく、単に「山」(一般名詞)のような普遍的で特定できない幻視が見えやすいようです。

だれかが現れるとしても、ほとんどが適当にパーツを寄せ集めた特定できない見知らぬ顔であり、楽譜や文字が見えるテキスト幻覚でも、音符や文字を適当に寄せ集めただけの解読できないテキストであるようです。(p23-24)

気まぐれな現れ方をする幻視

奇妙なのは、幻視の現れ方です。視力が欠けることが原因だとすると、視力が衰えるにつれ、四六時中 幻視が見えていても不思議でないように思えますが、CBSの幻視は極めて気まぐれです。

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によれば、ひとつの幻視は1時間見えていたものもあれば、数秒で消えてしまうこともあります。(p35)

特に、静かなときに慣れ親しんでいる環境で現れやすいと言われていますが、リュランの幻視は眠っていようと目が覚めていようと、ベッドにいるときには一度も現れませんでした。(p21,35,39)

CBSが生じる期間としては、たいていは1年以内ですが、5年以上続くこともあります。(p34)

ダウエ・ドラーイスマは、CBSの幻視は「視力が低下しはじめたときに現われ、視力が完全に失われるときに消える」と書いています。(p40)

ところがオリヴァー・サックスが見てしまう人びと:幻覚の脳科学で記しているロザリーは、すでに失明して全盲になった女性でした。(p20)

ロザリーの幻視は、失明してから数年経って初めて現れただけでなく、その後一度消えて、ストレスのかかった時期に再度出現することもありました。

物事をよく考える人に多い

さらに不思議なのは、視力が低下した年配者ならだれもがCBSを経験しうるというわけではなく、CBSを経験する人にはいくらか共通する性格傾向があるということです。

すでに触れたアルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語に載せられている、1998年にオランダの老人専門精神科医ロベルト・チューニスが行なった14人の当事者へのインタビューでは、こんな傾向がありました。

彼の研究から浮かび上がる典型的な患者像は、かなり高齢で、視力をほとんど失っている、というものだ。

ほとんど字を読むことができず、比較的静かな環境で暮らしている。

独り暮らしで、外に出かけたり、知り合いに会ったりする意欲も気力もない。

来客はほとんどいない。静かに日々が過ぎていき、毎日特に何も起きない。

夕方になり、外界が暗くなっていき、かすかな眠気を催しはじめると、幻像があらわれる。

幻像によって心が乱されることはない。それが現実でないことを知っているからだ。幻像を消すこともできる。瞬きさえすれば、消えてしまうのだ。

だがこのことを他人には話さない。奇妙な現象であることは確かだから、他人から理性を失ったと思われたくないのだ。(p36)

この調査で明らかにされたのは、視力が弱いだけでなく、内向的で静かな一人暮らしをしている年配者に多い、という傾向でした。

自分の体験をあまり人に話さず、4分の3の人が配偶者にさえ打ち明けたことがなかった、という結果からは、シャルル・ボネ症候群がなぜ見過ごされてきたかがうかがえます。(p35)

つまり、CBSはもっとありふれた現象であるにもかかわらず、よく考える慎重な人たちが当事者に多いせいで、あえて口に出さない、あえてだれにも言わないことが多く、実際より数が少ないと誤認されてきたのでしょう。

ダウエ・ドラーイスマは、CBSは これまで信じられてきたよりかなり多く、眼科医クレインが1995年に診察した患者のうち38%に見られたと述べています。(p33)

サックスは、見てしまう人びと:幻覚の脳科学で最近の調査結果を参照して、CBSは知名度とは裏腹に、わりとありふれた現象である、という点を示しています。

CBSはいまだに医者にさえもあまり認識されていないので、かなり多くの症例が見落とされるか誤診されていることは大いに想像できるが、最近の研究はCBSが実はかなりよくあることを裏づけている。

オランダで視覚障害のある高齢者600人近くを研究しているロベルト・テウニッセらが、人、動物、光景のような複雑な幻覚を見ている人が15パーセントいて、像や光景にはなっていないが形、色、たまに模様が見える単純な幻覚を経験する人は80パーセントもいることを発見している。(p22)

この調査で明らかにされた典型例からすれば、CBSの幻覚は内向的で孤独な年配者に多いようにも見えますが、最も古いCBS当事者のシャルル・リュランは孤独な老人とは言いがたい快活な人でした。

わたしが親しくしていたおばあちゃんもやはり、とても孤独とは言いがたい人で、一人暮らしをしていたものの社交的で快活でした。両者に共通しているのは極めて内省的なよく考える人で、内的世界が年をとるごとに充実していたことです。

続く部分で考えますが、どうやらCBSを経験する人たちは、単に内向的、というよりは思考力を働かせてよく考える人たち、脳の活性レベルが高い人たちであるようです。

なぜ幻覚が生じるのか

CBSの幻覚は、視力の損なわれた人に現れるという特徴があるものの、すでに見たとおり気まぐれで、現れたり消えたりする傾向があるので、はっきりとしたメカニズムはわかっていません。

それでも、ダウエ・ドラーイスマが考えられる説としてあげているのは、「感覚遮断」「解放」です。(p40)

感覚遮断と解放

「感覚遮断」とは、何かの感覚入力が失われたとき、その失われた穴を埋めるかのように、記憶から感覚が再生されるという、古くからある考え方です。

「夢」の認知心理学によると、たとえば夢も、眠って感覚遮断されている状態で内側から再生される記憶なので、感覚過敏による幻覚と同じようなものと言えなくもありません。

内的に活性化した脳波、睡眠を維持し、夢を持続させるために外界からの刺激を遮断する。(p14)

つまり、CBSは外部からの入力が乏しくなることで、内側が活性化した結果再生されるものだと考えることができます。

この感覚遮断による幻覚は、わりとよくある現象で、オリヴァー・サックスは見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中で、狭い牢獄に閉じ込められた囚人や、ずっと同じ風景ばかり見るパイロットが幻視を見る現象を紹介しています。

また、緊急時に生じる臨死体験の幻覚は、感覚遮断による解離現象が密接に関わっていることを、ダウエ・ドラーイスマは別の著書なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学の中で説明しています。

なぜ人は死の間際に「走馬灯」を見るのか―解離として考える臨死体験のメカニズム
死の間際に人生の様々なシーンが再生される「走馬灯」現象や「体外離脱」のような臨死体験が生じる原因を、脳の働きのひとつである「解離」の観点から考察してみました。

全身の感覚をできるだけ遮断した状態に近づけてリラックスを促す感覚遮断タンク(アイソレーションタンク)を使うと、普通の人でも変性意識状態を体験できる場合があります。

「解放」説もこれと似たようなもので、より高次の活動が損なわれることで、それにより抑制されていた低次の活動が活性化するというものです。

たとえば、不思議な能力が現れる共感覚やサヴァン症候群は、通常は抑制されている脳の機能が何かの理由で解放されたものだと考えられています。CBSの幻視の場合は、視覚の衰退が能力の解放の引き金になるということでしょう。

なぜサヴァン症候群のダニエル・タメットは数字が風景に見えるのか
特異な能力を持って生まれたダニエル・タメットが、自閉症スペクトラム(アスペルガーやサヴァン症候群)は“普通の人”と変わらないと述べるのはなぜでしょうか。書籍「天才が語る サヴァン、

いずれの場合も、共通していると思われるのは、脳の内的活動が活性化され、普段使われていない回路が解放されることです。

CBSは現れたり消えたりしますが、おそらくは脳のある部分の内的活動レベルの変動にそっているのでしょう。

視力が減退して数年ほどだけCBSが現れたり、全盲になるとCBSが消えたりするのは、視力が欠けたことで脳の内的活動が高まるのは一時的で、しだいにその状況に慣れて活性が落ち着くせいなのかもしれません。

ロザリーのように全盲になってからCBSが現れる理由はよくわかりませんが、彼女が二度目にCBSが現れた時期は強いストレスがかかっていたらしいので、やはり脳の活動が高ぶっていた可能性があります。

過剰な視覚連想

注目すべきことに、アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によれば、脳のある部分が損なわれることで、CBSのような幻視が生じうることがわかっています。

視覚連想を司る大脳皮質に損傷を受けた患者が、ボネの幻像のようなものが見えるようになった。

早くも1931年には、V19と呼ばれる場所(視覚連想を司る大脳皮質の一部)に電気刺激を与えるとボネの幻像が生じることがわかっている。(p45)

ここで言われている部分は、もしかすると視覚連想をつかさどるというよりは、視覚連想を制御しているのかもしれません。

そうだとすると、歯止めが利かなくなったことで、いわば夢で見るような驚異的な視覚連想が解放されてしまい、それが幻覚のようにして視界に割り込んでくるのでしょうか。

CBSが過剰な視覚連想と関係しているらしいことは、アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語に載せられているこんな説明からも明らかです。

ホロヴィッツ医師は、視覚的幻覚は眼と脳の「交渉のプロセス」で生じるという。

…この論文にはボネの幻像への言及はないが、この脳と眼とのつながりは、その後頻繁に繰り返される。

シャルル・ボネ症候群は、眼から伝えられたひどく歪んだ情報を用いた、脳の過剰な自由連想の結果である、と。

…すなわち脳は、混沌と偶然とノイズを与えられたときでも、混沌の中に秩序を、偶然の中にパターンをノイズの中に信号を、認識するように作られた器官である、という見方だ。

脳はこう考える―無数の粒子が空中に浮遊しているはずはないのだから、眼が見ているものは鳩の群れに違いない、と。(p38)

ここでは「シャルル・ボネ症候群は、眼から伝えられたひどく歪んだ情報を用いた、脳の過剰な自由連想の結果である」とされています。

ロザリーのような全盲の人たちはともかくとして、視力がいくばくかでも残っているCBSの人たちの場合、なんとなく見えるぼんやりした形や、欠けている視野の一部を補うようにして幻像が構成されやすいようです。

つまり、CBSの幻覚は、何の脈絡もないものが見えているわけではなく、その場にある何らかのもの、あるいはその場に欠けているもの、わずかに見えている光景から連想しうるものが、自動的に補われているのではないか、ということです。

その一例として、ここではリュランが見た鳩の群れは、空気中に舞っていたホコリを脳が鳥の群れのようだと自動的に解釈した結果ではないかと推測されています。

それと似たような例をオリヴァー・サックスも見てしまう人びと:幻覚の脳科学で書いています。

あるとき彼女が私を見ていると、私のひげが広がって顔と頭全体を覆うまでになり、そのあとちゃんとした姿に戻った。(p29)

オリヴァー・サックスの立派な髭をたくわえた素顔を知っていると、つい笑ってしまうような話です。

ホコリを鳩に変え、サックスの顔をひげいっぱいにしてしまうCBSの視覚連想は、じつにユーモラスな詩人です。

このような視覚連想は、わたしたちにも生来備わっていて、「パレイドリア」と呼ばれています。

たとえば、空に浮かぶぼんやりとした形の雲が、色々なものに見えてきたり、ロールシャッハ・テストで使われるようなインクのシミが、何か意味あるものに見えてきたりする現象です。

なかでもごく普通の模様などから過剰に顔を検出してしまうような場合はシミュラクラ現象と呼ばれています。このときは脳の顔認識に関わる側頭葉の紡錘状回が過剰に活動しているようです。

あとで考えますが、このパレイドリアやシミュラクラ現象が過剰に働くことは、レビー小体病でも報告されていて、シャルル・ボネ症候群とレビー小体病の幻覚に何かしらのつながりがあることを思わせます。

高い脳の活動レベル

いずれにしても、こうした普段は抑制されている能力の解放や、過剰な視覚連想は、脳の活性の高さに関係しています。

CBSは、視力の欠けた、何かしらの視覚障害を抱える年配者に出現しやすいとはいえ、視覚障害そのものは、引き金であって決定要因ではないのでしょう。

先ほどのロベルト・テウニッセらの報告によれば、視覚障害を抱える年配者の中でも、複雑な幻覚(CBS)を見ている人が15パーセント、単純な幻覚を経験する人は80パーセントいる、とのことで、幻覚の複雑さや頻度に差がありました。

これは幻覚を引き起こすきっかけが視覚障害であることは確かなものの、その人の脳の内的な活動レベルの違いによって、幻覚の具体性や頻度が変わってくる、という意味かもしれません。

すなわち、CBSに見られる多種多様な幻視、内容の複雑さや異国情緒などは、あくまで、脳の内的活動が強い人が持つ豊かな想像力あってのものではないか、ということです。

それを裏付けるかのように、アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によれば、先ほどのCBSの当事者14人にインタビューしたチューニスの調査に基づき、ダウエ・ドラーイスマはこう考えています。

 チューニスの報告では外向的行動が少ないという事実から、脳の活性レベルとの関係が疑われる。外向的な人は内向的な人よりも脳の活性レベルが低いことは、昔から知られている。

ふつうに考えるとなんだか意外だが、広く流布している説明によれば、外向型の人はさらなる神経刺激を求めるために外向的なのである。

もっと簡単に言えば、内向的な人の脳は生まれつき活発であり、外向的な人は外的な刺激を必要とするということである。

この仮説に従えば、ボネの幻像は、脳の比較的高い活動レベルに慣れている内向型の人にあらわれ、極端な場合(視覚的刺激が多少とも消えるとき)、自分自身の蓄積―想像力、記憶、そして両者の結合―を使って幻像を生み出し、生まれつきの力を誇示するのだ。(p45)

彼の考察によれば、CBSの幻視は、活性レベルの高い脳が「生まれつきの力を誇示する」ようなものです。

もともと内向的、または内省的で、極めてよく考えるタイプの脳を持っている人たちが視覚障害に直面したとき、活発な脳はそれまでの人生で溜め込んだ情報のストックを活用して、豊かな幻視を再生するのかもしれません。

こうした生まれつき より深い思考力を持っている人たちは、もしかするとHSP(人いちばい敏感な人)と呼ばれる人たちに多いかもしれません。

HSPの人は、色々とスピリチュアルな現象(解離現象)を経験しやすいとも言われています。

生まれつき敏感な子ども「HSP」とは? 繊細で疲れやすく創造性豊かな人たち
エレイン・N・アーロン博士が提唱した生まれつき「人一倍敏感な人」(HSP)の四つの特徴について説明しています。アスペルガー症候群やADHDと何が違うか、また慢性疲労症候群などの体調

CBSの名前ともなったシャルル・ボネは、祖父のエピソードをはじめて紹介した「魂の働きに関する分析的研究」の中で、人を生命を持たない石像にたとえました。

ただの石像にすぎない人にさまざまな感覚器官を与えたとき、外から入ってくる刺激によって死んだ石がひとつの人格に成長します。つまり、人という石像をある人格へと形作る(のみ)は、感覚刺激だと言うわけです。(p26)

今日でも、それと同様の見方が存在していて、たとえば発達障害の人が、独特な脳へと発達していくのは、もともとの感覚刺激という(のみ)が異なっているせいかもしれません。

たとえば自閉症の人たちが、人とのコミュニケーションを好まないのは、生まれつきの視覚過敏や聴覚過敏、触覚過敏のせいで、母親の顔を見つめたり、声を聞いたり、抱かれたりすることが快適ではないため、人を避けるようになっていく可能性があります。

HSPのような、感覚を深く感じ取り、強く解釈する人たちもまた、深い感覚刺激を感じるがゆえに、しばしば よく考え抜く人へと発達することがあります。

内省的で情報を咀嚼する力の強い人たちは、HSPとも関係している物事の違いを感じ取る力、「差次感受性」に秀でているようです。

HSPの人が持つ「差次感受性」―違いに目ざとく脳の可塑性を引き出す力
敏感な人は打たれ弱く、ストレスを抱えやすい。そんなデメリットばかりが注目されがちですが、人一倍敏感な人(HSP)が持つ「差次感受性」という特質が、個人にとっても社会にとってもメリッ

差次感受性に秀でている人は、見聞きした情報、体験した物事を、人並み外れて深く考え、分析します。通常はひとまとまりになっている物事を細かい要素に細切れ(チャンキング)して考えるのが得意です。

この思考パターンは、もしかすると、CBSの幻視の特徴である、特定の記憶の再現ではなく、要素に細切れに分解された記憶が見知らぬ人や物の姿をとって再生されることと関連してるのかもしれません。

生まれつき感受性が強く、外からの刺激を深く処理する脳は、外部からの深い刺激がなくなったとき、自らのストックの中から複雑な幻視を再生して、「生まれつきの力を誇示」したいと思うとしても不思議ではありません。

HSPのような物事を深く感じ取る感受性の強さがある程度の遺伝性を持つことを考えると、頭脳明晰なシャルル・リュランの孫のシャルル・ボネが博物学者であり、二人とも晩年にCBSを経験したのは意外ではないのでしょう。

レビー小体病との類似点

こうしたCBSのメカニズムや特徴は、やはり幻視を特徴とする他のいくつかの現象との関連性をうかがわせます。

すでに見たとおり、CBSの幻視において、重要な役割を果たしているのは脳です。とすると、たしかに眼科疾患が引き金になることが多いにしても、眼科疾患がない場合でも、脳の強い視覚連想や幻視が呼び覚まされることはありうるはずです。

サックスは、見てしまう人びと:幻覚の脳科学でこう指摘しています。

視力が失われたり消えたりするときには、多種多様な、ありとあらゆる視覚障害が起こりうることは確かで、もともと「シャルル・ボネ症候群」という言葉は、眼病などの目の問題とのつながりで幻覚を起こす人たちに使われるものだった。

しかし、本質的に同じような数々の障害が、目そのものではなく、もっと高度な視覚系、とくに大脳皮質の視覚をつかさどる領域―脳の後頭葉とそこから側頭葉および頭頂葉に突き出た部分―に、損傷がある場合にも起こりえる。(p27)

何かしらの要因で、目そのものではなく、高度な視覚系、大脳皮質のほうに異常を来たし、CBSのような幻覚が見えてしまうのではないか、と考えられるものに、レビー小体型認知症(DLB)があります。

レビー小体型認知症は、「認知症」との名前がついてはいますが、病理学的にはパーキンソン病と同様のレビー小体によって生じる病気であり、必ずしも認知機能障害が伴うわけではないので、レビー小体病という呼び名のほうが適切かもしれません。

以前に紹介したように、レビー小体病の特徴の中には幻視が含まれています。必ず幻視が出るわけではありませんが、かなり特徴的な症状なので、レビー小体病を他の認知症や精神疾患と区別する手がかりになりえます。

若年発症もあるレビー小体型認知症の10の症状―薬に過敏,幻視,疲労感,パーキンソン症状など
若年発症もあるレビー小体型認知症に伴う、慢性疲労や認知の変動、薬物過敏性、幻視、体のこわばりなどの症状、そして治療に使われる薬や役立つサポート情報についてまとめました。

このレビー小体病の幻視は、一見すると統合失調症の妄想や、認知症の見当識障害のようにも思われますが、実際にはCBSに近い現象であるようです。発達障害の素顔 脳の発達と視覚形成からのアプローチ (ブルーバックス)にはこう書かれています。

この逆の症状が、認知症の一種のレビー小体型認知症の患者だ。彼らは過度に顔に反応してしまうため、顔ではないのに顔に見えてしまうパレイドリア現象を引き起こす。

レビー小体型認知症の主な症状は、幻想や妄想が生じやすいことだ。ポケットの中に小人が見えたり、人がいないのにいると主張する。この幻覚の原因には、顔の見えすぎがあった。

顔を見出して、そこに人の姿を作り出すのだ。試しにごく普通の風景写真を見せてみると、トラやチョウの羽の模様、樹木の木目などに、次々と顔を見つけ出すことがわかっている。(p155)

ここでは「幻想や妄想が生じやすい」と書かれてはいますが、ここまでのCBSの事例を考えればわかるように、他者から見れば妄想に思えてしまう、というほうが近いでしょう。

見てしまう人びと:幻覚の脳科学によれば、CBSの幻視は、脳活動の観点からすれば、本物と区別がつかないそうです。それは、シャルル・ボネがかつて主張したとおりだと言います。

さらにフィッチェらは、通常の視覚的想像と実際の幻覚の差異も観察した。

たとえば、色つきの物体を想像しても視覚野のV4領域は活性化しなかったが、色つきの幻覚は活性化したのだ。

このような発見は、主観的にだけでなく生理学的にも、幻覚は想像とはちがうもので、知覚にかなり近いことを裏づけている。

ボネは1760年に幻覚について、「心は幻と現実を区別できないだろう」と書いている。フィッチェらの研究は、脳も両者を区別していないことを示している。(p35)

シャルル・リュランは妄想的ではありませんでしたが、孫娘たちが紳士を連れてきたと思いこんでしまった瞬間がありました。あまりにリアルに見えたからです。

また先ほどの全盲のCBS当事者ロザリーは、しばらくCBSが消えていた後、再度いきなり現れたとき、あまりにリアルだったので混乱してしまったといいます。

そのさなか、幻はロザリーにとってまさに現実に思えた。彼女は自分がシャルル・ボネ症候群であることを忘れかけていた。

「とても怖かったので、何度も叫んでしまいました。『この人たちを部屋から追い出して、門を開けて! 追い出して! そして門を閉めて!』」。

彼女は看護師がこう言うのを聞いた。「彼女は正気じゃないわ」。(p21)

もちろんロザリーは正気であり、見えているものがCBSの幻像だとわかったら、納得して落ち着きを取り戻すことができました。しかし、そのとっさの反応は、看護師からすれば、妄想にしか見えませんでした。

レビー小体病の当事者である樋口直美さんは、私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活の中でサックスのこうした記述に触れています。

オリヴァー・サックスが書いた『見てしまう人びと』などの本に、「シャルル・ボネ症候群」という幻視の症例がたくさん紹介されています。

彼らは知的能力や精神状態には何の問題もないのに、ただ幻視が見えてしまうんです。それを読むと、彼らの幻視の様子は、私の幻視の様子ととてもよく似ています。

…「本物にしかみえないなら、どうやって幻視とわかるんですか」とよく訊かれます。この場所にこういうものがいるだろうか、あるだろうか、と考えます。

もし家の中に人がいれば、それはありえないので幻視だとわかります。でも突然現れますから、心臓が止まるかと思うぐらい、びっくりします。(p238)

この記述が物語るとおり、CBSの幻視と、レビー小体病の幻視は、客観的に似ているだけでなく、主観的にもよく似ているようです。

すでに見たとおり、レビー小体病の幻視ではパレイドリア現象、または顔を過剰に検出してしまうシミュラクラ現象の過剰が知られていて、樋口直美さんも著書でそれに言及しています。(p47)

先ほどのロザリーは、突然の幻視に混乱して、気が触れているかのように誤解されましたが、それはレビー小体病でも同じだと樋口直美さんは言います。

みなさん今夜、お家に帰られて、夜、寝室の扉を開けた瞬間に、知らない男が眠っていたらどうされますが。叫ぶという方? 警察を呼ぶ方? 棒を持ってくる方? 包丁を持ってくる方はあまりいらっしゃらないと思いますけど、「初めまして」と言う方もいらっしゃらないと思います。

でも、レビーの、特に高齢の方が叫ぶと、全く違います。

「頭がおかしい」と怒鳴られ、説教され、バカにされ、BPSD[認知症の周辺症状]だと決めつけられます。病院に無理やり連れて行かれて、抗精神病薬を飲まされるかもしれません。

「認知症だから、ない物をあると言って、わけのわからないことをするのよね」と家族の方は言います。

違います。思考力があって、本物にしか見えないものが見えるから、正常に反応しているんです。不審者がいれば怖いです。でも慰められるどころか、狂人扱いされます。(p239)

おそらくは、視覚障害が引き金になるか、脳のレビー小体が引き金になるかという違いはあれど、視覚連想の過剰が引き起こされるという点で、CBSとレビー小体型認知症の幻視には、何かしら共通の基盤があるのではないでしょうか。

それとともに、どちらも年配者に多いことからして、互いに混同されて診断されているケースもあるかもしれません。単なる視覚障害からくるCBSの人が、幻視を妄想や思考力低下、認知症の兆候だとみなされるようなケースがありそうです。

イマジナリーコンパニオンとの類似点

CBSとレビー小体病は年配者が大多数を占めていますが、CBSの幻視のメカニズムからすると、それが年配者特有のものであるはずはないでしょう。

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によれば、CBSの幻視の原因の一端が、脳の内的活動レベルの高さにあることを示唆したチューニスは、これが若い人にも生じうると述べています。

ド・モルシエによれば、老齢がこの症候群の定義の本質的部分だが、チューニスに言わせれば、老齢は関連要因のひとつにすぎない。

つまり、若い人もシャルル・ボネ症候群を経験する可能性を示唆している。(p44)

そもそも、すでに見た感覚遮断や解放といったCBSの幻視のメカニズムは、幼少期の子どもに見られやすいものです。

たとえば複数の感覚が混ざり合って体験される共感覚や絶対音感といった不思議な能力は、幼児のころはだれにでも見られると言われます。もともとは「解放」されていた低次の機能が、その後発達する高次の機能によって抑制されていくのかもしれません。

そうであれば、幼少期の子どもにはCBSと同様の幻視が生じやすい、ということになります。それはおそらく、イマジナリーコンパニオン(空想の友だち)と呼ばれる幻覚体験でしょう。

簡単に言えば、イマジナリーコンパニオンとは「となりのトトロ」であり、子どものときにしか見えない幻視を含む空想の存在のことをいいます。

子どもにしか見えない空想の友達? イマジナリーフレンドの7つの特徴に関する日本の研究
子どもが目に見えない空想の友達と遊んでいるのを見て驚いたことがありますか? 森口佑介先生の著書「おさなごころを科学する」から、子ども特有の興味深い現象イマジナリーフレンドについてま

サックスはCBSを取り上げた同じ見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中でイマジナリーコンパニオンについても触れています。

架空の友だちがいる子ども、というのは珍しくない。想像力豊かでたぶん寂しい子どもが作り出す、順序立って進行していく空想の作話のようなものの場合もある。幻覚の要素を持つケースもありえる。(o297)

イマジナリーコンパニオンを持つ子どもは、架空の存在としゃべったり手を繋いだりしますが、実際にその声を聞き、姿が見えている場合が多いようです。なぜなら子どもたちはイマジナリーコンパニオンの姿を絵に描くこともできるからです。

イマジナリーコンパニオンを持つ子どもも、誰もいないところへ向かって話しかけたり、見えない人がいると主張したりするので、CBSやレビー小体型認知症と同じく、周りの人から気味悪がられることがあります。

しかし年齢の違いは、周りの人の反応に大きな違いをもたらすでしょう。サックスは、イマジナリーコンパニオンがいたヘイリー・Wの経験談を次のようにつづっています。

ケイシーとクレイシーにはミルキーという妹もいました。私の心の目には彼女たち全員の姿がはっきり見えていて、当時の私にとってはまさに現実に思いました。

両親はそれをおおむね面白がっていましたが、私の架空の友だちがそれほどまでに詳しくて、しかもたくさんいるのは自然なことなのか、疑問には思っていました。(p297)

年配の大人が見えないものが見えると言い出すと、気が触れてるとか、妄想や認知症だとかと思われます。

しかし、子どもの場合は、幼い無邪気なファンタジーだと思われたり、大人をからかって遊んでいると思われたりするだけで、大きな問題に発展しないうちに消えていくのだと思われます。

イマジナリーコンパニオンは幼少期の子どもに普遍的なごく普通の現象ですが、やはり連想が鋭く、感受性の強い子どもに現れやすいようで、CBSやレビーの幻視と似ています。

「ぼくが消えないうちに」―忘れられた空想の友だちが大切な友情を取り戻す物語
イギリスの詩人A・F・ハロルドによる児童文学「ぼくが消えないうちに」の紹介です。忘れられた空想の友だち(イマジナリーフレンド)が、大切な友だちを探すという異色のストーリーが魅力的で

また、イマジナリーコンパニオンと同様の現象は、極限状況下のサードマン現象や、だれかと死別したときの幻視として大人にも現れることがあります。これは一度消えたCBSがストレス下で再度現れることとよく似ています。

脳は絶望的状況で空想の他者を創り出す―サードマン,イマジナリーフレンド,愛する故人との対話
絶望的状況でサードマンに導かれ奇跡の生還を遂げる人、孤独な環境でイマジナリーフレンドと出会い勇気を得る子ども、亡くなった愛する故人と想像上の対話をして慰めを得る家族…。これらの現象

CBSはもともと病的なものではなく心理学的なものとみなされていましたが、イマジナリーコンパニオンも、ときには当事者たちを大いに楽しませることもある、病的とは言えない現象です。

異なっているところはというと、イマジナリーコンパニオンはCBSのような視覚的な幻覚に限らず、触感や声も感じられること、スクリーンのような幻視ではなく当人が幻想の中に入り込んで交流する点です。

はっきりとはわかりませんが、その違いは、CBSが視覚障害を契機に幻覚が解放されるのに対し、イマジナリーコンパニオンはあらゆる感覚が未発達な時期に生じること、また幼児は幻覚に対して大人よりフレンドリーなことと関係しているのかもしれません。

樋口さんは大人は幻覚で見える見知らぬ人間に対して「初めまして」と言うことはまずないと書いていましたが、子どもは幻覚として現れるイマジナリーコンパニオンに対して「初めまして」と受け入れる気がします。

解離との共通点

幻視は幼い子どもに生じるだけでなく、10代から20代に若い人に生じる場合もあります。

この場合は、おそらくは解離性障害として診断されることが多いと思われます。

解離性障害は、もともと感受性が強い人が、極端なストレスを経験したときに生じやすいものですが、やはり幻視を伴う場合があるという特徴があります。

若い人の幻覚というと統合失調症をすぐに思い浮かべる精神科医は多いですが、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によると、統合失調症ではほとんどが聴覚性の幻覚、つまり幻聴なのに対し、解離性障害では幻視がよく見られます。

他方の幻視はどうか。統合失調症においては少ないとされる幻視は解離性障害では比較的多く聞かれる。

また統合失調症の幻視が奇怪な内容であるのに対し、解離性障害の幻視の内容はおおむね現実的で、過去のトラウマのフラッシュバックという色彩を持つ (Bremner,2009)。

しかし他方では、幽霊を見るケースも報告されている。(Hornstein,et al.,1992)(p125)

統合失調症の幻視は、あるとしても奇怪な内容を取りやすいのに対し、解離性障害で生じる幻視は、おおむね現実的である、という点は、CBSの幻視といくらか似通っています。

すでに見たとおり、通常、子どもは成長するにつれて、神経の感覚遮断や解放による幻覚は経験しなくなりますが、解離性障害の場合、トラウマ経験のせいで、脳が感覚を遮断して自らを守ろうとします。

この脳が自発的に生じさせる感覚遮断が「解離」であり、その結果、年齢にかかわらず感覚遮断に伴う幻覚が生じえます。

CBSの幻視は、特定の意味を持たず、特定の記憶とも結びつけられない断片の寄せ集めのような傾向がありましたが、解離の幻視についてはわかりやすい「解離性障害」入門にこんな例が書かれています。

幻聴のほかにも解離性障害では多彩な幻視がみられます。人の形をした影が視野の隅にいるのが見えたり、黒い影のようなものがさっと動くのを感じたりと、錯覚のような訴えがあります。

またはっきりとした人間や動物の姿が見えることもあります。交代人格と交流する際に、その人格の様子をきわめて詳細に語る場合もあります。

解離性の幻視にはそれ以外にもさまざまなものがあります。天使、悪魔、小人、霊、空想上の動物などが見えることもあれば、髪の毛や手や目玉といった体の一部だけが宙に浮いていたり、それらがこちらを見張っていたり、追いかけてきたりするようなものもあります。(p73)

こうした例を見る限り、CBSに近い点もあれば、そうでない点もあるように感じます。

錯覚のような見え方、視界に浮いている断片のようなものは、CBSのパレイドリアや、シャルル・リュランの視界に浮いていたハンカチに近いものでしょう。

しかし、中立的な幻視というより、いくらか恐怖を感じさせるものがあるのは、「過去のトラウマのフラッシュバックという色彩」を含んでいるからかもしれません。それでも過去の特定の記憶そのものを具体的に再生しているわけではありません。

思考の内容とつながっている意味のある幻覚もあれば、どこから湧き出てきたのかわからない断片的なものもあるようです。具体例として、20代前半の女性のこんなエピソードが載せられています。

エリカさんは霊的な存在は信じていませんでしたが、特にパニックの際は現実ではない人やモノが見えることがありました。

ビルの上に馬が浮いており、自宅の廊下の角を曲がると知らないサラリーマンと出くわし「あ、失礼」と言われ、風呂場を開けたら火の玉が笑っていて、見なかったことにしてドアを閉めたこともありました。

「一緒にいる人には見えていないようだし、それが現実のものでないことはわかっているけれど、その体験をどう捉えたらいいのか自分の中で混乱している」と、エリカさんは治療者に言いました。(p82)

エリカさんの場合、被害妄想や思考障害は見られなかったので、統合失調症ではなく解離性障害と診断されました。

解離性障害とCBSは、幻視が引き起こされるきっかけや、幻覚が生じるレベルは異なるとはいえ、共通点を多く含んでいます。

たとえば、CBSは外向性が低く受動的なタイプの人に見られやすいとされていましたが、解離性障害になる人は、まさしくそうした性格の人が多く、感受性の強さや内向的な傾向を持っています。

解離性障害の人たちは、CBSの当事者と同様、自分の奇妙な体験をあまり人に話さない傾向があります。

CBSの幻視は映画やテレビのスクリーンを見ているようだと表現されますが、解離性障害の場合も、スクリーンを傍観しているかのようなありありとした白昼夢を伴うことがあります。

CBSの幻視では、異様に鮮やかだったり、ディテールが細かったりしますが、解離性障害の人もそうした知覚変容やリアルな夢を経験します。

宮沢賢治の創造性の源? 「解離性障害―『うしろに誰かいる』の精神病理」
「後ろに誰かいる」「現実感がない」「いつも空想している」。こうした心の働きは「解離」と呼ばれています。『解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 』という本にもとづいて、解離と創

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によると、CBSの幻視や、それと似た聴力の衰えがきっかけで生じる幻聴は、薬が効かないという特徴があるようです。 (p35、43)

発達障害の薬物療法-ASD・ADHD・複雑性PTSDへの少量処方によると、解離性の幻覚も、やはり統合失調症の幻覚に用いられるような薬が効かないという特徴があります。

フラッシュバックにせよ、解離性幻覚にせよ、このタイプの幻覚の特徴は、抗精神病薬に対する難治性である。

また不思議なことに、解離性の幻覚は抗精神病薬にやけやたらと強い。副作用すらまったく出現しないという例もしばしば経験する。(p57)

また、CBSと関係があるのではないかとされていた視覚連想に関わる脳の部位は、解離とも関係しているようです。解離性障害で思考やイメージが次々に湧き出てしまう思考促迫は、視覚連想の箍(たが)が外れた状態なのかもしれません。

CBSの視覚連想はユーモラスな詩人のようだと書きましたが、解離傾向の強い人の中には、実際にその連想力を活かして芸術家として活躍している人もいます。

頭がさわがしい,次々と考えや映像が浮かぶ「思考促迫」とは何かー夏目漱石も経験した創造性の暴走
考えが次々に湧き上がる「思考促迫」「自生思考」とは何か、という点を、解離性障害、統合失調症、アスペルガー症候群との関わりなども含めてまとめました。また文学者夏目漱石が経験した、映像

何より、解離性障害の人たちは、幻覚を現実だと思いこんで妄想的になる統合失調症の人たちとは違い、先の例のエリカさんのように、幻覚を幻覚だと理性的に認識しているという特徴があります。これはCBSや純粋なレビー小体病の幻視とよく似ています。

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脳という劇場の予想外の催し物

こうして多彩な幻視の例を見てみると、どうやら、人の脳は、何かしらの体験をきっかけに正常とも病的とも判別しがたいタイプの幻覚を“上映”することがあるようです。

あまりにリアルなので、ときにはぎょっとしてしまい、当人と周りの人を混乱させることがありますが、おおむね中立的な内容が多く、CBSの異国情緒ある幻覚や、イマジナリーコンパニオンのような好意的といえる内容もあります。

見てしまう人びと:幻覚の脳科学でサックスは、CBSの幻覚を楽しんだ人たちの例をたくさん書いています。

大部分のCBSの幻覚は恐怖心を生じさせるものではなく、慣れてしまうとちょっと楽しくなる。

デイヴィッド・スチュワートは、自分の幻覚を「とにかく友好的」と言い、自分の目がこう言っているのだと想像している。

「がっかりさせてごめん。失明が楽しくないことはわかっているから、このちょっとした症候群、目の見える生活の最終章のようなものを企画したよ。

たいしたものではないけど、私たちにできる精いっぱいなんだ」(p43)

シャルル・リュランはこの最終章の上映を楽しんでいたようです。孫のシャルル・ボネは、アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によると、祖父についてこう書き残しました。

彼の精神はイメージで楽しんでいる。彼の脳は劇場であり、そこでは舞台装置が催し物を演じるのだが、それは予想外の催し物なので、なおさら驚異的なのである。(p45)

シャルル・ボネ症候群や、その周辺の幻視体験は、あまり知られていない上、当人の反応が突拍子なく思えるため、家族から気味悪がられたり、妄想扱いされたり、認知機能障害とみなされたりします。

幻覚、幻視、幻聴といった言葉は、あまりに頻繁に、またあまりに容易に精神障害や妄想と結び付けられがちです。

しかし、正しい知識を得てみると、それらはどうも、脳の内的活動レベルの高さや、感覚遮断に反応して、正常な機能の一部が解放されて上映されているシアターにすぎないようです。

この記事で考察してきたような事実に通じておくなら、その人だけにしか見えない、一人分しか座席のない劇場の催し物を尊重することができるのではないでしょうか。

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語見てしまう人びと:幻覚の脳科学には、ここでは紹介しきれない当事者たちの生き生きとした体験が豊富に収録されているので、興味ある人はぜひ一読をお勧めします。

オリヴァー・サックスは、こちらのTEDでもシャルル・ボネ症候群について語っています。

オリバー・サックス: 幻覚が解き明かす人間のマインド | TED Talk | TED.com

わたしは、小人と妖精の体験を語ってくれた あのおばあちゃんに、その体験にはシャルル・ボネ症候群という名前があることを伝えられなかったことが心残りでした。でもきっと病理学的な名前なんていらなかったのでしょう。

その体験を隠すでもなく生き生きと語ってくれたことからすると、おばあちゃんは、きっと、シャルル・リュランのように自分だけの劇場で、予想外の催し物を味わいつくして満足していたのでしょうから。

当事者研究や統計調査で気をつけたい「基準率錯誤」

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たしがこのブログで空想の友だちの記事を書き始めたころに比べると、最近は当事者たちの情報発信が活発になっており、インターネット上で統計調査のアンケートをしている人も見かけます。

当事者研究は、特にアスペルガー症候群(自閉スペクトラム症)などの発達障害の研究で注目されてきました。

近年は、発達障害の人たちによるネット上での情報発信や当事者研究が活発で、社会にあまり馴染めない人たちにとっては、ネット上のコミュニティーが、交流の中心地となっている印象もあります。

他方、このブログでは過去の記事で、解離やイマジナリーコンパニオン(空想の友だち)の当事者研究が必要だと書きました。いまだ実態がよく知られていない少数派が多い分野です。

イマジナリーフレンド(IF)「私の中の他人」をめぐる更なる4つの考察
心の中に別の自分を感じる、空想の友だち現象について、子どものイマジナリーフレンド、青年期のイマジナリーフレンド、そして解離性同一性障害の交代人格にはつながりがあるのか、という点を「

この分野でも、近年は、ネット上の情報交換が活発になってきたように思います。おそらく、わたしの記事など関係なしに、時代の流れとして、当事者研究の活動が活発になってきているのでしょう。

そのようにして、これまであまり知られていなかった現象に光が当たるのは、とても有意義なことです。

しかし同時に、調査結果に対して、「基準率の錯誤」が入りこまないように注意することも必要です。

統計調査をするときにどうしても避けて通れないのが「基準率」(事前確率)の問題です。結果を受け入れる前に、サンプリングのレベルで、バイアスがかかっていないか吟味する必要があります。

この記事では、特に解離のような少数派や私秘性を特色とする文化について考える際、統計を読むときに注意したいことを考えてみました。

これはどんな本?

話題の切り口に参考にしたのは、ノーベル経済学賞を受賞した、行動経済学の先駆者ダニエル・カーネマンによるファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)です。

わたしたちの意思決定やデータの見方に、いかにバイアスやヒューリスティック(無意識の偏りや安易な近道)が入り込んでいるかをさまざまな具体例を通してわかりやすく説明してくれます。

相応のボリュームがある本ですが、何かを考察、分析する人は、実践できるかどうかはともかく真っ先に目を通しておくべき教科書といえます。

「基準率」を意識する

冒頭に出てきた「基準率」とは何かを説明する前に、クイズに答えてもらったほうがわかりやすいでしょう。

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)にはこんな問いかけがあります。

たとえば、あなたがニューヨークの地下鉄の中で、ニューヨーク・タイムズを読んでいる人を見かけたとしよう。この人は、次のどちらである可能性が高いだろうか。

博士号を持っている。
大学を出ていない。(p223)

どちらが正しいと思いますか。

続く説明を見てみましょう。

代表性からすれば博士号を選ぶことになるが、その選択は必ずしも賢明とはいえない。

ニューヨークで地下鉄に乗る人は大学を出ていない人のほうがはるかに多いのだから、あなたは二番目の選択肢を真剣に考えるべきである。(p223)

あなたはこのクイズに正しく答えることができましたか?

この例では、新聞を読んでいる人が博士号を持っているか否かを判断する以前に、「ニューヨークで地下鉄に乗る人は…」という前提について考える必要がありました。

調査した場所がニューヨークの地下鉄の中なのか、大学のエレベーターの中なのかは、調査結果の解釈に大きな影響を及ぼします。

ニューヨークで地下鉄に乗っていたある人が博士号を持っている可能性より、大学の敷地内にいたある人がそうである可能性のほうが確率が高くなるでしょう。

こんな例も載せられています。

では、「内気で詩が好き」な女性が中国文学と経営学のどちらを専攻していると思うか、と訊ねられたら、どうだろう。

この場合、あなたはぜひとも経営学を選ぶべきだ。たとえ中国文学を学ぶ女子高生が全員内気で詩が好きだとしても、はるかに人数の多い経営学専攻の女子学生の中には、そういう乙女が中国文学学科よりずっとたくさんいるはずである。(p223)

これは文化によって違いがあるので、中国国内では当てはまらないかもしませんが、「内気で詩が好き」な人が中国文学専攻か、経営学専攻かを考える際、やはり学部での人数の割合という前提について考える必要がありました。

いずれにしても、サンプルを取ったグループの特色について考えないと、答えが変わってしまいます。

そもそもニューヨークの地下鉄に乗る人のうち博士号を持っている人がどれくらいいるか、女子学生のうち中国文学専攻の人はどれくらいいるか。

この前提となる確率が基準率(base rate)です。

この基準率の考え方は、イギリスの牧師また数学者のトーマス・ベイズによるベイズ統計学に基づいています。ベイズ統計学の手順では、統計結果に基準率(事前確率)を掛け合わせる必要があります。

かりにもし、「内気で詩が好き」な人の割合が、中国文学を専攻する人では100%、経営学を専攻する人ではたった20%だとします。これだけだと、「内気で詩が好き」な学生は、中国文学の学科に圧倒的に多くいるかのように思えます。

しかし、その学校の学生全体の人数のうち、中国文学を専攻する人数は1%、経営学を専攻する人が学生の人数は10%だ、という基準率があるとすればどうなるでしょうか。(あくまで仮の話です)

それぞれを掛け算すれば「内気で詩が好き」なのは、学生全体のうち、中国文学の生徒は100%×1%=1%、経営学の生徒は20%×10%=2%で、経営学の生徒のほうが多いことになります。

この基準率はどこの国のどんな分野の学校の学生からサンプリングしたかで容易に変動します。サンプルがどこから取られたかで基準率が変わるということは、調査した場所がインターネット上であってもまたしかりです。

インターネット上で回答を募った調査結果は、すべてのタイプの人をまんべんなく含むものではなく、少なくとも(1)インターネットに慣れ親しんでいる、(2)インターネットで見知らぬアンケートに答える積極性がある という条件を満たす人たちの意見の統計にすぎない、という点を覚えておかねばなりません。

またSNSや特定のサービスを利用して行われるアンケートについては、さらに(3)そのサービスの活発な利用者である、という条件を追加する必要があるでしょう。

現代では、インターネットの利用者は拡大してきたとはいえ、インターネットで積極的にやりとりしたり、SNSを活発に利用したりする層は、年齢層や学歴その他の偏りがあるとみていいでしょう。

たとえば家庭への電話で行われる世論調査、街角で行われるインタビュー、ネット上で行われるアンケートは、それぞれ重なり合いつつも、異なる層の意見を汲み上げているものです。

電話に出ない(そもそも固定電話を持たない)人、大都市に出歩かない人、ネットをやらないか見るだけの人、といった層の意見をそれぞれ度外視しているので、それぞれの統計を一概に平均的なものとみなすのは不合理です。

インターネットで日常的に情報発信したり、情報収集したりしている人たちは、インターネット上の意見 イコール 一般的な意見だと錯覚しがちです。

しかしネット上で多い意見が現実社会にも多い、とみなすのが錯覚であることは、最近SNSで話題になっていたニュースや、ネット社会では常識だとされている言葉について、身の回りの家族や友だちがどれほど知っているか試してみればすぐにわかります。

ネット上のレビューや口コミ、ブログの感想などを読む際にも、これはネットを利用できる層や、そのサービスを利用しやすい層の意見であって、一般社会の普遍的な意見を反映しているとは限らない、という基準率について考えてみる必要があります。

サンプリングレベルの誤り

教養としての認知科学にも、本当はサンプリングが特殊で、結果にバイアスがかかってるのに一般的だと誤ってみなされてしまっているを例が載せられています。

一部の論者がよく主張することに、昔はよかったというものがある。

その中でも、昔の母親は子どもの世話をきちんとしていたが、近頃の母親は自分の好きなことだけやって子どもを見ない、よって変なことをする子ども、犯罪少年たちが増えてきた(増えていない!)という話がある。(p189)

ここでは「昔の母親はよかった」というよくある認識が取り上げられています。

しかし1950年、母親に対して行われた子どもの身売りに関する調査では、子どもの身売りを全否定する母親は20%しかいなかったそうです。特に農村部では弱い肯定も含めると半数近くが肯定側でした。

また少年犯罪が増えている、というのも、データからすれば誤りです。これは頻度が少ない凶悪な事件が連日繰り返しメディアで取り上げられるせいで頻度が多いと誤認される、「利用可能性カスケード」です。

なぜ人はテロに強い不安と恐怖を感じるのか―「利用可能性カスケード」という錯覚
最近、テロのニュースが頻繁に報道されています。ノーベル経済学賞のダニエル・カーネマンの本「ファスト&スロー」によると、こうした報道は利用可能性という落とし穴につながるかもしれません

この結果について、教育社会学者の広田先生はこう分析しているそうです。

こうしたことの背後には、サンプリングレベルの誤りがあると広田は述べている。

つまり、昔はよかったということをメディアを通して意見できる人は、ごくごく限られた人、知識人、有名人たちであり、多くはその時代であっても高いレベルの教育を受けられた、一部の富裕階級の出身である可能性が高い。

そうした家庭では母親は家庭内労働以外をする必要がない、つまり主婦であり、家にいつでもおり、子どもの帰りを待っている。

そうした家庭で育った人は、友人もそうである確率は高い。そして彼らは自分の周りだけからサンプリングを行い、自分とその周りの生活が一般的であるという誤った母親のプロトタイプを作ってしまい、それをメディアに載せてしまった可能性がある。(p190)

これと同様のことはインターネット上のサービスを用いたサンプリングでも生じえます。つまり、同じサービスを使っていて、互いに交流する人たちは、もともと、ある程度は似たような体験を有している可能性が高いでしょう。

「自分の周りだけからサンプリングを行い、自分とその周りの生活が一般的であるという誤った…プロトタイプを作ってしまい、それをメディアに載せて」しまうかもしれません。

インターネットを社会に例えれば、特定のポピュラーなサービスのような大通りの中心部ではなく、辺境の“農村部”のようなところに位置している人たち、つまり、他との交流が少ないか、あまり活発に活動していない人たちの意見は見逃されてしまうかもしれません。

以前の記事で書いたとおり、解離傾向の強い人たちは、私秘性の強い人たちでもあります。

解離と愛着から考える空想の友だち―イマジナリーコンパニオンに「出会う」人「作る」人の違い
学童期以降に、イマジナリーコンパニオン(空想の友だち)と無意識に「出会う」人、意識的に「作る」人の文化の違いを、愛着スタイルの違いという観点から考えてみました。

そうすると、ネット上で行われる不特定多数への調査では、より交流を求める人たちの意見が濃縮され、より解離傾向の強い私秘的な人たちの意見はそれほど反映されない傾向があるのではないか、と推測されます。

発達障害の当事者研究においては、現実世界に居場所を見いだせない人たちが、ネット上のやりとりには参加しやすく、より実情を反映しているのではないか、という感があります。

解離傾向の強い少数派の人たちも、ネット上では、あまり周囲を気にすることなく自由に発言できるのか、というと、わたしはそうである場合もあれば、そうではない場合もあると考えています。

たとえば、わたしは、解離やイマジナリーコンパニオンの記事を書き始めて以降、幾人かの当事者から、内密に感想をもらったことがありました。その人たちの中には、SNSなどではコミュニティーとのつながりをあえて持とうとしない人もいました。

たとえネット上であっても、見知らぬ他人に自分の体験に踏み込まれたくないと感じている人、自分の世界を共有することで、自分だけの体験の純粋さが喪われることを危惧している人もいました。

おそらく、そうした人たちは、解離傾向の強い人の典型であり、リアルでもネットでも、ごく一部の深い信頼関係を結んだ相手以外には、まったく体験を打ち明けないのでしょう。たとえだれかに打ち明けるとしても、ほんの一部だけかもしれません。

そもそも、どこにも居場所がないことが強い解離傾向の土台となっていますが、もしネット上の何らかのコミュニティーが居場所の役割を果たすとしたら、解離傾向はもっと安定化しているでしょうし、巨大な空想世界は必要ないはずです。

そのような人たちが現にいる以上、そして解離という文化は、典型的な人ほど、そうした性格傾向を示しやすいということを考慮すると、ネット上のアンケートや統計の分析には慎重になる必要があるでしょう。

おそらくは、ネット上で不特定多数の人を対象に調査した解離やイマジナリーコンパニオンについての統計と、病院や研究施設などの一対一の場で信頼できる相手とやりとりされた結果を集めた統計とでは、重なり合いつつも違う層の結果を反映するのではないかと思われます。

少数派の意見と「シンプソンのパラドックス」

当然のことながら、統計をとったり平均したりすると、多数派の意見が重視され、少数派の極端な体験は淘汰されます。他方、信頼関係が育った上で一対一の場面で得られた情報は、少数派一人ひとりの独特な経験に光を当てます。

以前に書いたとおり、統計が導き出す「平均値」や「中央値」はときには有用ですが、本来そこに含まれている両極端な多様性を「平均的人間」という幻想で希釈してしまいがちです。

ダニエル・タメットが語る「ぼくと数字のふしぎな世界」―人間の本質は無限の多様性の中にある
ダニエル・タメットのエッセイ集「ぼくと数字の不思議な世界」から人間が持っている多様性について考えてみました。

あるグループを全体として見た統計と、部分ごとに分割して見た統計とでは、まったく真逆の結果が出る場合があり、「シンプソンのパラドックス」と呼ばれています。

多数派を含むグループ全体で平均した場合に出る結果と、少数派だけ抜き出して平均した場合の結果とでは、異なる傾向が導き出される可能性があります。

身近な例で言うと、学習障害の子どもは時おりシンプソンのパラドックスで泣きを見ます。

彼らはある特定の分野では優れたスペシャリストの才能を発揮します。しかしすべての教科を平均するとオールマイティーになんでもこなせるジェネラリストの子どもたちに比べ、成績が極端に悪くなります。

狭い分野だけの成績でサンプリングした場合と、広い教科全体の成績でサンプリングした場合とでは、他の子より賢いとみなされることもあれば、逆に劣っているとみなされてしまうこともあるのです。

前の記事で説明したとおり、解離の分野では、より多数派であろう「弱い解離」と、少数派であろう「強い解離」では、正反対に近い傾向がみられます。

そうだとすると、それらの区別がなされないまま統計をとってしまうと、少数派の傾向が淘汰されて覆い隠され、シンプソンのパラドックスが生じるかもしれません。

このブログでは、主に医学的・心理学的な書籍を参考にして記事を書いているので、おそらくは、そうした少数派の人たちの例を多く含んでいるのでしょう。

わたしがよく参考にしているオリヴァー・サックスやV・S・ラマチャンドランといった神経科学者たちは、よくある普遍的な症例ではなく、極めて奇妙な症例の観察を通して、一般的な事実を解き明かしてきた人たちです。

脳は奇跡を起こすには、ラマチャンドランのこんなエピソードが載せられています。

こんな部屋が似合うのは、現代神経学のシャーロック・ホームズ、ラマチャンドランをおいてほかにはいない。

彼は、事件をひとつひとつ解決していく探偵なのだ。現代科学が、膨大な統計分析に頼っていることなど眼中にないようだ。

患者の個別の症例こそが科学に貢献すると信じて疑わない。彼はこんな例を挙げた。

疑い深い科学者にブタを差しだして、このブタは英語が話せると言ったとしよう。そして手で合図して、ほんとうにブタが英語を話したとき、こう応じることに意味があるだろうか。

「でもたった一匹のブタじゃないか。もう一匹話せたら、信じてもいいぞ!」

ラマチャンドランは、統計分析による平均化よりも、個々の特殊な症例を重視します。そして、特殊な症例に基づいた推理こそが、真実を明るみに引き出すと信じています。

神経学的な「特例」を説明することこそ、健全な脳の機能に光をあてることにつながると、ラマチャンドランは再三示している。

「わたしは、みんながやっている分野が嫌いなんだ」彼は言う。それに、大規模な学会のようなところも好きではない。

「学生にはこう言っている。ああいった学会に行ったら、みんながどっちに向かっているか見なさい。そして、だれも行かない方面に進みなさい。大派閥の下っ端になってはだめだってね」。(p207-208)

いかにもあまのじゃくに思えるラマチャンドランの態度ですが、わたし自身は彼の考え方に一理あると感じますし、彼ほどの才能はどこにもないとはいえ、このブログの内容もラマチャンドランの思考法をいくらか踏襲しています。

もちろん、ラマチャンドランのような帰納法的な考え方が、いつも役立つとは限りません。帰納法は事例が少なければ、より極端な結論にたどりつきがちです。それは「少数の法則」と呼ばれています。

このブログの記事もまた、ある点ではサンプリングのバイアスを含んでいるはずですが、それはたぶん少数派寄りのバイアスです。

それゆえに、インターネット上のアンケートでは、このブログの内容とは、いくらか違った結果が出ると予測されます。

では、どちらかが間違っていてどちらかが正しいのか。

両者はサンプリングと基準率が異なる、という点を思い出す必要があります。またシンプソンのパラドックスではサンプリングレベルが異なれば、ときとして真逆の結果が見られることにも留意すべきです。

どちらの結果も貴重な情報であることには変わりありません。何かしらの集団の実情を反映してることは確かなのです。問題なのは、どちらかだけを絶対とみなし、他方を誤りだと無視してしまうことです。

違う場所で行なった調査は、違うサンプルを含みます。解離のような私秘性そのものが性格特性に含まれている事象を扱う場合は、特にそういえます。

どちらの結果も、ある特定の層の実情を反映しているのでしょうが、サンプリングする段階で、ある程度ふるいにかけられており、全体像を中立的に反映しているとは言いがたいのです。

「解離屋」になりかけているけれども…

サンプリングのバイアスは、どんな統計にでも入り込みうることからすれば、必要なのは、より広い視野を持ち、異なる母集団からの情報収集を怠らない態度でしょう。

すなわち、インターネット上の情報だけでなく、さまざまな書籍、特に国内外の著者によるものを読み込むことが不可欠です。さらに、特定の分野にこだわらず、広い知識を得ることが大切です。

世の中は細分化、カテゴリ化されていて、さまざまな専門的コミュニティが乱立していますが、どれか一つか二つにこもっているなら、必ず強いバイアスに侵食されます。

わたし自身、自分の視野が広いと思ったことはなく、いまだに井の中の蛙です。正直いって、岡野憲一郎先生が 続解離性障害で言っている「解離屋」とか「解離論者」の領域に半分以上足を突っ込んでいます。

岡野:はい、私は実は自分のことを「解離屋」と呼んでいます。何でも物事を解離として考えてしまう。私は自分はそれじゃないかと思うんです。

柴山:ああ、ああ。僕はようやく抜け出しましたけど。(笑)(p174)

解離というのは、あまり主流から見向きもされない分野である反面、一度興味を持てばずぶずぶとはまりこんでしまう底なし沼のような雰囲気があります。ラルフ・アリソンあたりは完全に呑み込まれてしまった例かもしれません。

最近は自分の視野の狭さを痛感して、もっと多様な世界に目を向けたいと意識しているにもかかわらず、気づくと解離の話題に戻ってしまっていて、呪いめいたものを感じることがあります。この記事もそうです。

それでもできるだけ様々な分野に目を向けることで、解離や愛着についての理解が深まってきたと思っています。

国内の解離の専門家の本、たとえば解離の舞台―症状構造と治療などと、国外の専門家の本、たとえば 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法などは、解離に関する限り、まったく観点が違いますが、互いに相補的なので両方読むべきです。

また、一見、解離とは分野が少し異なるかと思われた発達や愛着についての書籍は、いずれも解離を知るためのキーポイントを与えてくれました。ときには児童文学の本が型にとらわれないインスピレーションを与えてくれることもあります。

わたしは、世の中にあふれている発達障害や愛着障害の本またサイトを読むとき、解離についてまったく触れずに説明しているものが多いことがいまだに信じられませんし、逆に解離を説明する記事が発達や愛着を度外視している場合が多いことも不思議に思っています。

加えて、文化人類学の観察、たとえば少数派の特殊な言語や文化も、深いところでつながっています。近年、発達障害や愛着障害が社会的な少数派の文化として考えられるようになってきたことを思えば当然です。

しかし単なる少数派という比喩だけでなく、文化というレベルでも両者は相似形をなしています。そもそも解離は、生物学的により原始的な反応であり、文化結合症候群やシャーマニズムの形で、古くから人類の文化に根づいているものです。

つまり、解離という現象は、個人の発達に組み込まれているだけでなく、人類の文化そのものの発達にも組み込まれてきたので、個人にみられる解離という現象が、ある社会全体をひとつの人間としてみなしたときにもみられるフラクタル的な構造があります。

なぜ子ども虐待のサバイバーは世界でひとりぼっちに感じるのか―言語も文化も異なる異邦人として考える
子ども虐待のサバイバーたちが、だれからも理解されず、「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」理由について、異文化のもとで育った異邦人として捉える観点から考察します

解離が生物学的な現象である以上、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのような本を通して、生物学に目を向けることも大切です。

まったく別の分野で、それとは意図されずに解離が研究されていることもあります。たとえば、疲労研究におけるマスキングやブレイン・フォグ、心理学でいうフロー体験、物理学の引き込み現象などは解離と関係していると個人的に思っています。

あるいは、解離という枠組みにとらわれず、まったく別の分野のほうに軸足を置いて、解離とは何かを分析してみるべきなのかもしれません。

解離は創造性や空想傾向と縁が深い現象なので、芸術に関する情報にも能動的に触れる必要があるでしょう。芸術家や詩人の言葉を調べると、解離性障害の当事者が言いそうな名言を残していたりするものです。

要するに、解離について知りたければ、統計やサンプリングを分析するのはもちろんのこと、解離性障害や多重人格の本やサイトを読む以上のことが求められると、わたしは思っています。

この不可思議な現象は、それだけ多方面から煮詰めるだけの価値があるものであり、そうしてはじめて、真実を探る果てしない道のりにおいて、ほんの数歩たりとも前に進むことができるのだと折に触れて思います。

とりあえず、統計調査をはじめ、何かを考察、分析したい人は、この記事でも取り上げたダニエル・カーネマンのファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)を読むことから始めるのがいいかもしれません。

わたしはまだまだカーネマンの言うバイアスやヒューリスティックにこれでもかと絡みつかれて地面に縛りつけられています。鳥のように舞い上がって、空の高みから全体像を見渡せたらどんなにかいいことでしょう。

そもそもわたしはバイアスとヒューリスティックを頼りにものを書いているような人なので、ニュートラルな見方をするのはとても苦手なのです。だからこそこのブログのプロフィールには、「あまり信用するな」と意味の但し書きをしてあります。

それでもそうした落とし穴の存在を知っているかどうかで、世の中の見え方がずいぶんと違ってくるものです。少なくとも、自分の意見が絶対だ、というこだわりにとらわれて他者を批判してしまうことだけはなくなるのではないかと思います。

文化結合症候群として考えるイマジナリーフレンド―時代や文化を取り込んで反映する解離現象

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日、精神科医の林公一先生による、イマジナリーコンパニオン(IC)についての詳しい記事がアップされていました。子どものICの話題を中心に、青年期以降も残るICについて詳しい事例が紹介されています。

子どもにだけ見える「見えない友達」 | Dr.林のこころと脳と病と健康 | 林公一 | 毎日新聞「医療プレミア」

興味深い事例を集めた記事なので、ICに興味のあるか方はぜひご覧ください。

この記事をある方に紹介したところ、近年このようなイマジナリーコンパニオンを持つ人が増えているのだろうか、と訊かれたので、わたしの考えを簡単にメモしておきたいと思います。

さまざまな年齢層に見られるIC

今回の記事では、さまざまな年齢層のICが取り上げられています。

子どものICについてについては、12歳になっても人知れず「もうひとり君」に支えられ続けていた女の子や、有名ないけちゃんとぼく (角川文庫)の「いけちゃん」が、大学生ごろまでは存在を感じ取れていた、という例が挙げられています。

「もうひとり君はまだいるんだ。その話を聞いたのは随分前だけど」と私が聞くと、「うん。ずーっといるよ。親友だもん」と話し始めました。

「『もうひとり君』は顔が丸くて、手足が長くて、水色のリボンをつけているの」と言うので、8歳の時よりずっと具体的な姿が見えているようなのです。

そして「困った時に呼び出して相談するの。相談するけれど、最終的に決めるのは自分。

何かを考えていて『あっ』とひらめく時とかは、『もうひとり君』のおかげ」というようにとても頼りにしていて、逆に困らされることは全然ないそうです。

どちらも幼児期のイマジナリーフレンドというよりは、学童期のイマジナリーフレンドに相当するものと思われます。どちらも理解者、助け手としての支持的な役割を持っていて、社会に出ていくための支えになっているようです。

「助け手」「理解者」「パートナー」としてのイマジナリーフレンド―なぜ同じ脳から支え合う別人格が生まれるのか
イマジナリーフレンドや解離性同一性障害の別人格は、本人を補う「助け手」や「理解者」としての性質を帯びることがあります。一つの脳からにまったく性質の異なる別人格が生じる理由を防衛機制

青年期のイマジナリーコンパニオンについては、ずっと支えてくれてきたICを失いたくないという思いから、ICを保ち続けている女性の例が出てきます。

私は、幼い頃から私を守ってくれた彼女を非常に大切に思っています。

学生時代、テストでは何度も私を助けてくれましたし、私が苦手とする英語をそつなくこなせるのも、耳元で彼女が助言してくれるからです。

私は彼女を失いたくはありません。私にはこの方しか頼れる人はいません。

誰にも見えなくとも、彼女と彼女がいる世界をそのままにしておきたい。

ICは基本的に、自立をなしとげ、必要がなくなったときに消えるとされているので、本人が必要としているうちは大人になっても存在しつづけるのでしょう。

この記事では、青年期のICは精神医学的には、健常と病理のはざま「グレーゾーン」であるとされています。

20歳を過ぎてもなおICを伴侶としている。これは病的でしょうか。現代の精神医学の考え方では「グレーゾーン」です。

以前に紹介したように、大人になって一度消えてしまっても、再び強いストレスにさらされ、支え手を必要としたときに、再度 存在を知覚できるようになる場合もあります。

大人のイマジナリーフレンド(IF)が出てくるドラマ「連続テレビ小説つばさ」
NHK連続テレビ小説「つばさ」にイマジナリーフレンドが出ていたという話を、岡野憲一郎先生の「わかりやすい「解離性障害」入門」から紹介しています。

それは、ICが解離傾向の強い人特有の現象であり、解離はストレスに対処するために働く防衛機制だからだと思われます。

幼児期に解離現象が起きるのはごく普通のことで、幼児のICは何ら心配はいりません。それは健全な発育過程の一部です。

子どもにしか見えない空想の友達? イマジナリーフレンドの7つの特徴に関する日本の研究
子どもが目に見えない空想の友達と遊んでいるのを見て驚いたことがありますか? 森口佑介先生の著書「おさなごころを科学する」から、子ども特有の興味深い現象イマジナリーフレンドについてま

問題は、幼児期だけでなく、成長してからも強い解離傾向が残る人たちです。こうした人は、幼いころ、ストレスに対して解離して防衛する反応を身に着け、そのパターンが残っているようです。

本来は子どものころの防衛であるはずの解離を大人になっても使い続けてしまう人は、生後2~3歳ごろまでの乳幼児期に強いストレスを受け、そのころに潜在的な解離傾向を身に着けていることが多いとされています。

当然ながらそのときの経験は忘却していますが、からだには解離のパターンが刻み込まれていて、のちになって思春期以降の強いストレスにさらされると、解離症状が明確に現れます。

大人になるにつれ、ストレスをコントロールできるようになり、解離を使う必要は薄れますが、対処しきれないほどのストレスにさらされると、子どものころの防衛戦略が顔をのぞかせるのです。

解離の舞台―症状構造と治療にはこう説明されています。

カールソンほか(Carlson et al.2009)によれば、早期幼児期において無秩序型愛着が見られてもその後の生活が標準的であれば、解離傾向は高くはなるがサブクリニカルな水準にとどまり、ストレス状態において解離的行動が表面化する潜在的素質を抱えることになる。

その後の生活において重度あるいは慢性的な外傷が見られ、かつそれに対する情緒的な援助がなければ、病的解離として発症する危険性は高くなる。(p139)

もしも、乳幼児期にストレスを受けておらず、潜在的な解離傾向を身につけていない人の場合は、思春期以降に強いストレスを経験しても、解離ではなく別の症状、たとえばうつ病やパニック障害など、他の疾患となってストレスの影響が表出します。

解離性障害をもっとよく知る11のポイント―発達障害や愛着障害,身体症状との関係など
解離性障害は深刻なトラウマ経験がなくても発症することがあり、ADHDやアスペルガーのような発達障害、愛着障害とも関係していると言われています。解離性障害の専門家の本から、役立つ10

最後に紹介されている例は、「グレーゾーン」を超えて、病的な域にまで踏み込んだ青年期のICの例です。このICは、いじめられていた当人を支持的に助けるのではなく、包丁で手首を切って死んでみるように自殺幇助しました。

幼児期のICと青年期のIC、そして病的なICや解離性同一性障害(DID)は連続した性質を持つ現象ですが、だからといってICを持つ子どもや、グレーゾーンのICを持つ青年が、いずれ病的になるという意味ではないことに注意すべきです。

最後の攻撃的なICの場合は、健常なICから発展して攻撃的になったわけではなく、おそらくはそれ以前に何かしらの強いトラウマ経験があったのでしょう。そのときの抑圧された攻撃性が、別人格として残っていたものと思います。

多重人格の原因がよくわかる8つのたとえ話と治療法―解離性同一性障害(DID)とは何か
解離性同一性障害(DID)、つまり多重人格について、さまざまな専門家の本から、原因やメカニズムについて理解が深まる8つのたとえ話と治療法についてまとめました。

あくまでも解離は病気ではなく防衛機制であるという見方が重要です。

すなわち、解離はストレスに対処するために生じる受動的な反応で、あくまでも受け身です。武道において相手の仕掛け方によって適切な受け身の方法がさまざまに変化するように、解離もその時々のストレスに対応して、さまざまに現れ方を変えます。

学校生活や子ども時代からの慢性的な闘病などで、加害者不在の強いストレスにさらされた場合、解離傾向の強い人は支持的なICを生み出すかもしれません。

他方、虐待や家庭内暴力などで強い憎しみにさらされた場合、解離傾向の強い人は、その状況で生き抜くための防衛として、攻撃的な人格を内在化してしまうかもしれません。

いずれにしても、解離はストレスに対する受け身反応であり、その人の経験や環境が症状に色濃く影響するので、支持的なICが何の理由もなく攻撃的なICに変容したりすることはないよでしょう。

文化結合症候群としてのイマジナリーフレンド

前起きが長くなりましたが、それではこうしたさまざまなタイプのイマジナリーコンパニオンは、現代社会で増加しているのでしょうか。

端的に言えば、確かに増加している、とわたしは思います。

まず考えておきたいのは、イマジナリーコンパニオンそのものは、人類史において珍しい体験ではないということです。

幼児期の空想の他者は、おそらくは妖怪や妖精、天使といった各地に伝わるファンタジーの伝承の形成に強く関わっていたことでしょう。

ポケモン、妖怪ウォッチ、トトロと、「空想の友達」研究 - 下條信輔|WEBRONZA - 朝日新聞社 はてなブックマーク - ポケモン、妖怪ウォッチ、トトロと、「空想の友達」研究 - 下條信輔|WEBRONZA - 朝日新聞社

イマジナリーフレンドは自分で「作る」ものなのか「作り方」があるのか
イマジナリーフレンドに「作り方」はあるのか。イマジナリーフレンドとタルパはどう違うのかを説明しています。

子どものICは“ざしきわらし”のようなものだと言われます。むろん、最初にざしきわらしがいたから子どものICがそれに喩えられたわけではなく、子どものICなどの解離現象の経験をもとに伝承が作られていったのでしょう。西洋における守護天使なども同じです。

大人になってから経験するイマジナリーコンパニオンとも言える極限状況下のサードマン現象もまた、神話や伝説の成り立ちに大いに影響したと思われます。

サードマン・イマジナリーフレンドが現れる5つの条件―「いつもきみのそばを歩くもう一人がいる」
遭難事故などの危機的状況で現れる「サードマン」と、子どもや若者が経験する空想の友だち「イマジナリーフレンド」。両者を経験する人たちの5つの共通点を説明しています。

では、どうして日本では「妖怪」であり、西洋では「天使」なのでしょうか。

それはすでに説明したとおり、解離とは、受け身の防衛反応だからです。解離症状は、特定の生物学的メカニズムによって生じるとはいえ、表に出る症状は、文化や環境の影響を受けてさまざまに変化します。

世界各地には、文化結合症候群(文化依存症候群)として知られる、さまざまな奇妙な病気があります。その文化特有の症状であり、一般には説明のつかない呪いのようなものとみなされがちです。

解離の専門家たちは、そうした多種多様な文化結合症候群は、ストレスによってカメレオンのように形を変える解離症状と捉えています。

たとえば、こころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害の中で 解離の専門家の野間俊一先生はこう述べていました。

まず、ヒステリーについて考えてみましょう。

紀元前のエジプトやギリシャですでに報告があり、その後も洋の東西を問わずよく似た病態が知られていることを考えれば、ヒステリーという病理、すなわち、なんらかの精神的ショックによって痙攣を起こしたり、身体に麻痺が生じたり、錯乱や夢幻状態に陥ったり、さらにはなんらかの憑依や人格交代が生じるという病理は、文化や時代にかかわらずみられるようです。

しかし、同じヒステリーでもどのような症状をもつのかという点については、文化によって差があります。

たとえば、アイヌの中年女性にしばしばみられる、命令自動やカタレプシーなどを示すこの地域特有の「イム」という病態があります。

ほかにも世界中に地域特有の精神病が知られていて、それらは文化結合症候群と総称されますが、一部はヒステリーと考えられています。(p15)

解離の専門家の岡野憲一郎先生も恥と「自己愛トラウマ」―あいまいな加害者が生む病理の中でこう書いています。

ついでにここで私になじみ深い解離性障害の話をしよう。いわゆる文化結合症候群についてである。文化結合症候群にはさまざまな興味深い病理現象が多く数えられており、その大半は解離性の障害と考えられる。

…ここで注意すべきなのは、文化結合症候群には一定の症状パターンがあり、人はそれを踏襲した形で症状を形成するということである。これはまさに文化のなせる技である。

…症状の起き方がいつの間にか無意識的に学習されていたというわけである。(p163)

それで、世界各地の妖精や妖怪、天使の伝承などが、「目に見えない他者」という点では共通しているものの、見た目や性質がさまざまなのは、それぞれの文化の思想や概念の影響を受けた解離症状だったからでしょう。

空想の他者が身近な文化

そうすると、現代社会では解離症状はどのような現れ方をするでしょうか。

大多数の人たちは当たり前すぎて気づいていないかもしれませんが、現代社会では「空想の他者」という概念が驚くほど身近になりました。

テレビやインターネットが普及するにつれ、子どもたちは生まれてすぐから、空想の他者が当たり前の世界で育ちます。

一昔前は、子どもにさまざまな教訓を教えてくれるのは現実のからだをもった人間の大人たちでした。しかし今では、アニメを取り入れた学習教材などを通して、実体のないキャラクターから、さまざまなことを学びます。

成長していく過程で、子どもは現実の身の周りの人間と、テレビに映るどこか遠くにいる人、さらにはアニメの登場人物に接します。

子どもにとっては現実の身の回りの人間が生きているように、テレビの中の歌のおにいさんも生きていますし、さらにはピカチュウやジバニャンも生きています。つまり、空想の実体のない他者をごく当たり前に受け入れて育つのが現代社会です。

子どもはもちろん、現実の人間と空想の人間を区別することはできます。しかし区別できることと、存在が現実的であることとは別物です。

思春期以降になっても、アニメやラノベの世界は身近ですし、SNSを通して、会ったことも見たこともないだれかと当たり前のように会話します。もしもSNSの向こうにいるのが人工知能である、というチューリングテストをしても容易には気づかないことでしょう。

もっと言えば、そもそも現代の子どもたちは、実体のない作られた存在と、現実のからだを持つ存在とをそれほど区別して扱う必要に迫られていないかもしれません。

むしろ自分の好きなキャラクターは生きている実体を持つ人間以上に人間味があり、尊い存在に思えるかもしれません。

現代の二次創作をする人たちの多くは、さまざまな空想のキャラクターを、まるで生きている人間であるかのように扱います。キャラクターが誹謗中傷されると、あたかも本物の友人がけなされたかのように腹を立てます。

なかには、空想のキャラクターを取り込んで内在化し、イマジナリーコンパニオンのように接している人たちも少なくないようです。

近頃、有名なボーカロイドの初音ミクをイマジナリーフレンドとして解釈する人たちをちらほら見かけるようになりました。

“初音ミクの「死」“にウンザリしている人向けの話をしようと思う。 #vocanote | A★nded | note

イマジナリーフレンドとしての初音ミク | psy39 | note

ボーカロイドだけでなく、ポケモンや妖怪ウォッチ、アニメやゲームの登場人物、さらには艦これのような擬人化など、わたしたちの時代には空想の他者を作り出し、それに疑問もなく接することがあまりに当たり前になっています。

さきほどのこころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害にも、こんな質問がありました。

「想像上の仲間(Imaginary Companion)」をもつ若者が増えているといわれます。

ネット上のサイバー空間ゲームとの関係性が考えられないでしょうか? (p37)

この質問に対する回答は論点がずれていて今ひとつ参考にならないので省略しますが、ICを持つ若者が増加していて、それがインターネットのバーチャル世界と関係しているのではないか、と感じている人は少なくないでしょう。

インターネット上のSNSを見れば、ひと昔前よりも、イマジナリーフレンドやタルパという概念が一般的になり、広く普及しつつあるのは一目瞭然です。

そうすると、次のような現象が起こるはずです。

解離は文化依存症候群として、生まれ育った文化の影響でさまざまに形を変える。 空想の他者を当たり前のように受け入れている文化で育つと、解離傾向の強い人は自然に空想の他者を作り出すようになる。その結果、文化結合症候群としてのICが増加する。

先ほどのこころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害の中で野間俊一先生はこうも述べていました。

[解離は]周りの人のこの病態への関心のもちかたによって病態そのものも姿を変え、関心をもつほど病態が鮮明に現れるため、現在も活発に研究が進められている国とそうでない国とが明確に分かれるようです。

まず、解離性障害という疾患そのものは文化や時代にかかわらず普遍的に存在すると考えてよいでしょう。

しかし、その症状の現れ方は周囲の状況によって大いに影響を受けるため、文化や時代によって表に現れる病態に違いが生じるのだと理解することができます。(p15)

解離はその概念を知ることで輪郭がはっきりするという特徴があります。これは気のせいや思い込み、という意味ではありません。

発達障害という概念がない時代は発達障害をもつ人の存在がそれほど問題にならなかったのに、概念が普及することによって、当事者たちが意識的に情報発信するようになり、社会問題として扱われるようになったのと同じです。

発達障害という概念が普及したことで、今まではなんとなく困りごとを持っていた軽度レベルの人でも、自分もこれだったかもしれないと思い始め、それまでの困りごとだけでなく気に留めていなかった症状をも意識しはじめることがあります。

同じように空想の他者という概念の普及は、それがない時代に生きていれば空想の他者を持たなかったか、あるいはそれほど意識しなかった軽度の解離傾向を持つ人たちにも影響を及ぼし、若者たちにICを増加させている可能性があります。

空想の他者を当たり前のように受け入れるという現象は、一種の文化的なミーム(文化的遺伝子)です。

インターネットが普及した今、こうしたミームは爆発的に広がりを見せているので、潜在的な解離傾向を持つ人たちは、よほど隔絶された生活をしていない限り、間違いなく影響を受けます。

その結果、ひと昔前の時代では別のかたちで現れていた解離が、現代社会では空想の他者、すなわちICとして現れるとしても不思議ではありません。

むろん、現代社会に増加するICが解離性の文化結合症候群だからといって、それが病的であると言っているわけではありません。

すでに見たとおり、解離は病気ではなく防衛機制です。さらに、以前考えたように、解離と創造性は同じコインの裏表であるように思います。

解離傾向の強い人が時代のストレスに反応して形成するのが多種多様な解離症状であり、時代のニーズにあわせて創り出すのが、多種多様な創造性であるということです。どちらも、無意識のうちに環境を反映して形を変えるという特徴があります。

創造的な人がもつ複雑で多面的な人格の10の特徴―HSPや解離とのつながりを考察する
創造的な人は「複雑な人格」を持っている、という心理学者チクセントミハイの分析を手がかりにして、感受性の強さHSPや、自己が複数に別れる解離が、創造性とどう関係しているのかを考察しま

解離傾向の強い人たちが、創作に親しむことが多いのは偶然ではありませんし、創作に親しむ人たちがICを持ちやすいのもまた偶然ではありません。

そのようなわけで、現代社会でICが増えているとすれば、その時代の環境や文化に敏感に反応する人たちが時代の趨勢を取り込んで反映しているからでしょう。

言い換えれば、潜在的な解離傾向を持つ創造的な人たちが、インターネットなどを通して無意識のうちに互いに影響を及ぼし合って、空想の他者という概念をかつてないほど身近なものへと作り変えていっているのではないでしょうか。

ルネサンス期に特定に芸術の分野が盛り上がったように、あるいはピカソやブラックの登場とともにキュビズムの時代が作られたように、現代社会のひとつの特色として、想像力豊かな人たちが互いに影響を及ぼし、空想の他者という大規模な文化が形成されているのかもしれません。

解離は人類史を通じて発揮されてきたヒトという生き物の特色であり、それが創造性であるか病理であるか、はっきりとした境目はなく、「グレーゾーン」を介して連続している現象なのです。

脳はどこから「もうひとつの世界」を創るのか―創造的な作家たちの内なる他者を探る

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「もうひとつの世界に暮らす人の日記のように、小説を書いています」

…「私にとって、小説の登場人物はイマジナリーフレンド(空想上の友人)のようなもので、彼らと一緒に生きている感覚があります」

れは、先日ふと見つけたインタビュー記事、SUNDAY LIBRARY:著者インタビュー 雪舟えま 『パラダイスィー8』 - 毎日新聞に載せられていた、作家 雪舟えまさんの言葉です。

以前このブログでは、子ども時代のありありとした空想の友だち(イマジナリーフレンド)や、それを取り巻く空想の世界が、小説家や画家など、作家の創造性に影響しているらしい、という研究を紹介しました。

小説家の約5割はイマジナリーフレンドを覚えている―文学的創造性と空想世界のつながり
フィクションやファンタジーをを創作する小説家や劇作家の創造性には、子どものころの空想の友だち体験、イマジナリーフレンドが関わっている、という点を「哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノ

雪舟えまさんの言葉は、まさにその一例と言えますが、興味深いのは、創作世界に対する向き合い方です。

創作する人は「作者」であり また「クリエイター」とも呼ばれます。クリエーターとは、言い換えれば「創造者」であり、いわば作品世界にとっての神の立場にいますが、インタビューの言葉は、それとはまったく違った印象を与えます。

たとえば、「もうひとつの世界に暮らす人の日記」という言葉から読み取れるのは、作家は、作品世界の外側にいて すべてを見渡しコントロールできる全知全能の神のような存在ではなく、作品世界の中で登場人物たちと一緒に住んでいる一介の隣人にすぎない、という認識です。

登場人物たちは、作られた存在というより、対等の友人であり、「彼らと一緒に生きている感覚」がある、と述べられています。あたかも登場人物たち一人ひとりが、自由意志を持って生きているかのようです。

じつは、こんなふうに感じている作家は、小説家のみならず、詩人や画家、はては科学者にいたるまで、クリエイティブな分野には大勢いて、古今東西、決して少なくないようです。

想像力豊かな作家が、作品世界やその登場人物を、自分で生み出した被造物というよりは、どこか別の次元にある「もうひとつの世界」であるかのように感じてしまうのはなぜでしょうか。

創造的な作家たちが感じる、ありありとした「内なる他者」の聴覚的イメージ、また「別世界」のような視覚的イメージはどこから来るのでしょうか。

 

「彼らの言動を書きとめているにすぎない」

冒頭で引用したように、想像力豊かな作家の中には、自分は作品世界の作り手ではなく、観察者であるかのように感じている人が大勢います。

創作しない人からすれば、これは意外に思えるかもしれません。作家は自分の意のままに作品を創り出し、好みのままにストーリーを紡いでいるのではないのでしょうか。

けれどもインタビューに出ていた雪舟えまさんは、こんな言い方をしています。

小説は世界まるごとを描くことができるのがいいと思います。どこかに保存されている物語をダウンロードするようにして書いています。

頭で書くとどこかつくりごとになってしまいますが、上から降りてきたものを自分というパイプを通すようにして書くと、自分でも驚くような小説ができるんです

「頭で書く」のではなく、「どこかに保存されている物語をダウンロードするようにして」書いている。

これは言い換えれば、自分であれこれ頭をひねって創作しているというよりは、どこからともなくやってきたアイデアを受け取って、それを形にしているという感覚があるということでしょう。

こうした感じ方は、珍しいものでも新しいものでもなく、古くから作家たちのあいだで言い習わされているものです。

たとえば、書きたがる脳 言語と創造性の科学にはこんなエピソードが書かれていました。

詩神にインスピレーションを与えられる経験は文学畑だけのものではない。

画家のアンリ・マチスは、大訴人書記の仕事を休まなければならなくなって、趣味として絵を描き始めたときのことを次のように記している。

「わたしは絵を描くことにとり憑かれて、やめられなくなった。描き始めると、自分が天国に移されたように感じた……何かがわたしを駆り立てていた。

それがどんな力だかわからないが、ふつうの暮らしにはない別世界の何かだった」

モーツァルトは交響曲を聴いて採譜しているような勢いで作曲したと伝えられる。

また詩神という考え方は西欧だけのものではない。

インドの天才数学者シュリーニヴァーサ・ラマヌジャンは、自分の等式は女神ナマギーリがささやいてくれたものだと言った。(p307)

ここに登場するのは、小説家や詩人だけでなく、画家、作曲家、数学者など多岐にわたる分野の作家たちです。

彼らはみな、自分から進んで作品を創作しているというよりは、「詩神」(ミューズ)からインスピレーションを与えられて、アイデアを受け取って、それを形にしているにすぎない、という共通認識を持っていました。

馴染み深いところで言えば、日本でも「マンガの神様が降りてくる」といった表現があります。漫画家は自分から自由に物語を紡げるわけではなく、アイデアがどこからか降りてこないと筆が進みません。

それどころか、小説家や漫画家は、自分の作品の登場人物の言動を、自分で好き勝手にコントロールしたりはできない、と感じている人が大勢います。 

前にも紹介しましたが、子ども時代のイマジナリーフレンドと、小説家の登場人物の類似性について述べた、哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)には、次のように書かれていました。

テイラーは、文学賞を受けた作家から熱心なアマチュアまで、小説家を自認する50人について調査を行いました。

するとほぼ全員が、作品の登場人物の自律性を認めていました。ヘンリー・ジェイムズや空想の友だちを生み出す子どもとそっくりではないでしょうか。

通りを歩けば登場人物が後ろからついてくる気がする。作中の役割について議論を交わすことがある。

自分は彼らの言動を書きとめているにすぎないと感じることがよくある。そんなふうに彼らは答えています。(p93)

なんと小説家のほぼ全員が、「作品の登場人物の自律性を認めて」いた、言い換えれば、冒頭のインタビューにあったように「彼らと一緒に生きている感覚」があり、登場人物一人ひとりが自由意思を持って生きている実在の人間のように感じられていたのです。

そして、作家たちはやはり「自分は彼らの言動を書きとめているにすぎないと感じ」ていました。雪舟えまさんが創作は「もうひとつの世界に暮らす人の日記」だと述べていたのとまったく同じです。

もちろん、これは、作家たちが、ただ速記官のように降ってくるアイデアを書き留めていれば、すばらしい作品が生まれる、という意味ではありません。

小説家にしても画家にしても、構成や構図に頭を悩ませ、あれこれと試行錯誤し、推敲するものです。

有名なパブロ・ピカソは、一見すると大胆に思うままに絵筆を走らせたかのようですが、じつは悩みに悩んで、描いては消し描いては消しながら「ゲルニカ」を描いたことが分かっています。

インタビューの中で 雪舟えまさんは「頭で書くとどこかつくりごとになってしまいますが、上から降りてきたものを自分というパイプを通すようにして書く」と述べていました。

このうち「上から降りてきたもの」は、無意識のうちに湧いて出てきたアイデアのことですが、それはそのままだと作品にはならないので、「自分というパイプを通す」、つまり、うまく頭をひねって考える必要もある、ということでしょう。

無意識のうちに湧いてくるアイデアはちょうど未加工の食材のようなものです。それをうまく調理するスキルがあってこそ、見事な作品に仕上がります。作家とは、だれかがいつの間にか冷蔵庫に入れておいてくれた素材を、腕を奮って料理するコックさんのようなものです。

たとえ自分の作品の世界や登場人物を自分ではコントロールできない自律的なもののように感じているとしても、そこで起こったおもしろい不思議なことをまとめて小説にしたり、その世界の息を呑むような風景を魅力的に描いたりするには、やはり技術や推敲が必要です。

わたしたちの「内なる他者」(Stranger Within)

この無意識のうちに調達される食材と、それを意識的に調理するコックさんの関係を脳科学的に説明すると、どうやら、前者は右脳、後者は左脳の働きのようです。

よく芸術は右脳的なものだと言われますが、以前に書いたように、それは科学的には誤っているゴシップのようなものでした。

「芸術家は右脳人間」は間違い―自閉症の天才画家からわかる創造性における左脳の役割
芸術家の創造性は右脳を用いているという考えは人気がありますが、最新の脳科学では否定されています。自閉症の画家などの研究に基づき、創造性と右脳・左脳の関係について考えてみました。

書きたがる脳 言語と創造性の科学には、その点についてこう説明されています。

実験的な裏付けはそう多くないが、この[芸術は右脳という]仮説は一般の人々の想像力をかきたてるらしい―『右脳で書け!』というような本がたくさん出ている。

右脳主義者は右脳と左脳の活動の違いを、たとえばホリスティックな考え方と線形思考、黙想的な東洋の思考と権威的な西欧の思考といったほかの恣意的な二分法とごたまぜにしていることがある。(p97)

そして、芸術に必要なのは、右脳と左脳の相互作用だと書かれています。

実験では創造性には右脳の活動だけでなく左右の脳半球のバランスのとれた相互作用が必要であることが示されている。

…休んでいるときには創造的な人でもそうでない人でも左脳のほうが活発だから、創造的な思考で相対的に右脳が活発化するのは、右脳が支配的だというより、両半球のバランスをとる必要があることを反映しているのかもしれない。

…この説はまた、創造的な作家は作品を生み出してはそれを編集するという仕事を繰り返す、という標準的な文学モデルに該当する。(p97-98)

創作に必要なのは、右脳だけでなく、「左右の脳半球のバランスのとれた相互作用」です。

なぜかというと、「創造的な作家は作品を生み出してはそれを編集するという仕事を繰り返す」必要があるからです。そこには、無意識的な右脳の活動と、意識的な左脳の活動の両方が求められます。

ではどうして、右脳は無意識と、左脳は意識と関係しているのでしょうか。そこには、右脳と左脳のもっとも大きな違い、つまり、左脳には言葉を操る能力がある、ということが関係しています。

一般に、言葉を操る能力に特化しているのは左脳だと言われています。そのため、左脳は言葉を用いて考える、意識的な思考に大きな役割を果たしています。

逆に右脳は、言葉を用いて考えない活動、身体を使った感覚的な運動とか、視覚的なイメージの認識を担当していると言われています。

詳しくは以前の記事を参考にしていただければと思いますが、わたしたち人間は、左脳が発達し、言葉を身に着けて始めて自分が何者かを識別する意識が芽生えるようです。

わたしたちが生まれて間もないころ、生後数年間は、まだ左脳が未発達で、右脳だけが発達しています。そのため、乳幼児は言葉を話せませんが、同時に、その時期の記憶は後から思い出すことができません。

わたしたちの意識は、言語機能を持つ左脳あってのものであり、まだ左脳が発達していない時期の記憶は、意識からはアクセスできない場所、つまり右脳の無意識にしまいこまれるからだと言われています。

HSPの人が知っておきたい右脳の役割―無意識に影響している愛着,解離,失われた記憶
HSPの子は右脳が活発、という知見にもとづき、右脳と左脳の役割や二つの記憶システム、愛着、解離など、HSPの人が知っておくと役立つ話題をまとめました。

そのようなわけで、言葉を使って意識的に考える活動は左脳的なものであり、対照的に、言葉を用いず無意識のうちにどこからともなく生じる活動、たとえば天から降ってくるアイデアとか、自動的にやってしまう癖や習慣などは、右脳的なものだと考えられています。

精神科医の岡野憲一郎先生によると、近年、こうした研究が進んだのは、アメリカのアラン・ショア博士による功績が大きいとされています。ショア博士は、このブログのテーマのひとつである愛着や解離について先進的な研究をしてきました。

岡野憲一郎のブログ Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: 第10章 右脳は無意識なのか? (1)

岡野憲一郎のブログ Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: 第10章 右脳は無意識なのか?(2)

岡野憲一郎のブログ Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: 第10章 右脳は無意識なのか?-心理士への教訓

アラン・ショア博士は、The Right Brain and the Unconscious: Discovering The Stranger Within(右脳と無意識―内なる他者を発見する)という本を書いていますが、タイトルが示しているように、右脳の無意識というのは、たとえるなら「Stranger Within」(内なる他人)のようなものなのだそうです。

作品の登場人物は「空想上の友人」のようだとか、作品世界は「もうひとつの別の世界」のようだ、という表現は、つまるところ、それらは作者とは別の意思を持って生きている「Stranger Within」(内なる他人)だ、という意味でしょう。

それは、脳科学的にいえば、意識的な自己である左脳と、無意識の「内なる他人」である右脳との交流だと言えます。だからこそ、創作は、右脳か左脳どちらか片方だけで完成するわけではありません。

正確を期しておくと、ここでいう左脳と右脳は複雑な相互作用をもっているので、左脳は自分、右脳は内なる他者とばっさり分けられるわけではありません。岡野憲一郎先生も「右脳≒無意識」という書き方をしています。

また、以前にも触れたように、言語中枢が左脳にあるのは、右利きの人の99%、左利きの人の70%ほどだそうです。それ以外の人は、右脳または両方の脳に言語中枢があることがわかっています。

左脳と右脳の役割はもともとそう決まっているわけではなくて、成長していく中で、どちらかが特定の役割に特化していくようです。それで一部の左利きの人のように、右脳に言語中枢が発達した人の場合、ここまで書いてきた話は逆になります。

聴覚イメージと視覚イメージ

ここからは、作家が感じる「内なる他者」(Stranger Within)について、もう少し具体的に考えてみましょう。

作家が感じる内なるだれかの感覚は、おもに、二つの感覚から成り立っているのではないか、と思います。

最初のインタビューの中で雪舟えまさんは「空想上の友人」と「もうひとつの別の世界」という二つのキーワードを使っていました。

まず、創作の登場人物である「空想上の友人」のほうは、「内なる他者」そのものです。「空想上の友人」が、現実にはいないけれども、現実にいるかのようなに生き生きと感じられるのは、言葉を用いてコミュニケーションができるから、という理由が主でしょう。

空想の遊び友達、イマジナリープレイメイトという「ファンタジーと現実」
イマジナリープレイメイト(想像上の遊び友達)、イマジナリーコンパニオン、イマジナリーフレンドと呼ばれる現象はとても広く見られるという点を「ファンタジーと現実 」という本の麻生武博士

作家は、作品の登場人物を生き生きと描写するとき、どんな口調か、どんな声か、どんな話題が好きか、という聴覚的なイメージを主に膨らませます。

もちろん登場人物やキャラクターの描写には、外見という視覚的イメージもある程度必要です。けれども、自分とは違う別のだれか、という生き生きとした存在を支えるのは、間違いなく視覚イメージではなく聴覚イメージのほうです。

たとえば、ネット上で用いるアバターについて考えてみてください。アバターには、視覚的なイメージが存在していますが、自由に言葉を話したりはしないので、別のだれかではなく、自分の分身として認識できます。

これを利用したのがゲームの主人公です。ドラゴンクエストの歴代主人公は「はい/いいえ」以外にしゃべりませんし、ゼルダの伝説のリンクや、マリオブラザーズのマリオも、具体的なテキストで会話したり、映画のようにムービーでしゃべることはほとんどありません。

彼らは言葉を話さず、ただ視覚的イメージだけの存在だからこそ、プレイヤーは自分を投影し、冒険の主人公になったように感情移入することができます。

逆に言えば、空想の人物が、自分とは異なる生き生きした他者に感じられるかどうかは、視覚的な外見ではなく、言葉を使ってコミュニケーションできるかどうかにかかっているのです。

他方、創作の舞台となる「もうひとつの別の世界」についてはどうでしょうか。

生き生きした世界を表現するために一番必要なのは、見た目、つまり視覚的イメージでしょう。グラフィックが繊細で本物らしいほど、空想の世界に没入することができます。

文学作品の場合、文字通りの風景は見せられませんが、挿絵を用意したり、言葉で絵を描くかのように情景を描写し、読者のイメージを引き立てたりすることで、作品世界に没入してもらいます。

もちろん、これ以外の感覚を用いたイメージが必要ではない、というわけではありませんが、「内なる他者」の描写には生き生きとした聴覚イメージが、「内な別の世界」の描写には生き生きとした視覚イメージが大きな役割を果たしていると言ってよいと思います。

それで、ここからは、作家たちがありありとした聴覚的イメージ、および視覚的イメージを思い浮かべるときに、脳の中で何が起こっているのか、ということを考えてみたいと思います。

自我異和的な「内なる声」

まず生き生きとした「内なる他者」のイメージに関係しているのは、生き生きとした聴覚イメージでした。

わたしもそうですが、創作している人は、自分の作品に出てくる人物の声や話し方を、はっきりとイメージできることと思います。

この登場人物は、現実のあの人に外見や性格が似ているから この声優の声が合う、といった意味ではなく、現実の友だちについて思い浮かべるときのように、自然と声や話し方のイメージがわかるはずです。

おもしろいことに、見てしまう人びと:幻覚の脳科学によると、作家が空想の人物の生き生きとした声をイメージできる、というのは、比喩的な意味ではなく文字通りの意味だと書かれています。

ジュディス・ワイスマンは著書『二つの心―声を聞く詩人たち(Of Two Minds:Posts Who Jear Voices)』で、とくに詩人自身が述べたことから引いて、ホメロスからイエーツまで大勢が、単なる比喩的な声ではなく本当の声の幻聴によって着想を得ていることを示す強力な証拠を提示している。(p95)

作家にとって、空想の人物の声は、なんとなくおぼろげにイメージできるようなものではなく、現実に聞こえる身の回りの人の声と変わらないほどリアルです。

「単なる比喩的な声ではなく本当の声の幻聴」というと、なんだか病的に思えるかもしれませんが、幻聴というのは、統合失調症のような病気特有の症状ではなく、わたしたちが誰でも経験しているものです。

たとえば音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々に書かれている「ホワイト・クリスマス効果」という幻聴を経験したことはないでしょうか。

1960年代、研究者が「ホワイト・クリスマス効果」と呼んだものについて、結論の出ない実験が行われた。

当時世界中で知られていたビング・クロスビーの歌う〈ホワイト・クリスマス〉がかかったとき、ボリュームをゼロ近くまで下げても、あるいは実験者がその歌をかけると言いながら再生しなかったときでさえ、「聞こえた」被験者がいた。

そのように無意識に音楽を頭に浮かべる「埋め合わせ」は、最近、ダートマス大学のウィリアム・ケリーらによって生理学的に確認されている。(p57)

見てしまう人びと:幻覚の脳科学に書かれている「ベル錯覚」幻聴はどうでしょうか。

サラ・リップマンは自身のブログ(www.reallysarahsyndication.com)で、携帯電話の着信音が鳴っている気がしたり、その幻聴を感じたりするときの「ベル錯覚」幻聴を指摘している。

彼女はこれを、ドアがノックされる音や赤ん坊が泣く声が聞こえているかもしれないと考えるときの、警戒、期待、または不安の状態と関連づけている。(p95)

さらにもう一つ挙げれば、いわゆる「耳の虫(イヤーワーム)」はどうでしょうか。書きたがる脳 言語と創造性の科学にはこうあります。

ふつうの人でも あるメロディが頭にこびりついて離れないことはよくある。ドイツではこれを「耳の虫」と呼ぶ。

多くの人はほかの歌を歌ってこびりついたメロディを追い払う。わたしは神経弛緩薬を投与されていたとき、副作用で「耳の虫」が消えたので驚いた。

それで気づいたのだが、精神神経医学的に見れば、耳のこびりつく歌は幻聴と同じで、自我異和的な声が歌っているのだ。(p316)

いずれも、思い当たる節がある人は多いと思います。

これらはすべて、同じ「埋め合わせ」という理由から起こる幻聴です。

もうすぐ音が鳴るかもしれない、音楽が聞こえるかもしれない、だれかが自分を呼ぶかもしれない、あるいは、CDプレイヤーを止めてずっと聞いていたはずの音楽が聞こえなくなった。

そんな意識が働いているとき、無意識のほうがそれに答えて、鳴っていない音をあたかも鳴ったかのように錯覚させ「埋め合わせ」てしまいます。

音楽や携帯電話の着信音でこれが起こるのなら、いつもアイデアを探し求めている作家の場合、詩神(ミューズ)がささやく声が聞こえるとしても不思議ではありません。

いつも空想世界の登場人物に思いを馳せている小説家の場合も、無意識が「埋め合わせて」、実際に声が聞こえたように思うかもしれません。

詩を書く学生は書かない学生よりも「内なる声を聞く」体験が多く、これらの学生の側頭葉でも脳波に変化が起こっている。

したがって内なる声に最もかかわりの深い領域はハイパーグラフィア[文章をたくさん書く人]にとって最も重要な領域であり、たぶん文学的創造性一般についてもそうなのだろう。(p322)

こうした創造的な作家や学生たちが聞く内なる声のささやきは、一種の幻聴ではあるものの、正常な域の幻聴であって病的なものではありません。

ジュリアン・ジェインズやマイケル・バーシンガーらの説によれば、詩神からの指示を受け取る体験は、正常な内なる声から完璧に自我異和的な幻聴までのスペクトルのどこかに存在しているはずだし、宗教的な体験も同じだろう。

もちろんわたしは、詩神の訪れを感じたという芸術家は単に幻聴を聞いただけだと言っているのではない。

むしろこのような現象すべてに少なくとも何らかの類似性があり、それが理解の手がかりになるだろうと考えている。(p311)

じつは「内なる声」が聞こえるほうが普通?

「ホワイト・クリスマス効果」や「イヤーワーム」について考えると、幻聴という体験は決して病気の人だけに起こるものではなく、わたしたちも多かれ少なかれ経験しているものだ、ということがわかります。

けれども、「正常な内なる声から完璧に自我異和的な幻聴までのスペクトル」がある、と書かれていたように、幻聴をどの程度感じやすいかは、人によってかなりの程度差があります。

内なるだれかの声を意識しやすい人と、全然気にしない人との違いは、今の引用文の中にあった、「自我異和的」かどうか、という点にかかっているでしょう。

これは少し難しい表現ですが、ちょっと言い方を難しくしただけで、要は自分とは異なる存在であるかのように感じる、ということです。

わたしたちはみな、勝手に音が聞こえる幻聴のようなものは多かれ少なかれ経験します。けれども、あまり創作活動と縁がない、世の中のほとんどの人たちにとっては、それが「自我異和的」だと感じられません。

イヤーワームが鳴り止まなくても、「ただの空耳だよね」、と思えてしまうので、何ら意外性はなく、アイデアの源にもならないのです

しかし、創造的な作家たちにとっては、そうした幻聴がどことなく「自我異和的」に感じられます。自分の心の声ではなく、内なる別のだれか、ないしは、超自然的なメッセージであるかのように意外に感じられるので、思いがけないアイデアにつながります。

どうしてこのような違いが生じるのか、脳神経科学者のオリヴァー・サックスは、見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中で、こう考察しています。

幻聴の原因は、心のなかの発話を自分のものと認識できないことにある。

(あるいは、聴覚野との交差活性化から生じているために、大半の人が自分自身の考えという経験するものが「声に出される」のかもしれない)と主張する研究者もいる。

おそらく大部分の人には、ふつうはそのような内面の声が外から「聞こえる」ことがないようにする、生理的な障壁か抑制のようなものがあるのだろう。

たえず声が聞こえる人たちの場合、その障壁がどういうわけか壊されたか、十分に発達していない可能性がある。(p84)

本来、自分自身の考えは、当然、自分のものと認識されるはずですが、「内なる声」が聴こえてしまう人は、そのための抑制機能が壊れているか十分に発達してしないのではないか、とされています。

そう考えてしまうと、やはり「内なる声」が聞こえるような人は、ちょっと病的な域に足を突っ込んでいて、病気との境目にいるのではないか、と思えてしまいますが、オリヴァー・サックスはここで意見を180度転換させます。

しかし、逆のことを問うべきなのかもしれない―なぜ大半の人には声が聞こえないのか、と。

ジュリアン・ジェインズは1976年の話題作『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』のなかで、少し前まで、あらゆる人間に声が聞こえていたという仮説を立てた。

自分の脳の右半球から発せられるのに、まるで外から聞こえているように(左半球)によって知覚され、神々からの直接的なメッセージとしてとらえられたというのだ。(p85)

ものすごく突拍子もない仮説です。現代社会のほとんどの人は「内なるだれか」の声を意識しませんが、じつはそうした人たちのほうが人類史的には珍しく、古代の人たちは「内なる声」を当たり前のように聞いていた、というのです。

バカバカしい主張だと感じられるかもしれませんが、ちょっと辛抱しておつきあいください。

この仮説については、先に引用した別の本、書きたがる脳 言語と創造性の科学でもやはり引き合いに出されています。というより、こうした話題を扱った本では当然のごとく出て来るので、かなり注目を集めている説のようです。

自分の内なる声が自我異和的になる現象は、ジュリアン・ジェインズの少々風変わりだが優れた主張にあるように、古代の文学を考えるとき、さらに大きな意味をもつのかもしれない。

ジェインズはギリシャの叙事詩を基本事例として、内なる声は神が語っているのではなくて自分のなかにあると人間が気づいたのはごく最近だと言う。

こう考えると、なぜ古代の文学の主人公には、現代人を当惑させるほど、自分が行動しているという意識が欠如しているのかということも説明がつくかもしれない。

誘惑も狂乱も自殺もしばしば何の説明もなしに、あるいはアテナやゼウスにそそのかされて行われるのだ。(p317)

びっくりするような話ですが、確かに、ここに書かれているように、古代の文明の人たちは、今よりも神や精霊などの超自然的存在を身近に感じていたのではないでしょうか。

それは単に科学が進歩していなかったせいで宗教心が強かったということではなく、じつは「内なる他者」の声を日常的に聴いていて、それを神や精霊の声だと見なしていたからではないか、と彼は言います。

にわかには信じられないような話ですが、ジェインズは神経学的な裏付けも述べています。

なぜ古代の人々は内なる声を自我として認識できなかったかについて、ジェインズは神経学的な仮説を提案している。

この自我異和的な感覚は、脳がまだ発達途上で、左脳と右脳が完璧に連携して働いていなかったからではないか、と言うのである。

したがって右脳とくにウェルニッケ言語野に相当する部分からの言語的あるいは感覚的な命令が、左脳優位の言語野にとっては他者と感じられたのではないか(言語機能は左脳優位だが、右脳にも言語能力がまったくないわけではない)。(p317)

彼が言うには、古代の文明の人たちは、左脳と右脳が完璧に連携して働いていなかったせいで、無意識の右脳から生じる「内なる他者」の声が、意識的な左脳にとっては、「自我異和的」なものに感じられていたのではないか、とされています。

ここで、すでに考えた、創作の原理を思い出してみましょう。アラン・ショア博士によれば、わたしたちの脳のうち、意識をつかさどっているのは左脳で、無意識をつかさどっているのは右脳でした。

そして、創作というのは、左脳と右脳がバランスよく仕事をする、共同作業でした。無意識の右脳が食材をどこからともなく仕入れてきて、意識的な左脳でそれを美味しい料理に調理するのが創造的な作家たちの秘訣でした。

そして、このジェインズの説によると、「内なる声」を聞く人は、左脳と右脳が「完璧に連携して働いていな」いとされています。

これは左脳と右脳が共同作業をしていないという意味ではなくて、それぞれが別々の役割を果たしているということです。二つの脳が一人に統合されているのではなく、それぞれが独立して働いているといえます。

そうすると、創造的な作家たちと、創作に縁のない平凡な人たちとの違いは、作家たちは右脳と左脳を独立させて働かせることができるのに対し、平凡な人たちはそうした使い分けができていないのではないか、ということになります。

作家たちは左右の脳を使い分けられ、あたかも一人の人の中に二つの心があるように「内なる声」を聞くことが多いのに対し、平凡な人たちは左右の脳をうまく使い分けられないから「内なる声」に気づけないのでしょうか。

もしそうなら、創造的な作家たちは、病気との境目にいるどころか、神や精霊が身近だった過去の時代の人たちに近い、人類本来の機能を残している、ということになるでしょう。

興味深いことに、以前考えたことによると、さまざまな神話や宗教は、まだ「内なる声」を聞いていた時代の人たちが体験した、空想上の友人(イマジナリーフレンド)体験などに端を発しているのかもしれません。

イマジナリーフレンドは自分で「作る」ものなのか「作り方」があるのか
イマジナリーフレンドに「作り方」はあるのか。イマジナリーフレンドとタルパはどう違うのかを説明しています。

学校教育が創造性を殺すと言われる理由

それでは、左右の脳を交互に使い分けられるような創造的な人たちと、うまく切り替えができない平凡な人たちの違いはどこから生じるのでしょうか。

わたしたちの脳は、左脳と右脳にわかれていますが、その二つをひとつに結びつけ、足並みを揃えさせているのが、二つの脳をつなぐ橋である脳梁(のうりょう)です。

以前の記事で書いたように、難治性てんかんの手術で、右脳と左脳を結ぶ脳梁を切断すると、あたかも一人の人の中に複数の人がいるかのような奇妙な振る舞いが現れることが知られています。

多くの人たちが、ひとつの頭蓋骨の中に、自己そのものである左脳と、「内なる他者」である右脳の二つを抱え持っているのに、自分はたった一人の自己だと思いこんでいるのは脳梁のおかげだといいます。

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書きたがる脳 言語と創造性の科学によると、わたしたちは誰でも、子どものころは、まだ脳梁の働きが弱いこともわかっています。

幼い子どもたちは左右の脳半球の電気活動が比較的に同期していない。

成熟するにつれて、脳梁が左脳と右脳を効率的に連携させるようになる。

最後に両半球の連携はふつうの人が自我異和的な存在を感じるときにも一役買っているらしい。(p318)

わたしたちは誰でも、幼いころは、脳梁があまり発達していないせいで、左右の脳の活動がまばらで同期していません。言い換えれば、左脳の自己と、右脳の「内なる他者」が別々に振る舞いやすい、ということです。

そう言われてみると、確かに、わたしたちは誰でも、幼い子どものころは優れた想像力があるものです。「子どもはみな詩人」と言われるように、子どものころはみな作家のような感性を持ち合わせています。

わたしたちの多くは、幼少期に空想の友人(イマジナリーフレンド)を持つとされています。これはもちろん「内なる他者」そのものです。

多くの大人は覚えていないかもしれませんが、一説によると、子どもの半数近くが、となりのトトロやまっくろくろすけのような架空の友人の声を聞き、その姿を見る不思議な体験をしています。

最初のインタビューで、雪舟えまさんは「もうひとつの世界」で暮らし、「空想上の友人」と一緒に生きているような感覚がある、と述べていましたが、子どものころは誰にだってそうしたもう一つの別世界があります。

子どものころは誰でも「内なる声」が聞こえるのです。

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考えてみれば、想像力豊かな作家というのは、子ども時代の感性そのままに大人になった人ではないでしょうか。有名な作家の中には、年を重ねても、子どもみたいな純粋な感性や茶目っ気を持っている人が少なくありません。

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そうすると、不思議なことに気づきます。

ジュリアン・ジェインズの説によると、神や精霊が身近だった時代に生きていた わたしたちの祖先にとっては、「内なる声」が聞こえるのはごく普通の体験でした。しかし、現代人の大半は「内なる声」が聞こえません。

また現代人も子どものころは、「内なる声」を聞くのが普通です。しかし、大人になると、大半は「内なる声」が聞こえなくなってしまいます。

本来「内なる声」が聞こえるはずのわたしたちを、「内なる声」が聞こえない状態にしてしまう この二つの変化、つまり古代社会から現代社会への変化と、現代における子どもから大人になるときの変化に共通する要素は何でしょうか。

おそらく それは、文字や言語を用いた学校教育ではないか、と思います。

「内なる声」が聞こえる古代社会の人々と、「内なる別の世界」を持つ子どもに共通しているのは、どちらも未就学だということです。

古代の文明では、学校教育は存在せず、読み書きを学ぶとしてもほんのわずかでした。それが近代化に伴い、先進国では教育が義務化され、何年もかけて読み書きや教養を学ぶのが当たり前になりました。

現代の学校教育は、言葉を用いて批判的、論理的に考える能力を強化することに重点を置いています。脳の左右のうち、言葉を用いて考えるのは左脳で、無意識の「自我異和的」な声を担当するのは右脳でした。

そうすると、学校に入る前の子どもは、左右の脳がまばらに働くため となりのトトロのような自我異和的な存在が身近なのに、学校教育で左脳が統制的になると、無意識の声があまり聞こえなくなるのではないでしょうか。

これにはいくつかの裏付けがあります。たとえば、現代でも、教育があまり普及していないアフリカなどの国々では、「神」の声を日常的に聴いていた昔の人たちと同じように、病的とは限らない自我異和的な幻聴を聞く人が多いようです。

どこからともなく頭の中に聞こえてくる「声」には良いものもある - GIGAZINE

対して、インド人やアフリカ人は、自分の見る幻覚や幻聴が自分の友達や家族を思い出させてくれるようなものである、と説明しています。

そして、幻聴の声音は楽しげなものである、と報告しています。

あるガーナ人の被験者は「ほとんどの幻聴が良いものです」と語り、インド人の被験者は「私は話をする仲間を持っているので、誰かと話しをするために外出する必要がありません。自分自身と話すことができますからね」とコメントしており、幻聴ととてもうまく付き合っていることがわかります。

また、昔の記事でも紹介した、有名なサヴァン症候群の子どもであるナディアの話があります。

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神経学者V.S.ラマチャンドランの脳のなかの天使によると、ナディアは、子どものころ、驚異的な絵の才能があり、飛び抜けてリアルな絵を描けました。しかし学校教育で言語能力を獲得すると、その才能は消えてしまいました。

皮肉なことにナディアはその後、青年期を迎えると、自閉症的な症状が軽減し、同時に絵の才能を完全に失ってしまった。

…成熟して高度な能力を獲得したナディアは、もはや右頭頂葉のラサ・モジュールに注意の大きな部分を割り当てることができなくなったのだろう。

(これは、正規教育には、創造性の側面を抑えつけてしまう可能性があることを示唆していいる)。(p316)

ここで書かれているように、正規教育には、「創造性の側面を抑えつけてしまう可能性」があります。

このように言うと、教育を受けると創造性が失われ、教育を受けないと創造性が残るというような、教育と創造性とがトレードオフの関係にある、という誤解をされそうですが、そういう意味ではありません。

世間では、学校教育を受けていない人や、大学を出ていない人はバカにされがちです。しかし高等教育を受けた人が賢く、そうでない人は頭が悪いとみなすのはひどい誤りです。

教養としての認知科学という本によると、現代社会の学校教育は、頭の悪い子どもを頭の良い子どもへと訓練しているわけではなく、子どもの脳を特定の社会に対して最適化しているにすぎないようです。

心理学者A・R・ルリアが、「綿は、暖かく乾燥した地域に育つ。イギリスは寒く湿気が多い。イギリスに綿は育つか?」と質問すると、学校教育を受けた人は「育たない」と即答し、読み書きのできない人は「わからない」と答えました。

一見、学校教育を受けた人の答えは正しいようです。ところがこの時代、イギリスはインドを植民地にしていたので、「わからない」と答えた人たちのほうが事実に近かったのです。

学校教育を受けた人の答えは、学校という環境の中で行われるペーパーテストにおいては正しいものでした。しかし読み書きのできない人の答えは、学校の外の社会で求められる判断において正しいものでした。

日常生活では確実な前提が得られることはほぼない。こうした世界では前提を疑ったり、棄却したりすることは、けなされるどころか、慎重な態度として尊重される。

読み書きのできない人が行った思考は、論理学の仮定する世界とは別の世界で行われたのである。

思考を働かせる世界が全く異なるわけだから、別の答えが導き出されるのは当然と言えるだろう。

一方、学校に行くようになると、…何を教えるかといえば、先生が言ったことは黙って聞く、疑わない、余計なことは考えない、そういうことである(これは隠れたカリキュラムと呼ばれる)。(p208-209)

わかりやすく言えば、学校に行った子どもは、学校のテストでは良い点を取れるようになります。でも家事の手伝いや社会で生きていく力は身につきません。

有名な大学を出れば、大学や学問の世界で生きることに脳が最適化されますが、社会に出ると適応不良をおこすことがよくあります。社会で生きる知恵は、むしろ高等教育を受けず家業を手伝ってきたような人たちのほうが賢いものです。

教育を受けられない発展途上国の人たちのほうが、高等教育を受けられる日本人より劣っているかというと全然そんなことはなく、それぞれが社会の求めるものに対して最適化されていくだけです。

先進国の子どもたちは、学校教育の「隠れたカリキュラム」を受ける中で、賢くなるのではなく、先進国の社会が求めるような、効率的で社会に従順な頭の使い方をするよう最適化されてき、引き換えに創造性を失っていく、ということです。

この見方と一致しているのは、芸術家の中には、学校教育に馴染めない子ども時代を送った人がとても多いということでしょう。

たとえば創造的な作家の中には、パブロ・ピカソのようなADHD、スティーヴン・スピルバーグのようなディスレクシア(読み書き障害)を抱えていた人たちがいます。

創造的な作家たちがみな、学校での成績が悪かったわけではありませんが、たとえ成績がよくても、授業に退屈していたとか、馴染みきれずどこか浮いていたといった話はよく聞きます。

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ADHDの原因はドーパミン不均衡だと言われていますが、興味深いことに、書きたがる脳 言語と創造性の科学には、このドーパミンは「内なる他者」の声を聞くかどうかに強く関係していると言われています。

ドーパミンは内なる声の神経化学の主役と見られている。

ドーパミンを抑制する薬は内なる声を沈静化させ、ドーパミンの活動を促進する薬は声を大きくするからだ。(p312)

ADHDやディスレクシアの子たちは、生まれつきもともと左右の脳が別々に、交互に働くような傾向が強く、古代社会の人たちと同じように、「自我異和的」な声を聞きやすく、子どものころから想像力が豊かなのだと思います。

そのため、現代社会の学校の教育にあまりなじめかったり、不登校になったりしますが、結果として学校教育の影響をあまり受けないので、社会が求める画一化された考え方に最適化されず、大人になっても、左脳とは別々に働く、右脳の自我異和的な声を聞き続けます。

むろん、現代の学校教育で行われる指導は、学校の中だけでなく、社会全体に浸透しています。現代社会は自我異和的な声を聞かない人たちによって構成されているので、たとえ学校に行かなくても、おのずと「内なる声」はかき消されていく傾向があるはずです。

けれども、生まれつきの性質などのために、人一倍、自我異和的な声を聞きやすく、しかも学校教育の影響をそれほど受けなかった子どもの中には、その内なる声が、詩神(ミューズ)のように働いて、やがて作家の才能として開花するケースがあるのでしょう。

 「別世界」の風景を見る

ここまで考えてきたのは「内なる声」という聴覚的イメージの話でしたが、創作には視覚的イメージも強く関係していました。

空想世界の絵を描く人、独創的な世界観の小説を書く人には、自分が表現する世界の風景を、まるでじかに見ているかのように描写する人が少なくありません。

「内なる声」の場合、聴覚的イメージは文字通りの幻聴に近いほど具体的でしたが、視覚イメージもそうなのでしょうか。

架空の音が聞こえる現象は「幻聴」ですが、架空のものが見える現象は「幻視」といいます。書きたがる脳 言語と創造性の科学によれば、幻視のほうは精神病では珍しいと言われています。

これまでは声と聴覚的体験だけを取り上げてきた。だが、人は幻覚も見るのではないか? 

幻覚はドラッグ体験や老人性認知症に共通しているが、精神病では珍しい。(p323)

以前の記事でも書いたように、統合失調症では幻聴は多い反面、幻視はまれだと言われています。幻視はどちらかというと、子どもの空想の友だちなどに関わる解離現象に特有のものです。

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精神科医の中には「幻聴=統合失調症」と考えている人が多いと言われます。しかし実際には解離性障害やアスペルガー症候群が統合失調症と誤診されている例が多いといいます。この記事では解離の

また、引用した文中では、幻視が多いのは、「ドラッグ体験や老人性認知症」だとされていました。

LSDやメスカリンなどのドラッグを使うと、奇妙な幻視が見えるそうですが、ドラッグが規制される前の時代の作家たちはよくこうした薬物を使っていて、それが絵画のシュールレアリズムやサイケデリックの文化に影響したそうです。

もうひとつの老人性認知症のほうは、特にレビー小体型認知症と、シャルル・ボネ症候群という病気で幻視が起こると言われています。この二つの幻視はじつは同じようなものなのではないか、とも言われています。

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視力障害を抱えた年配者に現れやすい不思議ん幻視体験「シャルル・ボネ症候群」(CBS)とは何か、その周辺体験も交えて考察してみました。

シャルル・ボネ症候群の幻視というのは、精神病のように頭が混乱して見えるわけではなく、どうも、さっき見た「ホワイト・クリスマス効果」や「ベル錯覚」と同じようなものだそうです。

「ホワイト・クリスマス効果」や「ベル錯覚」は、聞こえるかもしれないものを無意識の脳が「埋め合わせ」ることで起こっていましたが、シャルル・ボネ症候群の幻視も、目の病気で視野が欠けるなどしたとき、見えない部分を無意識が「埋め合わせ」るので、ないものが見えてしまうそうです。

そうであるなら、目が健康な人の場合でも、一時的に目が見えなくなったら、幻視が見えてしまうのでしょうか。

見てしまう人びと:幻覚の脳科学には、米国のアルバロ・パスカル=レオーネ教授による、健康な人に96時間目隠しを続けてもらうという実験が載っていました。

その結果、13人中10人もの人が幻覚を見ましたが、個人差があって、目隠しをしてから数時間で幻視が見えた人もいれば、2日後に見え始めた人もいました。ほとんどは数秒、数分のみの幻視でしたが、一人だけほぼ途切れなく見た人がいたそうです。

見えた幻視の内容については、こんな報告がありました。

幻覚の明るさと色について話す被験者が数人いた。一人は「まばゆいクジャクの羽と建物」について語った。

別の一人は、耐えられないほどまぶしい夕日と、ものすごく美しい輝く風景を見て、「いままで見た何よりもはるかに美しいですね、絵が描けたらと心から思います」と話している。

幻覚の自然な変化に言及している人もいる。一人の被験者の場合、チョウが夕日になり、それがカワウソに、そして最後に花に変わった。

被験者の誰も幻覚を自由意志でコントロールすることはできず、幻覚には独自の「心」または「意思」があるように思われた。

メラペットらは、被験者が報告する幻覚はシャルル・ボネ症候群(CBS)患者が経験するものとまったく同じであり、この実験結果は視覚遮断だけでも十分にCBSの原因になりうることを物語っていると感じた。(p56-57)

説明されているように、これは視力が欠けた年配の人に起こるシャルル・ボネ症候群と同じものです。

幻視の内容が、自分でコントロールできず『幻覚には独自の「心」または「意思」があるように思われた』というのはとても興味深いところです。

これはつまり、見えた幻視は「自我異和的」だったと言えるからです。自分で意識して作り上げたイメージではなく、どこからともなく勝手にやってきて見え、コントロールできず勝手に変化していく、ということを意味しています。

作家は「内なる他者」が自我異和的だと思うのと同じく、「内なる別の世界」の風景も、自分で意識してイメージしたものではなく、どこからかもたらされたインスピレーションのように感じます。

あるアーティストの女性に22日間目隠ししてもらった別の実験によると、目隠ししたときに見えるような無意識のうちに現れる幻視は、自分で意識して思い浮かべたイメージとは性質が異なるものだとわかっています。

ヴォルフ・ジンガー率いる神経科学研究所の別の研究所グループは、優れた視覚心象能力をもつ視覚芸術家を、ただ一人の被験者として研究を行なった。

…彼女の後頭葉と下部側頭葉にある両方の視覚系が、幻覚とぴったり同時に活性化することをfMRIは示した。

(対照的に、視覚心象の力を使って幻覚を想起または想像するように言われたときは、それに加えて、前頭前皮質にある脳の高度な領域―ただ幻覚を見ているだけのときは、あまり活性化しなかった領域―もさかんに活性化した)。(p37)

なんだか難しいですが、整理すると、自分で意識してイメージしたものは、脳の高度な領域が働いていたのに対し、独りでに見えた幻視はそこが働いていなかったということです。

それゆえ、自分で思い浮かべる視覚イメージと、シャルル・ボネ症候群のような幻視とは、それぞれ異なる性質があることがわかりました。

このことから、視覚心象と幻視は生理学的レベルで根本的に異なることが明らかになった。

自由意思による視覚心象がトップダウンのプロセスであるのに対し、幻覚は、正常な感覚入力の欠如により異常に興奮しやすくなった腹側視覚路の領域が直接ボトムアップで活性化した結果なのだ。(p37-38)

たとえば、「リンゴをイメージしてみてください」と言われたとします。わたしたちは意識的に頭の中にリンゴを思い浮かべますが、そのときは、脳の高度な領域が命令を出す「トップダウン」の経路でイメージが作られます。そのイメージは、間違いなく自分で想像したものなので、「自我異和的」だとは思わないでしょう。

しかし、うとうとしているとき、ぼんやりしているとき、長らく目隠しされたとき、視野が欠けたときなどに、どこからともなく見える幻視は、脳の高度な意思に関係するところからの指示はありません。

無意識をつかさどる右脳が、勝手に、自発的に、欠けているものを「埋め合わせ」るかのようにイメージを再生するので、自分でも思っても見なかったような、意外な映像が見えます。それは、自分では想像だにしなかったものなので「自我異和的」だと感じます。

夢と覚醒のはざまで見える入眠時幻覚

さすがに、作家のほとんどは何十日も目隠ししているわけでも、視野が欠けているわけでもなく、ましてやドラッグを服用したりはしていないはずなので、日常的にこんな鮮明な幻視は見えないでしょう。

けれども、目の機能に何の異常もなく、ドラッグに縁のない人でも、シャルル・ボネ症候群のような幻視が見えることがあります。それは、ぼんやりしているときや、眠りかけているときで、「入眠時幻覚」として知られています。

入眠時幻覚について最初に詳しく調査したのは、チャールズ・ダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトンでした。

フランシス・ゴルトンは大勢の被験者から情報を集め、初めて入眠時幻覚の体系的調査を行なった。

彼は1883年の著書『人間の能力とその発達を探る(Inquiries into Human Faculty and Its Development)』で、そのような心象が見えるかを訊かれて、最初から認める人はごくわずかだと述べている。

そのような幻覚はよくあることで、悪いものではないと強調するアンケートを彼が送ってようやく、一部の被験者がそのことについて気兼ねなく話すようになった。(p241)

ゴルトンによると、入眠時幻覚は決してまれなものではなく、多くの人が少なくとも一度は経験しているはずのものです。しかし、特に意識せず、気づかないまま眠りに落ちているといいます。

これはすでに見た幻聴のパターンとよく似ています。幻聴の場合も、ほとんどすべての人が日常的に経験していましたが、大半の人たちは何の気にも留めておらず、ただ創造的な作家だけが「内なる声」に注意を向け、そこからアイデアを得ていました。

入眠時幻覚のほうもまったく同じで、昔から創造的な作家たちは、大半の人が気に留めないこの幻視に気づき、創作のアイデアをもらってきました。その中のひとりに詩人エドガー・アラン・ポーがいます。

入眠時幻影は「別世界」のもののように思えるのかもしれない。

自分の幻影について説明する人はこの別世界という表現を何度も繰り返し使う。

エドガー・アラン・ポーは、自分自身の入眠時心像は見慣れないものであるばかりか、前に見たどんなものとも似ていないことを強調している。

「絶対的に目新しい」のだ。(p249)

エドガー・アラン・ポーは、「大鴉」などの詩や、歴史上初の推理小説と言われる「モルグ街の殺人」などで有名です。総じて、独特の幻想的・猟奇的な世界観が特徴で、わたしは学生時代にポーに傾倒して全集を買って読んでいました。

ポーは、入眠時幻覚を「別世界」「絶対的に目新しい」と表現していますが、これは、冒頭のインタビューに登場した「もうひとつの世界に暮らす人の日記」という表現とよく似ていないでしょうか。

ポーは間違いなく幻想的でユニークな世界観を構築した作家で、シャルル・ボードレールなどその後の作家たちに多大なる影響を与えましたが、彼の描いた別世界は、じつは入眠時幻覚を通して垣間見た、「もうひとつの世界」の風景だったのです。

ポーにしてみれば、それは「見慣れないもの」「前に見たどんなものとも似ていない」「絶対的に目新しい」ものでした。つまり、自分が見た視覚イメージは、到底自分の心や記憶から出てきたとは思えないような「自我異和的」なものだったのです。

ポーは、この不思議な世界の幻視を記録できるよう、メモを用意して寝たそうです。

ポーは入眠時幻覚によって想像がたくましく豊かになると感じ、自分が見た異様なものをメモできるように幻覚を見ているあいだに突然身を起こして完全に目を覚まし、そのメモをたびたび自分の詩や短篇に織り込んだ。(p259)

彼にとっては、不思議で奇妙な創作作品は、ちょうど、「もうひとつの世界に暮らす人の日記」ならぬ「別世界を観察したメモ」のようなものだったのかもしれません。

不思議な視覚イメージをメモしたポーのエピソードはまた、同じように奇妙で不思議な夢の世界からインスピレーションを受けたシュルレアリスムの画家、サルバドール・ダリを思わせます。

「内なる声」の幻聴が、小説家だけでなく、アンリ・マティスのような画家やラマヌジャンのような数学者にまでインスピレーションを与えていたように、どこからともなく立ち現れる幻視もまた、詩人や画家など、幅広い作家たちにインスピレーションを与えてきました。

この入眠時幻覚はわたしもかなり頻繁に見るのですが、ポーが「絶対的に目新しい」と述べたように、ふだん起きているときに見るイメージとは、かなり質の違いがあります。それは例えば次のようなものです。

入眠時心象はおぼろげな場合や無色の場合もあるが、たいていは明るくてとても鮮やかな色がついている。

アルディスとマックラーは、1956年の論文に、被験者が「すさまじい日光を浴びているかのような強烈なスペクトルの色」と表現した例を引用している。

ほかの研究者と同様、彼らもこれをメスカリンによる色の誇張と比較した。

入眠時幻覚は光度も輪郭も異常に強くはっきりしていて、影やしわが誇張される場合がある。そのような誇張が、マンガのような人物や場面によく合っているときもある。

多くの人が入眠時幻影の「ありえない」鮮やかさや「顕微鏡で見ているような」細かさについて話す。(p248)

おおまかに言えば、その特徴は「ありえない鮮やかさ」「顕微鏡で見ているような細かさ」です。

これは、先ほど引用した、長時間目隠しをした人たちが見たシャルル・ボネ症候群の幻視とよく似ています。

たとえばある人は、「耐えられないほどまぶしい夕日と、ものすごく美しい輝く風景を見」て、「いままで見た何よりもはるかに美しいですね、絵が描けたらと心から思います」と話していました。

どちらの場合も、肉眼ではとらえられないような色合いや、細かさを特色としています。それは現実にあり得ないものなので、「絶対的に目新しい」「別世界」のもののように感じられ、インスピレーションを刺激するのです。

そうしたイメージが見えるのは、おそらくこのタイプの幻視が、ボトムアップのプロセスで生み出されるからでしょう。

通常、わたしたちが起きているときに見る世界は、目から入ってくる光のスペクトルによって描画されます。言い換えれば、光の波長に含まれていないような色やパターンは見ることができません。

しかし目隠しをしているときや、入眠時に見るイメージは、外からの光ではなく、内因性の刺激、脳の内側からのランダムな刺激によって描画されます。もし現実に存在しないようなパターンの信号が送られてくると、そうそうあり得ないような風景が見えることになるでしょう。

ラマチャンドランの脳のなかの天使によると、それと似たようなことが、共感覚で色を見る人に起こりえます。

共感覚者の中には、現実にはありえない色を見て、うまく表現できないと述べる人がいますが、それもやはり通常とは異なる経路で視覚野が活性化されているからです。

共感覚者のなかに、アルファベットの文字の色が、「たがいに重なりあった」複数の色からなっているので、標準的な色の分類にぴったりあてはまらないと表現する人たちがいる。

…視覚経路の結合に不具合があるために解釈ができず、奇妙な色に見えるのだろう。

虹のなかにない色、別次元の色を体験するのはどのような感じなのだろうか?(p168-169)

またオリヴァー・サックスは、見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中で、若い頃にアンフェタミンやLSDを調合したドラッグを体験し、現実にはない色を見たときの体験を告白しています。

すると、巨大な絵筆が投げつけられたかのように、純粋な藍色をした、巨大な洋ナシ型の震えるしみが現れた。

輝く崇高なそれは私を歓楽で満たした。それは天国の色であり、私が思うに、中世イタリアの偉大な芸術家ジョットが生涯をかけて出そうとしたが出せなかった色だ。

天国の色は地上では見ることができないから実現できなかったのだろう。(p133)

長時間目隠しをされたときの幻視、入眠時幻覚、共感覚、ドラッグ体験のいずれにも共通しているのは、あたかも「別次元」「別世界」「地上では見ることができない」ような風景が見えてしまうということです。

こうした幻覚はどれも、仔細に見ることはできず、じっくり観察しようとすると、指の隙間からこぼれ落ちる水のように、どこかにかき消えてしまい、つかみどころがありません。思い出して現実にスケッチしようとしてもやはり紙の上には表現できません。

けれども、明らかにこの世のものとは思えない「絶対的に目新しい」という印象ははっきり残るので、古今東西、芸術家たちのインスピレーションを刺激してやまないのでしょう。

デフォルトモードネットワークという「創造の窓」

創造的な作家たちがみな、みな、シャルル・ボネ症候群のような明らかな幻視や、豊かな入眠時幻覚を経験するわけではありません。

しかし、独創的な空想世界を作り出す作家たちの多くは、その一歩手前の状態を、おそらくかなり日常的に、頻繁に経験しているでしょう。

シャルル・ボネ症候群の幻視は、長時間目隠しをされていたときに生じ、入眠時幻覚は今まさに寝入ろうとしている覚醒と夢のはざまで生じます。これはつまり、起きている状態と寝ている状態の境界で起こりやすいという意味です。

わたしたちはだれでも、そんな状態に陥ることがあります。何も考えていなくて、ぼんやりと宙を見つめているような、注意散漫な状態です。

この注意散漫な状態は、最近はやりの「マインドフルネス」(充実した心)の対極にあるもので「マインドワンダリング」(さまよう心)と呼ばれます、

そのとき脳は、あたかもアイドリング状態のような、取り留めもなく気ままに遊んで、あちこちへとさまよっている状態にあります。

意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)によれば、専門家はこの脳の働きを、「デフォルトモードネットワーク」(DMN)と名付けました。

ところが、何もしていない脳へ流れる血液の量は作業中の脳の場合よりわずか5~10パーセント少ないだけで、作業中より作業中でないときのほうが脳内ではより広い領域が活性化していることがわかった。

安静時に活動する神経網は「デフォルトモードネットワーク」(DMN)として知られるようになる。

こう命名したのは、ミズーリ州セントルイスにあるワシントン大学の神経教授マーカス・レイクルで、2001年のことだった。

彼は私にこう書き送ってきた。「驚いたことに、それはまるで別個の生き物のようでした。良くも悪くもね」(p18)

わたしたちがデフォルトモードネットワークの状態になるのはどんなときでしょうか。

たとえば、休日にベッドの上でごろごろしているとき、湖畔のベンチに腰掛けながら、ぼーと雲を見つめているとき、自動的な習慣で散歩したり通勤したりしているときなどかもしれません。そうしたマインドワンダリングの状態では、しばしば思いがけないアイデアが降ってきます。

「よくバス(bus)、風呂(bath)、ベッド(bed)を『三つのB』と言いますが、科学の偉大な発見はこれらの場所で生まれたということですね」。

この物理学者は、ポアンカレが集合馬車の昇降段に足をかけた瞬間に思いついた数学の発見や、アルキメデスが風呂に入って「アルキメデスの原理」を思いつき「ユリーカ!」と叫んだという有名な逸話に言及しているのだろう。

ベッドについて考えると、夢はときおり創造的な瞬間につながるが、着想が生まれるのは眠れないときが多いように思う。

そんなときは心がさまようが、思いついたことを見逃さないほどには意識がある。(p193)

注意がさまよって脳がマインドワンダリングするのは、通勤したり、お風呂に入ったり、ベッドに寝たりする、リラックス状態や自動運転状態のときに多く、偉大な発見のアイデアはたいてい、カリカリ集中しているときではなくぼんやりしているときにもたらされてきました。

ドラえもんに出てくる のび太くんのような子どもが、つまらない授業中に、窓から空を眺めてぼんやりしているのも、マインドワンダリングです。そのとき、脳は自由に遊んで、注意があちらこちらへとさまよっているので、次から次に取り留めもなく連想が湧いてきます。

マインドワンダリング状態のときに雲を見上げていると、動物に見えたり、人の顔に見えたり、思いがけない連想がどんどん繋がるものです。

この現象は「パレイドリア」と呼ばれますが、以前の記事で扱ったように、じつはシャルル・ボネ症候群の幻視はパレイドリアの連想によって起こります。

つまり、これまで考えてきた無意識による「埋め合わせ」と、マインドワンダリングによる自由連想は同じもののことを言っています。

マインドワンダリング状態で起こる連想は、取り留めもなく移ろい変わっていくのが特徴で、それはちょうど、神経科学者マーカス・レイクルが、「驚いたことに、それはまるで別個の生き物のようでした。良くも悪くもね」と述べていたとおりです。

脳がデフォルトモードネットワーク状態でマインドワンダリングしているとき、次から次へとつながっていく連想は「別個の生き物」のように、それ独自の意志をもって移り変わっているように見えます。つまり「自我異和的」な連想なのです。

この自我異和的な連想はまた、見てしまう人びと:幻覚の脳科学によると、ひとつ前に取り上げた入眠時幻覚のときと共通しています。

入眠時心像に特有の急速で不随意の変形には、手紙をくれたアッター氏が言っているように、脳が「アイドリング」していることをうかがわせるものがある。

最近、神経科学者がよく話題にする脳の「デフォルト・ネットワーク」は独自の像を生成する。

思い切って「遊ぶ」という言葉を使って、視覚野がいろいろな変形で遊んでいる、目標も目的も意味もなく遊んでいる、と言ってもいいかもしれない。(p249)

入眠時幻覚は、自分でコントロールできるようなものではなく、デフォルトモードネットワークが「目標も目的も意味もなく遊んでいる」かのように、「急速で不随意の変形」を見せます。だからこそつかみどころがありません。

またすでに引用したように、長時間目隠しをしたときに見えたシャルル・ボネ症候群に似た幻視でも、自由に変化していく自我異和的な連想がみられました。

幻覚の自然な変化に言及している人もいる。一人の被験者の場合、チョウが夕日になり、それがカワウソに、そして最後に花に変わった。

被験者の誰も幻覚を自由意志でコントロールすることはできず、幻覚には独自の「心」または「意思」があるように思われた。

シャルル・ボネの幻視は自然に移ろい変わってどんどん変化していくので、まるで『独自の「心」または「意思」があるように』感じる、とても意外なものです。

それで、ここで取り上げてきた、シャルル・ボネ症候群の幻視、入眠時幻覚、ぼんやりしているときの連想は、どれも脳のデフォルトモードネットワークの働きという点で共通していると考えられます。

意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)によると、創造的な作家たちのイメージ能力は、デフォルトモードネットワークの働きによって成立しているとされています。

神経科学者のレックス・ユングらは、脳イメージングで得られた証拠を創造的認知の各指標についてつぶさに調べ上げ、創造性がマインドワンダリングのメカニズム、すなわちデフォルトモードネットワークにほぼ依存すると結論づけた。(p181)

創造的な作家たちは、文字通りの幻視ほどはっきりしたしたイメージを見るとは限りませんが、入眠時幻覚を頻繁に見たり、日中よくマインドワンダリング状態になったりして、それに近い自由連想を経験しやすい人たちなのです。

では、この状態にあるとき、右脳と左脳はそれぞれどんな活動をしているのでしょうか。

ある最近の研究では、アートやデザインを学ぶ学生たちが本の表紙のイラストを描くあいだ、彼らの脳活動をMRIスキャナーで観察した。

これらの学生は芸術的な素質があり、アートプロジェクトに参加しているが、彼らの思考が右脳に偏っているという証拠はなかった。

むしろ、活性化したのは実行機能に関連する前頭葉の領域と、マインドワンダリングを司るデフォルトモードネットワークの領域だった。脳のどちらかの半球が優位ということはなかった。(p180-181)

創造的な学生たちが、イラストを描いているとき、やはり脳はデフォルトモードネットワークの状態にありました。彼らの心は、移り変わる雲を眺めているときのように、自由な連想状態にあり、インスピレーションを得ようとしていました。

そのとき、脳の右半球と左半球は、どちらかが優位にある、という偏りはありませんでした。右脳も左脳も、等しく共同作業をしていたのです。

これは、はじめに書きたがる脳 言語と創造性の科学から引用した、創造的な人たちの脳の活動とよく似ています。

創造的な思考で相対的に右脳が活発化するのは、右脳が支配的だというより、両半球のバランスをとる必要があることを反映しているのかもしれない。(p97-98)

わたしたちはたいてい、普段は左脳優位ですが、創造的な活動をするときには「相対的に」右脳が活性化するので、結果として左脳と右脳がバランスよく共同作業している状態になる、とのことでした、

デフォルトモードネットワークの自由連想を頼りに創作している人たちは、まさにそんな状態にあります。

創造的な人の右脳と左脳の共同作業について考えると、わたしは餅つきをする人のコンビネーションのことが思い浮かびます。叩く人とこねる人がすばやく入れ替わり立ち代わり作業して餅をつきあげていきますが、創造的な作業も片方の脳だけではうまくいきません。

先に考えたとおり、わたしたちの脳は、本来はあたかも一つの頭蓋骨の中に複数の人が存在するようなものだと言われています。

大半の大人たちは、学校教育を終えるころには自己は一人だと錯覚するようになりますが、創造的な作家たちは、大人になっても自分の中に複数の人間がいるようだ、という感覚をもち続けます。

意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)によれば、この感覚、つまり、自分の中に「自我異和的」な内なる他者がいるように感じられる感覚には、デフォルトモードネットワークが大いに関わっています。

デフォルトモードネットワークは脳内に広く分布し、外界刺激の知覚やそれに対する反応とは直接かかわりのない領域をおもにふくむ。

脳は言わば小さな町のようなもので、そこでは人びとがそれぞれの仕事を抱え立ちはたらく。

フットボールのような大イベントがあると、人びとはフットボール場に集まり、町のほかの部分は静かになる。

なかには町の外からやって来る人もいて、人口が少し増える。

…何かに集中していないとき、心はぶらりと寄り道する。(p19)

わたしたちの脳は、本来、大勢の人が同居している小さな町のようなものなのです。

子どもがイマジナリーフレンドや内なる別世界を持つことからわかるように、「内なる他者」がたくさんいるように感じられるのは、脳そのものがもともとそうした作りになっているからです。

しかし、学校教育などを通して、ひとつのことに意識を集中させ、論理的に批判的に考えるよう脳を最適化していくと、脳のなかの同居人たちは、一度のひとつのことに駆り出され、総動員されるようになります。

学校教育は、先生の話に集中し、教科書やテストの問題を疑ったりしないよう脳を最適化していく「隠れたカリキュラム」があると言われていましたが、それはさまざまな考えを持つ内なる他者を抑制し、あたかも一人の人しかいないかのようにまとめ上げるということです。

引用した文中でフットボール大会のたとえが出てきますが、学校教育という大きなイベントが開催されると、頭の中にある町の住人たちは全員が一箇所に集まって、黙って話を聞くよう訓練されます。それぞれが別々に気ままに好きなことをするのは許されません。

おもしろいことに、先ほどの教養としての認知科学という本によると、子どもの行動には、特定の固定的なパターンがあるわけではなく、さまざまなゆらぎが見られるといいます。

しかし、教育を受けると、そのゆらぎのうち、ある行動が適切で、別の行動は適切でない、というフィードバックが与えられます。その結果、適切だとみなされた行動だけが残り、不適切とみなされた行動は減っていくという最適化が見られます。(p225)

これはちょうど、頭の中にいる複数の人物が、もともと自由気ままに振る舞っていたにもかかわらず、教育によって一箇所に駆り出され、あたかも一人の人しかいないようにまとめられていくことに例えられるでしょう。

他方、のび太くんのような子どもは、授業中でも意識がさまよって、脳の中にいる複数の同居人たちもまた、先生の話を聞かずに、それぞれが気ままに自分のやりたいことを考え続けます。

のび太くんの名前は、いわゆるのび太型ADHDという、不注意優勢型ADHDの代名詞になっていますが、のび太型ADHDの子がぼんやりと空想にふける様子は「デイ・ドリーマー」(昼間から夢を見る人)と呼ばれます。

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不注意優勢型ADHDの概念は、最近知られるようになった敏感な子どもHSPの概念とオーバラップしているようですが、HSPの子たちは、自己コントロール能力が優れているので きちんと授業に集中できることも多いようです。しかし、休み時間や気を抜いているときは、ぼんやりと空想にふけることがよくあります。

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こうした子どもたちは、もともとマインドワンダリング状態に陥りやすく、脳の中の町にいる複数の「内なる他者」が、それぞれ気ままに動きまわりやすいのでしょう。

創造的な作家というのは、遺伝的また環境的な要因のために、内なる複数の心を抱え持っている人たちではないか、という点は、過去に詳しく考察しました。

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無意識と関係している「内なる他者」が、意識的な自己とは別に、勝手にあちらこちらへと動き回り、気ままにワンダリング(放浪)していると、ときどき旅先からアイデアを持ち帰ってきてくれます。

「内なる他者」が、旅先から思いがけず持ち帰ってきてくれるおみやげには、聴覚的イメージもあれば、視覚的イメージもあります。

それこそが、創造的な作家がどこからともなく思いつくアイデアの正体であり、ぼんやりしているときに起こる自由連想がインスピレーションをもたらしてくれる理由なのです。

昨今、集中力を高めるマインドフルネスがもてはやされていて、ぼんやりと空想するマインドワンダリングはあまりよくないことのようにみなされていますが、それは時と場合によります。

第1章で紹介したジョナサン・スクーラーらによる実験をご記憶だろうか。

彼らは被験者が『戦争と平和』を読むあいだにどれほど頻繁に別のことを考えるか調べた。

そして創造性にかかわる指標で最高の成績を収めたのは、あれこれ夢想していた人だった。

重要な話の最中に窓の外をぼんやり眺めているのを教師や議長に見つかっても、創造の窓を開けていたと言えばいい。(p194)

学校の授業に集中できず窓の外をぼーっと眺めている のび太くんのような学生は、よく先生から怒られますが、ぼんやりとした空想は「創造の窓」であり、もしかすると将来の芸術的な才能につながるのかもしれません。

「もうひとつの世界に暮らす人の日記」

この記事では、雪舟えまさんのインタビューにあった「もうひとつの世界に暮らす人の日記」という言葉をきっかけにして、創造的な作家たちが感じるインスピレーションの源を探ってきました。

内容をまとめると次のようになります。

■創造的な作家たちは、自分の作品世界を自分が創ったとはあまり思わない。どこかにある別の世界に生きる人たちの暮らしを、ただ観察して書いているように感じる。

■古くから創造的な作家たちは、小説や詩、絵、さらには数学のアイデアに至るまで、インスピレーションはどこか別のところからもたらされると感じてきた。

■創造性には左脳と右脳の両方がバランスよく働くことが必要。左脳は意識的な自己、右脳の無意識は「内なる他者」と関係しているとされる。

■優れた詩人や視覚芸術家の多くが、「内なる声」のような自我異和的な聴覚イメージや、「内なる別の世界」のような自我異和的な視覚イメージをアイデアの源にしている。

■わたしたちは誰でも幻聴を体験しているが、それを自我異和的だと感じる人だけが「内なる声」に注目する。

■古代社会の人や、子どもにとっては「内なる声」が聞こえるのはごく普通のこと。学校教育の「隠れたカリキュラム」によって現代社会に脳が最適化されていくうちに「内なる声」は聞こえなくなっていく。

■わたしたちは誰でも、長時間目隠しされると幻視が見える。入眠時幻覚として見る人もいる。ぼんやりと空想しているときには、それに近い現象が起こる。

■脳がデフォルトモードネットワークの状態にあるとき、自由な連想が刺激され、どこからともなく「内なる声」が聞こえたり、ふと別世界を覗き込むかのような視覚的連想が沸き起こったりして、創造的なアイデアをもたらしてくれる。

昔から、創造的な作家たちは、誰も思いつかないような独創的な世界を思い描き、人びとを魅了してきました。

たとえば子どものころ、J・K・ローリングのハリーポッターシリーズや、J・R・R・トールキンの指輪物語、ジュール・ヴェルヌの海底2万マイルなどに描かれた、別世界の風景に心を奪われた人は数知れないでしょう。

こうした独創的な世界観は、創造性にあふれた作家が、綿密に構成して作り上げた箱庭であるかのように思われがちです。独創的な作家たちは別世界を創造したクリエーター(創造者)であるかのように尊敬されます。

しかし、彼らにしてみれば、それはちょっと実感とは異なるのかもしれません。この記事で考えたように、もしかすると、創造的な作家たちは、ファンタジー世界の「作者」ではなく「住人」なのではないでしょうか。

彼らは、たぐいまれな想像力を持っていたわけではなく、たまたま現実と別世界とをつなぐ、「創造の窓」を見つけただけなのです。自分にしか見えない「創造の窓」を見つけた作家たちは、そこから見える別世界の景色をつぶさに観察し、それを世に送り出してきたにすぎません。

あるいは、彼ら自身が物語に書いているように、異世界につながる窓をくぐって、その世界のただ中で、ありとあらゆる不思議なことを経験し、空想上の友人(イマジナリーフレンド)たちに囲まれて暮らしてきたのかもしれません。

そして「もうひとつの世界に暮らす人の日記」のように、不思議な異世界の見聞録を世に送り出してきたのかもしれません。

作家たちにとって、彼らの作品世界は想像力の産物でも虚構でもなく、じつは自分が体験してきた迫真のドキュメンタリーであり、そこにちょっと作家ならではの味付けを加えて魅力的に料理しているのではないでしょうか。

今も昔も、創造的な作家たちの作品がこれほどまでに人びとの心をとらえて離さないのは、それが実はノンフィクションで、作家自身のリアルな体験に基づいているからではないか。

脳科学からの分析は、そんなファンタジックな結論に至らせてくれます。

少年は空想の友だちに支えられて絶望を乗り越え、作家オリヴァー・サックスになった

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「大人になる」というのは、子どもの繊細で神秘的な感覚、ワーズワースの言った「輝きと鮮やかさ」を忘れ、それらが次第に日常のなかに埋もれていくことなのだろうか? (p447)

どものころだけに味わう、「繊細で神秘的な感覚」「輝きと鮮やかさ」。そんな不思議な思い出がありますか?

子どもは大人とは見える世界が異なっているとよく言われます。大人にとっては何の変哲もない建物が、子どもの目には見上げるほどにそびえ立つ魔法の王国に見えるかもしれません。

子どものころ瞳に映り込んだ、摩訶不思議で色鮮やかな景色や、町のあちこちに見えていた別世界への扉を覚えていますか。夢の中でふと、あのころの空想の友だちと再会し、懐かしい声を聞くことがありますか。

もしも、そんな不思議な感覚の残り香を、いまだ思い出せる人がいるなら、きっと今回紹介する本タングステンおじさん:化学と過ごした私の少年時代 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)は興味深いものに違いありません。

この本は、2015年に亡くなった脳神経科医オリヴァー・サックスが、自身の少年時代を回想した自伝です。

このブログを読んでくださっている人なら、わたしが至るところでサックスの本から引用しているのをご存じかもしれません。サックスの著書はいつも、わたしを脳の不思議な旅路にいざなってくれますが、この本は意外なことに、「化学」についての本です。

サックスは少年時代、専門家顔負けの化学少年で、自宅に実験室を構えて本格的な実験に夢中になっていました。化学というと、学校の授業で習った難しい化学式を思い出して頭が痛くなる人もいるかもしれませんが、不思議なことに、この本はちょっと違います。

化学の教科書に勝るとも劣らないほど本格的に化学の世界に踏み込んでいながら、どこかノスタルジックで、子どものときにだけ味わえる「繊細で神秘的な感覚」に満ち満ちています。

それもそのはず、この本は化学をテーマとしていながら、同時に、子どものときにだけ訪れる不思議な空想世界と、そこで出会った友だちとの思い出をつづった、異色の自伝でもあるからです。

これはどんな本?

 タングステンおじさん:化学と過ごした私の少年時代 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)はオリヴァー・サックスが65歳ごろに書いた一冊目の自伝です。

以前にブログで感想を書いた 道程:オリヴァー・サックス自伝は、サックスが晩年に書いた二冊目の自伝で主に成人後のできごとを扱っていますが、こちらは幼少期から少年時代の体験がまとめられています。

独特すぎる個性で苦労してきた人の励みになる脳神経科医オリヴァー・サックスの物語
書くことを愛し、独創的で、友を大切にして、患者の心に寄り添う感受性を持った人。2015年に82歳で亡くなった脳神経科医のオリヴァー・サックスの意外な素顔を、「道程 オリヴァー・サッ

ことの起こりは、60代になったサックスのもとに、古い友人から思いがけない小包が届いたことでした。その中には小さな金属棒が入っていて、床に落ちたはずみに、独特の音が響き渡ります。サックスはすぐに少年時代に親しんだタングステンの音だと気づきました。

それをきっかけに、有名なマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」のように、すっかり忘れていた少年時代の記憶が次々とよみがえってきて、最終的に一冊の本にまで膨らんだのだといいます。

私は、タングステンおじさんについてちょっとした短篇が書けそうだと思った。

ところが、思い出は次々にわいてきて、タングステンおじさんだけでなく、少年時代のいろいろな出来事が記憶によみがえった。多くは、50年以上ものあいだ忘れていたものだ。

初めに1ページだけ書きつけた思い出は、4年がかりの大規模な発掘作業を経て、ついには200万語以上にまでふくれ上がった。

そこからどうにか一冊の本が結晶化していったのである。(p450)

サックスは、ただ思い出した記憶を書き留めるだけでなく、化学者たちのもとへ、はたまた鉱山にまで出向き、子どものころ夢中になった分光器や結晶や鉱物を買い集め、すっかり埋もれて風化していた記憶を「発掘」したのだそうです。

サックスがそこまで夢中になって過去の記憶を発掘したのは、その思い出が単なる少年時代の日常ではなく、もっと大切でかけがえのない出会いに関わるものだったからでしょう。

この記事でおいおい見ていきますが、サックスが発掘していたのは、実際には子どものときにしか見えなかったはずの別世界へと続く扉、そしてその中に広がっていた魔法の国の思い出だったのです。

「サックス家の血筋」

オリヴァー・サックスの少年時代の不思議な物語を見る前に、まず、彼の生い立ちを簡単に辿っておきましょう。

オリヴァー・サックスは、第2次世界大戦前の1933年、四人きょうだいの末っ子として、ロンドンで生まれました。

のちに「レナードの朝 」や「火星の人類学者」を著してユニークな作家として名を馳せるオリヴァーは、ごく幼いころから身の回りのものに興味津々で、次から次へと疑問が際限なく湧き上がってきて、両親を質問攻めにして困らせるほどの子どもだったそうです。(p13-15)

そんなオリヴァーに対して、「母はせっかちに答えたり理由もなしに解答を押しつけたりはめったにせず、きちんと考え抜かれた答えで私をとりこにした」とサックスは述べています。(p19)

サックスは自伝の中で、両親やその家系について語っていますが、彼のユニークさは一族に代々受け継がれた血のなせる業だったことがよくわかります。

突然ピンときたり何かの考えや感情にとらわれたりするわけで、それを私は「サックス家の血筋」によるものだと思うようになった。

一方でランダウ家には、物事をもっと順序立てて分析的に考える癖があった。(p144)

まず、父方の「サックス家の血筋」は、「突然ピンときたり何かの考えや感情にとらわれたりする」傾向がありました。直感力が鋭く、人の気持ちに敏感でこまやかな配慮ができる家系だったようです。

サックスの父は人々を深く気にかける思いやりに富んだ医師でした。

父は往診が大好きだった。というのも、往診は社交的要素の強い医療で、家や家庭に入って患者とその環境について知り、病気を総合的な視点でとらえることができたからだ。

医療とは、父にとって、病気を診断するだけのものではなかった。患者の生活や、患者ひとりひとりの性格・感情・反応とからめて判断し、理解すべきものだったのだ。

父は何十人もの患者とその住所をタイプしたリストを持っていて、車の助手席に座っている私に、それぞれの患者がどんな病状なのか、思いやりに満ちた言葉で語って聞かせた。(p138)

サックスは、その著書の数々からありありと読み取れるとおり、どんな病気の患者にも、また、どんなマイノリティな人たちにも感情移入を欠かさなかった思いやりのある医師でしたが、きっと父親の生きた手本から学んだのでしょう。(p142)

正統派ユダヤ教徒であったサックスの父は、聖書の注釈本や詩人たちの本をもっぱら愛読していて、「人間やその行動、神話や社会、言語や宗教が、父の関心のすべてだった」とサックスは振り返っています。(p341)

おそらくサックスの父方の家系は、繊細で感受性が強く、感情を読み取ったり、共感したりするのが得意なHSPの家系だったのでしょう。

生まれつき敏感な子ども「HSP」とは? 繊細で疲れやすく創造性豊かな人たち
エレイン・N・アーロン博士が提唱した生まれつき「人一倍敏感な人」(HSP)の四つの特徴について説明しています。アスペルガー症候群やADHDと何が違うか、また慢性疲労症候群などの体調

けれども、オリヴァー・サックスは、父親に似ていると同時に異なる部分もありました。サックスは「物事をもっと順序立てて分析的に考える」、母方のランダウ家の長所も受け継いでいました。

オリヴァーの両親は二人とも医師をなりわいとしていましたが、父と母は、興味や関心の方向性は大きく異なっていたようです。

両親は、どちらも患者の苦しみをよく理解していたが(わが子の苦しみ以上にわかっていたのではないかと思えることもあったぐらいだ)、ふたりの方向性や視点は根本的に異なっていた。(341)

「人間やその行動」に関心のすべてが向いていた父と異なり、サックスの母は真逆で、人体の構造や生化学が大好きでした。

幼いオリヴァーの質問に辛抱強くつきあっただけでなく、ダイヤモンドや金属について教えてくれたり、身体の構造をスケッチしてくれたりもしました。ときにやりすぎて周りが見えなくなり、人体解剖の様子を熱く語るような母親でもありました。

ひどく内気で、人が大勢いる場所が苦手でしたが、親しい人たちだけの場ではうって変わって社交的になるという一面もありました。

母はひどく内気な女性で、社交の場が苦手だったから、無理に引きずり出されても黙りこくったりひとりで物思いにふけったりしていた。

ところが、母には別のいち面もあった。自分の教え子たちと気楽にしていられるときには、あけっぴろげで、元気にあふれ、演技の派手な役者になったのだ。(p339)

サックスによれば、母のこの多面性は、人の顔が見分けられない相貌失認によるもので、サックス自身も同じ特徴を受け継いで苦労していました。わたしもまた相貌失認なのでサックスとその母の気持ちがよくわかります。

人の顔が覚えられない「相貌失認」の4人の有名人とその対処方法―記憶力のせいではない
人の顔が覚えられない、何度会っても見分けられない。それは10人に1人が抱える相貌失認(失顔症)かもしれません。ルイス・キャロル、ソロモン・シェレシェフスキー、オリヴァー・サックスな

サックスの母の個性的な性格は、母方の家系のランダウ家の特徴だったようです。

特に祖父のマーカス・ランダウは、食料雑貨店を営むかたわら、ヘブライ語の学者、神秘主義者、数学者、発明家でもあり、新聞を発行していて、あのライト兄弟とも親しい間柄でした。(p18)

9人の息子と9人の娘がおり、子どもたちは数学、自然科学、人間科学、教育学などさまざまな分野に関心を持ち、その末っ子がサックスの母だったそうです。

みながみな、興味関心の幅が広く、多彩な才能を持っていて、「一族みんなのなかにあの祖父の血が流れている、と私には思えてならなかった」とサックスは述べています。(p20)

おそらくサックスの母方の家系は、新奇追求性を特色とするADHDやHNS(刺激を追求する人)の血を継いでいたのでしょう。父方と母方の相異なる性質は、どちらもサックスに受け継がれ、ユニークな内面の成長に一役買っていたようです。

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創造的な人は「複雑な人格」を持っている、という心理学者チクセントミハイの分析を手がかりにして、感受性の強さHSPや、自己が複数に別れる解離が、創造性とどう関係しているのかを考察しま

けれども、オリヴァー・サックスが、単なる学者や発明家ではなく、独創的な作家になったのは、遺伝的な才能だけによるのではないでしょう。そこにはサックスが子ども時代に経験することになった、数奇な生い立ちが関係していました。

「現実と空想の境目もよくわからなくなっていた」

サックスが生まれたのは、不幸にもあの第2次世界大戦の直前でした。医師だったサックスの両親は、何週間も家を空けざるを得ないことがありました。その結果、幼いオリヴァーはとても寂しい思いをすることになりました。

六週間経ってふたりが戻ってきたとき、私は前回のように母のもとへ駆け寄ったり抱きついたりはせず、見知らぬ人に対するみたいに、そっけなく出迎えた。

母はショックと戸惑いを感じながら、私とのあいだにできた溝をどう埋めたらいいのかわからずにいたと思う。(p146)

幼い子どもは、母親とともに過ごすことで、安定した愛着の絆を結びます。けれども、どれほど恵まれた家庭であっても、予期し得ない事情のせいで、子どもの愛着が損なわれてしまうことがあります。

サックスの場合、幼少茎に戦争に備えて両親が仕事に追われたことで、母親に対してよそよそしい態度を示すようになってしまいました。これは回避型と呼ばれる不安定な愛着タイプを抱えた子どもに見られる典型的なパターンです。

きっと乗り越えられる「回避型愛着スタイル」― 絆が希薄で人生に冷めている人たち
現代社会の人々に増えている「回避型愛着スタイル」とは何でしょうか。どんな特徴があるのでしょうか。どうやって克服するのでしょうか。岡田尊司先生の新刊、「回避性愛着障害 絆が稀薄な人た

やがて1939年、幼いオリヴァーがまだ6歳のころ、戦争が始まり、ロンドンは激しい空爆にさらされることになります。政府は子どもを安全な場所に避難させるよう命じ、オリヴァーはブレイフィールドへと疎開させられます。

けれども、オリヴァーが疎開した先の学校は安全とは程遠い場所でした。暴力的な校長が支配する無法地帯で、体罰やいじめが当たり前のようにはびこっていました。サックスはそのときの気持ちをこう記しています。

さらに、多くの子どもが家族に見捨てられたという思いを抱いたことが、悲惨な学校生活に輪をかけた。

何かわからないけれども悪いことをした罰として、こんな恐ろしい場所に放り込まれてしまったと思ったのである。(p35)

それでも私を支配していたのは、ブレイフィールドに閉じ込められ、希望もよすがもないという思いだった。

多くの子どもたちにとって、そこでの生活はつらいものだったと思う。(p37)

たとえ、親にとっては、やむをえない事情のある苦渋の決断だったとしても、子どもにはそれがわかりません。

たとえ良い意図があったとしても、幼い子どもにはそれが理解できず、ただ理不尽に辛い目に遭わされたとしか思えません。

子どもは、そうなったのは自分が何か悪いことをして罰を受け、家族から見捨てられたせいではないか、と思うようにもなります。

たとえ親が良かれと思って「しつけ」のために与える体罰や、怪我や病気のために仕方なく受けさせられた入院や手術でも、長きにわたるトラウマを残しうることがわかっています。

だれも知らなかった「いやされない傷 児童虐待と傷ついていく脳」(2011年新版)
子どもの虐待は、近年注目を浴びるようになって来ました。しかし、虐待が脳という“器質”にいやされない傷を残すことを知っている人はどれだけいるでしょうか。友田明美先生の著書「いやされな

突然家族から引き離され、過酷な強制収容所のような学校に疎開させられたサックスの場合もそうでした。その経験は、もともと不安定になりかけていた親との愛着に消えない爪痕を残しました。

突然両親に見捨てられて(私にはそう思えた)、彼らへの信頼や愛が激しく揺らぎ、そのせいで神を信じる心までも損なわれてしまったからだ。

神が存在する証拠なんてどこにあるんだ?―そう自問しつづけた。(p42)

サックスは、敬虔なユダヤ教徒の家庭に育ちましたが、過酷な体験のせいで、両親も神も信じられなくなりました。

子どもが育む愛情深い親のイメージは愛着理論において「安全基地」と呼ばれます。神への信仰もまた、一種の「安全基地」です。

「安全基地」とは、どんなことがあっても見捨てず共にいてくれる存在のイメージです。どれほど自分が不安定な状況に置かれようと、あくまでも信頼できる相手、世界のすべてが敵にまわろうが、唯一自分の見方をしてくれるような拠りどころを意味しています。

愛情深い親のイメージがしっかり培われた子どもは、一人でいるときにも、心の中に帰るべき港のような温かいイメージがあるので、安心して落ち着いていられます。神の存在が安全基地になっている人もやはり、苦しい目に遭ったとき、そのイメージに支えられます。

「共依存」の悪友、「安全基地」の親友、あなたの友情はどちらですか
友情関係には「共依存」として互いに足を引っ張り合う悪友と、「安全基地」として互いの成長を助ける親友の二種類があります。どうすれば本当の友情を育めるかを、いくつかの本を参考に考えまし

けれども、サックスは、過酷な疎開体験のせいで、安全基地として拠りどころになるはずの親のイメージも神のイメージも打ち砕かれてしまいました。

辛いときに支えとなってくれる、愛情深い安全基地のイメージを失ってしまったサックスは、代わりに自分の想像力を使って、苦しみをやり過ごすようになります。

お仕置きとひもじさといじめが続くうちに、それでも学校に居させられた私たちはますます極端な心理的救済策へと追い立てられていった。

自分を一番いじめる相手を、人と思わなかったり、実在しないと考えたりするようになったのだ。

ときどき私は、ぶたれながら、校長を手足の動く骸骨だと想像した。(p42)

サックスは、あまりに過酷な環境を生き延びるために、自分の想像力をフル活用するようになります。自分をいじめたり、虐待したりする相手をイメージの力で書き換えてしまい、現実の苦痛を和らげようとしました。

やがて、ブレイフィールドの悪夢のような学校が閉鎖されることになり、サックスはセント・ローレンスへ移ります。彼はその時期についてこう語ります。

そこで過ごした時期の記憶は、不思議なことにわずかしかない。

どうやら抑圧で封じ込められるか忘れるかしてしまったようで、最近、私をよく知り、ブレイフィールドにいた時期について詳しく知っている人に話したところ、相手はびっくりして私の口からセント・ローレンスのことなど初めて聞いたと言った。

じっさい、私が覚えていることといえば、その地にいて即興でこしらえた嘘かジョークか空想・妄想のたぐい―どう呼ぶべきかわからないが―ばかりだ。(p48)

不思議なことに、サックスは、セント・ローレンスで過ごした時期のことをほとんど覚えていませんでした。

サックスは「抑圧で封じ込められるか忘れるかしてしまったよう」だと書いていますが、このブログで馴染み深い言葉を使えば、解離が起こっていたようです。

サックスはその時期についてさらに詳しくこう書いています。

このころの私を思い返すと、心のなかが白昼夢や作り話でいっぱいで、ときどき現実と空想の境目もよくわからなくなっていた気がする。

どうやら、不条理でもいいから魅力的な自分をこしらえようとしていたようだ。

だれも気にかけてくれない、だれも自分のことを知らないという私の孤独感は、ブレイフィールドにいたときよりセント・ローレンスのときのほうがはるかに大きかったのではなかろうか。

ブレイフィールドでは、校長が向けるサディスティックな視線さえ、なんらかの関心に―愛情とまで―思えることがあった。(p49)

サックスはそのころ、現実と空想の境目があいまいになっていました。心の中が白昼夢や作り話でいっぱいで、空想のなかに生きていました。こうした「空想癖と虚言癖」は、強い解離傾向を抱えた人に多い特徴です。

宮沢賢治の創造性の源? 「解離性障害―『うしろに誰かいる』の精神病理」
「後ろに誰かいる」「現実感がない」「いつも空想している」。こうした心の働きは「解離」と呼ばれています。『解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 』という本にもとづいて、解離と創

それにしても、どうしてサックスは、あのプレイフィールドの悪夢のよう学校生活よりも、そこから解放された後のセント・ローレンスで過ごした時期に、より強い解離症状に陥ったのでしょうか。

サックスはその理由を推測して、セント・ローレンスにいるときのほうが、「だれも気にかけてくれない、だれも自分のことを知らないという私の孤独感」が強かったからではないか、と述べていました。

ブレイフィールドで虐待的な校長にサディスティックな関心を向けられていた時期のほうが、セント・ローレンスで何の関心も向けられず忘れ去られていた時期よりもまだましだった、とさえ述べています。

奇妙に思えるかもしれませんが、これは解離ではよくあることです。

たとえば、ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)の中で、精神分析学者のジェームズ・ギリガンは、極度の解離傾向のために感情を感じられなくなったある犯罪者についてこう言っていました。

ある囚人がギリガンにこう言ったという。

「誰かに銃口を向けると、その相手から尊敬されているように感じるんだ。信じてはもらえないだろうが」。

子供の頃から、侮辱され、軽蔑されることしか経験してこなかった人間にとっては、このような酷い形であれ、わずかな間でも尊敬されるのは価値があることんのだ。

その価値に比べれば、刑務所に入るかもしれない、自分の命が失われるかもしれない、という危険など、大したことではない。(p425)

子どものころから、存在を認められず、まったく尊重されてこなかった人にとっては、だれかに銃口を向けて偽りの関心を向けられるだけでも、存在を認められないよりはるかにましなのです。

また身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアには、ナチス・ドイツの強制収容所のサバイバーをモチーフにした映画の、こんなエピソードが紹介されていました。

重篤で遷延的(慢性的)なトラウマのサバイバーたちは、自らの人生を「行ける屍」のようだと述べる。

…1965年の感動的な映画『The Pawnbroker(邦題:質屋)』の中で、ロッド・スタイガーはソル・ナザーマンという失感情状態のユダヤ人ホロコーストのサバイバーを演じている。

ナザーマンは、自分が抱く偏見をよそに、身を粉にして働く黒人の少年に愛情を育んでいく。

最後のシーンでその少年が殺されると、ソルはメモを留める釘で自分の手を刺すのだった。

何か、とにかく何かを感じたいがために、である。(p83)

極度の解離状態に陥って、感情も何も感じなくなって麻痺してしまった人にとっては、何も感じない空虚の状態より、釘で手を刺した痛みのある状態のほうがまだましなのです。

こうした例が物語るのは、人が最も耐え難いのは、何もない、何も感じられない空虚な状態だということです。何もない状態に耐えるよりは、苦痛のある状態のほうがまだ耐えやすいのです。たとえそれが、痛みや敵意や虐待であったとしても。

ひどく虐待されていたブレイフィールドの学校生活より、だれからも気にかけてもらえないセント・ローレンスでの生活のほうがはるかに辛かったというサックスの言葉は、当時いかに極限まで追い詰められていたかをはっきり示しています。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、社会的支援にとって最も大事なのは、関心を向けられているかどうかだと書かれていました。

肝心なのは「相互作用」であり、身の周りの人々に、本当に聞いてもらえている、目を向けてもらえていること、誰かの頭や心の中に自分がしっかり位置を占めていると感じられることだ。(p132)

サックスは、「だれも気にかけてくれない、だれも自分のことを知らない」と感じていて、社会的な世話を実感できないネグレクト状態にありました。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際によれば、一般に信じられていることとは裏腹に、ネグレクト、つまり世話されず無視される環境は、「虐待だけの場合よりさらに否定的影響をも」つと書かれていました。(p78)

身体的また精神的な暴力を伴う虐待は、よく知られたパニックや強い不安を伴うPTSDの深刻な症状につながります

けれども、まったく関心も向けられず、見放され、ほったらかしにされ、無視され続けるネグレクトのほうは、暴力によるPTSDとは真逆の深刻な症状を引き起こします。

それが解離であり、人は尊厳をまったく認められず、愛情も関心も注がれないとき、あたかも生きているのか死んでいるのかわからない抜け殻のようになり、自分の感情も、身体も感じられず、存在自体が空虚になってしまうのです。

PTSDと解離の11の違い―実は脳科学的には正反対のトラウマ反応だった
脳科学的には正反対の反応とされるPTSDと解離。両者の違いと共通点を「愛着」という観点から考え、ADHDや境界性パーソナリティ障害とも密接に関連する解離やPTSDの正体を明らかにし
なぜ耐えがたい恥は人を生ける屍にしてしまうのか―「公開羞恥刑」と解離の深いつながり
公衆の面前で恥をかかせるという刑罰「公開羞恥刑」。現代のいじめやSNSの炎上、子ども虐待などが、いかに公開羞恥刑のようにして人を辱め、その結果、被害者の心を殺害し、解離させてしまう

サックスは、疎開から帰ってきたあと、性格が別人のように変わってしまった、と友だちから指摘されたそうです。

私には、戦前から自分のことを知っていたエリック・コーンという友だちがいた。

…そのコーンが、私の変化に気づいた。

戦争の前は、喧嘩っ早いごく不通の少年で、堂々とした態度ではっきり物を言っていたのに、今ではびくびくして喧嘩もしなければ話しかけもせず、引きこもって人と距離を置いているみたいだ、と。(p84)

こうした強い対人過敏は、解離傾向を抱えた人の特徴でもあります。

他人が怖い,信頼できない,人といると疲れるなどの理由―解離と対人過敏
人が怖い、だれにも気持ちを打ち明けられない、だれも信じられない…そう感じるのは、子どものころの「安心できる居場所の喪失」が影響しているのかもしれまらせん。「解離の構造」ほか7冊の本

また、自分でも理解しがたい奇妙な問題行動を起こして周囲を困らせてしまうようになり、それは疎開体験のトラウマによるものだったのだろうと推測しています。

当時はまだ「行動化」(抑圧された葛藤が行動として表にあらわれること)という用語が生まれていなかったが、その概念は、私の学校から1マイル離れていない場所にあったアンナ・フロイト(精神分析で有名なジグムント・フロイトの末娘で、児童精神分析の創始者)のハムステッド・クリニックでたびたび話題にのぼっていた。

アンナは自分の診療所で、疎開によりトラウマを負った子どもが見せるさまざまな神経症的態度や非行を目にしていたのだ。(p87)

こうした子ども時代のトラウマが引き起こす多彩な症状は、サックスがこの本を書いた後になって、トラウマの専門家ヴァン・デア・コークによって、「発達性トラウマ障害」として体系化されました。

身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

サックスは、その後の人生で、スリルを求めて危険なスポーツで命を落としかけたり、薬物中毒で死にかけたりしていますが、それは何も感じられない苦しみのために、自分の手に釘を指してまで何かを感じようとしたサバイバーと同じものだったのでしょう。

特に「人から愛されていないという思い込み」には生涯悩まされたことを、もう一つの自伝で吐露しています

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち
だれも心から信じられない、傷つくのが怖い、安心できる居場所がない。そうした苦悩の根底にある「基本的信頼感」の欠如とは何か、どう対処できるのか、という点を「母という病」という本を参考

けれども、わたしたちがよく知る作家オリヴァー・サックスは、決してトラウマに翻弄されて不幸な人生を送った人ではありません。サックスはやがて、弱い立場にある人たちへの思いやりに富んだ、こまやかな感性を持つ医師になりました。

彼はどのようにして、幼少期の辛い経験を生き延び、乗り越えていったのでしょうか。

「100万年置いといても、今とまったく同じ」

サックスにとって救いだったのは、疎開から戻ってきたとき、親族の中に信頼できる相談相手が何人もいたことです。

私には、書庫や図書館の代わりになるおじやおばやいとこが大勢いた。しかも、問題に応じて違う相談相手がいた。(p318)

その中でも、少年時代のサックスにひときわ強い影響を与えたのは、この本のタイトルにもなっている「タングステンおじさん」ことデイヴおじさんでした。

デイヴおじさんはタングステンのフィラメントで電球を作る仕事をしていて、30年以上もタングステンにまみれて働き、さまざまな種類の金属、とりわけタングステンをこよなく愛し、それがどれほど素晴らしいものかを熱烈に語ってくれる人でした。(p15)

疎開先から戻ってきた当時のサックスは、まだ悪夢のような日々のトラウマを引きずっていて、いつなんどき人生が崩壊してもおかしくないという言葉にならない不安におびえていたそうです。

ロンドンへ戻り、おじたちの「見習い」をしている(ときどき自分でそう思っていた)うちに、ブレイフィールドで味わった恐怖の多くは悪い夢のように去ったが、不合理な恐怖の残渣はなお胸にこびりついていた。

何か特別にひどいことが自分に運命づけられていて、いつなんどきその運命が降りかかるかわからないという不安感があったのだ。(p337)

タングステンおじさんが、水銀が他の金属を一瞬で錆びさせ、ボロボロにしてしまう様子を見せてくれたときには、「夢で見た何かの崩壊のシーン」を思い出して怖くなりました。(p60)

そんなサックスにタングステンおじさんはこう言います。

「心配ない」とおじは答えた。

「うちで使っている金属ならへっちゃらだ。このタングステンのバーを水銀のなかに浸けたって何も変わらない。

そのまま100万年置いといても、今とまったく同じできらきら輝いているだろう」

この不安定な世界にあって、少なくともタングステンは安定なものだったのである。(p60)

タングステンの安定した性質は、不安定な戦禍の時代に翻弄され、不安にさいなまれていた少年時代のサックスにとって、何より信頼できる安定したものに思えました。

タングステンおじさんは、ただの工場主ではなく、「理論と実践を兼ね備えた人」で、化学の実験や歴史についての知識が豊富で、サックスにありとあらゆる金属の興味深いエピソードを聞かせてくれました。(p72)

タングステンはその別名を「ウルフラム」といい、元素記号がWだと知ったときには、とりわけ自分を投影して親近感を抱けました。なぜなら、彼のフルネームはオリヴァー・「ウルフ」・サックスだったからです。(p62)

こうして、疎開体験によって愛着の土台を失った少年オリヴァー・サックスは、とても意外なところに「安全基地」を見いだしました。

「安全基地」とは、一人でいるときにも感情的な支えとなってくれる親の温かなイメージでした。信仰心の篤い人の場合は、神が「安全基地」のイメージとなることもありました。

サックスは、戦争体験を通して、「人から愛されていないという思い込み」につきまとわれるようになりましたが、その心の穴を埋め、安全基地の位置にぴったり収まったのは、決して崩壊しない安定した金属タングステン、そして決して裏切ることのない化学の世界だったのです。

化学に惚れ込んだサックスは、タングステンおじさんの手ほどきを受けて、家の一室、使われていない洗濯部屋に、自分だけの実験室を設けます。さまざまな実験器具をそろえ、ありとあらゆる薬品までも取りそろえた、本格的な実験室です。

戦争体験のトラウマのせいで、ひどく内気で臆病になっていましたが、化学の世界に避難しているときだけは、もともとの性格、何にでも好奇心を持ち、積極的に知ろうとするあの幼いオリヴァーに戻ることができました。

私は学校では内気なたちで(通知表に「自信不足」と書かれたこともある)、とくにブレイフィールドでひどい臆病さを身につけてしまっていた。

ところが、自然の驚異を目にするとがらりと変わった。

焼夷弾の破片、角柱が並んでまるでアステカの遺跡のように見えるビスマスのかけら、腕が下がりそうなほど重くてびっくりするクレリチ液の小びん、手のなかで融解するガリウム(その後、鋳型を作ってガリウムのティースプーンを作ってみたが、それで紅茶をかきまぜると縮こまって溶けてしまった)。

そういうものに出くわすと、すっかり自信を取り戻してだれにでも気軽に話しかけ、一切の不安を忘れてしまった。(p98-99)

化学に夢中になったサックスは、おじさんに教えてもらった各元素の原子量を丸暗記して、「化学の乗車券」のコレクターにもなりました。ロンドンのバスの切符に書かれた、アルファベットと数字を元素記号に見立ててコレクションしたそうです。(p112)

サックスが化学実験に夢中になりはじめたころ、家庭内で痛ましい出来事も起こりました。自分と同じように少年時代に過酷な体験をした兄のマイケルが、統合失調症を発症してしまったのです。

私が家のなかに実験室を設けたのはこのころだった。

そこに入り、ドアを閉め、耳をふさいでマイケルの狂気から逃れようとしたのである。

私は、鉱物学や化学や物理学の世界に没頭しようとした(それはうまくいくこともあった)。科学に集中することで、混乱を目の前にして自分がめちゃめちゃになってしまわないようにしたのだ。

マイケルに無関心になったわけではない。心底かわいそうに思い、彼の味わっている思いがうすうすわかっていたのだが、それと距離を置いて自然界の中立性や美しさを手本に自分自身の世界をつくり、マイケルの世界の混乱や狂気や誘惑に流されないようにしないといけなかったのである。(p269)

まさに、サックスにとって、化学の世界は精神的な拠りどころ、「安全基地」そのものでした。親も、家庭さえも、移ろいやすく不安定に思えたこの世界の中で、化学だけは激流の真ん中に立つ岩のように不動の存在でした。

ところで、まだ10歳前後の少年が、本格的な実験室を持ち、化学に傾倒するなんて、今のわたしたちからすると、あまりに突飛に感じられるかもしれません。

少年オリヴァーがユニークな子どもだったことは確かですが、当時と今とでは、まったく時代背景が異なる、ということも考えに入れると、それほど意外な話ではないとわかります。

たとえば、当時はまだ化学物質の取り扱い制限が厳しくなく、だれでも近くの薬局でシアン化カリウム(青酸カリ)をはじめとする劇薬も買えたそうです。(p125)

娯楽は限られていて、テレビもゲームもスマートフォンもありませんでした。代わりに、日進月歩の化学は人々を魅了し、生活に深く溶け込んでいました。男性も女性も、大人も子どもも化学に親しんでいました。

店には化学を利用したおもしろいおもちゃが並んでいて、ステレオスコープ(のぞくと絵が立体に見える p208)や、ゾーイトロープ・ソーマトロープ(回転させると絵がアニメーションに見える p214)、スピンサリスコープ(ラジウムの光が見える、p410)といったものもありました。

まだX線の危険が十分知られていなかったので、靴屋に行くと、骨が透けて見えるX線検査器械が置いてあり、自分の足が靴にぴったり収まっているかをリアルタイムでチェックできました。(p354)

科学技術が進歩しすぎてブラックボックス化した現代より、はるかに化学が人々の生活に身近だったので、好奇心旺盛な子どもが、色とりどりの金属や炎色反応に夢中になるのは、それほど不思議なことではなかったようです。

現代では、そうした子どもはおそらく、ゲームやアニメの世界に夢中になっていることでしょう。虫や木の実や「化学の乗車券」をコレクションする代わりに妖怪メダルやトレーディングカードを集め、元素記号と原子量を丸暗記する代わりに何百種類ものポケモンの名前を覚えています。

「空想のなかで…つながりのある人々になった」

サックスは片っ端からさまざまな本を読みあさる乱読家でしたが、中でも、化学の世界を織りなしてきた歴史上の偉人たちの「人間的な」エピソードに、強く心を惹かれました。

私は元素とその発見についての話を読むのが好きだった。

化学的な面だけでなく、発見に挑んだ人間的な側面にも興味があり、そうしたすべてを、いやそれ以上のことを、戦争の直前に出版されたメアリー・エルヴァイラ・ウィークスの素晴らしい本『元素発見の歴史』で学んだ。

この本を呼んで、多くの化学者の生きざまが―また実に多彩で、ときには奇異でさえあった彼らの性格が―手にとるようによくわかった。

昔の化学者たちの手紙も引用されており、その手紙には、手探りを続けながら発見にたどり着くまでの一喜一憂がありありと語られていた―ときに道を見失い、袋小路にはまりながらも、ついには目標に到達した過程が。(p94)

サックスは、幼少期の体験のせいで傷つき、引っ込み思案になりましたが、人間嫌いになったわけではありませんでした。やはり、人間が大好きな医師だった、あの父親の血を引いていた、ということなのでしょう。

サックスは、自分と同じように化学の実験に夢中になった過去の偉人たちに親近感を持ちました。

本で知った科学者、とくに初期の化学者は、ある意味で名誉ある先祖となり、空想のなかで自分と何らかのつながりのある人々になった。(p153)

サックスはこの本の中で、タングステンを発見したカール・ヴィルヘルム・シューレから始めて、化学の歴史に関わってきた さまざまな化学者たちの名を挙げて、まるでじかに知り合った親しい友だちのことを紹介するかのように、生き生きと描写しています。

その中の一人は17世紀の化学者ロバート・ボイルです。現代のわたしたちにとってはボイル・シャルルの法則でおなじみかもしれませんが、ボイルの人となりについて詳しく知っている人はほとんどいないでしょう。

現代の学校では、ボイルの研究の成果だけを切り取って味気なく丸暗記させますが、サックスは、教科書には書かれていないボイルの人柄や生きざまのほうに強く惹かれました。

ニュートンより20歳近く年かさのボイルは、錬金術がまだ主流だった時代に生まれ、彼自身、科学的な考えや手法を採り入れながら、錬金術の考えや手法も捨てていなかった。

じっさい、金を作れると信じていて、自分が本当に作れたとも思い込んでいた(ニュートンも錬金術師だったが、ボイルにそのことは内緒にしておいたほうがいいと忠告したらしい)。

ボイルは尽きせぬ好奇心(アインシュタインの言う「聖なる好奇心」)をもった人だった。

というのも、自然界の驚異はすべて神の栄光を称えるものと考えていたからで、それがさまざまな現象を調べる動機になっていた。(p153)

ボイルは、まだ錬金術の名残りが強く残っていた17世紀の化学に、科学的手法を取り入れた先進的な化学者の一人でした。サックスは、ボイルの著作を読んで、特にその書き方に感銘を受けたといいます。

そうしたさまざまな研究の成果を、ボイルはきわめて単純明快な言葉で記した。錬金術師たちが謎めいた不可解な言葉を使っていたのとは、大違いだった。

ボイルの文章はだれにでも読めたし、彼の実験はだれにでも再現できた。

ボイルは、錬金術の閉鎖性、秘密性ではなく、科学の公開性を象徴していたのである。(p154)

ロバート・ボイルは、神秘的で不可解だった化学実験の世界を、わかりやすい日常的な言葉に言い換えて、だれでも親しめるようにしてくれた化学者でした。独りよがりで偉ぶった学者ではなく、ごく普通の一般の人たちにも配慮ができる聡明な人でした。

サックスはのちに、医学や脳科学のエピーソードを、だれでも読めるわかりやすいエッセイとして世に送り出す作家になりましたが、きっとボイルの手本を強く意識していたのでしょう。彼はボイルに抱いていた思いをこうつづっています。

私は彼を、ひとりの人間として、自分が好きになれそうな人間として、頭に思い描くことができた―ふたりのあいだに三世紀もの隔たりがあるにもかかわらず。(p157)

サックスはまたマイケル・ファラデーについても、化学実験の内容を「専門的でない自然な言語で表現」したと述べています。わかりやすい書き方をする化学者たちの手本を意識していたことがうかがえます。(p246)

サックスが次に情熱的に語りはじめるのは、アントワーヌ・ラヴォアジエの物語です。わたしたちにとっては、「質量保存の法則」で有名ですが、やはり彼がどんな人だったかはほとんど知られていません。

サックスによると、ラヴォアジエは、とても広い視野をもった頭脳明晰な人で、断片的に散らばっていた事実から、全体像を推理するひらめきに長けていました。

ラヴォアジエはこんなことも記している。

自分以前の研究が「物理学と化学に革命をもたらす可能性を秘めているように見えた。

私以前にさまざまな人の得た結果が、何かを暗示していると見るべきではないかと思ったのだ。

……長い鎖を構成するあちこちの断片のように」あとはだれかが、そう、彼が、その鎖の輪を全部つなげてやればよかった。(p160)

ラヴォアジエは、持ち前の推理力と膨大な実験によって神秘的な錬金術を、理論に裏打ちされた近代的な化学へと引き上げました。ファンタジーに出てくるアイテムのような名前だった化学物質の名称を、現代使われている理論的な名前に置き換えたのも彼だそうです。

サックスもまた、断片的に散らばった医学や脳科学の広範な知識をひとつにまとめ、全体像を描き出す能力に長けていましたが、個々の「木」だけでなく「森」全体を見る大切さは、ラヴォアジエから学んだのでしょう。

こうした偉人たちの中でも、サックスが一番親近感を覚えたのは、イギリスの化学者また発明家のハンフリー・ディヴィ―だったようです。

けれども、なにより私の心をとらえたのは、ディヴィーの人となりで、シェーレのように謙虚でなく、ラヴォアジエのように几帳面でもない。

だが、少年のような活気と熱意にあふれ、見事なまでの大胆さをもち、ときには危険なほど衝動的だった(いつでもやりすぎの一歩手前だった)。

これこそ、私を最もとりこにした点なのだ。(p187)

少年のような発想力と、無鉄砲とさえ思える行動力をあわせもったディヴィーは、サックスの生来の性格、好奇心豊かで、ときに「やりすぎる」ところとよく似ていました。(p206)

ディヴィーは、電気分解を発見し、ナトリウムやカリウムを見つけたやり手の化学者でしたが、公開化学実験で聴衆の関心をわしづかみにするエンターテイナーでもあり、何よりその本質は詩人でした。(p183)

ディヴィーは詩人のサミュエル・テイラー・コールリッジと親しく、互いに熱烈に共感して、共同で化学の研究所を作ろうとしていたほどでした。コールリッジは著書「友人」で、ディヴィーについてこう語っているそうです。

シェイクスピアのような人間のなかに、深遠で鋭い思考の創造力によって詩に理想化された自然を見つけられるとしたら、ディヴィーのような人間の思索的な観察によって……いわば自然のなかに実体化した詩を見つけることもできる。

さよう、自然そのものが、詩人として、なおかつ詩として、……その姿を現すのである!(p191)

オリヴァー・サックスもまた、医師であり科学者でしたが、その本質は芸術的感性にあふれた作家だった、とわたしは思います。

サックスはもともと音楽の才能があり、13歳のとき、ホテルの広間でリサイタルをしたほどでした。(p385)

その後も、音楽嗜好症: 脳神経科医と音楽に憑かれた人々 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) をはじめ、芸術に関わる脳科学のエッセイをたくさん書いています。

作家オリヴァー・サックスの文章は、どんなテーマで書かれていても、決して学術論文のような無機質な言葉ではなく、彩り豊かな生きた言葉でつむがれているので、読者を決して退屈させません。

少年時代のサックスは、化学の歴史をさかのぼって、自分とよく似ている、友だちになれそうな先人たちを大勢見つけましたが、興味深いことに、自分とはまったく異なる ある化学者についても知りました。

それは18世紀のイギリスの化学者ヘンリー・キャヴェンディッシュでした。

キャウェンデッシュは、精密なデータを取って考証する、現在の科学の先駆けとも言える人物で、1797年には地球の密度を測るために、時代をはるかに先取りした巧妙な実験を試みています。

その実験ではじき出された数値は、その時代としては恐ろしく精密で、ニュートンの万有引力定数や、アインシュタインの相対性理論などが発展していく土台を据えました。

一方で、キャウェンデッシュは、相当な変わり者としても知られていて、少年時代のサックスは彼の生き方を知って戸惑いを覚えたといいます。

それと同じくらい驚かされ、存命中からすでに伝説になっていたのは、ほとんど人付き合いをせず(めったに人と話さず、使用人にもメモで会話させた)、富や名声に無関心で(とはいえ公爵の孫にあたり、人生の大半はイギリスでもとりわけ裕福な人間だった)、純真無垢であらゆる人間関係が理解できないことだった。

キャヴェンディッシュについてさらに多くのことを知ると、私は深く関心する一方で、大きな戸惑いも覚えた。(p188)

のちに、サックスは、子どものころ当惑させられたキャウェンデッシュの人となりがアスペルガー症候群の特徴そのものだと氣づきました。

何年もあとにウィルソンの著わした素晴らしい伝記を読み返したとき、私はキャヴェンディッシュが(臨床的に見て)何に「罹っていた」のだろうと考えた。

ニュートンの偏屈さ―嫉妬深く、疑い深く、敵愾心やライバル意識が強い―は、重度の神経症を示唆していたが、キャヴェンディッシュの無垢で人と交われないところは、むしろ自閉症すなわちアスペルガー症候群をほのめかしていた。

ウィルソンの伝記は、稀有なる自閉症の天才の人生と心の状態について、現在手に入るかぎり最も詳細に語られたものではないかと思う。(p190)

サックスははじめこそ戸惑いを覚えましたが、やがてアスペルガーの文化のよき理解者となり、 火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)でテンプル・グランディンの素顔を世に知らしめるなど、自閉症の概念を「障害」から「個性」へと変化させることに一役買うことになりました。

サックスが序文を寄せている、自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)では、読者をアスペルガーの文化へといざなう入り口として、ヘンリー・キャウェンデッシュの風変わりな人となりや並外れた業績がたいへん詳しく紹介されています。

「メンデレーエフの花園」

サックスは、化学実験を楽しむなか、ひとつひとつの元素に親しみ、原子番号や原子量はもちろん、化学的な性質も事細かに記憶して、それぞれの特徴を味わい深く表現しています。

だからこそ、ドミトリー・メンデレーエフが発見した、あの「周期表」を知ったときには、言い知れぬ感動を覚えました。

このときどの元素も、真上の元素の性質を反映し、真上の元素と同じ仲間でありながら少しばかり重さが増していた。

各周期には、いわば同じメロディーが流れていた。出だしはアルカリ金属、次がアルカリ土類金属、そのあとも六種類の元素の族が続いて、どれもそれぞれの族の原子価すなわち音色を奏でていたのだ。

ただ、音域は周期によって違っていた(ここでオクターブや音階を思い浮かべずにはいられなかった。

というのも、私は音楽好きの家で育ち、音階は周期性のあるものとして毎日耳にしていたからだ)。(p275)

サックスは科学博物館の壁に書かれた巨大な周期表を見に行っては、時間が経つのも忘れて没頭し、あれこれと想像を巡らせていたようです。

この表を目にし「理解した」ことで、私の人生は変わった。

私は足繁く博物館へ通い、表をノートに書き写して、どこへでも持ち歩いた。

やがて―見かけも概念も―すっかり頭にたたきこんでしまい、脳裏に表を思い浮かべ、どの方向へもたどれるようになった。

ある族を上へのぼり、ある周期で右に折れて、どこかで止まり、ひとつ下に降りるといった具合にたどっても、いつでもどこにいるのかがわかった。

周期表はまるで庭のようで、子どものころ夢中になった「数の花園」を彷彿とさせた。けれども数の花園と違い、それは実在し、世界を読み解く鍵になっていた。

私は陶然としながら、何時間もこの素敵なメンデレーエフの花園をさまよい、いろいろなものを見つけ出した。(p281)

現代の少年少女にとって、周期表は、化学の授業で暗記しなければならない厄介な表のひとつにすぎないかもしれません。けれども、サックスにとっては全く異なるもの、恍惚とするような美しい場所、「メンデレーエフの花園」でした。

周期表を発見したメンデレーエフは、化学者であると同時に作曲家であり、幅広い知識をつなぎ合わせることに長け、死ぬまで思考の柔軟性を保った、サックス好みの化学者でした。(p281,381)

サックスの著書でいつも、興味深い脚注がたくさん載せられているのは、メンデレーエフの作風の影響を受けているそうです。(p297)

サックスにとって、メンデレーエフが発見した周期表は何物にも代えがたいほど特別なものだったので、周期表への手厳しい批判を読んだときにはショックを受け、自分ですべての元素と何百もの化合物を測定して法則性を確かめたほどでした。(p289)

サックスが周期表から受けたインパクトがどれほど大きかったかは、彼が抱いていた価値観が揺り動かされたことからもわかります。

すでに見たとおり、サックスは疎開体験を通して絶望し、神など存在しないという無神論に傾きました。けれども、周期表が示す「自然の奥深くに存在する秩序」について知ったあとにはこう書いています。(p278)

これを知って初めて、私は人間の頭脳がとんでもない能力を秘めていることに気づき、自然の奥深くに潜む秘密を暴き、神の心を読むためにそんな能力が備わっているのではないかと思った。(p279)

その後の人生でサックスは、特定の宗教に所属することはありませんでしたが、原子にみられる信じられないほど精緻な構造について「素晴らしく美しく、論理的で、単純で、合理的な神のそろばんのなせるわざだった」と表現するなど、個人的な信仰心は幾らか持っていたようです。(p431)

興味深いことに、この本でサックスが挙げている化学者の多く、たとえばボイルやファラデー、ニュートン、プリーストリー、ダーウィンなどは、当時の大多数の人が信奉していた制度宗教の教義には迎合しませんでしたが、みなそれぞれ何かしらの個人的な信仰心を持っていました。

それは、きっと、子どものような好奇心から自然界を探求するときに感じる、あの純粋な感動や畏敬の気持ちの現れなのでしょう。

サックスにとって、「メンデレーエフの花園」は、戦争で凍りついた心を溶かし、そうした純粋な感性を呼び覚ましてくれる驚きと喜びに満ちた世界でした。

ここまで化学に魅入られた少年時代のサックスについて知ると、彼は当然、化学者への道を志してしかるべきと感じます。彼自身、自分は化学者になるものと思っていました。

けれどもわたしたちが知るオリヴァー・サックスは、化学の道に進むでもなく、実験を本職とするでもなく、医学のエッセイを書く作家になりました。いったい何があったのでしょうか。

「楽しい魔法の国から追い出されてしまった」

サックスがメンデレーエフの周期表について知った当時、まだ周期表は完璧ではありませんでした。メンデレーエフはいくつかの未発見の元素を詳細に予言していましたが、実際にその存在が確認されるにはさらなる科学の進歩を待つ必要がありました。

サックスは幸運にも、リアルタイムでその進歩を見守ることができました。

この本の残りの部分では、キュリー夫妻がラジウムを発見したエピソード、アーネスト・ラザフォードによる放射線や原子崩壊の発見、ニールス・ボーアによる原子の構造の解明などをリアルタイムで見聞きした興奮がつづられています。

ボーアが原子の構造を解明したことで、サックスは子どものころから不思議でたまらなかった疑問の答えを見つけます。自分が愛してやまなかった一つ一つの元素の性質の違い、たとえば特有の色や金属光沢、反応性などについて、なぜそうなるかが理解できました。

また、原子崩壊と放射能の発見によって、周期表の各元素は一つ一つ独立した普遍のものではないことも知りました、元素はビッグバン以来の熱核反応によって、一番軽い水素から順により重い元素へと連鎖的に核融合して生まれてきたものだとも知りました。

それは言い換えると、タングステンおじさんが教えてくれた、「そのまま100万年置いといても、今とまったく同じできらきら輝いている」ような、永久不変の元素は何一つない、ということを意味していました。

サックスは壮大な発見に感動を覚えると同時に、大切な拠りどころが失われたようにも感じました。

私が化学に惚れ込んでいたわけは、ひとつには、それが何ダースかの元素にもとづく無数の化合物の変化を扱う科学で、おのおのの元素自体は永久不変のものだったからだ。

元素が安定で普遍だと意識することは、私にとって、精神的な意味でとても重要だった。不安定な世界のなかで、そこだけは微動だにしない錨のように思えたのである。

ところが今、放射能のおかげで、最も信じがたい種類の変化が明らかになった。(p408)

少年だったオリヴァー・サックスが、化学に傾倒したのは、単に実験好きの化学少年だったからではなく、精神的な拠りどころを求めてのことでした。化学の世界は、不動の「安全基地」だったからこそ、疎開体験で傷ついたサックスの心をわしづかみにしたのです。

新時代の科学はまた、サックスが親しんだ人間味あふれる化学の物語とは似て非なるもののように思えました。

宇宙の形式的・理論的な美しさには、ときに恍惚感すら覚えた。

ところが今、ほかのさまざまな関心がわきだすとともに、反対に科学に虚しさや味気なさも感じるようになっていた。

もはや科学の美しさや科学の愛情だけでは満足しきれず、人間的・個人的なものを求めだしたのである。(p394)

サックスが好きだったのは、ディヴィーが公開実験で披露したような、色とりどりの化学物質を混ぜ合わせ、色や匂いを肌で感じられる化学でした。

しかし近代科学は、キャヴェンディッシュのようなデータと測定に基づく学問へと発展し、もはや一人の化学者の手には負えなくなりました。好奇心にあふれた個人が実験室にこもって研究できる時代は終わったのです。

そしてもう一つ、サックスが化学の道へ進まなかったことには、決定的な理由がありました。

サックスはこの本の全体を通して、400ページあまりを割いて、少年時代の化学の思い出を、ひたすら魅惑的に情熱的に語ってきました。ところが、最後の章で、わずか10ページのあいだに語られる結末は衝撃的です。

かつて私は科学図書館で、時が経つのも忘れて、何時間も夢見ごこちで過ごしていた。

「力線」や、軌道をめぐる電子の振る舞いが、目に見えるように思っていたときもあった。

しかしもう、そんな幻覚を見るような力は失われていた。

現実的で目的をはっきり見据えている、と当時の私の通知表に書いてある。

確かにそんな印象を与えていたのかもしれない。けれども、私自身はまったく違う印象を抱いていた。

内なる世界が滅び、私から奪われてしまったと思っていたのだ。(p444)

サックスが化学に対して抱いていた思いは、ちまたの化学少年や化学少女とは一線を画する特別なものでした。

化学はサックスにとってただの学問ではありませんでした。陶酔して歩き回った「メンデレーエフの花園」をはじめ、化学は「内なる世界」、すなわち少年オリヴァーだけが入ることを許された別世界だったのです。

サックスはその別世界の風景を、「目に見えるように思って」いたほどで、「幻覚を見る力」を感じていました。

サックスは、当時の不可思議な心境の変化を、H・G・ウェルズの小説の「塀のなかの扉」(邦訳:塀についたドア)のエピソードにたとえています。

私はよく、ウェルズが書いた「塀のなかの扉」についての話を思い出した。

その扉をくぐって魔法の庭に入ることのできた少年が、やがて大人になってそこへ入れなくなってしまうという話だ。

当初彼は、日々の忙しさと世間での成功によって、自分が何かを失ったことに気づいていなかった。

しかしそのうちに喪失感が募り、彼を蝕み、ついには破滅させてしまう。

ボイルは自分の実験室を「天国」と呼び、ヘルツは物理学が「魅惑的なおとぎの国」だと言った。

私はこの天国から締め出されたように思った。

おとぎの国の扉はもう私に対して閉ざされ、自分は数の花園やメンデレーエフの花園といった、子どものころ入れたあの楽しい魔法の国から追い出されてしまったのだ、と。(p445)

少年オリヴァー・サックスにとって、化学は「魔法の庭」であり、現実とは異なるもう一つの「おとぎの国」だったのです。そこは子どもだけにしか見えない「塀のなかの扉」の向こうに広がる、「天国」のような別世界でした。

大人の階段をのぼり、子ども時代を卒業しようとしていたサックスには、もはや「塀のなかの扉」が見えなくなってきていました。

彼は化学に飽きたり、幻滅したりしたせいで化学の道に進まなかったわけではありませんでした。

「子どものころ入れたあの楽しい魔法の国から追い出されてしまった」のです。

サックスは、冒頭に引用したこの言葉で、自伝を締めくくっています。

「大人になる」というのは、子どもの繊細で神秘的な感覚、ワーズワースの言った「輝きと鮮やかさ」を忘れ、それらが次第に日常のなかに埋もれていくことなのだろうか? (p447)

「どれも大切な幼なじみだ」

子どものときにだけ姿が見えて、声も聞こえる、けれども大人になると見えなくなる。

子どものときだけ入ることのできる魔法の国から、大人になると追い出されてしまう。

まさか化学をテーマとした自伝の最後に、こんなファンタジックな結末が書かれていようとは思いませんでしたが、この本を振り返ってみれば、決して意外ではないことに気づきます。

サックスは疎開体験を通して、愛着が不安定になり、精神的な拠りどころを失いました。

セント・ローレンスで暮らした時期の記憶はほとんど記憶がなく、現実と空想の境目がわからなくなるほど強い解離状態にありました。

疎開から帰ってきたサックスは、他の子どもたちと同じように魅惑的な化学実験に興味を持ち、ごく普通の日常生活を取り戻したかに思えたかもしれませんが、そうではありませんでした。

化学はサックスにとって、居場所がない現実から逃れるために、現実と空想のはざまにこしらえた自分だけの避難場所だったのです。

この本を読んでいて、とても不思議だったのは、サックスが化学の世界を、あまりに生き生きと描き「すぎて」いることです。化学をテーマとしているのに、まったく堅苦しい印象はなく、普段サックスが書いているエッセイに登場する人々の物語と変わりません。

どうして、無機質な化学について書いているはずなのに、まるで人々の物語を書くかのように生き生きと描写できるのか。単にサックスの文才が優れているからでしょうか。

いいえ、答えは簡単でした。

65歳になったサックスは、この本のあとがきの中で、50年経った今でも、こんな夢を見ると記しています。

けれどもなにより好きな夢は、オペラを見に行く夢だ。

私はハフニウムで、メトロポリタン歌劇場でほかに重たい遷移金属たちと一緒にボックス席に座る。

タンタル、オスミウム、イリジウム、白金、金、そしてタングステン―どれも大切な幼なじみだ。(p454)

サックスにとって、化学の元素の数々は「どれも大切な幼なじみ」だったのです!

なまじ化学というテーマを取っているがために、最後の最後まで読まないと気づきませんが、この本は、とても特殊なかたちをとった、子ども時代のイマジナリーフレンドと空想世界にまつわる回想録だったのです。

サックスが、いつもの脳科学のエッセイで一人ひとりの患者について書くときとまったく同じように、化学の各元素のエピソードを個性豊かに描けたのは、巧みな文才によるものではありません。

少年時代の彼にとって、タンタルやオスミウムやタングステンは、現実の人間と変わらないような友だちだったから、彼は慣れ親んだ「大切な幼なじみ」についてありのままに書いていただけなのです。

興味深いことに、この本によれば、サックスの初恋の相手は、ヘリウム気球だったそうです。(p167)

無機質な元素のようなものを友だちにしてしまうのは奇妙なことだと思えるかもしれません。しかし、研究によれば、空想の友だちを持つ子どもは、生き物ではないものに生き物らしさを感じ、ただの図形のランダムな動きをさえ擬人化してしまうとのことでした。

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また、繊細で感受性の強いHSPの子どもは、人間以外の動物や無生物にさえ感情移入してしまう傾向があります。サックスが元素という無生物をイマジナリーフレンドにしたとしても何ら不思議はありません。

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サックスは晩年、亡くなる直前に書いたサックス先生、最後の言葉の「私の周期表」の中で、自分が化学に傾倒した理由をこう説明しています。

私は幼いころから、自分にとって大切な人を失う喪失感に対処するのに、人間でないものに注意を向ける傾向がある。

六歳のとき、第2次世界大戦が始まって、寄宿学校に疎開させられたときには、数字が友だちになった。

10歳でロンドンにもどったときには、元素と周期表が仲間になった。(p38)

サックスにとって、数字や元素や周期表は友だち(フレンド)であり仲間(コンパニオン)でした。現実の人間に対する信頼を失ってしまった少年オリヴァーにとって、元素は決して裏切らない友だちになりました。

以前の記事で触れたように、不幸な生い立ちのために施設で育った子どもたちは、普通の一般家庭で育った子どもたちに比べ、助け手や守り手、ときには神のような役割を持つイマジナリーコンパニオンを持つ傾向があると言われていました。

それはつまり、親や神のような存在を本当に必要としているのに、その助けが得られず、信頼を打ち砕かれてしまうような経験をしたせいで、自分の心の中に、絶対に信頼できる頼れる存在を自分で創り出すしかなかった、ということを意味しているのでしょう。

サックスの場合はどうだったでしょうか。両親や神に裏切られたと感じられた少年サックスが拠りどころにしたのは、不動の性質を持つタングステンとその仲間の元素たちではなかったでしょうか。

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セント・ローレンスで究極の孤独を感じたサックスを守り、支え、励ますために、タングステンをはじめとする元素たちがイマジナリーフレンドになったのなら、わたしたちにとっては頭が痛くなる難解な表にすぎない周期表に、サックスがあれほど魅入られたのも当然です。

周期表に書かれていたひとつひとつの元素の名前は、ただの無機質な記号ではなく、すべて「大切な幼なじみ」の名前だったのです。

言ってみれば、サックスにとって周期表とは、共に励まし合って少年時代を乗り越えてきた幼なじみたちが一堂に会して整列している集合写真のようなものだったのです。

少年サックスの目には、周期表は、ただの薄っぺらい表ではなく、大切なイマジナリーフレンドたちが暮らすひとつの空想世界に見えました。

だからこそ周期表は「庭」であり、「花園」であり、サックスはいつまでもいつまでも、周期表の中をわくわくしながら歩き回ることができました。

現代でも、解離傾向の強い子どもは、自分の好きなアニメや小説のキャラクターや世界観を採り入れて、自分の居場所を作ることがあります。

アニメの登場人物が、いつのまにか空想の友だちとなって独り歩きしはじめ、自分独自のファンタジックな別世界と現実を行き来するようになります。

そうした空想の友だちは、文字通り声が聴こえ、姿が見えることもあり、子ども時代に迷い込んだ空想世界のイメージは、大人になってから作家の創造力として開花することもあります。

ちなみに、わたしはというと、すでにゲーム機全盛だった時代がら、とあるファンタジーの世界観に影響されたらしい空想世界に没頭していました。その異世界は、間違いなく現実と地続きになっていたので、いまだに、どこからどこまでが現実の思い出なのか区別がつきません。

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「生涯をとおして…帰ることになった」

元素というイマジナリーフレンドに支えられ、周期表という空想世界を歩き回った少年オリヴァー・サックスの物語は、子どもが創り上げる空想の友だちの信じられないほどの多様性を目の当たりにさせてくれます。

そして、想像力に富んだ子どもが、どれほど豊かな創造性を発揮して、逆境を乗り越えていくかをまざまざと見せつけてくれます。

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この本は、少年サックスと化学の世界の突然の別れで幕を下ろします。化学少年の回想録として読むと極めて意外に思える結末ですが、イマジナリーフレンドについての本だと考えれば、ごく自然な結末です。

子どもの空想の友だちを描いた物語は、となりのトトロであれ、E.T.であれ、あるいはこのブログで紹介した、ぼくが消えないうちにであれ、最後は成長に伴う別れが待ち受けるものだからです。イマジナリーフレンドは、子どものときにだけ訪れる不思議な出会いなのですから。

子ども時代の空想の友だちは、大人になるにつれ、いつのまにか姿を消していくものです。

子どもの半数近くが、何かしらのかたちでイマジナリーフレンドを持つと言われていますが、ほとんどの人は、子ども時代にイマジナリーフレンドを持っていたことをすっかり忘れ去っています。

それでも、ふとしたはずみで子どものころの空想の友だちを思い出すことがあります。たとえばぼくが消えないうちにの主人公アマンダのお母さんは、物語の中で、懐かしい匂いに誘われて忘れていた記憶を思い出し、自分が子ども時代に持っていたイマジナリーフレンドと再会します。

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サックスも、この本を書く前、子ども時代の経験のほとんどを忘れていました。けれども、小包に入っていたタングステンの棒が落ちて響かせた音をきっかけに、忘れていた子ども時代の魔法の国での記憶がよみがえってきたのでした。

子ども時代の空想の友だちは、やがていなくなるとはいっても、存在が消えてしまうわけではないようです。ときどき夢の中に現れたり、強いストレスを感じる時期に再度現れたりすることがあるかもしれません。

空想の友だちは、解離という防衛機制の働きの一種であり、解離はストレスから脳を保護するために備わった能力だからです。

わかりやすい「解離性障害」入門には、「子どものころにいったん消失したイマジナリーコンパニオンが、ストレスの高い環境に置かれたことにより再び姿を現すこともあ」ると書かれていました。(p40)

サックスの場合はどうだったのでしょうか。

サックスは先ほど引用した サックス先生、最後の言葉のエッセイ「私の周期表」の中で、数字や元素や周期表が友だちになったと述べたあと、こう続けていました。

生涯をとおして、ストレスを感じるときは、物理科学の世界に向かう、というか、帰ることになった。

そこは、生命はないが死もない世界である。(p38-39)

サックスは、70代になって眼内メラノーマを患い、片目を失いました。そのころ彼は、幻覚についてのエッセイ集見てしまう人びと:幻覚の脳科学を書き、子どもが持つ空想の友だちの幻覚の事例も含めています。

80歳を迎える直前には、懐かしい昔なじみが登場する夢を見たことが、サックス先生、最後の言葉のエッセイに書かれています。

昨晩、水銀の夢を見た―きらきらした巨大な球が浮かんだり沈んだりしている。

水銀は原子番号80、その夢は火曜日に自分が80歳になることの象徴だった。

子どものころ原子番号について習ったとき以来、私にとって元素と誕生日は結びついている。

11歳のとき、「ぼくはナトリウム」(原子番号11)と言えたし、79歳のいまは金である。(p17)

夢に登場したのは、少年時代のサックスを怖がらせた原子番号80の水銀でした。もっとも今や水銀はサックスを怖がらせる魔物ではなく、昔なじみの顔ぶれの一人になっていました。

81歳になったとき、サックスはまだ1日に1キロ半泳げるほどの体力がありましたが、肝臓に複数の転移ガンが見つかり、辛い闘病生活に入りました。

82歳を迎えるころには、食欲が低下し、疲労感も強くなり、やがてガンが他の場所にも広がっていることを知らされました。

生涯の終わりに近づき、サックスが死と向き合いはじめたとき、彼のそばにいて励まし続けたのはだれだったのでしょうか。

サックスは亡くなるまで結婚はせず、子どももいませんでした。親しい友人は大勢いて、最後まで交流を欠かしませんでしたが、サックスを一番そばで見守っていたのは意外な“人物”でした。

書きもの用テーブルの上には、鉛の円陣の隣にビスマスの世界がある。…ビスマスは原子番号83だ。

私が83歳の誕生日を迎えることはないと思うが、近くに83を置いておくと、希望が持てるし、励まされる気がする。

しかも私はビスマスに弱い。地味な灰色の金属で、金属愛好家にさえも注目されず、無視されることが多い。

不当にあつかわれたり、社会の隅に追いやられたりしている人たちに対する医師としての気持が、無生物の世界にもおよんでいて、ビスマスに対して似たような思いを抱いている。(p42-43)

亡くなる直前の最後の日々、サックスのそばにはビスマスがいました。サックスはビスマスを文字通りの友だちのように愛おしく感じていました。ビスマスがそばにいると、「希望が持てるし、励まされる気が」しました。

化学をこよなく愛した少年オリヴァー・サックスが、最後の月日を共にしたのはあの「大切な幼なじみ」たちでした。70年来の付き合いになる、かけがえのない友人たちです。

そしてついに、翌月、2015年8月30日、オリヴァー・サックスは波乱に満ちた充実した人生を終え、82歳で旅立ちました。

少年時代に苦楽を共にし、手を取り合って逆境を乗り越えてきた、大切な幼なじみたちのもとへと。「生命はないが死もない世界」へと帰ったのでした。

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